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2013年11月 7日 (木)

三国志Ⅱ  漢朝の混沌

 董卓が刺史(長官)となった涼州は西涼とも呼ばれ甘粛回廊の枢要を成す要地です。しかし乾燥しており農業生産力は低く人口も多くありませんでした。ただ、蒙古や西域の境に近く良馬を産し人々の性質は克己心強く困難に耐え、遊牧民族との混血もすすんでいたことから軍事的には他の地域を圧倒していました。
 
 その軍事力を背景に都洛陽に乗り込んできた董卓は、謀臣李儒の進言を入れいち早く少帝弁と陳留王協を手中に収め国政を壟断します。袁紹らは果敢に抵抗しますが、20万とも号する董卓軍の圧力に負け都を出奔しました。董卓は袁紹を渤海郡(河北省東部)太守に任じ逆に手なずけます。
 
 
 まもなく少帝弁が暗愚でとうてい皇帝の任を任せられないと見限った董卓は、群臣を集め弁を廃し弟の協皇子を皇帝に据えてはどうか?と提案します。君臣の順逆を超えた暴論に諸侯は激しい反発を覚えますが、彼の軍事力を恐れ誰もが沈黙しました。
 
 いや、一人だけ異を唱えた人物がいました。董卓と同じく何進に召集された幷州(へいしゅう、現在の山西省)の刺史丁原です。せっかくのお膳立てに水を差された董卓は丁原を斬ろうとします。ところが丁原の後ろに控える巨漢に気付いた李儒は董卓の袖を引いて押しとどめました。
 
 憤懣やるかたない董卓は、宴席の帰途刺客を放って丁原を襲わせます。ところが刺客は丁原の近くにいた巨漢にことごとく射殺されます。これぞすなわち丁原の養子呂布でした。その夜、呂布は幷州の精兵を率いて董卓の陣営を襲います。丁原に呂布いる限り勝ち目がないと悟った董卓は、李儒の助言を容れ一日千里を走るという自慢の名馬赤兎を彼に与え養父丁原を殺させました。
 
 豪傑呂布を得た董卓に怖いものはありません。少帝弁を廃し弘農王に格下げし、弟協を皇帝に就けました。そればかりか生かしておいては後の禍になると弁を母の何皇后ともども暗殺してしまいました。
 
 
 諸侯は強引な董卓のやり方に怒りますが、彼の勢威を恐れ秘かに不満を語らっては嘆くばかりでした。そんな中一人の人物が立ち上がります。彼の名を曹操字を孟徳といいました。沛国譙県(安徽省西北部)出身で漢朝建国の功臣曹参の子孫でした。ただその家系は複雑で、実は彼の祖父曹騰は宦官でした。当時としては珍しい清廉な宦官だったそうですが宦官の孫という悪いイメージは生涯付きまといます。曹騰は夏侯家(これも功臣夏侯嬰の末裔)から養子嵩を迎え溺愛しました。
 嵩は、養父騰の蓄えた巨万の富を背景に売官という当時の悪弊を利用し官位を得ます。嵩の子が操です。そういったコンプレックスが生涯曹操を悩ましたと思います。曹操は若くして官途につくと厳しい態度で諸官に挑み一目置かれる存在になりました。黄巾の乱時には騎都尉(近衛騎兵隊長)として五千の騎兵を率い活躍します。
 この時も董卓に目を掛けられ驍騎校尉に推されますが、董卓の専横を憎む曹操は秘かに暗殺の機会を狙っていたのです。ところがその陰謀は間もなく発覚、曹操は都を逐電しました。
 この逃亡中恩人の呂伯奢を誤解から殺害したというエピソードもありますが、異説も多くここでは取り上げません。故郷に逃げ帰った曹操は父を説き近隣の富豪から軍資金をかき集め反董卓の挙兵をします。この時集まったのは従兄弟の曹仁、曹洪、夏侯淵、夏侯惇、そして于禁、李典、楽進らの豪族でした。総勢五千といいますからそれなりの勢力でした。
 ただ彼独力で強大な董卓に対抗できるはずはありません。曹操は天子の密勅を受けたと称し各地の群雄に挙兵を促す檄を発します。彼らは曹操が密勅を受けるはずがないとは思いましたが、董卓に反発していた事もあり続々と集まり出しました。総勢数十万にもなる大軍に膨れ上がった反董卓連合軍、次回何彼らの戦いと董卓の戦いを描きます。

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