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2013年11月 7日 (木)

三国志Ⅲ  董卓追討軍

 190年春、曹操の檄に応じ反董卓連合軍に集まったのは次のような面々でした。
 
 渤海太守 袁紹
 後将軍   袁術(袁紹の弟)
 冀州牧 韓馥(かんふく)
 豫州刺史 孔伷
 兗(えん)州刺史 劉岱
 河内(かだい)郡太守 王匡
 陳留郡太守 張邈(ちょうばく)
 東郡太守 橋瑁(きょうぼう)
 山陽郡太守 袁遺
 済北国相 鮑信
 北平郡太守 公孫瓚(こうそんさん)
 長沙郡太守 孫堅 
 
らです。おのおの一万以上の手兵を率いて参陣し総勢は実に17万とも号されました。ここで二人の人物を取り上げなければなりますまい。まずは長沙太守孫堅から。
 
 
 孫堅(字は文台。155年~192年)は呉郡富春(現在の蘇州市近郊)の人。古の大軍師孫武の子孫を称する地元の豪族でした。若いころから武勇で知られ海賊退治で名を上げた後黄巾の乱では義兵を率い活躍、その後も各地の反乱を平らげて長沙太守・烏程侯に任ぜられます。
 
 
 次に公孫瓚の食客として参陣した劉備(字は玄徳。161年~223年)。前漢景帝の第8子中山靖王劉勝の子孫を称しますが、彼の代には没落し幽州涿郡涿県(現在の北京市付近)で蓆や履を織ってそれを売り糊口をしのいだと伝えられます。一方これは三国志演義の誇張で実際は土地の富農だったという説もあります。というのは15歳の時叔父劉元起の援助で同郷の高名な儒者盧植のもとで学んだとされるのです。この時の同窓が遼西の豪族の庶子公孫瓚で、その縁で今回の義挙に参加したという経緯でした。
 劉備は遊び人で学問には身を入れなかったそうですが、大人の風格を持ち寡黙、天下の豪傑と交わり任侠の風があったそうです。遠い先祖漢高祖劉邦を気取っていたのかもしれません。この時集まったのが関羽と張飛で、劉備は彼らと義兄弟の契りを結んだと云われます。黄巾の乱でも義兵を率い活躍したそうですが、権門と交わりを持たないため安熹県の尉(田舎の警察署長程度の役職)くらいにしか評価されず、しかもこの地方に巡行してきた督郵という役職の者が賄賂を要求してきたのに怒り、督郵を縄で縛って木に吊るしさんざん棒で叩いて逃げ去ったそうです。実は演義では張飛のやった事になっていますが、実際は劉備自身の仕業でした。まさに任侠の徒とでもいうべき若き日の姿です。
 連合軍は、四世三公の名門袁紹を総帥、参謀に曹操を配し董卓のいる洛陽を攻め立てます。さすがに多勢に無勢、董卓は都洛陽を捨て長安に遷都します。ただその際も勇将呂布の活躍などもあり連合軍に少なからぬ打撃を与えての撤退でした。
 曹操は、董卓軍を恐れ進軍しない味方に業を煮やし単独で董卓軍を追撃します。しかし反対に董卓軍の伏兵にやられ敗北、自身も負傷したため陳留に撤退しました。
 連合軍は放火されて廃墟になった洛陽を占領した事で満足しそれ以上進軍しようとはしませんでした。所詮烏合の衆であった連合軍は内部対立に明けくれます。まず劉岱と橋瑁が仲たがいし劉岱によって橋瑁は斬られました。孫堅は兵糧を司っていた袁術が前線にそれを送らなかったことに恨みを抱き撤退しようとします。この時孫堅は洛陽の古井戸から伝国の玉璽を発見したとも云われています。
 孫堅は病気と称し帰国を申し出ますが、密告者があり袁紹に発見した玉璽を差し出すよう要求されます。あくまで知らぬ存ぜぬを通した孫堅は手兵を率い勝手に帰国しました。怒った袁紹は孫堅の隣国荊州牧劉表に命じてこれを討たせます。孫堅が長沙に帰りついた時軍勢は十分の一になっていたと云われます。
 このようにして反董卓連合軍は深刻な内部対立から瓦解しました。以後群雄たちは本国に帰り勝手に勢力を拡大し始めます。本格的な戦乱の世の到来です。
 次回は、袁紹と公孫瓚の対立そして袁術に唆された孫堅と劉表の戦争を描きます。

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