2022年12月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31
無料ブログはココログ

« 2013年10月 | トップページ | 2013年12月 »

2013年11月

2013年11月 7日 (木)

三国志24   秋風五丈原(完)

 231年、諸葛亮は再び祁山に進出しました。この時木牛・流馬と呼ばれる食糧運搬車を使って糧食を運んだと云われます。どのような物だったかは現在分かっていませんが、一種の機動力ある一輪車で山岳地帯での輸送に便利だったと伝えられています。
 
 司馬懿は張郃・郭淮らを率い20万の大軍をもって迎え討ちました。しかし10万と半分の兵力の蜀軍に一敗地に塗れ張郃が戦死するなど大きな損害を出します。これに懲りた司馬懿は諸葛亮と直接戦う愚をさけ、徹底的に守りに徹することで敵の疲弊を待つ持久策に転じました。
 
 
 さすがにこれは蜀軍にとっては堪えました。結局食料不足に陥った蜀軍は撤退を余儀なくされます。このままではじり貧に陥ってしまうと危惧した諸葛亮は、司馬懿に決戦を強要すべく234年春五丈原に進出しました。これは今までの遠征で一番東へ進出した地点でした。破られれば長安は指呼の間です。
 
 ここでも司馬懿は守りに徹しました。さすがに魏軍の諸将も司馬懿に出陣の許可を求めます。が、司馬懿は明帝の名を持ち出して絶対に許しませんでした。
 
 
 ある日、蜀軍から司馬懿に贈り物が届られます。箱の中には女物の着物が入っていました。あくまで戦わないのは男ではなく女なのだろうという侮辱です。しかし、司馬懿は怒らず逆に蜀の使者に諸葛亮の日常を尋ねました。
 
 使者は、諸葛亮が小さな罪や細かい事務も自分一人で処理し寝る時間もないと誇らしげに答えます。使者が帰った後司馬懿は側近に述懐しました。
 
 「あの様子では諸葛亮の命は長くないな…」
 
 
 それは蜀の人材不足を表していました。諸葛亮以外に人がいないためにすべて彼が処理しなければいけなかったのです。その疲労は重なり次第に病魔がその体を蝕んでいました。自分が長くない事は諸葛亮自身が一番分かっていたのです。
 
 使者から司馬懿の反応を聞いた諸葛亮もまた嘆息します。対陣すること百余日。234年8月、諸葛亮は陣中で病を悪化させついに亡くなりました。享年54歳。
 
 
 その夜、流星が流れ蜀軍の陣営の方向に落ちたのを見た司馬懿は諸葛亮の死を直感します。するとまもなく蜀軍は陣を払って帰国の途に就きました。
 
 
 追撃するのはこの時とばかり、司馬懿は諸将の反対を押し切って出陣します。ところが撤退中と思っていた蜀軍の後陣がにわかに向きを変え逆襲の構えを見せました。その先頭には四輪車に乗り白羽扇を持った諸葛亮の姿が。諸葛亮の策にはめられたと慌てた司馬懿は自陣に逃げ帰ります。
 
 それを確認すると後陣を指揮していた姜維は、静かに軍を返します。四輪車の孔明は精巧に作られた木像でした。これも諸葛亮が残した策の一つです。後でこの事を伝え聞いた司馬懿は、
「死者が相手ではさしもの私でも勝てんよ」
と笑ったそうです。これが『死せる孔明、生ける仲達を走らす』の故事の由来となります。後に諸葛亮の布陣した五丈原を視察した司馬懿は「天下の奇才だ」と感心したとか。
 
 
 諸葛亮の遺骸は、遺言によって漢中定軍山に葬られます。普段着を付け、金銀財宝を墓に入れる事を許さなかったそうです。これは彼の清廉潔白な性格なのでしょう。遺産も小さな村の村長程度と少ないものでした。
 
 
 
 
 諸葛亮の死は一つの時代の終わりでした。以後蜀は彼の後継者姜維の奮闘で263年まで保ちます。しかし最後は司馬懿の次子司馬昭によって滅ぼされました。魏もまた強大化した司馬一族の手によって265年乗っ取られます。呉はそれよりは長く続きましたが内部抗争を繰り返して国力を衰えさせ280年、晋の武帝司馬炎(昭の子)によって滅亡させられました。
 
 
 諸葛亮以後の歴史はいずれ書く機会もあるでしょう。ですが彼の死で終わるのが日本人の美意識に合うと考えます。ということで、ここで私も筆を置きたいと思います。

三国志23   泣いて馬謖を斬る

 228年春、蜀軍は斜谷道から郿を窺う構えを見せます。趙雲・鄧芝は囮部隊を率いて箕谷を占拠しました。魏の大都督曹真はこれを敵の主力部隊と誤認し全力でこれに攻撃を開始します。蜀軍本隊がその間に天水・安定・南安三郡を平定した事は前回述べました。
 諸葛亮率いる蜀軍本隊は祁山に達します。魏の明帝はこれを憂慮し宿将張郃を派遣しこれを防がせるとともに、自らも長安に進出し魏軍を督戦しました。
 諸葛亮は、戦略上の要地街亭に馬謖を大将、王平を副将とする一軍を派遣し布陣させます。街亭は蜀軍の出撃拠点であると共にここを奪われれば雍州各地に散開する蜀軍全体を危機に陥らせるほど重要な場所でした。
 そこへ諸葛亮は一番信頼する馬謖を派遣したのです。出発に先立って諸葛亮は馬謖に
「街道を抑え、決して山上に陣取ってはならぬ」
と命じました。
 ところが現地に到着した馬謖は、周囲の地形を見てさっさと山上に本陣を布いてしまいます。これは兵法の常識で、高所に布陣して低い位置の敵を攻めるのが有利だとされているからです。王平は諸葛亮の警告を思い出し反対します。しかし馬謖はこれを聞き入れませんでした。仕方なく王平は少数の自分の手勢だけを率いて街道に布陣します。
 やってきた魏軍は、蜀軍の主力が山上に布陣している事に気付きます。実はこのあたりの山は深い井戸を掘っても水が取れず絶対に布陣してはいけないところでした。演義ではこの時の魏軍の指揮者を司馬懿としていますが、正史では張郃だと書かれています。おそらく司馬懿ならずともベテランの将軍だったら同じ事をしたでしょう。
 街道上に布陣する王平の小勢を蹴散らすと、山を封鎖し水の手を完全に遮断しました。魏軍に包囲を受けてはじめて馬謖は自分の失敗に気付きます。しかしもう手遅れでした。
 補給路を完全に封鎖され水の手も断たれて以上あとは討って出るか座して死を待つかです。馬謖は全軍を率いて山上から駆け下ります。しかしそれは待ちかまえていた魏軍にとってはよい好餌でした。さんざんに撃ち破られた馬謖は大きな損害を受けながら敗走します。
 それよりも哀れなのは他の蜀軍でした。街亭を取られたために退路を断たれ全軍崩壊の危機に陥ります。諸葛亮は、この困難の中最小限の被害で撤退、何とか漢中に辿りつきました。
 さて、問題は馬謖です。諸将は人材の少ない蜀軍にとって彼のような俊才を失うのは良くないと口々に諸葛亮に取りなします。しかし諸葛亮は黙って首を振るのみでした。責任を感じていた馬謖は自ら諸葛亮の前に出頭します。
 諸葛亮も内心では人一倍その才を買っている馬謖を軍法によって斬る事はやりたくありませんでした。しかしここで許せば全軍に対して示しが付かないばかりか、軍規が緩みやがては全軍崩壊が待っていたでしょう。馬謖もそれを承知していたので一言も弁明しませんでした。
 ついに馬謖は命令違反の罪で処刑されます。その日諸葛亮は他人に涙を見せないため本陣の幕営に籠ったきりだったといいます。これが『泣いて馬謖を斬る』の故事の由来です。
 諸葛亮は、自らも責任を感じ丞相の職を辞任しました。しかし蜀には他に代わる人材がいないため蜀帝劉禅は諸葛亮を右将軍に格下げするだけで引き続き丞相の職を代行させます。
 魏の大都督曹真は、再び蜀軍が攻めてくるだろうとその進軍路にあたる陳倉に郝昭を派遣しこれを守らせました。郝昭は曹真の期待に応え再び来襲した蜀軍を撃退します(陳倉の戦い)。曹真は蜀軍を撃退した功で大司馬に就任しました。230年には逆に自ら兵を率いて蜀に攻め込みますがこれは失敗。そのまま病を得て231年3月死去します。彼の官職は息子曹爽(そうそう)が継ぎました。
 曹真は、臨終の際見舞いに来ていた明帝に自分の死後蜀軍に当たるのは彼しかいないと司馬懿を推薦します。こうして司馬懿は大都督に返り咲き諸葛亮の宿敵として登場する事になりました。
 はたして二人の好敵手はどのように戦うのでしょうか?次回、両雄の戦いと諸葛亮の死を描きます。

三国志22   出師の表

 226年、魏の文帝曹丕が没します。臨終の前、曹丕は最も信頼する一族の曹真・曹休、そして陳羣と司馬懿を呼んで後事を託しました。享年39歳。帝位は若年の息子曹叡が継ぎます。すなわち魏の明帝です。曹丕の早すぎる死が三国時代を長引かせたともいえます。曹丕は支那大陸を統一するだけの能力がありました。魏王朝にとって不幸だったとも言えます。
 
 後事を託された一人、司馬懿は魏を脅かすのは蜀の諸葛亮であると確信し、自ら申し出て都督雍涼諸軍事に就任します。事実上の西方総司令官として蜀との最前線に赴任したのです。
 
 ところが、都洛陽にある噂が流れます。司馬懿が謀反を企んでいるというのです。若い明帝は半信半疑でしたが疑心暗鬼の側近たちが讒言したためともかく安邑に行幸し司馬懿が出迎えに来たところを逮捕するという計画が練られました。何も知らない司馬懿はその場で逮捕されますが、もちろん無実なので堂々とそれを主張します。
 
 結局司馬懿は死罪だけは免れましたが、軍権を持っているのが良くないとされ南陽宛城に左遷されました。これはもちろん諸葛亮の策でした。北伐最大のライバルになる司馬懿を今のうちに除いておこうという考えです。大都督の地位は曹一族の曹真に引き継がれます。
 
 
 また、諸葛亮は蜀を裏切って魏に亡命した孟達にも書を送りました。実は孟達は曹丕にとても寵愛され散騎常侍・建武将軍に任ぜられ、平陽亭候にも封じられたほどでした。上庸郡に加えて二郡を加増されわが世の春を楽しんでいた孟達ですがしょせん他所者の降将、魏が明帝に代替わりすると立場が微妙になってきます。その不安を上手く衝いたのです。諸葛亮北伐の際には内応する約束までできていました。
 
 こうした万全の準備を施した諸葛亮は、十万の兵を率いて北伐に向かうべく最前線漢中に至ります。出陣に際して皇帝劉禅に送った『出師の表』は先帝劉備に対する恩義を述べ、劉禅を我が子のように諭し、自らの決意を表明した忠臣の鑑のような文章として古来有名です。
 
 
 228年、ついに蜀軍は国境を越えます。この時上庸の孟達も魏に背きました。いち早く孟達謀反の報告を聞いた宛城の司馬懿は、都に報告して返事を待っていては間に合わないと越権行為ではあったものの宛城の魏軍を率いて上庸に急行しました。敵がここまで早くやってくるとは思ってもいない孟達は不意を衝かれ敗北します。司馬懿は孟達を斬りそのまま長安に向かいました。この功により司馬懿の越権行為は不問にされます。なによりも曹真は自分一人では防衛戦に不安だったので司馬懿の到着を歓迎しました。
 
 
 北伐に際して、蜀の武将魏延は長安への最短距離を急行する策を進言します。しかし諸葛亮は危険すぎるという事でそれを却下しました。 まず南安・天水・安定の三郡(共に甘粛省東部)を平定し、そこを策源地にして長安を攻めるという正攻法を採ります。
 
 この手堅い作戦は功を奏し、蜀軍は魏の西方領土分断に成功しました。ただ諸葛亮が天水郡太守馬遵を攻めた時は一時苦戦します。というのも天水の麒麟児と称される姜維(きょうい)という若者がそれを補佐していたからです。
 
 諸葛亮は姜維の天分に感心し、策を持って彼を捕えました。諸葛亮から親しく説かれた姜維はついに蜀に降伏します。実は諸葛亮は自分の寿命がそれほど長くない事を知っており、後継者を探していたのでした。姜維は諸葛亮の薫陶を受け知勇兼備の名将に育って行きます。
 
 諸葛亮にその才を愛された人物はもう一人いました。白眉馬良の弟馬謖(ばしょく)です。彼もまた後の蜀を背負う人材として期待された一人でしたが、成功するかに見えた北伐は彼の致命的な失敗によって頓挫するのです。
 
 
 次回、街亭の戦いと『泣いて馬謖を斬る』の故事のもとになった話を描きます。

三国志21   七縱七禽

 223年春、蜀漢昭烈帝劉備は白帝城において危篤に陥ります。病床に丞相諸葛亮を呼ぶとこう遺言しました。
「君の才は曹丕に十倍する。そなたに任せておけばこの国は心配ない。息子劉禅に守り立てるだけの器量があればこれを助けてほしい。しかしその器量なくば君がこの国を取ってくれ」
 
 あまりに思いきった言葉に諸葛亮は泣いて劉禅を守り立てる事を誓います。さらに劉備は息子の劉永、劉理らを呼び諸葛亮に父子の礼を取らせました。その後劉備は安心したように息を引き取ります。享年63歳。
 
 
 
 劉備の死によって蜀の全権を担った諸葛亮は、今後の外交方針を決めます。蜀の敵は魏、呉とは結ぶという大方針でした。しかし夷陵の戦い以後まだ呉とは冷戦状態が続いています。
 
 諸葛亮は、思いきって文書の管理をしていた鄧芝(とうし)を抜擢し、講和全権大使に任命しました。鄧芝は見事に期待に応え呉と講和し、同盟を結ぶことに成功します。これによって蜀に攻め込む気配を見せていた魏の野望を挫きました。
 
 北伐をするためには蜀の背後を固めなければなりません。そこは南蛮と呼ばれる地域でした。現在の雲南、貴州省です。南蛮は食糧基地であり遠くインドに至る貿易路にもあたっていました。まさに蜀の死命を制する重要な土地だったと言えます。
 
 225年、蜀の南方国境地帯の太守である雍闓(ようがい)、高定らが魏に唆されて反乱をおこします。諸葛亮は自ら十万の兵を率いこれを鎮圧します。ところがこの反乱は南蛮全土を揺るがす大反乱となりました。
 
 反乱の首謀者は孟獲という人物でした。南蛮はタイ族や越族系の無数の異民族がそれぞれ割拠し九十三甸(てんは小国家の意)と呼ばれ洞主という豪族が支配していました。孟獲はその部族連合の盟主で南蛮王を自称します。
 
 
 諸葛亮は、異民族を力攻めする愚を悟ります。彼らを心服させるにはまず心を攻める事が第一だと判断していました。そこで戦闘で勝って孟獲を捕えては解放するということを七回も繰り返したとされます。これが七縱七禽の故事の由来ですが、実は正史三国志では出てきません。ただ諸葛亮が戦いではなく宣撫工作を第一に実行したのは確かなようです。
 
 その証拠に諸葛亮が生きている間南蛮は一度も反乱を起こさなかったと云われますし、彼を神として崇め南蛮各地に霊廟が建てられたほどでした。
 
 
 蜀が南蛮を平定した事は、北伐に向けての貴重な食料基地を得るとともに海外貿易路を確保したとも云えました。南蛮の物資が諸葛亮の北伐を支えます。
 
 
 いよいよ諸葛亮出陣のときです。彼はどのように準備しどのように北伐へ向かったのでしょうか?次回、出師の表ご期待ください。

三国志20   夷陵の戦い

 父曹操の後を受けて魏王になった曹丕。賈詡・華歆・王朗などの側近グループは最初に最大のライバルになりうる兄弟たちへの対策を進言します。
 まず曹操の葬儀に十万の兵を率いてやってきた次男曹彰を謀反の疑いを掛け軍権剥奪。彼は冷遇されまもなく病死します。次に曹丕は、葬儀に参列しなかった三男曹植、四男曹熊に詰問の使者を送りました。
 曹熊は、自分が疑われているのを気に病み明日召喚という日に自害してしまいます。ところが曹植は違いました。曹植の側近丁儀・丁廙兄弟は逆に曹丕の使者を叱りつけ公然と敵対の構えを見せます。
 怒った曹丕は、許褚に曹植の逮捕を命じました。兵を率いて曹植の屋敷に乗り込んだ許褚は丁兄弟を誅殺し曹植自身も曹丕の前に引き出されました。明日にも処刑されるという晩、二人の母卞太后は息子に泣きつきなんとか曹植の命だけは助けるよう嘆願します。
 さすがに母の手前、残忍な命令を下すことをためらった曹丕は
「植、そなたは詩文の名手だと評判だ。これから七歩歩く間に詩を詠せよ。できなければ処刑する」と命じました。
 すると曹植は本当に七歩の間に詩を作ります。これが有名な七歩の詩です。処刑だけは免れますが曹植は冷遇され失意のうちに世を去ったと伝えられます。
 曹丕が次に目標としたのは、形骸化した後漢王朝を滅ぼし自分が帝位に就くことでした。強大な軍事力を背景に献帝に退位を迫り帝位を譲らせました。220年の事です。献帝は山陽公に格下げされ都を去りました。曹丕は即位し新たな魏王朝を開きます。すなわち魏の文帝です。父曹操にも武帝を追号しました。
 曹丕の側近たちは功により華歆が相国(総理大臣。丞相より格上)、賈詡が太尉(国軍総司令官)、王朗が御史大夫(監察。この3つが魏の三公)に任命されました。曹仁や夏侯惇ら曹操挙兵以来の宿将は第一線を退き新たに曹一族の曹真、曹休らが軍の首脳として台頭します。司馬懿は曹操時代、頭が切れすぎるという理由で警戒され軍権を与えられませんでしたが、曹丕時代急速に存在感を増しました。最終的には撫軍大将軍という軍の最高幹部の一人にまで出世します。
 曹丕が漢朝を滅ぼし新たに魏王朝を開いたという報告は、蜀にももたらされます。群臣たちは漢中王劉備に帝位に就くよう懇願しました。帝位よりも呉への復讐の機会を待ち続けてた劉備は最初これを拒否しますが、221年諸葛亮の説得に負けついに即位します。これが蜀漢王朝です。諸葛亮は蜀漢の丞相になりました。
 しかし劉備は一日たりとて義弟関羽の復讐を忘れていませんでした。諸臣の反対を押し切りついに呉の孫権を攻めるべく大動員を命じます。この事を一番喜んだのは張飛でした。早速太守を務める巴西郡に帰り呉遠征の先鋒たるべく家臣にその準備を命じました。ところがあまりにも無理な要求をしたため部下たちは動揺します。期日までに準備しなければ処刑すると脅されたため、ついに范彊・張達らは張飛の寝込みを襲い首を取って呉に亡命してしまいました。
 張飛の非業の死を知った劉備は号泣しました。そして孫権への怒りはさらに増幅します。この時劉備が集めた軍勢に関しては諸説あります。一番多いのは演義の75万、少ないのは正史魏書文帝記に記された4万。75万はさすがに当時の人口、補給能力を考えても考えにくいのですが4万は少なすぎます。おそらく荊州から劉備に従った兵力はそれほど損耗していなかったはずで蜀の兵力と合わせるとすくなくとも20万は下らなかったような印象があります。遠征には関羽の遺児関興、張飛の忘れ形見張苞という二人の若武者が参加し劉備を喜ばせました。
 蜀の大軍来るという報は呉の孫権を驚かせました。孫権は亡き呂蒙が生前自分の後継者にするよう遺言していた陸遜(りくそん)を抜擢して迎撃軍の総大将に任命します。それまで陸遜は無名の若者でした。当然呉の将軍たちは若造に指揮されるのを不快に思いことごとく反発します。陸遜は呉侯孫権から授かった剣を示して服従を要求しました。諸将は主君の名前を出されて渋々従います。
 
 呉軍5万は陸遜の名采配もあって必死に防ぎ、一進一退の攻防のまま年を越しました。が大軍の圧力で蜀軍は夷陵まで進出します。6月になりました。蜀軍は暑さにへばり夷陵の山々に広く散開して布陣します。陸遜は初めて見せた蜀軍の弱点を見逃しませんでした。
 
 火計を敢行した呉軍は、火に追われ大混乱に陥った蜀軍に総攻撃を開始します。蜀軍は四分五裂し宿将黄忠や白眉と称えられた有能な馬良など多くの功臣が戦死し、重臣の一人黄権は退路を失って魏に亡命しました。
 
 
 猛火に包まれて絶体絶命の劉備は、諸葛亮の命で救援に来ていた趙雲の軍と遭遇、間一髪で助けられます。劉備は負傷した体のまま命からがら蜀呉国境の白帝城に逃げ込みました。蜀軍は戦死者数万を数え惨敗します。あまりにも大きな打撃でした。天下三分の計はもはや実現不可能になりました。まず天下を三分しその後体制を整えて魏を討つという大方針は崩れたのです。
 
 
 英雄劉備の命は間もなく終わろうとしていました。諸葛亮はすぐさま成都から駆けつけます。次回は劉備の死とその遺言、そして諸葛亮の南蛮行を描きます。

三国志19   魏王曹操の死

 曹操が魏公・九錫の栄典を得た時に荀彧、魏王を名乗った時に荀攸が反対し死を賜わったり迫害されて憤死したとされます。正史三国志では、そのようなことはなくただ病死したとだけ記され、どちらもその子孫は厚遇されたようですから強制的に死を賜ったり自害したわけではないようですが、彼ら挙兵以来の功臣と曹操の求めるものが違ってきていたのは事実だと思います。
 
 あくまでも漢朝を助けて天下を治めようとした荀彧・荀攸たちに対して戦乱の世を治めるには漢朝に代わる新たな力が必要だと考えた曹操。いつしか野望に燃える曹操は漢の名族たる彼らを遠ざけ、曹操の周囲には彼の野望を助ける新たな側近団が形成されつつありました。
 
 その代表は、かつて曹操の敵対勢力に属した賈詡や華歆、王朗たちでした。河内郡温(河南省焦作市)の名族司馬氏出身の司馬懿もこのグループです。なぜか演義では登場しませんが九品官人法という科挙成立まで支那王朝の基本人材登用法を確立した陳羣(ちんぐん)もこれに加えて良いでしょう。実は陳羣はかつて徐州時代の劉備に仕えていた事もありました。
 曹操には、正室卞氏(べんし、武宣皇后)との間に4人の子がいました。長男曹丕、次男曹彰、三男曹植、四男曹熊です。その中で次男彰は武勇一辺倒の男、末子熊は病弱でしたので曹操の後継者は長男丕か三男植に限られました。
 中でも曹植は文才も豊かで父に最もかわいがられます。曹植には楊修ら専ら才子と評判の者どもが付き最有力候補になりました。これに危機感を覚えていた嫡男曹丕は、廃嫡を恐れ太中大夫(九卿光禄勲に属する宮中顧問官)賈詡に相談します。
 賈詡は、曹丕に策を授けます。曹操が出陣する時曹植はそれを称える詩を吟じました。一方、曹丕はじっと涙を湛えて見守るのみでした。曹操は曹丕の方が実があると感じます。ある日曹操は、賈詡を召して後継者について問います。
 それに対し、賈詡はじっと考え込むのみでした。
 「太中大夫、何故答えぬ?」と曹操が疑問を口にすると
「いえ、いま袁本初(袁紹)、劉景升(劉表)の事を考えていたものですから」と答えました。どちらも長男を後継者にしなかったためお家騒動が起こり滅びた家でした。
「あははは、あい分かった」聡い曹操はすぐさま察し、即日曹丕が正式な後継者と決まります。賈詡はこの功により後に曹丕が帝位につくと太尉(三公の一つ。軍の最高司令官)という重職を得ました。
 220年、関羽を討って都許昌の安泰を得た曹操は漸く安心したようでした。魏王宮は鄴(河北省)にあったので曹操はもっぱらこちらに滞在します。三国志演義では、曹操が洛陽の神木を切り倒しその祟りで病気にかかるエピソードがあります。激しい頭痛に見舞われた曹操は神医華佗を召したところ華佗は頭を切り開いて手術しなければ治らないと言いました。猜疑心深い曹操は自分を殺そうとしていると勘違いして華佗を殺し、自分もそのまま病死するという展開です。
 ところが正史三国志では、ただ病死したとだけあります。曹操は遺言を残しました。
「天下はまだ安定していない。余の葬儀が終わればすぐ喪服を脱ぎそれぞれ自分の定められた役目を果たすべし。亡骸は普段着のまま埋葬し墓に財宝を入れてはならん」
 ずいぶんと三国志演義のイメージとは違います。演義では盗掘を防ぐために偽塚七十二を築けと言ったとされますから。正史の方が曹操の正しい姿を表わしているような気がします。ともかく稀世の英雄曹操は亡くなりました。享年66歳。
 王太子曹丕が後を継ぎます。自分を周公になぞらえた曹操は実力がありながらあえて漢王朝を廃そうとはしませんでした。しかし曹丕は違います。まず彼がしたのは皇帝になる事。
 次回は、後漢王朝の滅亡そして蜀で帝位に就いた劉備の呉復讐戦を描きます。

三国志18   麦城哀歌

 213年魏公、216年には魏王となりますから以後曹操の勢力を魏と呼びます。劉備がついに蜀を占領したという報告は魏の曹操に衝撃を与えます。今まで根なし草だった劉備がついに安定的な地盤を得たからです。
 
 
 曹操は、蜀の劉備と対抗するためにまずは橋頭堡を築くべく215年、漢中の張魯を攻めます。これは簡単に敵が降伏したため間もなく終わります。ところで張魯が無駄な抵抗をせずあっさりと曹操に降伏した事は、後の道教教団にとっても良かったと思います。そうでなければ太平道の張角のように徹底的に殲滅されたでしょうから。
 
 
 ところが漢中は蜀の喉元にあたるため劉備は魏の占領を排除すべく217年出兵しました。この漢中戦役は珍しく劉備が城に籠って敵の疲れを待つ作戦に出たため魏軍は苦戦します。これは数年の長きに渡り定軍山では曹操挙兵以来の宿将夏侯淵が戦死するなど大きな犠牲が出ました。
 
 鶏肋(けいろく)の故事が生まれたのもこの時です。鶏肋とは中華料理のスープなどに入っている鶏のあばら骨のことで肉は無いが味わい深く捨てるに忍びないということから、これを漢中に例えたものでした。
 曹操のつぶやきを真に受けた夏侯惇が全軍に意味も分からぬまま布告したところ、俊才として名高い楊修は勝手に撤退の準備を始めます。これは丞相が撤退するという意を含めた言葉だろうと解釈したのです。
 それを聞いた曹操は、自分の内心を覗かれているような薄気味悪さを感じ楊修を処刑してしまいます。曹操は日頃から才を鼻にかける楊修を嫌っておりこの時怒りが爆発したのだと云われます。
 が、私は別の解釈を持っています。というのも楊修は曹操の三男曹植の後見人で、跡目争いで長男の曹丕と争っていたためこのような男がいると大乱になると危惧した曹操はいつか除こうと考えていたのだと思います。
 219年、珍しく単独で曹操に勝利した劉備は漢中を占領し漢中王を名乗ります。漢中王とはかつて漢の高祖劉邦が名乗った王号で、いずれは支那大陸を平定し皇帝になるという意味を含んでいました。この時が劉備の絶頂期だったと思います。ところが悲劇は彼の知らないところで秘かに進行していたのです。
 劉備が漢中王になったことは、呉の孫権を不快にさせます。約束だった荊州も一部を除いてまったく返還する気配を見せなかったからです。曹操は孫権の不満に付け込み秘かに使者を送って同盟を結びました。217年蜀呉同盟論者だった魯粛が亡くなった事も大きかったと思います。
 孫権は魏と示し合わせて、関羽が魏と戦争している隙に荊州に攻め入るという密約を結びました。219年、関羽は漢水を渡って北上し魏将于禁の守る樊城を攻撃します。この報告を受けた孫権は呂蒙を大将とする呉軍を派遣、荊州を攻めました。
 留守を守る南郡の糜芳(びほう)、公安の傅士仁(ふしじん)らは呉の大軍に恐れをなし降伏してしまいます。猛攻の末樊城を降した関羽ですが、呉軍来襲の報告を受けて急ぎ引き返しました。が、待ちかまえていた呉軍は関羽軍を奇襲、進退極まった関羽は麦城という小城に入ります。
 至急援軍を求める使者を出した関羽でしたが、荊州国境に最も近い上庸に駐屯していた劉封と孟達は戦況が絶望的なことから援軍出兵を断ります。後にこの事が問題になり、劉封は処刑され孟達は魏に亡命しました。
 ようやく成都に使者が辿りついた時にはもはや手遅れでした。麦城は落ち関羽は養子の関平、側近の周倉とともに呉軍に捕えられます。降伏するように何度も孫権に勧められますがこれを拒否、関羽は首を刎ねられました。
 孫権は、怒りが自分に向く事を恐れいかにも曹操の命令で荊州を攻めたように偽装し関羽の首を曹操に送りまます。しかし曹操は、司馬懿(しばい、字を仲達。後に諸葛亮最大のライバルになる)の献策を容れ逆に関羽の首を丁重に葬ります。当然劉備の怒りは曹操ではなく孫権に向きました。
 荊州攻めの主将だった呂蒙がまもなく病死したのも関羽の呪いだと噂されます。それだけ義将関羽は人心を得ていたのでしょう。
 劉備は呉への復讐の機会を待ちました。それは夷陵の戦いへと発展します。しかしその前に、我々は稀代の英雄曹操の最期を描かなくてはなりません。
 

三国志17   入蜀

 馬超の役は戦乱渦巻く中原から離れ平和を謳歌していた蜀(四川省)にも少なからぬ影響を与えました。蜀は益州とも呼ばれ北に大巴山脈、東に三峡の険など周囲を急峻な山々に囲まれた方千里(支那里)の盆地。四川の名になった四つの大河が流れ太古から稲作が盛ん、天府の国とも呼ばれた豊かな地方でした。
 
 歴史上独立勢力が成立しやすく、何度も王朝が興亡を繰り返します。当時の益州牧は劉璋。長年蜀東北部の漢中盆地に勢力を張る五斗米道(道教の源流)の教主張魯の侵略に悩まされていました。馬超の役で敗れた西涼の残党が多数漢中に流れ込んだため張魯は強気になり本格的に益州を攻める構えを見せます。
 これに危機感を覚えた劉璋は中央の情勢を探りあわよくば援軍を仰ぐため使者を派遣します。選ばれたのは張松。彼は蜀四十一州図という蜀の地理物産などすべてを記した絵地図を携えて許昌の都に出発しました。
 ところが都についてみると、張松が小男で風采も上がらないことから侮りを受け曹操にひどい扱いを受けます。絵地図を用意したのはもし曹操が名君なら暗愚な劉璋に代わって曹操に蜀を治めてもらうためでした。この事は同志の法正や孟達しか知らない秘事中の秘事でした。
 怒った張松は帰途仁君と評判の高い荊州の劉備のもとを訪れます。すると曹操とは違い厚い歓迎を受けました。張松は蜀を託すのはこの人しかいないと携えてきた四十一図を献上します。もし蜀を攻めるときは内応を約束して帰りました。
蜀に戻った張松は、張魯の侵略を防ぐためには荊州の劉備を頼るしかないと進言します。これには反対意見が続出しますが劉璋は実際に外を見てきた張松の言葉を信用し早速劉備に援軍を依頼する使者を出します。
 これを受けて劉備は、荊州の留守に諸葛亮、関羽、張飛、趙雲を残し参謀に龐統を配し黄忠、魏延、劉封(劉備の養子)を大将とする五万の軍で出発します。
 蜀に入ると劉璋は劉備軍を出迎え歓迎の宴を開きました。荊州へ使者に立ちそのまま劉備軍に同行していた法正や軍師龐統はこの機会を利用して劉璋を殺すよう進言します。ところが暗愚とはいえ好人物の劉璋を殺すに忍びないと劉備はこれを拒否しました。
 劉備軍は、真面目に張魯の侵略軍と戦い蜀を守ります。しかし蜀内部では劉備がいずれは蜀を乗っ取るのではないかとますます警戒を深めました。
 そんな中、東では曹操が孫権の呉を攻撃します。同盟国として援軍を求められた劉備は、龐統からこの機会に劉璋の真意を図るため兵五万と莫大な兵糧を借りたいと申し出るよう進言されます。ところが劉璋は重臣たちの反対にあい戦に耐えない老兵二千とわずかばかりな兵糧を贈るのみでした。
 さすがの劉備もこれには怒り、蜀を攻め取る決意をします。劉備が呉を助けるため帰国すると勘違いした張松がそれを諌める手紙を書いたところ、ひょんなことからそれが発覚し張松は処刑されてしまいました。
 この事件により両者の対立は決定的になります。劉備は益州の首都成都を攻めるため軍を二手に分け一軍を軍師龐統に任せました。ところが出発の前龐統の乗る馬が急に暴れ出し落馬してしまいます。劉備は自分の馬を彼に与え、心配して出陣を見合わせるよう説得しました。が、龐統は笑って断り兵を率いて出発しました。
 途中、龐統軍は落鳳坡というところに差し掛かります。自分の号が「鳳雛」であることに不吉な予感を覚えた龐統は道を変えようとしますが、時すでに遅く待ちかまえていた張任の伏兵に矢を射かけられ絶命します。乗っていた馬が劉備の馬だったので勘違いされて殺されたのです。享年36歳。
 これにより不利になった劉備軍は葭萌関(かぼうかん)に立て籠もりました。報告を受けた諸葛亮は荊州の留守を関羽に任せると張飛・趙雲を連れ二万の援軍を率いて出発します。
 諸葛亮の援軍と合流した劉備は、214年ついに成都を落とし益州を平定しました。こうしてようやく天下三分は成ります。蜀平定の過程で張魯の将として劉備と対決した馬超も説得され帰順、関羽・張飛・趙雲・黄忠といわゆる五虎大将の体制が完成しました。劉備は蜀の旧臣の中でも有能な人材はどんどん抜擢し国内を固めます。
 次回は、漢中を巡る劉備と曹操の戦いと荊州の危機を描きます。

三国志16   西涼の錦馬超

 正史における馬騰は、208年朝廷の命により涼州牧を返上中央で衛尉(九卿の一つ。宮門守護を司る)に任ぜられるも息子馬超が西涼において反乱を起こしたためそれに連座して殺されたとあります。
 
 が私は馬超に反乱をおこす理由がなく、時系列的にはまず馬騰の処刑があってその復讐のために馬超が立ち上がったと解釈しています。ですからこれ以降の記述は三国志演義に沿って語っていこうと思います。
 
 かつて董承の暗殺計画に参加し自分を殺そうと図った馬騰を、曹操は決して許してはいませんでした。都許昌に上った馬騰は曹操から宮門前で閲兵するので登城するように求められます。董承の曹操暗殺計画に加担した生き残りは秘かに馬騰と接触し、この機会に曹操を急襲して殺ししてしまうよう持ちかけました。はじめは躊躇していた馬騰ですがついに説得に屈し同意します。
 
 閲兵の日、馬騰が軍を率いて宮門をくぐると突如門が閉じられました。四方から曹仁やら夏侯惇やら曹操軍の勇将たちが攻めかかり不意を突かれた馬騰一行はことごとく捕えれれました。実は密告者があり曹操はこの陰謀をとうに承知していたのです。というより曹操の罠にまんまと嵌ったとも言えます。
 
 馬騰は息子馬鉄、馬休とともに斬首されかろうじて甥の馬岱だけが血路を開いて脱出しました。命からがら西涼に帰りついた馬岱の報告を受けて馬超は号泣します。そして父や弟たちの復讐を誓い父の盟友だった韓遂と共に20万とも号する復讐の軍を起こしました。211年のことです。
 
 
 西涼の馬超挙兵の報は間もなく曹操にもたらされました。しかし騎兵が主力の西涼軍の進撃は早く鍾繇(しょうよう。有名な鍾会の父。当時は侍中・司隷校尉として西方司令官だった)の守る長安を瞬く間に囲みます。多勢に無勢なうえに強兵であった西涼兵の攻撃を受け長安はひとたまりもなく陥落。鍾繇は東に敗走しました。
 
 曹操軍の先鋒、曹洪・徐晃は潼関でこれを防ぐよう命令を受けますが、血気にはやった曹洪が突出したため敗北、潼関を奪われてしまいます。30万の曹操の本隊は仕方なく渭水の北に布陣し西涼軍と対峙します。攻防は一進一退、そのうちに厳しい冬がやってきました。
 
 こうなるとさすがに西涼軍も初めの勢いは無くし、曹操と一時休戦すべく使者を送ります。これを受けた曹操は謀臣賈詡に相談します。
 賈詡は「今は突き放す策も良くありません。丞相にはこういう対応をなさいませ」と策を授けました。
 
 
 曹操は馬超の申し出を受け一時休戦する事に決めます。そして韓遂の父とむかし交流があったことから陣中に彼を呼び出し昔語りをして懐かしみました。報告を受けた馬超は韓遂と曹操の仲を疑いますが、本人が何もなかったと言い張るためこの時は収まりました。
 
 ところが、曹操は韓遂にわざと一部を消したさも重要そうな手紙を送りました。これを聞いた馬超は韓遂の陣に飛んできますが、韓遂にやましいところはないため手紙を見せます。馬超は、手紙の重要部分を消したのは韓遂ではないかと疑いました。
 
 こうして両雄の間に隙間風が吹き出します。曹操はこれを助長するため間者を放って韓遂が曹操側に寝返って馬超を暗殺しようとしているという流言を広めました。
 
 
 馬超の疑いは日に日に濃くなり、韓遂は部下たちを集めここまで疑われるなら本当に曹操へ降伏しようかと相談します。馬超はその場に乗り込み
「やはり裏切っておったか!」と激昂して斬りかかりました。必死で防いでいた韓遂は馬超によって片腕を斬り落とされ命からがら脱出しました。韓遂が曹操の陣営にかけ込むと、待ってましたとばかり曹軍の攻撃が始まります。
 実は秘かに徐晃と朱霊に一軍を与えて西涼軍の背後に布陣させていたのです。賈詡の離間策に見事はまった馬超は、大勢を立て直す暇もなく前後から挟撃されて壊滅的打撃を受けます。韓遂の軍が曹操に寝返ったためどれが味方か敵かも分からないような混乱ぶりでした。
 
 
 血路を開いた馬超は、再び軍を纏め曹操に挑戦しますがすでに戦機は去っていました。ここでも完膚なきまでに敗れ馬超一行は散り散りになって漢中(陝西省華山山脈と大巴山脈に囲まれた盆地。当時は益州の一部)に落ちて行きます。
 
 
 こうして西涼の錦馬超と称えられた若武者の挙兵は潰えました。曹操は甘粛回廊まで支配下に収めさながら赤壁の失敗をこちらで取り返した格好です。
 
 
 
 
 次回は平和を謳歌していた益州を巡る騒動、そして天下三分の計を実行に移すべく動き始めた劉備の入蜀を描きます。

三国志15   周瑜の最期

 赤壁で勝利した周瑜は、呉軍を率いて荊州を攻めます。同じころ劉備は長江南岸の公安まで進出し陣を布きました。劉備が荊州を横取りするのではないかと警戒した周瑜は公安に赴いて劉備に釘を刺します。
 
 諸葛亮は
「まずは呉軍が荊州を攻めるのが筋。ただしもし攻めあぐねた時は我が軍が試みに攻めてみましょう」
と答えました。
 
 自分に絶対の自信を持っていた周瑜は「その時は勝手に攻めてもらって構わない」と言い放ちました。
 
 
 曹操は荊州に大軍を残し、南郡に一族の曹仁を大将として配置。夷陵にも同じ一族の曹洪、襄陽には夏侯惇を置いて万全の守りを施しました。正史では夷陵に徐晃、襄陽に楽進を配備したとされますがその直後に起こる合肥の戦いで楽進は李典とともに張遼の副将になっているので時間的整合性に疑問があります。あるいは撤退時の一時的配置だったかもしれません。
 
 周瑜は南郡の城を孤立させるためまず勇将甘寧に夷陵を攻撃させます。ところが曹洪(正史では徐晃とあるも疑問)はわざと城を開け敵が空城に入ったところを逆包囲してしまいました。周瑜は援軍を派遣して曹操軍を撃破、甘寧を救出します。敗走した敵は南郡に合流しました。
 
 南郡を包囲した呉軍は激しく攻め立てますが、その最中流れ矢に当たって周瑜は負傷してしまいます。それでも激しく攻め立て呉軍はついに南郡の城を攻略しました。ところがその隙を衝いて劉備が荊州南部の武陵、零陵、桂陽、長沙の四郡を奪取、さらには呉軍が周瑜の療養のため一時撤退した南郡まで策を用いて奪ってしまいます。
 
 
 怒った呉は魯粛を使者として猛抗議を行いますが、諸葛亮は劉琦を立て
「これは異なことを仰る。荊州は誰のものでもなく荊州のもの。劉表亡き今その嫡子たる琦君が治めるのは自然。わが君は琦君の叔父にもあたるお方。叔父が甥を補佐するのに何の不都合があろうか」
と言い放ちました。
 正論を言われ一言もなく魯粛は引き下がります。三国志演義ではこのように魯粛を諸葛亮に翻弄されるただ人の良いだけの被害者に描きますが、正史では器量もあり周瑜亡きあとその後継者に推されたほどの人物でした。
 報告を受けた呉侯孫権は激怒しますが、周瑜は逆に劉備に婚姻を持ちかけて呉に呼び寄せ暗殺する策を進言します。ところがこれも失敗。諸葛亮の策を授けられた劉備は孫権の妹を娶るとさっさと帰国してしまいました。呉軍が追撃するも時間差で逃げられてしまいます。
 何度かの外交交渉の末、劉備が蜀(現在の四川省)を取れば荊州を返すと云う約束が成立し周瑜は劉備の代わりに蜀を呉が攻めるから領内を通して補給も行うように申し出ました。もちろんこれは策で、どさくさに荊州を攻め取るつもりでした。しかし、諸葛亮は周瑜の策など百も承知で城の守備を固め領内深く侵入した呉軍を攻める姿勢を見せます。
 怒った周瑜は、あまりにも興奮したため南郡の戦いで受けた矢傷が開き血を吹き出して倒れました。撤退の途中巴丘というところで危篤に陥り亡くなります。享年36歳。正史では遠征の準備中に病死したとありますが、これに関しては私は演義の記述の方が真実を伝えているような気がします。
 呉の大黒柱、周瑜を失った孫権は嘆きました。大都督の職は魯粛が引き継ぎ当面は劉備と協調し曹操と当たるという外交方針が決定します。
 ところで魯粛は自分に代わる存在として龐統(ほうとう)という人物を孫権に推薦しました。実はこの人物、かつて水鏡先生が「伏龍、鳳雛を得れば天下も望むことができる」と言った人物の一人でした。伏龍が諸葛亮なら鳳雛こそ龐統だったのです。襄陽の名士龐徳公の甥で戦乱を避け呉に来ていました。
 しかし長身で美丈夫の諸葛亮と違って龐統は顔にあばたのある醜男(ぶおとこ)、態度もぶっきらぼうだったことから呉侯孫権はこれを嫌い採用しませんでした。気の毒に思った魯粛は「紹介状を書くから劉備に仕えてみないか」と勧めます。以前諸葛亮も龐統を誘って紹介状を書いていましたから、本人もその気になり劉備のもとへ赴きました。
 ところが劉備に会った龐統は、ただ名乗るだけで二人の紹介状を出しませんでした。さすがに劉備は孫権のように追い返す事はしませんでしたが、丁度諸葛亮が荊州南四郡の視察で不在だったため、本物の鳳雛先生かどうか判別できずとりあえず耒陽(らいよう)県令の辞令を与えて送りだします。
 ところが耒陽県に着いた龐統は酒ばかり飲んで政務を全く行いませんでした。領民の訴えでこの事を知った劉備は、詰問のために張飛と孫乾を派遣します。二人に詰問された龐統は、
「そんな政務など一日で片づけて見せる」と豪語し、本当に裁判を抱えた当事者たちを役所の前に一列に並ばせ日が暮れるまでにすべて片づけて見せたのです。
 視察から帰った諸葛亮は、この話を聞いて「あのような大器を田舎の県令にしておくのは宝の持ち腐れでしょうな」と笑いだします。「私からも紹介状を書いておいてはずですが」という諸葛亮に
「紹介状も出してくれなかったし、話もなかった」と劉備がばつの悪そうな顔をすると
「ともかく耒陽には別の県令を派遣し、彼は呼び寄せる事です」と諸葛亮は答えました。
 即日、龐統は副軍師・中郎将に抜擢され劉備陣営には龍鳳の双壁が並び立ちます。かつて水鏡先生から言われた言葉を思い出し劉備は感慨無量だったことでしょう。
 
 劉備が龍鳳の双壁を得て陣容を整えたという報告は、鄴の曹操の元にももたらされます。人材コレクターでもあった曹操はこれを警戒し、再び南進の決意を新たにしました。謀臣荀攸は「遠征に先立って後顧の憂いを断つことが肝要です」と進言します。
 すなわち西涼の馬騰・韓遂を何とかしないと留守にした許都を襲われかねないとの危惧でした。うなずいた曹操は、朝廷の名で馬騰を呼び出し朝敵劉備を討つよう命じます。
 馬騰は嫡男馬超だけを本国に残し、息子馬休、馬鉄、甥の馬岱を引きつれて都に赴きました。果たして彼らの運命は?次回「西涼の錦馬超」ご期待ください。

三国志14  赤壁の決戦

 曹操と孫権・劉備連合軍が戦った故戦場赤壁というのは湖北省長江沿いにある地名です。漢水との合流点からやや遡ったところ。ただし宋代に蘇軾が赤壁の賦を詠んだ場所と実際の戦場は違い、前者を文赤壁、後者を武赤壁と呼ぶそうです。
 
 ところで旧陸軍東部軍参謀で兵法研究家だった故大橋武夫氏はその著書の中で、実際の戦場はさらに下流の漢水合流点近くではなかったかと推理しておられます。
 
 というのも曹操軍は少なくとも2~30万はいたわけで、その補給を考える場合策源地である襄陽からの補給は水上輸送に頼らなければならなかったはずだという主張です。たしかに一理あります。華南の地形は南船北馬の言葉通り湖沼が点在し船でなければまともな輸送はできなかっただろうと私も考えます。湖北湖南が一大穀倉地帯になるのははるか後年の明代。それまでは干拓も治水も進んでいなかったのではないでしょうか?
 
 とすれば劉備が拠った夏口、江夏は曹軍を脅かす絶妙な位置にあります。曹操軍が疫病に悩まされたというのは裏を返せば劉備の水軍がその補給路を脅かしていたという間接的な証拠になるかもしれません。通説に言われる事と違い、劉備軍の働きはもっと注目して良いかもしれません。
 
 
 南船北馬の境は淮河であったと云われます。曹操軍は慣れない水上生活に苦しみ軍中に疫病が蔓延、満足に戦える兵士はほとんどいなかったそうです。曹操は敗れたわけではなく疫病によって撤退したという説もあるくらいです。ただ本稿は広く人口に膾炙している赤壁の戦いを描くことにします。
 
 
 曹操は、蔡瑁・張允らを水軍都督に任じ赤壁北岸に一大水上要塞を建設しました。これにはさすがに周瑜も攻めあぐね南岸に陣取ったまま対峙します。周瑜は曹操の大軍を破るには火計あるのみと考えていました。
 
 そんな中、呉の宿将の一人黄蓋は周瑜に対して「自分が偽って曹操に降伏し、その船に薪と草を積んで火を掛けよう」と申し出ます。これは正史三国志にも出ているので史実なのでしょう。二人は相談し、軍議の席上黄蓋がわざと周瑜に逆らって怒らせ、鞭打ちの刑を受けます。
 
 黄蓋はこれに怒って曹操に降伏するという密使を派遣します。呉の軍中には当然曹操の間者が紛れ込んでいますから信用されます。ただ問題は風向きでした。この季節は西北の風で火を掛けても被害を受けるのは呉軍になるのです。
 
 
 周瑜は困り果て、諸葛亮に相談します。諸葛亮は「自分が八門遁甲の秘法で天に祈り東南の風を呼びましょう」と答えました。合理的解釈では実は諸葛亮はこの時期一時だけ東南の風が吹く事を知っておりそれを利用したという説があります。
 
 
 それまでも周瑜は諸葛亮を将来の危険人物として警戒し秘かに殺そうとしていましたが、今回だけは藁にもすがる気持ちで頼りました。
 
 諸葛亮は祭壇を築き三日三晩祈ります。すると不思議なことに東南の風が吹いてくるではありませんか!これを見ていた周瑜は空恐ろしくなり徐盛と丁奉に命じて諸葛亮を殺すべく派遣しました。しかし諸葛亮はいち早く危険を察知して劉備のもとに逃亡した後。
 さすがに周瑜も馬鹿ではありませんから、曹操軍を叩くのはこの時とばかり武将たちに攻撃命令を下します。一方、曹操は黄蓋の降伏船を心待ちにしていました。水塞内に侵入する降伏船を見た側近の程昱はその異常性に気付きます。
「丞相、これはおかしいですぞ。降伏船なら物資を満載して船足は重いはず。軽々と来るは火計の陰謀ありとみました!」
 曹操も怪しいと思い停船を命じますが、時すでに遅く降伏船は火に包まれながら曹操軍の大船団の真っただ中に突入しました。東南の風に煽られて大船団は瞬く間に猛火に包まれます。
 焼死者溺死者数十万、曹操軍は壊滅的な打撃を受けました。曹操は急遽陸に上がり安全地帯の江陵めざして敗走します。しかしあらかじめ諸葛亮によって行く先々に伏兵が待ち構えたためさらに多くの犠牲者を出しました。
 三国志演義では伏兵の最後の将は関羽が務めました。ボロボロになって辿りついた曹操を見た関羽は、かつて恩を受けた事を思い出しわざとこれを見逃したと伝えられます。義将関羽らしいエピソードです。諸葛亮は関羽が曹操を見逃すことまで承知で、関羽に恩を返させるために派遣したとも云われます。
 ともかく曹操は辛くも虎口を脱し江陵から襄陽に至り、そこで休息してから本国へ撤退しました。これによって曹操による天下統一は遠のきます。諸葛亮の天下三分の計にまた一歩近づいたのです。
 曹操の天下統一は頓挫し、あとは劉備がどのようにして荊州、そして益州を得るかにかかってきました。しかし実際に戦を担当し少なからぬ犠牲を払った呉は黙っていません。周瑜と諸葛亮の荊州を巡る争いはまもなく始まろうとしていました。そして呉にとっては大きな悲劇が待ち受けます。
 次回、二人の知者の戦いを描きましょう。

三国志13  舌戦

 208年正月、鄴に凱旋した曹操は玄武池を作って水軍の訓練を始めました。明らかに南方遠征を睨んだものです。三公の制を廃止して丞相に自ら任じました。ですからこれ以降が正式な丞相です。
 
 同年7月、曹操はいよいよ南方征伐の軍を発します。最初の標的は荊州の劉表。しかし劉表は矛を交える前に病死しました。荊州の首都襄陽は後継者を巡って混乱します。劉表の嫡子で遺言では正式な後継者となるべき劉琦は呉に対するため江夏の守りについていました。劉琦の後見人たる皇叔劉備もまた最前線新野におり不在。後妻蔡夫人とその兄蔡瑁は劉表の遺言を偽造し夫人の子次男劉琮を後継者と定めます。
 荊州の実権を握った蔡瑁は、曹操が大軍をもって攻めてくることに恐れをなし劉備の頭越しに曹操に降伏しました。後でこの事を知った劉備は驚き新野を捨て襄陽に至ります。ところが蔡瑁は城門を閉め劉備を中に入れませんでした。
 仕方なく劉備一行は、荊州の金銭兵糧のほとんどを蓄える南郡の郡治江陵に向かいました。諸葛亮は「この際劉琮を討って荊州を奪ってしまいなさい」と進言しますが劉備は「忍びない」と答えたのみでした。
 劉備を慕って多くの領民が付いてきたため進軍は遅々として進みませんでした。9月50万とも号する曹操の大軍が襄陽に入城します。曹操はいち早く降伏した功を認め劉琮を青州刺史に任命します。しかし荊州の実権は奪いました。演義では青州に向かう劉琮を于禁に命じて追撃させ母の蔡夫人ともども皆殺しにしたとされますが、実際はなかったようです。
 曹操は荊州の諸将を厚遇し、人心を安定させました。同時に逃げた劉備に対しては精鋭を選りすぐって追撃させます。甘夫人の死去、夫人の子阿斗を抱いた趙雲単騎駆けの脱出行、張飛の長坂橋仁王立ちなどエピソードが起こるのはこの時です。
 江陵には曹操の軍が先に到着し、占領します。仕方なく劉備は進路を東にとり夏口に向かいました。軍勢は江夏の劉琦と合わせても2万弱。滅亡は時間の問題でした。そんな中劉表の弔問と称して呉の使臣魯粛が劉備のもとを訪れました。
 明らかな情報収集です。すでに曹操は孫権に向かって降伏して劉備を攻めるようにという書面を送っていました。拒否すれば征伐するという暗黙の脅しを含めて。軍師諸葛亮は、単身呉に乗り込む決意をします。
 この頃孫権は曹操の侵略に備え柴桑に駐屯していました。諸葛亮は呉侯孫権を説得します。ただし普通の言い方はせずわざと怒らせました。
「貴方が身の安全を第一と考えられるなら曹操に降伏なさるがよろしい。それが嫌なら戦う事です。貴方は降伏するという態度を見せながらなかなか決断なさらない。それでは禍が降りかかりますぞ」
「では劉備殿はなぜ曹操に降伏しないのだ」
と孫権が問うと
「わが君は卑しくも皇叔左将軍劉豫州と呼ばれるお方。天命拙く滅びる事があろうと、降伏など勧めたら私が斬られます」
怒った孫権は
「余とて呉侯孫権と呼ばれる男。おめおめと曹操に降伏できるか。よし、こうなれば軍を率いて曹操と対決してくれる」と叫びました。
 諸葛亮は曹操の弱点が大軍を抱えながらほとんどが陸兵で水軍に疎い事、荊州は降伏したばかりで信用できない事などを上げ呉と劉備の水軍を合わせてこれに当たれば勝利間違いなしと励ましました。
 こうして呉は、周瑜を大将に5万の水軍を派遣します。その後には孫権が3万の陸兵を控えさせました。
 周瑜字は公瑾。以前にも登場しましたが孫権の兄孫策と同年で同窓で学んだ親友でした。長身で美男、音楽に堪能、楽師が間違えるとどんなに酔っていても振り返るほどだったそうです。人々は彼を紅顔の美周郎と呼びました。孫策が挙兵すると手勢を率いていち早く合流、孫策の覇業を助けます。喬玄の娘二人が絶世の美女だと聞くと姉を孫策が娶り妹を周瑜が娶るほどの仲でした。
 孫策が死に臨んで孫権に「外の事は周瑜に尋ねよ」と遺言したのも、彼が呉の大黒柱となるべき人材だった証拠です。
 大都督周瑜に率いられた呉の水軍5万は、荊州兵を加えて83万と号する曹操の大軍といかに戦うのでしょうか?呉軍に同行した諸葛亮はどう動くのか?次回、三国鼎立を決定付けた赤壁の戦いを描きます。

三国志12  三顧の礼

 荊州に落ち付いた劉備は久方ぶりに戦乱を離れ平和を謳歌していました。同じ漢朝の宗室ということで荊州牧劉表は劉備を信頼し外の事はもとより家庭のことまで相談します。劉表の好意で荊州北東部の新野の城を与えられた劉備は、この城で正室甘夫人との間に待望の嫡子阿斗(のちの劉禅)を得ました。
 
 ある日劉表は、襄陽に劉備を招き自分の後継者の事について相談します。先妻の子である嫡子劉琦は温厚で親孝行な人物ではありましたが病弱でした。一方次男の劉琮を推すのは後妻であった母蔡夫人とその兄で荊州の都督(軍司令官)を務める蔡瑁。兄劉琦を廃嫡しようと日々画策していました。
 相談を受けた劉備は長幼の序から劉琦を推し、このために蔡瑁一派の深い恨みを受けます。蔡瑁はあらゆる機会に劉備を暗殺しようとつけ狙いました。そんな中暗殺計画から危機一髪で逃れた劉備は襄陽郊外で一代の碩学司馬徽(水鏡先生と号す)と知り合います。
 水鏡と親しく会話した劉備は、彼から「貴公に足りないのは人じゃ」と指摘されました。武臣に関羽・張飛・趙雲、文官に簡雍・糜竺・孫乾がいると反論すると
「いや、わしの言っているのは軍師じゃ。今襄陽に隠れ住む伏龍・鳳雛を得れば天下を望む事も可能であろう」と言われ劉備は衝撃を受けます。
 その日以来、劉備は伏龍・鳳雛を探し求めました。ある日伏龍というのが襄陽郊外隆中に隠棲する諸葛亮である事がわかります。劉備は義兄弟の関羽・張飛を連れて諸葛亮に会うべく隆中に出かけました。
 
 ここで諸葛亮という人物について説明しておくのも良かろうと思います。諸葛亮、字を孔明。琅邪郡陽都(山東省、青島南東の沿岸部)の人。父諸葛珪を早くに亡くし一家は荊州にいた叔父の諸葛玄のもとに保護されます。ある日諸葛玄は劉表より豫章の太守に任命され赴任しますが、そこには朝廷より任命された別の太守がいました。両者は戦争になり不幸なことに諸葛玄は戦死してしまいます。難民と共に逃げ惑う孔明達。
 この逃避行のなかで孔明少年は世の無常、人の世のあり方を学んだと云います。ようやく襄陽に帰りついた一家は、兄諸葛瑾が伝手を頼りに新興の呉に士官しました。亮は洛陽から戦乱をさけて襄陽に来ていた大学者石韜(せきとう)の門をたたき学びます。そこでめきめきと頭角を現した亮でしたが、曲学阿世の仲間から距離を置きいつしか隆中に引きこもり晴耕雨読の生活を始めます。
 同門の仲間からは気取っていると陰口を叩かれますが、一部彼の才能を知る徐庶や崔州平らは彼の人物を認めていました。日頃亮は自分を管仲・楽毅に比していましたが、徐庶などは
「いやいや、彼の才は太公望呂尚(周代800年を築いた軍師)、張子房(名は良。漢の高祖の軍師)に匹敵する」とべた褒めしています。
 時に諸葛亮27歳。地元の名士黄承彦の娘を娶り静かに暮らしていました。ちなみにこの娘は醜女として有名でしたが、頭脳明晰で夫婦仲は良かったそうです。
 劉備は二度隆中を訪れますが、二度とも亮は不在で三度目の訪問に出かけるところでした。義弟張飛が「いくらなんでも無名の若造に殿が三度も訪れるという法はありますまい。拙者が出かけて行って諸葛亮なる者ひっくくってまいりましょうか」と言うと、劉備はこれを叱りました。
 関羽はこれを見て「殿はさながら太公望を訪れた周の文王のようですな」と感嘆します。劉備に「嫌なら付いてこなくて良い」と言われた張飛も渋々付いて行くことになりました。
 今回諸葛亮は在宅でした。劉備は午睡している亮をみて無理に起こさず外で待ち続けました。目が覚めると劉備がいる事が分かり亮は恐縮します。草廬に招き入れ両者は親しく語りました。
 このなかで有名な天下三分の計が語られたといわれます。すなわち華北は天子を擁し強大な地盤を誇る曹操に、江東は長江の険に守られた孫権に任せ、劉備は残る荊蜀五十四州(湖北・湖南・四川省)を取って天下を三分しようという策です。
 すっかり意気投合した劉備は、諸葛亮に出蘆を要請し亮もまた快諾します。諸葛亮は軍師中郎将に任ぜられ劉備軍を統括する事になりました。
 北方を平定した曹操は南下の兆しを見せます。荊州内部にも深刻な対立を抱え、諸葛亮は果たしてどういう策を建言するのでしょうか?次回は曹操軍荊州侵攻と孔明の一大外交戦を描きます。

三国志11  小覇王死す

 官渡の戦いで一敗地にまみれた袁紹ですがその勢力はまだまだ強大でした。息子たちを要地に配し長男の袁譚は青州を、次男の袁煕(えんき)は幽州を、甥の高幹には并州をそれぞれ守らせ自身は末子の袁尚とともに本拠冀州に拠りました。
 201年、甥高幹が援軍5万を率いて冀州に至ると気を良くした袁紹は再び大軍を動員して曹操を攻撃します。ところが官渡の時とは違い力関係が完全に逆転していた事に気付かない袁紹は、今度こそ完膚なきまでに曹操軍に叩かれました。
 この敗戦の衝撃で袁紹は病を発し鄴に辿りつくとまもなく没します。残された袁紹の息子たちは後継を巡って醜い争いを始める始末でした。長男袁譚には郭図が、末子袁尚には審配らがそれぞれ付き相手を追い落とそうと陰謀を画策します。何といっても本拠冀州を支配する袁尚の方が優勢で袁譚は劣勢に陥りました。
 すると袁譚は、憎っくき袁尚に奪われるよりはとあろうことか曹操に降伏しその援軍を得て冀州を攻撃します。優勢になった袁譚は、今度は曹操を裏切り自立の構えを見せました。然しそれこそ曹操の思う壺だったのです。事前に裏切りを予見していた曹操は敵の本拠青州を急襲、袁譚とその参謀郭図を斬りました。
 
 袁譚の滅亡で自分への圧力が倍加した袁尚は兄袁煕と合体し抵抗します。が、しょせん曹操の敵ではなく204年には本拠鄴が陥落。袁兄弟は長城を越え遊牧民族烏丸の地に逃亡しました。
 僻遠の地に逃げた袁兄弟をどうするかで曹操陣営は議論百出します。そのなかで曹操の最も信頼する謀臣郭嘉は「断固討つべし」と主張しました。曹操は郭嘉の意見を採用し自ら大軍を率い長城線を越えました。一方、楽進・李典らに一軍を与え并州の高幹を討たせます。二将は曹操の期待に応え并州の軍を撃破し高幹を斬ります。
 曹操の本隊は袁兄弟と烏丸の連合軍を柳城で撃破しますが、またしても兄弟は遼東の公孫康のもとに逃亡します。さすがの曹操もこれ以上の追撃は難しいと諦めかけていると、郭嘉は
「このまま追撃しても労多くして功少なしです。丞相が国境に軍をとどめておかれれば、公孫康は袁兄弟の首を送ってくるに違いありません」と進言しました。
 はたして、公孫康は宴会を開くと称して袁兄弟を招くと首を斬り曹操のもとに送ってきました。郭嘉の読み通りです。遼東の公孫氏は袁紹に長年圧迫され続け恨みこそあれ恩など微塵も感じていなかったのです。さらにこれをかくまうと曹操の討伐を受けるのですから災いを未然に防ぐためにも袁兄弟を始末したのでした。
 曹操は、公孫康の降伏を受け入れ左将軍・襄平侯に封じ都に帰還しました。ところが帰途郭嘉は病を発し病死してしまいます。享年38歳。曹操の嘆きは大きく貞侯と諡(おくりな)し遺領に800戸加増し嫡子郭奕に継がせました。207年のことです。
 時はやや遡ります。曹操は袁紹との決戦に備えて背後の安全を確保すべき外交攻勢に出ていました。まず宛城の張繍は参謀賈詡の助言で袁紹と断交し曹操に降伏しました。喜んだ曹操は張繍を破羌将軍・列侯に、賈詡も執金吾(首都の巡察・警備を司る)に任じこれに報います。
 荊州の劉表は、曹操には服しませんでしたがもともと優柔不断な性格であったため局外中立を貫きます。一方、呉の孫策は曹操と袁紹の対決を千載一遇の好機と捉えました。袁紹と同盟を結ぶと曹操が留守にしていた首都許昌を攻めるべく軍勢の動員を始めます。
 ところがこれには呉の家臣の中にも反対が起こり中でも呉郡太守の許貢は秘かに曹操に書を送り孫策の野望を知らせます。許貢が曹操と交わした使者が偶然捕えられ真実が発覚すると孫策は激怒、許貢の屋敷を急襲し一族郎党ことごとくを斬り殺しました。いや三人だけこの難から生き残った者がいます。許貢の世話を受けていた食客たちです。
 三人は、許貢の仇を討つべく執拗に孫策をつけ狙います。ある日孫策が狩りに夢中になり家臣たちからはぐれると山中で待ち構えていた食客達に斬りつけられました。孫策は駆けつけてきた家臣たちに救出され、食客は斬り殺されますが放たれた矢に毒が塗ってあったため孫策は高熱を発して寝込みます。
 名医華佗によって一命は取り留めたものの、華佗から興奮すると再び傷口が開くので絶対安静するように注意されました。これから記す話は三国志演義に載っている話で史実としては疑わしいのですが、当時呉で神仙とあがめられていた于吉(うきつ)が呉の諸臣の厚い信仰を受けている事を知った孫策は、于吉を逮捕し処刑しようとします。
 これには母の呉氏や妻までもが助命嘆願し、ますます孫策は意固地になりました。若い孫策は怪しい邪教がはびこれば国が乱れることになるという強い信念があったのです。家臣の呂範から
「今日照りが続き庶民は困っています。于吉に雨を祈らせ成功したら助命したらいかかでしょうか」
と進言されしぶしぶこれを認めます。
 ところが于吉は三日三晩の祈祷の末本当に雨を降らせたのです。孫策は于吉が空恐ろしくなり祭壇から降りてきた于吉をその場で斬り捨てました。その日以来孫策は于吉の亡霊に悩まされるようになります。そして神経衰弱の末亡くなりました。
 孫策は、いよいよ命が危ないという時弟孫権を枕元に呼び寄せます。
「権よ、そなたは外に討って出て天下を争うような才は余に及ばない。しかし国内を纏め国を保つ能力は余に倍する。内政においては張昭に問え。外の事は周瑜に尋ねるべし」
と言って息絶えました。享年26歳。小覇王と呼ばれた男の最期でした。
 ここに呉を担う一人の男がたちます。孫権字を仲謀。まだ19歳の若者でした。

三国志Ⅹ  官渡の戦い

 古来、官渡の戦いにおける両軍の兵力には諸説あってはっきりしません。一番多いのは三国志演義の袁紹軍75万、曹操軍7万、一番少ないのは正史三国志で袁紹軍10万、曹操軍1万。演義は多すぎ、正史は少なすぎます。

 

 

 

 現実的な数字として当時の兵站能力も加味すると袁紹軍2~30万、曹操軍20万前後というのが妥当でしょう。と言いますのも人口からいうと曹操の支配下にある司隷、豫州、兗州、徐州は袁紹支配下の河北四州に勝るとも劣らないのです。いくら中原が戦乱で荒れ果てていたとはいえ兵力1万というのはあり得ません。

 

 

 両軍は、河北から許都に至る交通の要衝官渡において対峙しました。兵力に劣る曹操は官渡城とその周辺を要塞化し袁紹の攻撃に備えます。

 

 

 

 長期間の籠城は曹操軍に兵糧の欠乏をもたらしました。曹操は許都の留守を守る荀彧に手紙を送って「ここは一時撤退したらどうだろうか」と相談します。それに対し荀彧は

 

「それはいけません。袁紹はここを天下分け目と強い決意で挑んでいます。ここで撤退したら敵は嵩にきて勢いで押し切られるでしょう。袁紹は見かけは立派ですがしょせんは優柔不断な男です。対して殿は知謀深く天子を擁し大義名分があります。ここは我慢のしどころですぞ」

 

と励ましました。

 

 

 

 そのころ汝南では劉備が降将劉辟らと語らって蜂起し許都を窺う姿勢を見せます。曹操は一族の曹仁(従兄弟)に一軍を与えこれを討たせました。劉備はここでも敗北し、同じ宗室であった荊州の劉表を頼って亡命します。

 

 

 

 官渡の対陣は長引きました。ますます曹操軍の兵糧は欠乏します。曹操はたまらず荀彧に兵糧を送ってくれるよう手紙を書きました。ところが運の悪い事に手紙を持った使者が袁紹軍に捕えられます。袁紹の参謀の一人許攸(きょゆう)は、この手紙を持って袁紹のもとへ赴き「今こそ曹操を討つべきです」と進言します。ところが優柔不断の袁紹なかなか決断がつかず、さらに許攸と日ごろ仲の悪い郭図が

 

「曹操は虚実が多い権謀家です。これがもし罠だとしたら何とします。それに許攸は日頃曹操と同郷で仲が良いと吹聴しております。その男の言が果たして信用できるでしょうか」

 

と讒言したため

 

「その通りであった。許攸よ、要らざる言を吐くな。自陣で謹慎しておれ」と叱りました。

 

 

 

 怒った許攸は、(よしそれならば袁紹に目に物見せてやる)と秘かに自陣を抜け出し曹操の元に逃亡しました。日頃重く用いられない事への焦りで曹操と同郷だと言ったり仲が良いと言っていたのです。曹操は許攸を歓迎します。

 

 

 「袁紹は君を重く用いなかっただろう」とからかうと、許攸は真顔で

 

「私は仕える君を誤りました」と嘆きます。続けて

 

「時に丞相、貴軍の兵糧はどれくらいですか」と尋ねました。

 

「そうだな、半年くらいか」と曹操がとぼけると

 

「この許攸をそこまで信頼して下さらんか。兵糧は欠乏してござろう」と詰めよります。

 

「いや、すまん。実は一月あるかどうかだ」

 

許攸はこの答えに満足せず

 

「嘘を仰い。数日分もあるかどうかではありませんか」

 

「ややっ、貴公は何故それが分かる」と曹操が驚くと許攸はしずかに懐から曹操の手紙を取り出して示しました。

 

 

 考え込んだ曹操は、「袁紹が君の進言を採用していたら我が軍は全滅していただろうなあ」と感嘆すると許攸はたたみかけるように言います。

 

「今、袁紹は兵糧の大半を烏巣に蓄えています。それを守る淳于瓊(じゅんうけい)は大酒飲みの愚将です。丞相が精兵を率いて奇襲すれば敵は潰走すること間違いなしでしょう」

 

 

 

 曹操軍の諸将は許攸の進言を怪しみますが、曹操はこれを信用し即座に行動に移しました。この決断が戦いの帰趨を決します。精鋭歩騎五千を自ら率いた曹操は袁紹軍の増援に偽装し烏巣に接近するとこれを奇襲、焼き討ちしてしまいました。

 

 

 報告を受けて驚愕した袁紹は、善後策を協議しますが意見が分かれて大激論になります。優柔不断な袁紹は決断する事が出来なかったのです。結局烏巣と官渡双方に軍を分けて派遣するという愚策を採用しました。

 

 

 官渡に向かった袁紹軍は待ちかまえていた曹洪・夏侯惇らにさんざんに撃ち破られます。また烏巣に向かった一隊も曹操の奇襲を受け壊滅しました。官渡攻撃を進言した郭図は責任を問われる事を恐れ攻撃部隊を率いていた張郃・高覧らを袁紹に讒言し彼らの裏切りで敗北したのだと吹聴しました。これを伝え聞いた張郃らは激怒して曹操に降伏します。

 

 

 大軍を誇っていた袁紹軍でしたが、内部はがたがたで結局自滅するような形で敗北します。袁紹の本陣が真っ先に逃げ出すと彼を見限った諸将は続々と曹操に降伏しました。それらを加え数十万に膨れ上がった曹操軍は黄河を渡って追撃し、結局袁紹とともに本拠鄴(ぎょう)に辿りついたのはわずか数千でした。

 

 

 

 袁紹の本陣に至った曹操は、発見した機密文書の中に自軍の将達が袁紹と内通している証拠の手紙を多数発見、押収します。側近の荀攸は怒って「これは怪しからん事です。この証拠を突きつけて裏切り者を処刑しましょう」と進言しました。

 

 それに対しにやにやしながら曹操は言います。

 

「余とて袁紹が盛んな時は気が気ではなかった。ましてや凡人では仕方あるまい」といいながら文書をすべて諸将の見ている前で焼きすてさせました。

 

 

 

 このあたりが曹操と袁紹の器量の差だったと言えます。結局曹操は勝つべくして勝ったのです。

 

 

 

 

 次回は官渡以後の袁一門の動向、そして呉国に訪れた暗雲を描きます。

三国志Ⅸ  臣道

 199年、許都に凱旋した曹操は劉備を伴い献帝に拝謁します。帝にその先祖を尋ねられた劉備は景帝の第8子中山靖王劉勝の末裔であることを明かしました。たいへん驚かれた帝は、「それでは朕の叔父にあたるではないか」と言われ、以後劉備は劉皇叔と呼ばれるようになります。
 
 ただ劉勝は子と孫を合わせて120人もいたとされますから華北のあたりにはその子孫が掃いて捨てるほど居た計算になりますが(苦笑)。
 
 権臣曹操に圧迫されていた帝が、すこしでも味方になる可能性のあった者に特に目を掛けられたというのが真相でしょう。ただ劉備にとっては皇叔の称号は後々とても大きくなりました。献帝が貴妃董氏の父で国舅と尊称された車騎将軍董承に密勅を下し曹操暗殺を命じられた時、その同志に劉備が選ばれた事でもその影響力の大きさが分かります。
 
 
 ところで劉備は現実主義者です。今の状況で曹操を除く事が不可能であることは明白でした。彼は同志に隠忍自重を促し自分自身も秘かに許都脱出の機会を待ち続けます。そんな中、河北の袁紹が長年の宿敵だった北平の公孫賛を滅ぼしたという重大な報告がもたらされました。これにより袁紹は冀州、并州、幽州、青州という黄河以北と山東半島を版図に加え一躍大陸一の大勢力に成長します。
 
 淮南の偽帝袁術は、長年の悪政の末国を保てなくなったので兄袁紹に泣きつきます。袁紹は「河北に来ればなんとかしてやろう」と返事し、袁術は国を捨て大軍を率いて兄と合体すべく北上を開始しました。
 
 劉備は、曹操に偽帝袁術討伐を申し出、容れられます。早速曹操に兵五万を借り受け徐州に向かいました。悪政で人心も離れていた袁術はあえなく劉備に討たれます。しかし劉備はその後も徐州を離れず曹操と公然と敵対しました。
 
 一方、曹操誅殺の有力な武力であった劉備や西涼の馬騰がそれぞれ本国に帰ったため武装蜂起が不可能になった董承一派は善後策を協議しますが密告者があり陰謀は発覚します。烈火のごとく怒った曹操は加担した高官たちを逮捕しその家族も含めてことごとく処刑しました。曹操の怒りは収まらず董承の娘董貴妃にも自殺を強要します。この時帝の子を身ごもっていた貴妃は「せめてこの子の命だけはお助けを」と泣きながら訴えますが聞く耳持ちませんでした。結局董貴妃も斬られます。
 
 
 陰謀に劉備が加担していた事を知った曹操は、これを討つべく軍勢を集結させます。恐れた劉備は腹心の孫乾を河北に派遣し袁紹に同盟を求めました。最初弟を殺した劉備を許さず怒りを露わにした袁紹でしたが、謀臣審配の「大敵曹操と当たるには劉備を味方にしておくのが得策です」という進言を容れ同盟を認めました。
 
 
 早速河北軍十万が曹操を討つべく黄河を渡ります。二正面作戦を強いられた曹操は、まず大軍を袁紹に当たらせて戦線を膠着させ、その隙に精鋭五万を引き抜いて劉備の籠る徐州を急襲しました。
 
 まさか曹操自らが討伐に来るはずがないと油断していた劉備は、さんざんに敗北し逃亡します。家臣たちもみな行方不明になり残されたのは下邳で劉備の妻子を守っていた関羽だけでした。
 
 
 日頃関羽の武勇と義に厚い心に惚れ込んでいた曹操は関羽に降伏を勧めます。関羽も苦渋の決断をし「主君の妻子の安全を保障してくれるなら」という条件で開城しました。曹操は関羽を厚遇し扁将軍、漢寿亭侯に封ずるなど恩顧を与えますが、そうされればされるほど関羽の悩みは深まりました。「忠臣は二君に仕えず」という言葉を人一倍分かってるのも関羽だったからです。
 
 曹操との約束は、主君劉備の行方が分かれば曹操のもとを離れるという破格の条件で、そのために群臣は曹操を秘かに批判しました。ただそうまでしても関羽という人材が欲しいというのが人材コレクターともいえる曹操の一面なのでした。関羽は、例え曹操のもとを離れるにしても今まで受けた恩を返してから去るという事を心に決めます。
 
 
 その機会は間もなくやってきます。袁紹と曹操は全勢力を上げて対峙、緒戦は大軍であった袁紹軍が圧倒していました。関羽は自ら先鋒を買ってで白馬で顔良、延津で文醜という袁紹軍の勇将を斬り戦功をあげました。
 
 
 関羽の活躍は、袁紹のもとに逃亡していた劉備の立場を悪くしました。一時は裏切り者として斬られそうになりますが必死に申し開きしてなんとか助かります。このまま袁紹のもとにいてはいつか殺されると恐れた劉備は、自ら汝南に赴き曹操の後方を撹乱する役目を買ってでました。袁紹としても体の良い厄介払いになるのでこれを認めます。
 
 関羽は、秘かに劉備の使者を迎え主君の無事を知りました。かねてからの約束通り劉備の妻子を守って許都を発した関羽一行は艱難辛苦の末主君劉備と再会します。この時曹操は、いきり立つ諸侯をなだめ関羽に危害を加えるなと厳命したとされますから、彼の士を愛する心は本物だったのでしょう。敵対する者には悪鬼のごとく厳しいが一度味方に付いた者には限りなく愛情を注ぐ、そこが英雄曹操の魅力でした。
 
 
 ともかく、曹操と袁紹の決戦は刻一刻と近づきつつありました。次回、三国志前半のクライマックスの一つ、官渡の戦いを描きます。

三国志Ⅷ  呂布の末路

 198年、呂布の武将高順の攻撃を受けた劉備はたまらず城を捨て逃亡しました。落ち行く先は許都の曹操。劉備の堂々たる態度を見た曹操の謀臣程昱は「彼は将来丞相(曹操の事)に仇なすようになりますから、今のうちに殺しておくべきです」と進言します。ところがそれを聞いていた郭嘉は「とんでもない。今彼を殺したら以後降伏する武将はいなくなります。劉備は天下に名の知れた士。厚遇するに然りです」と反対しました。その後出仕した荀彧も郭嘉に賛成したため曹操の意は決します。
 
 
 曹操は早速朝廷に奏上して劉備を左将軍・豫州牧に任命しました。198年9月、曹操は呂布討伐を決意しまず夏侯惇を大将として劉備と共に徐州に攻め込ませます。最初の戦闘で左目に矢を受けた夏侯惇は、「せっかく親から貰った目だ。捨てるに忍びない」と引き抜いた矢に刺さった眼球を食べてしまったというエピソードがあります。
 呂布治下の徐州はガタガタでした。劉備から徐州を奪ったという印象も悪かったし、圧政を布いて領民の心は離れていたのです。曹操の大軍を受けて武将たちが次々と離反、呂布は野戦で敗れ本拠下邳に籠城します。曹操と劉備の連合軍はこれを十重二十重に囲みました。呂布は同盟していた袁術に援軍を求めますが、袁術は人質として呂布の娘を要求したため決裂、申し訳程度に送った援軍も曹操に撃破されてしまいます。
 曹操は、豪傑呂布に対し力攻めは大きな犠牲が出ると考えました。そこで荀攸・郭嘉らの策を採用し近くを流れる沂水と泗水の水を引き込んで下邳城を水攻めにします。籠城一カ月。ある日呂布の武将侯成は低下していた士気を高めるため禁止されていた酒を兵士たちに振舞いました。
 これを知った呂布は激怒、侯成を命令違反のかどで斬ろうとしますが、さすがにこれは諸侯が引きとめて止めました。しかし侯成は鞭打ちの刑をうけます。これを見ていた武将たちは呂布を見限り秘かに曹操の陣に使者を送り内応を約束しました。
 曹操軍は、その日激しく下邳城を攻め立てました。防戦していた呂布もさすがに疲れ敵の攻撃が一時止むと部下たちから勧められ一時休憩します。椅子に座りながら眠っていた呂布を見ていた武将たちは呂布が反応しないのを確かめると十重二十重に縄で縛り開城、曹操に呂布を差し出しました。
 裏切り続けた呂布が、最後に自分の部下たちから裏切られたのは皮肉でした。曹操の前に引き立てられた呂布は、
「曹操、お前は有能な者なら誰でも部下に加えるという。俺を使ってみないか?俺が騎兵、そなたが歩兵を指揮すれば天下を統一する事もたやすい」
と叫びました。
 曹操は傍らの劉備に「はて、どうしたものか?」と尋ねます。しばらく考えていた劉備は
「それは丞相のお心次第です。ただ呂布が養父丁原を殺して董卓に付き、さらにその董卓まで裏切ったことは忘れるわけにはいきますまい」
と答えました。
 「良し、決まったな」曹操の命で呂布は斬られました。最後の瞬間まで呂布は劉備を罵っていたそうです。思えば裏切り続けた人生でした。呂布は自然児だったのでしょう。自分の欲望に正直なだけにその時々悪人どもに利用され裏切りを演じる羽目になりました。然し彼は反省などしなかったのだと思います。いや、反省したとすれば長安で貂蝉の死に顔を見た時だけだったでしょう。ただ呂布が一代の英傑だったのは間違いありません。
 有力な同盟者呂布を失った事で偽帝袁術の運命も決しました。

三国志Ⅶ  小覇王孫策

 李傕・郭汜が曹操に滅ぼされた後董卓の残党は荊州南陽の宛城に集結します。董卓残党軍最後の大将だった張済はすでに亡く甥の張繍(ちょうしゅう)が、賈詡を参謀役にしきりに蠢動ていました。
 許都を都に新政を始めた曹操にとってこれは目の上の瘤でした。197年春、曹操は15万の兵力で宛を囲みます。とても敵わないと悟った張繍は降伏しました。ところが曹操が亡き張済の未亡人で絶世の美女だった鄒氏(すうし)を見染め側室にした事が分かると張繍は激怒します。賈詡と相談し油断していた曹操の軍を奇襲、ために曹操軍は大敗を喫しました。ばかりか逃げる曹操をかばって長男の曹昂、甥の曹安民、さらには勇将典韋までも失うという惨憺たる敗北でした。
 時代はやや遡ります。父孫堅を失って嫡男孫策は淮南の袁術保護下にありました。しかし袁術は若い孫策の器量を恐れ重要な役を与えず飼い殺しするつもりでした。194年、19歳になった孫策は、父から受け継いだ伝国の玉璽を形に三千の兵力を借り受けます。朱治、黄蓋、韓当、程普ら父孫堅以来の旧臣と共に長江を渡り江東に自立する腹を決めました。
 程普は、孫策に対し「江東のニ賢を得れば殿の覇業は成るでしょう」と進言します。ニ賢とは当時江東の地に隠棲していた張昭、張紘でした。孫策は自ら彼らのもとに赴き自分に協力してくれるよう懇願します。彼の熱意に打たれた二人は協力を快諾しました。
 さらに進軍すると、孫策の親友で揚州廬江郡の豪族だった周瑜(しゅうゆ、字は公瑾。175年~210年)が手勢を率いて合流します。喜んだ孫策は周瑜を帷幕に加え、さらに蒋欽、周泰、陳武、凌操など将来呉の柱石となるべき勇将たちが続々と参陣しました。
 孫策の最初の標的は、揚州刺史劉繇(りゅうよう)です。孫策の叔父呉景と対立し苦しめていたからです。実は袁術に兵を借りる口実が呉景救援でした。孫策は呉景の軍と合流し五千ほどに膨れ上がります。195年には劉繇の武将張英の守る当利口を制圧、さらに劉繇の籠る牛渚の要塞を攻略しました。孫策が快進撃を続ける中江東の豪族たちは雪崩を打って孫策軍に参加、兵力は瞬く間に数万を数えるようになります。
 孫策が喜んだのは、劉繇を滅ぼした事より勇将太史慈を得たことでした。以後彼は呉の有力な将軍として活躍します。孫策は短い期間で丹陽郡、呉郡、会稽郡(長江下流域)を制圧、江東の小覇王と呼ばれました。
 
 孫策の勢力はかつての呉国の故地であったので以後呉と呼ばれます。孫策は広く人材を集め呉は新興の意気に燃える強国となりました。国内を固めた孫策は197年袁術からの自立を決意、使者を送って「借り受けた兵力に値する物を返還するので玉璽を返して欲しい」と申し出ます。ところが、袁術は激怒。玉璽を返さなかったばかりか逆に呉に攻め込む気配さえ見せます。孫策は、張昭の進言を容れ曹操に救援を求めました。曹操はこれを受け袁術攻撃の準備を進めます。
 ところで玉璽を得た袁術ですが、野望に燃え皇帝を名乗るようになります。しかし世間はこれを認めず偽帝と呼んで忌み嫌いました。曹操は、孫策・劉備・呂布らと語らって四方から袁術を攻撃、たまらず袁術は淮南の本拠寿春を捨て淮河下流のデルタ地帯に逃亡します。
 このままでは滅亡も時間の問題だと危惧した袁術は、使者を送って呂布と秘かに結びました。呂布としても曹操のために袁術を滅ぼしいたずらに曹操の勢力を拡大するのも面白くないので両者の利害は一致。まずは邪魔者の劉備を除くため198年小沛を攻撃しました。
 はてして絶対絶命の劉備の運命は、そして呂布・袁術連合軍はこの後どう動くのか?それは次回の講釈としておきましょう。

三国志Ⅵ  曹操の台頭

 若いころ高名な人相観の許子將に「君は治世にあっては能臣だか乱世においては姦雄になる」と言われ「乱世の姦雄か、それも良い」と嘯いた曹操。実質的な三国時代の主人公とも言える彼の董卓追討軍以後の動きを記しましょう。
 
 191年、曹操は残兵をまとめ兗州東郡に落ち付きます。当時この地域は黄巾の乱の混乱がまだ収まっておらず黒山の賊于毒らが占拠していました。曹操は兵を率いてこれを平らげ東郡を支配下に置きます。華北の大勢力だった袁紹は、東郡を占領した曹操を東郡太守に任命しました。ですからこの段階では朝廷に認められた太守ではなく袁紹傘下の一雄だったわけです。このような例は多く、たとえば長沙の孫堅は最初淮南の袁術配下でした。
 
 192年春には逃亡した于毒らを頓丘で殲滅し小さいながら確固たる地盤を築きます。黄巾賊の残党は山東にまだまだ侮れない勢力を張り兗州刺史の劉岱は賊のために攻め滅ぼされました。済北(同じ兗州治下の県)の相鮑信はこの混乱を収められるのは曹操しかいないと考え、東郡の曹操のもとに至り彼に黄巾賊を討つよう要請します。
 曹操は鮑信以下兗州治下の県令、相(県令と同格ながら皇族の領地の長官)の推戴を受ける形で兗州牧(刺史は監察権のみだが牧は政治と軍事の長官)に就任しました。曹操は兵を率いて百万とも号する青州(山東省東部)黄巾賊を撃破、その中から使える兵士たちを自軍に加え俄かに強大化します。おそらくこの頃から袁紹から独立したのだと思います。曹操軍に参加した彼らは後に青州兵として恐れられることになります。
 曹操は朝廷のためと称し兗州内外の反乱軍を鎮圧、自分の勢力圏を着々と拡大しました。同時に広く人材を集め「王佐(帝王を助ける才能)がある」と曹操に言わしめた荀彧(じゅんいく)を始め荀攸(じゅんゆう)、程昱(ていいく)、郭嘉(かくか)、満寵(まんちょう)、劉曄(りゅうよう)など後に曹操の覇業を援ける有能な謀臣、文官たちが集結します。武官でも典韋、許褚(きょちょ)、徐晃などがこの時期に曹操に仕えました。
 193年、山東の琅琊郡(青島西南の沿岸部)に隠棲していた父親曹嵩を本拠東郡に呼び寄せようとした曹操ですが、途中徐州牧の陶謙に歓待された後護衛に付けた兵士たちに惨殺されるという事件が起こります。このために曹操と陶謙は仇敵同士になりました。
 激怒した曹操は、大兵を率い徐州に攻め込みます。劣勢の陶謙は各地に援軍を要請しますが皆曹操の威勢を恐れ応じる者はいませんでした。ただ一人当時青州刺史田楷のもとにいた劉備だけがこれに応じわずかながらの兵とともに徐州に入ります。圧倒的な曹操の大軍の前に各地で敗退を重ねた徐州軍が滅びるのは時間の問題でした。
 ところが留守にしていた兗州を、董卓誅殺の政変以後流亡していた呂布の軍勢が襲ったのです。驚いた曹操は急ぎ陶謙と和議を結び兗州へ戻りました。
 結果的に徐州を救う形になった劉備は、陶謙に非常に感謝され徐州牧を譲ろうと申し出られます。しかしさすがにそれは厚かましいので劉備が固辞していると、まもなく陶謙は病死しその遺言で徐州を任されることになりました。
 一方、兗州に戻った曹操は呂布の軍と血みどろの戦いを演じます。最初呂布の武勇に押されぎみだった曹操軍ですが、知力に勝る曹操は次第に盛り返し馬陵の戦いで決定的な勝利をあげ呂布を兗州から叩きだしました。
 再び孤軍となった呂布は、最終的に徐州の劉備のもとに落ち付きました。ところが謀反の虫というのは生来のものらしく劉備が袁術と戦って本拠を留守にした隙を衝いて徐州を乗っ取ってしまいます。紆余曲折のすえ劉備は呂布と和睦し今度は劉備が呂布の客将となる形で小沛に落ち付きました。
 
 
 曹操は、呂布を撃破した後その地盤を着々と固めつつありました。196年1月、曹操のもとに献帝から救援を求める使者が到着します。曹操は荀彧と程昱の建言を容れ早速軍勢を派遣し洛陽に居る献帝を保護しました。献帝を追ってきた李傕、郭汜の軍は突如現れた謎の大軍に驚きますが構わずに攻めかかります。
 曹操はほとんど雑軍に等しい李傕、郭汜の軍の散々に打ち破ります。敗走した李傕、郭汜は落ちぶれて土地の豪族に殺されました。
 こうして天子を擁した曹操は、天下に号令を掛ける事が出来る立場を得ます。献帝により録尚書事(実質的な宰相職)に任ぜられた曹操は間もなく大将軍・武平侯を加官されました。曹操は献帝に進言し董卓の兵火で荒廃した洛陽から許昌(河南省許県、現在の地級市)に遷都させます。
 曹操は自分の腹心たちを朝廷の枢要な地位に就け朝廷を牛耳ります。曹操が献帝を擁したことに袁紹が不満を抱くと曹操は彼に大将軍の地位を譲り、自らは司空(三公の一つ)・車騎将軍になりました。
 内心曹操は、朝廷の官職にこだわる袁紹を笑っていたかもしれません。実質を伴わない高位より天子を擁している事実の方が大きい事を知っていたのです。
 曹操は丞相(宰相)として、自分に敵対する者を朝敵として討つことができました。実際に曹操が丞相を名乗ったわけではありませんが、録尚書事の職能が丞相と変わらないため以後丞相の言葉を使います(三国志演義でもこのほうが通り良いですからね)。
 曹操は内政にも力を尽くしました。戦乱で荒廃した中原の生産力を回復するために屯田の制を始めたのもこの頃です。一説では数年で200万石の収穫を上げるようになったと言われます。曹操飛躍のきっかけは天子を擁したことに始まったと言えるでしょう。
 次回は、南陽における董卓残党と曹操の戦い、そして父を討たれた孫策の快進撃を描きます。

三国志Ⅴ  逆臣誅殺

 長安遷都後、ますます暴虐を極めた董卓は一族や腹心を朝廷の高官に取り立て恐怖政治を布きます。長安近郊の郿(び)に難攻不落の城塞を築きこれを郿塢城と称しました。30年分の兵糧と天下の財宝を収め15歳から20歳までの天下の美女を集めさながら天子のような生活を始めます。朝廷はあって無きがごとくなり、董卓に逆らう者は容赦なく粛清されました。
 
 
 そんな中司徒(三公の一つ。行政を司る)王允は秘かに他の朝臣と語らい董卓暗殺の機会を虎視眈々と狙っていました。しかし董卓には呂布が付いているため生半可な方法では返り討ちにあってしまいます。彼らはなんとか呂布と董卓の仲を裂く方法を探っていました。
 
 ここで三国志演義では王允の養女で絶世の美女貂蝉(ちょうせん)が登場するのですが、これは架空の人物で実在しないそうです。ただ貂蝉的な働きをした女性はいたかもしれません。
 
 知らない人はいないと思いますが、一応貂蝉について説明すると王允はまず呂布を貂蝉を引き合わせ側室として差し出す約束をします。その後董卓にも会わせ彼女を董卓に送ったことから呂布と董卓は貂蝉を巡って激しく憎み合うようになりました。貂蝉も王允の策を守り自分を犠牲にしながら董卓と呂布を手玉にとりついに呂布を董卓暗殺団に引き入れることに成功。董卓は呂布によって誅殺され郿塢城に囲われていた貂蝉を救出自宅に連れ帰りました。
 
 ところが、呂布が出陣から返ってみると貂蝉は自害した後。彼女の死に顔は国家のために事を成し終えたという満足の表情を浮かべていました。慟哭する呂布ですが、彼女の残した一片の詩に気付き読んでみるとすべての真相が分かります。絶望した呂布は彼女の遺骸を古井戸に投げ捨てたそうです。
 
 この三国志史上最大のヒロインは、後世色々脚色され広く人口に膾炙しました。真相は分かりませんが、王允一派が呂布に利を食らわせて裏切らせたのは事実だと思います。
 
 
 それにしてもこの呂布という人物、欲望の赴くままに行動する自然児だという印象があります。陰謀をめぐらせて悪を為すというタイプではありませんが、その時々で他人に上手く利用され結果的に悪を行うというところがなぜか憎めないですね。
 
 
 ともかく192年4月、董卓は献帝から帝位を譲るから宮中に参内するようにという使者の言葉を真に受け、のこのこ出かけたところを待ちかまえていた呂布に斬られました。一族の董旻、董璜、謀臣李儒らはその日のうちに捕えられ処刑されます。呂布は一軍を率い董卓の本拠地郿塢城を襲撃しました。董卓の武将であった李傕・郭汜・張済・樊稠は抵抗する愚を悟り城を焼いて西涼に逃亡します。
 
 
 西涼に逃げた李傕らは善後策を協議しました。このまま軍を解散し遠くまで逃げようと話し合っていると、知謀の士として名高かかった賈詡(かく)が口を挟みます。
 
 「諸君がこのまま軍を解散したらそれを捕えるのは地方の捕吏でも容易であろう。ここは軍を纏め一か八か長安に攻めよせるのがよろしい。逃げるのはその後でも良いはずだ」
 
 李傕らは賈詡の進言を採用し軍を長安に返します。呂布とまともに戦っても勝てないので、賈詡の策を取り入れ李傕・郭汜が天険に籠って呂布軍を誘い込み身動きとれなくしている間に張済・樊稠が別動隊を率い間道から長安を急襲、占領してしまいました。呂布は軍を纏め関東(函谷関の東)に去り再び長安は董卓の残党の支配するところとなります。董卓暗殺に加担した王允らは、李傕たちの報復を受け惨たらしい方法で処刑されました。
 
 
 献帝は、この状況に絶望し群臣に命じて長安脱出の機会を探ります。まもなく餓狼の群れにしか過ぎなかった李傕たちは内部抗争を起こし互いに争いました。まず謀反の疑いで樊稠が斬られ驚いた張済は手兵を率いて南陽に脱出しました。この状況に嫌気がさした賈詡も姿を消し残った李傕と郭汜はどちらが皇帝を握って天下に号令するかで戦争を始めます。
 
 両者の混乱を利用した献帝一行は、長安を脱出し洛陽に向かいました。ところが皇帝脱出の報告を受けると両者は再び結託し逃げた皇帝一行を追います。
 
 
 切羽詰まった皇帝一行は、ちかごろ山東の兗州に地盤を築いていた曹操に救援の使者を送りました。果たして曹操はどう動くのか?
 次回は曹操の台頭を描きます。

三国志Ⅳ  界橋の戦いと江南の騒乱

 董卓追討軍瓦解後、袁紹は弟袁術と対立します。というのも袁家は複雑で同じ三公を務めた袁逢の子でありながら袁紹は庶兄、袁術は正室の子で次男ながら嫡子でした。ところが同じ一門で朝廷の高官だった袁成に子がなかったため庶兄の袁紹が養子に出され袁成家を継ぎます。そういう経緯から、袁一門の中での嫡流争いがあったのです。いずれ両者は対立する運命にあったと思います。
 
 
 袁紹は、さすが名門の御曹司だけあって謀臣に田豊・沮授・審配・郭図・逢起、武官に顔良・文醜・張郃などを擁し多士済々でした。地盤を固めるために豊かな冀州を治める韓馥を追い出し国を乗っ取ります。三国志演義ではまず北平の公孫瓚に「共に冀州を攻め領土を分け取りしよう」と持ちかけ、韓馥には逆に「公孫瓚が貴国を狙っているから私が守ってあげよう」と騙して乗っ取ったとされますが、その前に公孫瓚は袁紹と対立する袁術と結んでいたという話もあります。
 真相は分かりませんが、袁紹と公孫瓚は冀州支配を巡って激しく対立しました。192年、両者は河北の界橋というところで激突します。公孫瓚は歩兵三万の左右に自慢の騎兵隊各一万を配し総勢五万。一方袁紹軍も数万の軍勢を動員したとされます。
 最初、白馬陣と呼ばれる公孫の騎兵隊に押しまくられた袁紹軍は敵を自陣深く引き込んで弩弓隊千名が待ち伏せし壊滅的打撃を与えます。演義では危機に陥った公孫瓚を、袁紹を見限って浪人し故郷に帰る途中の豪傑趙雲(字は子龍)が助け、同じく公孫瓚を助太刀した劉備と運命的な出会いをするシーンがありますが、そういう事もあったかもしれません。
 結局両者の戦争は膠着状態に陥り、長安に遷都していた太師(もともとは周代の三公の一つだが漢の三公を超える存在として名乗っていた)董卓の斡旋で和睦します。袁紹の今までの宿敵にも平気で尻尾を振る一貫性のなさが趙雲に見限られた理由でしょう。
 一方、荊州の南陽から淮南(淮河下流地帯)に勢力を張っていた袁術は袁紹の与党である荊州牧劉表を叩くため、彼に深い恨みを持つ長沙の孫堅を動かします。孫堅は袁術に対しても複雑な感情を抱いていましたが、寄らば大樹の陰でこの頃は袁術の傘下に入っていました。
 孫堅は数万の兵を軍船に乗せ長江を北上、まず劉表配下の江夏太守黄祖を攻めます。黄祖は孫堅軍の武勇の前にあえなく敗れ孫堅軍はそのまま漢水を遡って劉表の居る襄陽を囲みました。ところが周囲を深い堀で囲まれた襄陽城は難攻不落を誇りなかなか陥落しませんでした。
 攻囲戦は長期にわたり、劉表は袁紹に援軍を求めるため夜陰使者を送ります。それを察知した孫堅は手勢を率い追撃しますが、峴山というところで逆に待ち伏せに遭い矢を受けて絶命してしまいました。享年37歳。江東の虎と呼ばれた英雄のあまりにもあっけない最期でした。
 大将の死で孫堅軍は瓦解、まだ少年だった彼の長男孫策は袁術を頼って落ち延びます。
 次回は逆臣董卓の最期と漢室の混乱を描きます。

三国志Ⅲ  董卓追討軍

 190年春、曹操の檄に応じ反董卓連合軍に集まったのは次のような面々でした。
 
 渤海太守 袁紹
 後将軍   袁術(袁紹の弟)
 冀州牧 韓馥(かんふく)
 豫州刺史 孔伷
 兗(えん)州刺史 劉岱
 河内(かだい)郡太守 王匡
 陳留郡太守 張邈(ちょうばく)
 東郡太守 橋瑁(きょうぼう)
 山陽郡太守 袁遺
 済北国相 鮑信
 北平郡太守 公孫瓚(こうそんさん)
 長沙郡太守 孫堅 
 
らです。おのおの一万以上の手兵を率いて参陣し総勢は実に17万とも号されました。ここで二人の人物を取り上げなければなりますまい。まずは長沙太守孫堅から。
 
 
 孫堅(字は文台。155年~192年)は呉郡富春(現在の蘇州市近郊)の人。古の大軍師孫武の子孫を称する地元の豪族でした。若いころから武勇で知られ海賊退治で名を上げた後黄巾の乱では義兵を率い活躍、その後も各地の反乱を平らげて長沙太守・烏程侯に任ぜられます。
 
 
 次に公孫瓚の食客として参陣した劉備(字は玄徳。161年~223年)。前漢景帝の第8子中山靖王劉勝の子孫を称しますが、彼の代には没落し幽州涿郡涿県(現在の北京市付近)で蓆や履を織ってそれを売り糊口をしのいだと伝えられます。一方これは三国志演義の誇張で実際は土地の富農だったという説もあります。というのは15歳の時叔父劉元起の援助で同郷の高名な儒者盧植のもとで学んだとされるのです。この時の同窓が遼西の豪族の庶子公孫瓚で、その縁で今回の義挙に参加したという経緯でした。
 劉備は遊び人で学問には身を入れなかったそうですが、大人の風格を持ち寡黙、天下の豪傑と交わり任侠の風があったそうです。遠い先祖漢高祖劉邦を気取っていたのかもしれません。この時集まったのが関羽と張飛で、劉備は彼らと義兄弟の契りを結んだと云われます。黄巾の乱でも義兵を率い活躍したそうですが、権門と交わりを持たないため安熹県の尉(田舎の警察署長程度の役職)くらいにしか評価されず、しかもこの地方に巡行してきた督郵という役職の者が賄賂を要求してきたのに怒り、督郵を縄で縛って木に吊るしさんざん棒で叩いて逃げ去ったそうです。実は演義では張飛のやった事になっていますが、実際は劉備自身の仕業でした。まさに任侠の徒とでもいうべき若き日の姿です。
 連合軍は、四世三公の名門袁紹を総帥、参謀に曹操を配し董卓のいる洛陽を攻め立てます。さすがに多勢に無勢、董卓は都洛陽を捨て長安に遷都します。ただその際も勇将呂布の活躍などもあり連合軍に少なからぬ打撃を与えての撤退でした。
 曹操は、董卓軍を恐れ進軍しない味方に業を煮やし単独で董卓軍を追撃します。しかし反対に董卓軍の伏兵にやられ敗北、自身も負傷したため陳留に撤退しました。
 連合軍は放火されて廃墟になった洛陽を占領した事で満足しそれ以上進軍しようとはしませんでした。所詮烏合の衆であった連合軍は内部対立に明けくれます。まず劉岱と橋瑁が仲たがいし劉岱によって橋瑁は斬られました。孫堅は兵糧を司っていた袁術が前線にそれを送らなかったことに恨みを抱き撤退しようとします。この時孫堅は洛陽の古井戸から伝国の玉璽を発見したとも云われています。
 孫堅は病気と称し帰国を申し出ますが、密告者があり袁紹に発見した玉璽を差し出すよう要求されます。あくまで知らぬ存ぜぬを通した孫堅は手兵を率い勝手に帰国しました。怒った袁紹は孫堅の隣国荊州牧劉表に命じてこれを討たせます。孫堅が長沙に帰りついた時軍勢は十分の一になっていたと云われます。
 このようにして反董卓連合軍は深刻な内部対立から瓦解しました。以後群雄たちは本国に帰り勝手に勢力を拡大し始めます。本格的な戦乱の世の到来です。
 次回は、袁紹と公孫瓚の対立そして袁術に唆された孫堅と劉表の戦争を描きます。

三国志Ⅱ  漢朝の混沌

 董卓が刺史(長官)となった涼州は西涼とも呼ばれ甘粛回廊の枢要を成す要地です。しかし乾燥しており農業生産力は低く人口も多くありませんでした。ただ、蒙古や西域の境に近く良馬を産し人々の性質は克己心強く困難に耐え、遊牧民族との混血もすすんでいたことから軍事的には他の地域を圧倒していました。
 
 その軍事力を背景に都洛陽に乗り込んできた董卓は、謀臣李儒の進言を入れいち早く少帝弁と陳留王協を手中に収め国政を壟断します。袁紹らは果敢に抵抗しますが、20万とも号する董卓軍の圧力に負け都を出奔しました。董卓は袁紹を渤海郡(河北省東部)太守に任じ逆に手なずけます。
 
 
 まもなく少帝弁が暗愚でとうてい皇帝の任を任せられないと見限った董卓は、群臣を集め弁を廃し弟の協皇子を皇帝に据えてはどうか?と提案します。君臣の順逆を超えた暴論に諸侯は激しい反発を覚えますが、彼の軍事力を恐れ誰もが沈黙しました。
 
 いや、一人だけ異を唱えた人物がいました。董卓と同じく何進に召集された幷州(へいしゅう、現在の山西省)の刺史丁原です。せっかくのお膳立てに水を差された董卓は丁原を斬ろうとします。ところが丁原の後ろに控える巨漢に気付いた李儒は董卓の袖を引いて押しとどめました。
 
 憤懣やるかたない董卓は、宴席の帰途刺客を放って丁原を襲わせます。ところが刺客は丁原の近くにいた巨漢にことごとく射殺されます。これぞすなわち丁原の養子呂布でした。その夜、呂布は幷州の精兵を率いて董卓の陣営を襲います。丁原に呂布いる限り勝ち目がないと悟った董卓は、李儒の助言を容れ一日千里を走るという自慢の名馬赤兎を彼に与え養父丁原を殺させました。
 
 豪傑呂布を得た董卓に怖いものはありません。少帝弁を廃し弘農王に格下げし、弟協を皇帝に就けました。そればかりか生かしておいては後の禍になると弁を母の何皇后ともども暗殺してしまいました。
 
 
 諸侯は強引な董卓のやり方に怒りますが、彼の勢威を恐れ秘かに不満を語らっては嘆くばかりでした。そんな中一人の人物が立ち上がります。彼の名を曹操字を孟徳といいました。沛国譙県(安徽省西北部)出身で漢朝建国の功臣曹参の子孫でした。ただその家系は複雑で、実は彼の祖父曹騰は宦官でした。当時としては珍しい清廉な宦官だったそうですが宦官の孫という悪いイメージは生涯付きまといます。曹騰は夏侯家(これも功臣夏侯嬰の末裔)から養子嵩を迎え溺愛しました。
 嵩は、養父騰の蓄えた巨万の富を背景に売官という当時の悪弊を利用し官位を得ます。嵩の子が操です。そういったコンプレックスが生涯曹操を悩ましたと思います。曹操は若くして官途につくと厳しい態度で諸官に挑み一目置かれる存在になりました。黄巾の乱時には騎都尉(近衛騎兵隊長)として五千の騎兵を率い活躍します。
 この時も董卓に目を掛けられ驍騎校尉に推されますが、董卓の専横を憎む曹操は秘かに暗殺の機会を狙っていたのです。ところがその陰謀は間もなく発覚、曹操は都を逐電しました。
 この逃亡中恩人の呂伯奢を誤解から殺害したというエピソードもありますが、異説も多くここでは取り上げません。故郷に逃げ帰った曹操は父を説き近隣の富豪から軍資金をかき集め反董卓の挙兵をします。この時集まったのは従兄弟の曹仁、曹洪、夏侯淵、夏侯惇、そして于禁、李典、楽進らの豪族でした。総勢五千といいますからそれなりの勢力でした。
 ただ彼独力で強大な董卓に対抗できるはずはありません。曹操は天子の密勅を受けたと称し各地の群雄に挙兵を促す檄を発します。彼らは曹操が密勅を受けるはずがないとは思いましたが、董卓に反発していた事もあり続々と集まり出しました。総勢数十万にもなる大軍に膨れ上がった反董卓連合軍、次回何彼らの戦いと董卓の戦いを描きます。

三国志Ⅰ  黄巾の乱

 光武帝劉秀から始まる後漢帝国は、12代霊帝(在位168年~189年)の御代に至ると退廃の極に達しようとしていました。
 
 中央政治は、宦官が専横を極めそれに反対する清流派官僚と深刻な対立が起こります。宦官はこれら官僚たちを弾圧し所謂党錮(とうこ)の禁と呼ばれる事件になりました。地方にもそれは波及し悪徳役人の苛斂誅求に庶民は苦しめられます。
 生活に困窮した庶民は、このまま餓死するよりはと政府に対し反乱を起こしそれさえできない人たちは流民と化して諸国を放浪しました。支那の王朝は流民が大量に発生してくれば命運が尽きたと言われますが後漢王朝も例外ではありませんでした。
 そんな中、冀州(現在の河北省南部)鉅鹿に張角という男が登場します。彼は天帝より授けられたと称する太平清領書を基に庶民に符呪などを施し病気を治して急速に信者を集めました。自らを大賢良師と名乗り信者を36の方に組織し、太平道という新興宗教を興します。太平道は華北を中心に瞬く間に拡大し数十万の信者を獲得しました。
 西暦184年、張角は「蒼天(漢朝の事)すでに死す、黄天まさに立つべし」という有名なスローガンを掲げ反乱をおこします。太平道の信者は頭に黄色の巾を巻いていたのでこの反乱を黄巾の乱と呼びます。
 
 ちなみに太平道は漢中(四川省東北部)に興った五斗米道とともに現在の道教の源流です。
 
 
 最初統治能力を欠く漢朝側は有効な対策を打てず反乱は河北、河南、山東と広大な地域に及びました。しかし所詮は烏合の衆、漢朝側が皇甫嵩(こうほすう)、朱儁(しゅしゅん)、盧植(ろしょく)などを将に本格的鎮圧に乗り出すとさしもの猖獗を極めた反乱もようやく鎮圧されます。
 
 ところがこの反乱は、次の大動乱の序曲に過ぎませんでした。反乱鎮圧の過程で諸国の太守は軍閥化し中央政府の命を聞かなくなります。宮廷でも十常侍と呼ばれる宦官たちが安愚な霊帝を操り出鱈目な政治を行いました。
 
 黄巾賊鎮圧で功のあった皇甫嵩や朱儁でさえ十常侍に賄賂を贈らなかった事で官位を剥奪されたくらいです。十常侍は霊帝に洛陽で評判の高かった美女、肉屋の何進の妹を召しだし霊帝に侍らせます。帝はこの美女に溺れますます政治を顧みなくなりました。おかげで一介の肉屋に過ぎなかった何進は大将軍という軍官の最高位を得ます。そんな中189年霊帝は崩御し、あとを継いだのは何皇后の子である少帝弁でした。
 
 無能な大将軍、何進でしたが側近の袁紹(字は本初、154年~202年)らは乱脈を極める十常侍の悪政を正すため彼に決断を迫ります。袁紹は四世三公(四代に渡って宰相を出した)と呼ばれる汝南の名門で袁一門の嫡流に当たる人物でした。優柔不断な何進も側近たちの圧力に負けついに十常侍排除を決意します。ところが十常侍の方が一枚上手で、その情報を得ると逆に何進を妹何皇后のお召しと称し呼び出し、秘かに宮中で暗殺してしまいました。
 
 
 暗殺の前、自分一人で十常侍を除く自信のない何進は諸国の太守に書を送り応援するよう命じていました。かえってこれは地方の群雄に朝廷の混乱を教えるようなものでした。西涼(甘粛省)の董卓らは軍を率い首都洛陽に迫ります。
 
 
 何進暗殺の報を受けた袁紹らは激昂し兵を率いて宮中に乱入します。この時宦官はもちろん髭がなかったため宦官に間違われて殺された者も多くいたそうです。死地を逃れた十常侍の張讓や段珪らは幼帝弁やその弟で亡き王美人の生んだ協(のちの献帝)を連れ出し都を脱出します。しかし追手に追いつかれ張讓は自害、段珪は行方をくらましました。
 
 
 幼い皇帝と皇子を保護したのは洛陽郊外に陣を張っていた董卓でした。董卓はその軍事力を背景に都を牛耳ります。次回は彼の専横とそれに対する諸侯の反乱を描こうと思います。

« 2013年10月 | トップページ | 2013年12月 »