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2013年11月 7日 (木)

三国志20   夷陵の戦い

 父曹操の後を受けて魏王になった曹丕。賈詡・華歆・王朗などの側近グループは最初に最大のライバルになりうる兄弟たちへの対策を進言します。
 まず曹操の葬儀に十万の兵を率いてやってきた次男曹彰を謀反の疑いを掛け軍権剥奪。彼は冷遇されまもなく病死します。次に曹丕は、葬儀に参列しなかった三男曹植、四男曹熊に詰問の使者を送りました。
 曹熊は、自分が疑われているのを気に病み明日召喚という日に自害してしまいます。ところが曹植は違いました。曹植の側近丁儀・丁廙兄弟は逆に曹丕の使者を叱りつけ公然と敵対の構えを見せます。
 怒った曹丕は、許褚に曹植の逮捕を命じました。兵を率いて曹植の屋敷に乗り込んだ許褚は丁兄弟を誅殺し曹植自身も曹丕の前に引き出されました。明日にも処刑されるという晩、二人の母卞太后は息子に泣きつきなんとか曹植の命だけは助けるよう嘆願します。
 さすがに母の手前、残忍な命令を下すことをためらった曹丕は
「植、そなたは詩文の名手だと評判だ。これから七歩歩く間に詩を詠せよ。できなければ処刑する」と命じました。
 すると曹植は本当に七歩の間に詩を作ります。これが有名な七歩の詩です。処刑だけは免れますが曹植は冷遇され失意のうちに世を去ったと伝えられます。
 曹丕が次に目標としたのは、形骸化した後漢王朝を滅ぼし自分が帝位に就くことでした。強大な軍事力を背景に献帝に退位を迫り帝位を譲らせました。220年の事です。献帝は山陽公に格下げされ都を去りました。曹丕は即位し新たな魏王朝を開きます。すなわち魏の文帝です。父曹操にも武帝を追号しました。
 曹丕の側近たちは功により華歆が相国(総理大臣。丞相より格上)、賈詡が太尉(国軍総司令官)、王朗が御史大夫(監察。この3つが魏の三公)に任命されました。曹仁や夏侯惇ら曹操挙兵以来の宿将は第一線を退き新たに曹一族の曹真、曹休らが軍の首脳として台頭します。司馬懿は曹操時代、頭が切れすぎるという理由で警戒され軍権を与えられませんでしたが、曹丕時代急速に存在感を増しました。最終的には撫軍大将軍という軍の最高幹部の一人にまで出世します。
 曹丕が漢朝を滅ぼし新たに魏王朝を開いたという報告は、蜀にももたらされます。群臣たちは漢中王劉備に帝位に就くよう懇願しました。帝位よりも呉への復讐の機会を待ち続けてた劉備は最初これを拒否しますが、221年諸葛亮の説得に負けついに即位します。これが蜀漢王朝です。諸葛亮は蜀漢の丞相になりました。
 しかし劉備は一日たりとて義弟関羽の復讐を忘れていませんでした。諸臣の反対を押し切りついに呉の孫権を攻めるべく大動員を命じます。この事を一番喜んだのは張飛でした。早速太守を務める巴西郡に帰り呉遠征の先鋒たるべく家臣にその準備を命じました。ところがあまりにも無理な要求をしたため部下たちは動揺します。期日までに準備しなければ処刑すると脅されたため、ついに范彊・張達らは張飛の寝込みを襲い首を取って呉に亡命してしまいました。
 張飛の非業の死を知った劉備は号泣しました。そして孫権への怒りはさらに増幅します。この時劉備が集めた軍勢に関しては諸説あります。一番多いのは演義の75万、少ないのは正史魏書文帝記に記された4万。75万はさすがに当時の人口、補給能力を考えても考えにくいのですが4万は少なすぎます。おそらく荊州から劉備に従った兵力はそれほど損耗していなかったはずで蜀の兵力と合わせるとすくなくとも20万は下らなかったような印象があります。遠征には関羽の遺児関興、張飛の忘れ形見張苞という二人の若武者が参加し劉備を喜ばせました。
 蜀の大軍来るという報は呉の孫権を驚かせました。孫権は亡き呂蒙が生前自分の後継者にするよう遺言していた陸遜(りくそん)を抜擢して迎撃軍の総大将に任命します。それまで陸遜は無名の若者でした。当然呉の将軍たちは若造に指揮されるのを不快に思いことごとく反発します。陸遜は呉侯孫権から授かった剣を示して服従を要求しました。諸将は主君の名前を出されて渋々従います。
 
 呉軍5万は陸遜の名采配もあって必死に防ぎ、一進一退の攻防のまま年を越しました。が大軍の圧力で蜀軍は夷陵まで進出します。6月になりました。蜀軍は暑さにへばり夷陵の山々に広く散開して布陣します。陸遜は初めて見せた蜀軍の弱点を見逃しませんでした。
 
 火計を敢行した呉軍は、火に追われ大混乱に陥った蜀軍に総攻撃を開始します。蜀軍は四分五裂し宿将黄忠や白眉と称えられた有能な馬良など多くの功臣が戦死し、重臣の一人黄権は退路を失って魏に亡命しました。
 
 
 猛火に包まれて絶体絶命の劉備は、諸葛亮の命で救援に来ていた趙雲の軍と遭遇、間一髪で助けられます。劉備は負傷した体のまま命からがら蜀呉国境の白帝城に逃げ込みました。蜀軍は戦死者数万を数え惨敗します。あまりにも大きな打撃でした。天下三分の計はもはや実現不可能になりました。まず天下を三分しその後体制を整えて魏を討つという大方針は崩れたのです。
 
 
 英雄劉備の命は間もなく終わろうとしていました。諸葛亮はすぐさま成都から駆けつけます。次回は劉備の死とその遺言、そして諸葛亮の南蛮行を描きます。

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