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2013年11月 7日 (木)

三国志Ⅵ  曹操の台頭

 若いころ高名な人相観の許子將に「君は治世にあっては能臣だか乱世においては姦雄になる」と言われ「乱世の姦雄か、それも良い」と嘯いた曹操。実質的な三国時代の主人公とも言える彼の董卓追討軍以後の動きを記しましょう。
 
 191年、曹操は残兵をまとめ兗州東郡に落ち付きます。当時この地域は黄巾の乱の混乱がまだ収まっておらず黒山の賊于毒らが占拠していました。曹操は兵を率いてこれを平らげ東郡を支配下に置きます。華北の大勢力だった袁紹は、東郡を占領した曹操を東郡太守に任命しました。ですからこの段階では朝廷に認められた太守ではなく袁紹傘下の一雄だったわけです。このような例は多く、たとえば長沙の孫堅は最初淮南の袁術配下でした。
 
 192年春には逃亡した于毒らを頓丘で殲滅し小さいながら確固たる地盤を築きます。黄巾賊の残党は山東にまだまだ侮れない勢力を張り兗州刺史の劉岱は賊のために攻め滅ぼされました。済北(同じ兗州治下の県)の相鮑信はこの混乱を収められるのは曹操しかいないと考え、東郡の曹操のもとに至り彼に黄巾賊を討つよう要請します。
 曹操は鮑信以下兗州治下の県令、相(県令と同格ながら皇族の領地の長官)の推戴を受ける形で兗州牧(刺史は監察権のみだが牧は政治と軍事の長官)に就任しました。曹操は兵を率いて百万とも号する青州(山東省東部)黄巾賊を撃破、その中から使える兵士たちを自軍に加え俄かに強大化します。おそらくこの頃から袁紹から独立したのだと思います。曹操軍に参加した彼らは後に青州兵として恐れられることになります。
 曹操は朝廷のためと称し兗州内外の反乱軍を鎮圧、自分の勢力圏を着々と拡大しました。同時に広く人材を集め「王佐(帝王を助ける才能)がある」と曹操に言わしめた荀彧(じゅんいく)を始め荀攸(じゅんゆう)、程昱(ていいく)、郭嘉(かくか)、満寵(まんちょう)、劉曄(りゅうよう)など後に曹操の覇業を援ける有能な謀臣、文官たちが集結します。武官でも典韋、許褚(きょちょ)、徐晃などがこの時期に曹操に仕えました。
 193年、山東の琅琊郡(青島西南の沿岸部)に隠棲していた父親曹嵩を本拠東郡に呼び寄せようとした曹操ですが、途中徐州牧の陶謙に歓待された後護衛に付けた兵士たちに惨殺されるという事件が起こります。このために曹操と陶謙は仇敵同士になりました。
 激怒した曹操は、大兵を率い徐州に攻め込みます。劣勢の陶謙は各地に援軍を要請しますが皆曹操の威勢を恐れ応じる者はいませんでした。ただ一人当時青州刺史田楷のもとにいた劉備だけがこれに応じわずかながらの兵とともに徐州に入ります。圧倒的な曹操の大軍の前に各地で敗退を重ねた徐州軍が滅びるのは時間の問題でした。
 ところが留守にしていた兗州を、董卓誅殺の政変以後流亡していた呂布の軍勢が襲ったのです。驚いた曹操は急ぎ陶謙と和議を結び兗州へ戻りました。
 結果的に徐州を救う形になった劉備は、陶謙に非常に感謝され徐州牧を譲ろうと申し出られます。しかしさすがにそれは厚かましいので劉備が固辞していると、まもなく陶謙は病死しその遺言で徐州を任されることになりました。
 一方、兗州に戻った曹操は呂布の軍と血みどろの戦いを演じます。最初呂布の武勇に押されぎみだった曹操軍ですが、知力に勝る曹操は次第に盛り返し馬陵の戦いで決定的な勝利をあげ呂布を兗州から叩きだしました。
 再び孤軍となった呂布は、最終的に徐州の劉備のもとに落ち付きました。ところが謀反の虫というのは生来のものらしく劉備が袁術と戦って本拠を留守にした隙を衝いて徐州を乗っ取ってしまいます。紆余曲折のすえ劉備は呂布と和睦し今度は劉備が呂布の客将となる形で小沛に落ち付きました。
 
 
 曹操は、呂布を撃破した後その地盤を着々と固めつつありました。196年1月、曹操のもとに献帝から救援を求める使者が到着します。曹操は荀彧と程昱の建言を容れ早速軍勢を派遣し洛陽に居る献帝を保護しました。献帝を追ってきた李傕、郭汜の軍は突如現れた謎の大軍に驚きますが構わずに攻めかかります。
 曹操はほとんど雑軍に等しい李傕、郭汜の軍の散々に打ち破ります。敗走した李傕、郭汜は落ちぶれて土地の豪族に殺されました。
 こうして天子を擁した曹操は、天下に号令を掛ける事が出来る立場を得ます。献帝により録尚書事(実質的な宰相職)に任ぜられた曹操は間もなく大将軍・武平侯を加官されました。曹操は献帝に進言し董卓の兵火で荒廃した洛陽から許昌(河南省許県、現在の地級市)に遷都させます。
 曹操は自分の腹心たちを朝廷の枢要な地位に就け朝廷を牛耳ります。曹操が献帝を擁したことに袁紹が不満を抱くと曹操は彼に大将軍の地位を譲り、自らは司空(三公の一つ)・車騎将軍になりました。
 内心曹操は、朝廷の官職にこだわる袁紹を笑っていたかもしれません。実質を伴わない高位より天子を擁している事実の方が大きい事を知っていたのです。
 曹操は丞相(宰相)として、自分に敵対する者を朝敵として討つことができました。実際に曹操が丞相を名乗ったわけではありませんが、録尚書事の職能が丞相と変わらないため以後丞相の言葉を使います(三国志演義でもこのほうが通り良いですからね)。
 曹操は内政にも力を尽くしました。戦乱で荒廃した中原の生産力を回復するために屯田の制を始めたのもこの頃です。一説では数年で200万石の収穫を上げるようになったと言われます。曹操飛躍のきっかけは天子を擁したことに始まったと言えるでしょう。
 次回は、南陽における董卓残党と曹操の戦い、そして父を討たれた孫策の快進撃を描きます。

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