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2013年11月 7日 (木)

三国志16   西涼の錦馬超

 正史における馬騰は、208年朝廷の命により涼州牧を返上中央で衛尉(九卿の一つ。宮門守護を司る)に任ぜられるも息子馬超が西涼において反乱を起こしたためそれに連座して殺されたとあります。
 
 が私は馬超に反乱をおこす理由がなく、時系列的にはまず馬騰の処刑があってその復讐のために馬超が立ち上がったと解釈しています。ですからこれ以降の記述は三国志演義に沿って語っていこうと思います。
 
 かつて董承の暗殺計画に参加し自分を殺そうと図った馬騰を、曹操は決して許してはいませんでした。都許昌に上った馬騰は曹操から宮門前で閲兵するので登城するように求められます。董承の曹操暗殺計画に加担した生き残りは秘かに馬騰と接触し、この機会に曹操を急襲して殺ししてしまうよう持ちかけました。はじめは躊躇していた馬騰ですがついに説得に屈し同意します。
 
 閲兵の日、馬騰が軍を率いて宮門をくぐると突如門が閉じられました。四方から曹仁やら夏侯惇やら曹操軍の勇将たちが攻めかかり不意を突かれた馬騰一行はことごとく捕えれれました。実は密告者があり曹操はこの陰謀をとうに承知していたのです。というより曹操の罠にまんまと嵌ったとも言えます。
 
 馬騰は息子馬鉄、馬休とともに斬首されかろうじて甥の馬岱だけが血路を開いて脱出しました。命からがら西涼に帰りついた馬岱の報告を受けて馬超は号泣します。そして父や弟たちの復讐を誓い父の盟友だった韓遂と共に20万とも号する復讐の軍を起こしました。211年のことです。
 
 
 西涼の馬超挙兵の報は間もなく曹操にもたらされました。しかし騎兵が主力の西涼軍の進撃は早く鍾繇(しょうよう。有名な鍾会の父。当時は侍中・司隷校尉として西方司令官だった)の守る長安を瞬く間に囲みます。多勢に無勢なうえに強兵であった西涼兵の攻撃を受け長安はひとたまりもなく陥落。鍾繇は東に敗走しました。
 
 曹操軍の先鋒、曹洪・徐晃は潼関でこれを防ぐよう命令を受けますが、血気にはやった曹洪が突出したため敗北、潼関を奪われてしまいます。30万の曹操の本隊は仕方なく渭水の北に布陣し西涼軍と対峙します。攻防は一進一退、そのうちに厳しい冬がやってきました。
 
 こうなるとさすがに西涼軍も初めの勢いは無くし、曹操と一時休戦すべく使者を送ります。これを受けた曹操は謀臣賈詡に相談します。
 賈詡は「今は突き放す策も良くありません。丞相にはこういう対応をなさいませ」と策を授けました。
 
 
 曹操は馬超の申し出を受け一時休戦する事に決めます。そして韓遂の父とむかし交流があったことから陣中に彼を呼び出し昔語りをして懐かしみました。報告を受けた馬超は韓遂と曹操の仲を疑いますが、本人が何もなかったと言い張るためこの時は収まりました。
 
 ところが、曹操は韓遂にわざと一部を消したさも重要そうな手紙を送りました。これを聞いた馬超は韓遂の陣に飛んできますが、韓遂にやましいところはないため手紙を見せます。馬超は、手紙の重要部分を消したのは韓遂ではないかと疑いました。
 
 こうして両雄の間に隙間風が吹き出します。曹操はこれを助長するため間者を放って韓遂が曹操側に寝返って馬超を暗殺しようとしているという流言を広めました。
 
 
 馬超の疑いは日に日に濃くなり、韓遂は部下たちを集めここまで疑われるなら本当に曹操へ降伏しようかと相談します。馬超はその場に乗り込み
「やはり裏切っておったか!」と激昂して斬りかかりました。必死で防いでいた韓遂は馬超によって片腕を斬り落とされ命からがら脱出しました。韓遂が曹操の陣営にかけ込むと、待ってましたとばかり曹軍の攻撃が始まります。
 実は秘かに徐晃と朱霊に一軍を与えて西涼軍の背後に布陣させていたのです。賈詡の離間策に見事はまった馬超は、大勢を立て直す暇もなく前後から挟撃されて壊滅的打撃を受けます。韓遂の軍が曹操に寝返ったためどれが味方か敵かも分からないような混乱ぶりでした。
 
 
 血路を開いた馬超は、再び軍を纏め曹操に挑戦しますがすでに戦機は去っていました。ここでも完膚なきまでに敗れ馬超一行は散り散りになって漢中(陝西省華山山脈と大巴山脈に囲まれた盆地。当時は益州の一部)に落ちて行きます。
 
 
 こうして西涼の錦馬超と称えられた若武者の挙兵は潰えました。曹操は甘粛回廊まで支配下に収めさながら赤壁の失敗をこちらで取り返した格好です。
 
 
 
 
 次回は平和を謳歌していた益州を巡る騒動、そして天下三分の計を実行に移すべく動き始めた劉備の入蜀を描きます。

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