三国志24 秋風五丈原(完)
231年、諸葛亮は再び祁山に進出しました。この時木牛・流馬と呼ばれる食糧運搬車を使って糧食を運んだと云われます。どのような物だったかは現在分かっていませんが、一種の機動力ある一輪車で山岳地帯での輸送に便利だったと伝えられています。
司馬懿は張郃・郭淮らを率い20万の大軍をもって迎え討ちました。しかし10万と半分の兵力の蜀軍に一敗地に塗れ張郃が戦死するなど大きな損害を出します。これに懲りた司馬懿は諸葛亮と直接戦う愚をさけ、徹底的に守りに徹することで敵の疲弊を待つ持久策に転じました。
さすがにこれは蜀軍にとっては堪えました。結局食料不足に陥った蜀軍は撤退を余儀なくされます。このままではじり貧に陥ってしまうと危惧した諸葛亮は、司馬懿に決戦を強要すべく234年春五丈原に進出しました。これは今までの遠征で一番東へ進出した地点でした。破られれば長安は指呼の間です。
ここでも司馬懿は守りに徹しました。さすがに魏軍の諸将も司馬懿に出陣の許可を求めます。が、司馬懿は明帝の名を持ち出して絶対に許しませんでした。
ある日、蜀軍から司馬懿に贈り物が届られます。箱の中には女物の着物が入っていました。あくまで戦わないのは男ではなく女なのだろうという侮辱です。しかし、司馬懿は怒らず逆に蜀の使者に諸葛亮の日常を尋ねました。
使者は、諸葛亮が小さな罪や細かい事務も自分一人で処理し寝る時間もないと誇らしげに答えます。使者が帰った後司馬懿は側近に述懐しました。
「あの様子では諸葛亮の命は長くないな…」
それは蜀の人材不足を表していました。諸葛亮以外に人がいないためにすべて彼が処理しなければいけなかったのです。その疲労は重なり次第に病魔がその体を蝕んでいました。自分が長くない事は諸葛亮自身が一番分かっていたのです。
使者から司馬懿の反応を聞いた諸葛亮もまた嘆息します。対陣すること百余日。234年8月、諸葛亮は陣中で病を悪化させついに亡くなりました。享年54歳。
その夜、流星が流れ蜀軍の陣営の方向に落ちたのを見た司馬懿は諸葛亮の死を直感します。するとまもなく蜀軍は陣を払って帰国の途に就きました。
追撃するのはこの時とばかり、司馬懿は諸将の反対を押し切って出陣します。ところが撤退中と思っていた蜀軍の後陣がにわかに向きを変え逆襲の構えを見せました。その先頭には四輪車に乗り白羽扇を持った諸葛亮の姿が。諸葛亮の策にはめられたと慌てた司馬懿は自陣に逃げ帰ります。
それを確認すると後陣を指揮していた姜維は、静かに軍を返します。四輪車の孔明は精巧に作られた木像でした。これも諸葛亮が残した策の一つです。後でこの事を伝え聞いた司馬懿は、
「死者が相手ではさしもの私でも勝てんよ」
と笑ったそうです。これが『死せる孔明、生ける仲達を走らす』の故事の由来となります。後に諸葛亮の布陣した五丈原を視察した司馬懿は「天下の奇才だ」と感心したとか。
諸葛亮の遺骸は、遺言によって漢中定軍山に葬られます。普段着を付け、金銀財宝を墓に入れる事を許さなかったそうです。これは彼の清廉潔白な性格なのでしょう。遺産も小さな村の村長程度と少ないものでした。
諸葛亮の死は一つの時代の終わりでした。以後蜀は彼の後継者姜維の奮闘で263年まで保ちます。しかし最後は司馬懿の次子司馬昭によって滅ぼされました。魏もまた強大化した司馬一族の手によって265年乗っ取られます。呉はそれよりは長く続きましたが内部抗争を繰り返して国力を衰えさせ280年、晋の武帝司馬炎(昭の子)によって滅亡させられました。
諸葛亮以後の歴史はいずれ書く機会もあるでしょう。ですが彼の死で終わるのが日本人の美意識に合うと考えます。ということで、ここで私も筆を置きたいと思います。
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