三国志21 七縱七禽
223年春、蜀漢昭烈帝劉備は白帝城において危篤に陥ります。病床に丞相諸葛亮を呼ぶとこう遺言しました。
「君の才は曹丕に十倍する。そなたに任せておけばこの国は心配ない。息子劉禅に守り立てるだけの器量があればこれを助けてほしい。しかしその器量なくば君がこの国を取ってくれ」
あまりに思いきった言葉に諸葛亮は泣いて劉禅を守り立てる事を誓います。さらに劉備は息子の劉永、劉理らを呼び諸葛亮に父子の礼を取らせました。その後劉備は安心したように息を引き取ります。享年63歳。
劉備の死によって蜀の全権を担った諸葛亮は、今後の外交方針を決めます。蜀の敵は魏、呉とは結ぶという大方針でした。しかし夷陵の戦い以後まだ呉とは冷戦状態が続いています。
諸葛亮は、思いきって文書の管理をしていた鄧芝(とうし)を抜擢し、講和全権大使に任命しました。鄧芝は見事に期待に応え呉と講和し、同盟を結ぶことに成功します。これによって蜀に攻め込む気配を見せていた魏の野望を挫きました。
北伐をするためには蜀の背後を固めなければなりません。そこは南蛮と呼ばれる地域でした。現在の雲南、貴州省です。南蛮は食糧基地であり遠くインドに至る貿易路にもあたっていました。まさに蜀の死命を制する重要な土地だったと言えます。
225年、蜀の南方国境地帯の太守である雍闓(ようがい)、高定らが魏に唆されて反乱をおこします。諸葛亮は自ら十万の兵を率いこれを鎮圧します。ところがこの反乱は南蛮全土を揺るがす大反乱となりました。
反乱の首謀者は孟獲という人物でした。南蛮はタイ族や越族系の無数の異民族がそれぞれ割拠し九十三甸(てんは小国家の意)と呼ばれ洞主という豪族が支配していました。孟獲はその部族連合の盟主で南蛮王を自称します。
諸葛亮は、異民族を力攻めする愚を悟ります。彼らを心服させるにはまず心を攻める事が第一だと判断していました。そこで戦闘で勝って孟獲を捕えては解放するということを七回も繰り返したとされます。これが七縱七禽の故事の由来ですが、実は正史三国志では出てきません。ただ諸葛亮が戦いではなく宣撫工作を第一に実行したのは確かなようです。
その証拠に諸葛亮が生きている間南蛮は一度も反乱を起こさなかったと云われますし、彼を神として崇め南蛮各地に霊廟が建てられたほどでした。
蜀が南蛮を平定した事は、北伐に向けての貴重な食料基地を得るとともに海外貿易路を確保したとも云えました。南蛮の物資が諸葛亮の北伐を支えます。
いよいよ諸葛亮出陣のときです。彼はどのように準備しどのように北伐へ向かったのでしょうか?次回、出師の表ご期待ください。
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