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2013年11月 7日 (木)

三国志Ⅰ  黄巾の乱

 光武帝劉秀から始まる後漢帝国は、12代霊帝(在位168年~189年)の御代に至ると退廃の極に達しようとしていました。
 
 中央政治は、宦官が専横を極めそれに反対する清流派官僚と深刻な対立が起こります。宦官はこれら官僚たちを弾圧し所謂党錮(とうこ)の禁と呼ばれる事件になりました。地方にもそれは波及し悪徳役人の苛斂誅求に庶民は苦しめられます。
 生活に困窮した庶民は、このまま餓死するよりはと政府に対し反乱を起こしそれさえできない人たちは流民と化して諸国を放浪しました。支那の王朝は流民が大量に発生してくれば命運が尽きたと言われますが後漢王朝も例外ではありませんでした。
 そんな中、冀州(現在の河北省南部)鉅鹿に張角という男が登場します。彼は天帝より授けられたと称する太平清領書を基に庶民に符呪などを施し病気を治して急速に信者を集めました。自らを大賢良師と名乗り信者を36の方に組織し、太平道という新興宗教を興します。太平道は華北を中心に瞬く間に拡大し数十万の信者を獲得しました。
 西暦184年、張角は「蒼天(漢朝の事)すでに死す、黄天まさに立つべし」という有名なスローガンを掲げ反乱をおこします。太平道の信者は頭に黄色の巾を巻いていたのでこの反乱を黄巾の乱と呼びます。
 
 ちなみに太平道は漢中(四川省東北部)に興った五斗米道とともに現在の道教の源流です。
 
 
 最初統治能力を欠く漢朝側は有効な対策を打てず反乱は河北、河南、山東と広大な地域に及びました。しかし所詮は烏合の衆、漢朝側が皇甫嵩(こうほすう)、朱儁(しゅしゅん)、盧植(ろしょく)などを将に本格的鎮圧に乗り出すとさしもの猖獗を極めた反乱もようやく鎮圧されます。
 
 ところがこの反乱は、次の大動乱の序曲に過ぎませんでした。反乱鎮圧の過程で諸国の太守は軍閥化し中央政府の命を聞かなくなります。宮廷でも十常侍と呼ばれる宦官たちが安愚な霊帝を操り出鱈目な政治を行いました。
 
 黄巾賊鎮圧で功のあった皇甫嵩や朱儁でさえ十常侍に賄賂を贈らなかった事で官位を剥奪されたくらいです。十常侍は霊帝に洛陽で評判の高かった美女、肉屋の何進の妹を召しだし霊帝に侍らせます。帝はこの美女に溺れますます政治を顧みなくなりました。おかげで一介の肉屋に過ぎなかった何進は大将軍という軍官の最高位を得ます。そんな中189年霊帝は崩御し、あとを継いだのは何皇后の子である少帝弁でした。
 
 無能な大将軍、何進でしたが側近の袁紹(字は本初、154年~202年)らは乱脈を極める十常侍の悪政を正すため彼に決断を迫ります。袁紹は四世三公(四代に渡って宰相を出した)と呼ばれる汝南の名門で袁一門の嫡流に当たる人物でした。優柔不断な何進も側近たちの圧力に負けついに十常侍排除を決意します。ところが十常侍の方が一枚上手で、その情報を得ると逆に何進を妹何皇后のお召しと称し呼び出し、秘かに宮中で暗殺してしまいました。
 
 
 暗殺の前、自分一人で十常侍を除く自信のない何進は諸国の太守に書を送り応援するよう命じていました。かえってこれは地方の群雄に朝廷の混乱を教えるようなものでした。西涼(甘粛省)の董卓らは軍を率い首都洛陽に迫ります。
 
 
 何進暗殺の報を受けた袁紹らは激昂し兵を率いて宮中に乱入します。この時宦官はもちろん髭がなかったため宦官に間違われて殺された者も多くいたそうです。死地を逃れた十常侍の張讓や段珪らは幼帝弁やその弟で亡き王美人の生んだ協(のちの献帝)を連れ出し都を脱出します。しかし追手に追いつかれ張讓は自害、段珪は行方をくらましました。
 
 
 幼い皇帝と皇子を保護したのは洛陽郊外に陣を張っていた董卓でした。董卓はその軍事力を背景に都を牛耳ります。次回は彼の専横とそれに対する諸侯の反乱を描こうと思います。

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