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2013年11月 7日 (木)

三国志23   泣いて馬謖を斬る

 228年春、蜀軍は斜谷道から郿を窺う構えを見せます。趙雲・鄧芝は囮部隊を率いて箕谷を占拠しました。魏の大都督曹真はこれを敵の主力部隊と誤認し全力でこれに攻撃を開始します。蜀軍本隊がその間に天水・安定・南安三郡を平定した事は前回述べました。
 諸葛亮率いる蜀軍本隊は祁山に達します。魏の明帝はこれを憂慮し宿将張郃を派遣しこれを防がせるとともに、自らも長安に進出し魏軍を督戦しました。
 諸葛亮は、戦略上の要地街亭に馬謖を大将、王平を副将とする一軍を派遣し布陣させます。街亭は蜀軍の出撃拠点であると共にここを奪われれば雍州各地に散開する蜀軍全体を危機に陥らせるほど重要な場所でした。
 そこへ諸葛亮は一番信頼する馬謖を派遣したのです。出発に先立って諸葛亮は馬謖に
「街道を抑え、決して山上に陣取ってはならぬ」
と命じました。
 ところが現地に到着した馬謖は、周囲の地形を見てさっさと山上に本陣を布いてしまいます。これは兵法の常識で、高所に布陣して低い位置の敵を攻めるのが有利だとされているからです。王平は諸葛亮の警告を思い出し反対します。しかし馬謖はこれを聞き入れませんでした。仕方なく王平は少数の自分の手勢だけを率いて街道に布陣します。
 やってきた魏軍は、蜀軍の主力が山上に布陣している事に気付きます。実はこのあたりの山は深い井戸を掘っても水が取れず絶対に布陣してはいけないところでした。演義ではこの時の魏軍の指揮者を司馬懿としていますが、正史では張郃だと書かれています。おそらく司馬懿ならずともベテランの将軍だったら同じ事をしたでしょう。
 街道上に布陣する王平の小勢を蹴散らすと、山を封鎖し水の手を完全に遮断しました。魏軍に包囲を受けてはじめて馬謖は自分の失敗に気付きます。しかしもう手遅れでした。
 補給路を完全に封鎖され水の手も断たれて以上あとは討って出るか座して死を待つかです。馬謖は全軍を率いて山上から駆け下ります。しかしそれは待ちかまえていた魏軍にとってはよい好餌でした。さんざんに撃ち破られた馬謖は大きな損害を受けながら敗走します。
 それよりも哀れなのは他の蜀軍でした。街亭を取られたために退路を断たれ全軍崩壊の危機に陥ります。諸葛亮は、この困難の中最小限の被害で撤退、何とか漢中に辿りつきました。
 さて、問題は馬謖です。諸将は人材の少ない蜀軍にとって彼のような俊才を失うのは良くないと口々に諸葛亮に取りなします。しかし諸葛亮は黙って首を振るのみでした。責任を感じていた馬謖は自ら諸葛亮の前に出頭します。
 諸葛亮も内心では人一倍その才を買っている馬謖を軍法によって斬る事はやりたくありませんでした。しかしここで許せば全軍に対して示しが付かないばかりか、軍規が緩みやがては全軍崩壊が待っていたでしょう。馬謖もそれを承知していたので一言も弁明しませんでした。
 ついに馬謖は命令違反の罪で処刑されます。その日諸葛亮は他人に涙を見せないため本陣の幕営に籠ったきりだったといいます。これが『泣いて馬謖を斬る』の故事の由来です。
 諸葛亮は、自らも責任を感じ丞相の職を辞任しました。しかし蜀には他に代わる人材がいないため蜀帝劉禅は諸葛亮を右将軍に格下げするだけで引き続き丞相の職を代行させます。
 魏の大都督曹真は、再び蜀軍が攻めてくるだろうとその進軍路にあたる陳倉に郝昭を派遣しこれを守らせました。郝昭は曹真の期待に応え再び来襲した蜀軍を撃退します(陳倉の戦い)。曹真は蜀軍を撃退した功で大司馬に就任しました。230年には逆に自ら兵を率いて蜀に攻め込みますがこれは失敗。そのまま病を得て231年3月死去します。彼の官職は息子曹爽(そうそう)が継ぎました。
 曹真は、臨終の際見舞いに来ていた明帝に自分の死後蜀軍に当たるのは彼しかいないと司馬懿を推薦します。こうして司馬懿は大都督に返り咲き諸葛亮の宿敵として登場する事になりました。
 はたして二人の好敵手はどのように戦うのでしょうか?次回、両雄の戦いと諸葛亮の死を描きます。

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