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2013年12月

2013年12月 2日 (月)

世界史英雄列伝(42) 『カール12世と大北方戦争』  後編

 開戦劈頭、未成年王カール12世はまず一番近いデンマークに標的を定めます。デンマーク軍主力がホルシュタインを攻めるためユトランド半島南部に集結しているという報告を受けるとイングランド・オランダの援助を受けデンマークの本拠シュラン島に奇襲上陸、首都コペンハーゲンを襲いました。
 
 これにはフレデリック4世もたまらずトラヴェンタール条約を結んで講和、戦争から脱落しました。戦争の首謀者にしては情けない限りですがこれがデンマークの当時の実力だったのでしょう。
 
 
 次にカールは、エストニアにおけるスウェーデンの拠点ナルヴァ要塞を攻囲するロシア軍に目標を定めます。ナルヴァの1万のスウェーデン軍はピョートル大帝率いる4万のロシア軍の攻撃を受けていました。堅固な要塞とはいえいつまでもロシア軍の猛攻を支えきれるものではありません。
 
 1700年11月、カール率いるスウェーデン軍精鋭8千は猛吹雪を衝いてロシア軍の本営を急襲、まさかこの猛吹雪の中戦闘はあるまいと油断しきっていたロシア軍は大混乱に陥りました。ピョートルが間違った情報を信じてノブゴロドに向かっていたという不幸も重なり死傷者6000、捕虜10000という壊滅的打撃を受けてロシア軍は敗退します。
 
 一方スウェーデン軍の損害は死傷者2000余り。圧勝でした。しかしここでカールは致命的な失策を犯してしまいます。ロシア軍は二度と立ち上がれまいと判断し主敵をザクセン・ポーランド・リトアニア連合軍に定めたのです。
 
 確かに当時のロシアは無駄に人口が多く広いだけの後進国、それよりポーランド・リトアニア連合という当時東ヨーロッパ最強国を攻めて降した方が最終的に戦争に勝利できると踏んだのは間違った判断ではありません。
 
 が、その後の歴史を知っている現在のわれわれから見るとこの時ロシアに止めを刺さなかったことが後の強大なロシア帝国を生みだす結果となったのだと歯がゆく思うのです。
 
 カール率いるスウェーデン軍は、リヴォニアの重要都市リガを攻めていたザクセン軍に襲いかかります。ドヴィナ川で戦った両軍でしたが、軍の士気とカールの軍事的才能でザクセン軍を圧倒ここでも勝利します。
 
 
 ポーランドは講和と中立を持ちかけますが、カールはこれを拒否逆にアウグスト2世の退位を要求しました。さすがにこれを受け入れるわけにはいかないアウグストは、カールとの交渉を決裂させます。
 
 1702年カールはポーランドに侵入、クリシュフの戦いでポーランド・ザクセン連合軍を撃破しました。スウェーデン軍はポーランド各地を転戦し、たまらずアウグストは1706年アルトランシュテット条約で屈服します。
 
 スウェーデン軍はそのままザクセンに進軍し、戦いの帰趨はこれで決まったかに見えました。ところがナルヴァの敗戦の傷癒えたロシアのピョートル大帝が再びスウェーデンに挑戦したのです。
 
 
 まともに戦ってはスウェーデン軍に勝てないと悟っていたピョートルはロシア軍の得意技焦土作戦でスウェーデン軍を苦しめます。戦闘には勝っても補給に苦しむスウェーデン軍は広大なロシア平原に飲み込まれ疲弊していきました。
 
 敵がすっかり弱ってきたと判断したピョートルは、1709年7月初めて正面からカールに挑戦しました。両軍は東ウクライナのポルトヴァで激突します。慎重なピョートルは自軍が質で劣っている事を自覚し25000のスウェーデン軍に対し45000の兵力を集めたそうです。
 
 この日のために兵力を鍛えていたピョートルの努力はやっと報われました。さしもの精鋭スウェーデン軍もこの時はロシア軍の猛攻を支えきれず潰走します。
 
 退路を断たれたカールは、戦場から近いオスマントルコに亡命しました。国王のいなくなったスウェーデンに怖い者はいません。ピョートルは軍をフィンランド・リヴォニアに進めこれを占領します。カールもオスマン朝のスルタンを動かしロシアに宣戦布告させましたが戦争の帰趨はすでにピョートルのもとに去っていました。
 
 
 オスマン朝とロシアの戦争も勢いづくロシアが優位に進め、カールは失意のうちに1714年帰国の途につきました。スウェーデンの劣勢を見たデンマークのフレデリック4世は、それまでの中立を破りピョートルの要求を受け再びスウェーデンに宣戦布告しました。
 
 悪い事は重なるもので、それまで同盟関係だったイングランドが1714年スチュアート朝断絶ハノーヴァー朝成立によって同盟関係を解消、ポメラニアを狙っていた新興国ブランデンブルグ=プロイセンも連合軍に加わりスウェーデンは完全に孤立します。
 
 
 それでもカールは不屈の闘志を持って戦争を続けました。そして1718年11月30日デンマーク領だったノルウェー(デンマークとは同君連合)のフレデリクスハルド要塞攻囲中、流れ弾によって絶命します。享年36歳。
 
 
 あまりにも早い天才の死でした。以後スウェーデンは振るわずスウェーデン領西ポメラニア北部を除くすべての海外領土を奪われ敗北、バルト帝国は崩壊しました。1721年の事です。
 
 
 カール12世は、スウェーデン・バルト帝国最後の輝きでした。以後スウェーデンが歴史の主役に躍り出る事はありません。代わって台頭してきたのがロシア。カールとピョートルの明暗はナルヴァの戦いの直後に分かれたと思うのは私だけでしょうか?
 
 
 
 
 
 最後に私の好きなエピソードを紹介してこの頁を終わろうと思います。
 1807年リトアニアでの出来事だと伝えられます。若者たちがスウェーデンのカール12世について色々語りあっていました。
 
 それを聞いていた一人の老婆が述懐します。「カールという王様は恰好良かったよ。透き通るような青い目をしてね…」
 
若者「またまた。お婆さん見てきたような事を言って」
 
老婆「いや嘘じゃないよ。カールさんはうちの家に4日間泊ったんだ。その時父親がね『ステファン・バートリやヤン・ソビエスキーに匹敵する偉人だからよく見ておくように』と言うんだよ。だから覚えているのさ」
 
若者「お婆さん、貴方いったいいくつなんです?」
 
老婆「私は今年で110歳さ。ちょうど11歳の時(1708年)にカールさんを見たんだ」
 
 
 このエピソード、実話かどうかわからないんですが情景が浮かんできますね。まるで一遍の詩のようです。カール12世の短くも激しい一生を象徴しているようで私はとても好きです。

世界史英雄列伝(42) 『カール12世と大北方戦争』  前編

 17世紀までスカンジナビアで最強の国は意外な事にデンマークでした。過去記事「中世ヨーロッパ外伝」でも記したスキョル朝クヌート大王の北海帝国然り、14世紀後半のカルマル同盟でもスカンジナビア三国の主導的地位を占めたのはデンマークだったのです。グリーンランド、アイスランドはもとよりバルト海沿岸諸国にも進出し広大な領土を誇っていました。
 
 その強国デンマークが転落し始めたのは30年戦争のクリスティアン4世時代からでした。プロテスタントの擁護者として颯爽と参戦したクリスティアン4世は、ルッターの戦いで神聖ローマ帝国側の名将ティリー伯の前に一敗地に塗れ帝国軍に本土ユトランド半島まで占領されるという醜態を晒します。
 
 代わって登場したのは、スウェーデン王グスタフ2世アドルフでした。アドルフがあまりにも名将だったためデンマークがそれまで築き上げた地位は雲散霧消しスウェーデンが新たなスカンジナビアの覇者として台頭します。
 
 その後幾度かの戦争を経て1697年カール12世(1682年~1718年)が即位した時には、スウェーデン・フィンランド・西ポメラニア(ドイツ北部)・エストニア・リヴォニア(現ラトビア北半分)を領土とする一大帝国が出現していました。これを歴史上バルト帝国と呼びます。
 
 バルト海は完全にスウェーデンの内海となり、周辺諸国はグスタフ・アドルフ以来のスウェーデン軍の武威に屈していました。
 
 
 当然この状況を面白く思わない国々がいます。その筆頭はかつての栄華を奪われたデンマークでした。デンマーク王フレデリック4世(在位1699年~1730年)は、バルト海進出を悲願としていたロシアのピョートル1世(大帝、在位1682年~1725年)、同じくドイツ・バルト海南岸からスウェーデン勢力を叩き出したいザクセン選帝侯・ポーランド王(兼任、ポーランド・リトアニア同君連合の王としては在位1697年~1733年)と語らい対スウェーデン三国同盟を結びます。(1699年)
 
 ポーランド・リトアニア連合とロシアはそれまで何度も戦争した犬猿の仲ですが、それがデンマークの誘いに乗ったという事はそれだけスウェーデンが憎まれ嫉妬されていたという事かもしれません。
 
 連合軍はわずか14歳で即位したカール12世を少年と侮り、1700年デンマーク王フレデリック4世がカール12世の義兄にあたるホルシュタイン・ゴットルプ公フリードリヒ4世に宣戦布告、同時にロシア軍はスウェーデン領イングリアに、ザクセン軍が同じくリヴォニアに侵入しました。これを大北方戦争と呼びます。
 
 
 即位して3年目わずか17歳のカール12世は、この未曽有の危機にどのように対処したのでしょうか?後編ではカール12世の戦いとその短い生涯を描きます。

東南アジアの民族大移動

 最近、河出文庫の「世界の歴史18 東南アジア」を読みました。このあたりの歴史は高校世界史レベルの最低限の知識しかなかったのでたいへん面白く読めました。
 
 その中で、東南アジア・インドシナ半島も相当大規模な民族大移動が行われていたことが分かって驚いています。
 
 
 皆さん(と言っても興味のある方以外読まないと思いますが…苦笑)、民族大移動と言えば一番有名なゲルマン民族の大移動を思い浮かべるでしょう。やや深い知識の方でトルコ民族の西遷。ところがインドシナ半島もそれに劣らない規模で民族大移動が起こっていたのです。
 
 
 主役はベトナムを建国した越族、タイを建国したタイ族、そしてミャンマーの人口70%を占める主流民族ビルマ族。この中で越族とタイ族は知っていましたが、ビルマ族もそうだったとは驚きです。
 
 
 越族は支那の春秋戦国時代の越と同じ民族です。発祥の地は長江下流の浙江省だと云われ春秋時代末期急速に強大化した越は一時山東省南部まで達し中原を窺いました。ところが楚に滅ぼされ遺民たちは南方に逃れます。それらが長江以南東シナ海沿岸の浙江、福建、広東、広西に広く分散し百越と呼ばれるようになりました。
 
 もちろん現地の先住民と混血がすすみますから春秋時代の越人とは相当違ってきていたとは思います。ただ言語的には古越語をルーツとする贛語呉語閩語粤語などを話す人たちでした。
 
 彼らは南下する漢民族に圧迫され、その生活の中心を次第に南方に移します。紀元前207年南越国成立、紀元43年頃の徴姉妹の乱はまさに越族の起こした反乱ですから少なくともこの時代までには河内地方(ハノイ、越南とも呼ばれる。現ベトナム北部)に達していたのでしょう。ベトナムは実は単一民族国家ではありません。
 南部にはアウストロネシア語族に属する古代海洋民族チャム族が占城(チャンパ)王国を建国し栄えていました。これは192年に成立し1832年阮朝大越国に滅ぼされるまで続きます。ですから北ベトナムと南ベトナムはもともと民族が違う別の国だとも云えます。ただし滅亡後のチャム族は越族に圧迫されずいぶん人口が激減したそうですが。
 
 次にタイ族を取り上げましょう。タイ族は意外な事に発祥の地がアルタイ山脈の麓あたりといいますから太古の昔は日本民族とお隣同士だった可能性が高いです。従来は支那チベット語族と見られていましたが最近の学説ではタイ・カダイ語族(タイ・ラオス・一部ベトナム)といい分けて考えられています。
 支那春秋戦国時代の楚はタイ族であった可能性が高いとされますから大昔からタイとベトナムは宿敵同士だったと言えますね。私の過去記事では越族とタイ族は稲作発祥にも深い関わりを持ち長江文明の主要な担い手だったと推理しています。
 これも越族と同様、膨張する漢族に追われて南下しました。三星堆文明や古代蜀、古代巴国もタイ族の国だったらしいです。紀元前5000年頃長江流域まで南下しており、さらに漢族に追われて紀元1000年頃にはすでに中心は四川、湖南、雲南あたりに移っていたようです。三国志の諸葛亮が遠征した南蛮というのはまさにタイ族系の少数民族だったらしく、驚くべきは南詔王国や大理王国と云った雲南に成立した支那王朝と伍する強国もタイ族の国だったとか。
 だいたい10世紀ころまでは雲南省、貴州省を中心に分布し、インドシナ半島へは7世紀ころから徐々に浸透していったようです。当時その地はクメール族(のちにカンボジアを建国)が住んでいましたが、タイ族はこれを駆逐し1235年スコータイ朝を建国します。
 これがタイ族の主流ですが、メコン河沿いに南下し途中でとどまった民族にラーオ族などがありこれらがラオスを建国しました。支那大陸で鍛えられていたタイ族は戦争にも長け大国であったクメール王国の領土を蚕食、ほぼ現在のタイの領域を平定したばかりか、ビルマやカンボジアにも進出します。
 もとインドシナ半島の主人だったクメール人は、東西を強大な異民族(越族、タイ族)に圧迫され続け苦しめられました。領土も最盛期の3分の1以下に落ち込み現在のカンボジアの領域になります。
 ただタイ諸族全部が南下したわけではなく多くは雲南や貴州省に少数民族としてとどまっています。
 最後はビルマ族です。タイ族と越族の歴史はだいたい知っていたので実は一番驚いたのがビルマ族でした。なんとその前身は五胡十六国を作った五つの異民族の一つ、氐(てい)らしいというのです。そして氐は一時北支那を統一した前秦まで建国しています。
 確かにどちらもチベット・ビルマ語族。もともとはチベット高原に住んでいた民族でチベット東部、雲南西部の山岳地帯を通ってイラワジ河沿いに南下、ビルマ地方に定着します。これがだいたい9世紀ころ。氐はそのころにはすでに支那本土での活動を停止していますので時系列的には可能性大ですね。
 これも戦闘民族で、先住のモン族などを駆逐し次第にベンガル湾方面まで達して行きました。ビルマ族最初の王朝は1057年に成立したパガン王朝。ビルマとタイ、タイとベトナムは歴史的にしばしば戦争をしていますがこれは支那大陸に住んでいた頃からの宿敵同士だったと考えれば因縁深いですね。民族の遺伝子なのでしょう。
 侵略された側のクメール族、チャム族、モン族などの立場からいえば迷惑以外の何ものでもなくたまったものではありませんが(苦笑)。
 それにしてもインドシナ半島のダイナミックな歴史とても興味がわきました。今後研究していこうと思います。

三国志外伝Ⅱ  司馬一族の専横と三国の滅亡

 234年五丈原の戦い以後の三国の歴史を司馬一族を中心に描きます。諸葛亮の死で蜀軍撃退に成功した司馬懿(179年~251年)は、この時点ですでに魏の最高実力者になっていました。なにしろ20万という魏の主力軍を握っていたのは大きかったと思います。

 

 

 

 235年、遼東の公孫淵が反乱をおこすと魏の明帝は司馬懿にその鎮圧を命じます。その際明帝がどれだけ兵力が必要か尋ねると精鋭4万で十分と答えました。敵は15万と号するもしょせん烏合の衆でありまともな戦力にはならないという判断でした。

 

 

 

 出発に先立って明帝の質問に応えた司馬懿は「城を捨てて逃げるが上策、遼水に拠って我が大軍に抗するは次策、襄平に籠もるなら生捕りになるだけです。(公孫淵が)知恵者ならば、城を捨てることも有るでしょうが、公孫淵はそんな策を考えつける人物ではありません」と言ったそうです。実際公孫淵は下策を採用し、魏軍に完敗して斬られました。

 

 

 

 

 

 234年、明帝曹叡が34歳の若さで病死すると司馬懿は魏の宗族曹爽(曹真の子)と共に後事を託されます。明帝の後を継いだ養子の曹芳はただの傀儡にすぎず、魏の実権を巡って司馬懿と曹爽の熾烈な権力闘争が始まりました。

 

 

 

 最初は何と言っても魏帝室の一族である曹爽が優勢で、司馬懿は地位だけは高いが実権がない太傅に祭り上げられます。曹爽は大将軍・侍中(事実上の宰相)という軍事と内政の最高権力を手に入れ、腹心たちを枢要な地位に据えました。

 

 

 

 

 

 司馬懿の凄身は、情勢が不利な時はじっと耐えることができる事でした。曹爽が致命的な失敗をする時を待っていたのです。244年蜀遠征の失敗により曹爽の名声に陰りが生じます。その後の呉遠征も失敗しました。

 

 

 

 その間司馬懿は病気と称して自邸に引きこもるのみでした。不気味に思った曹爽は病気見舞いと称して近臣の李勝を偵察に送り込みます。司馬懿は息子たちと示し合わせて今にも死にそうな病人を演じ李勝をすっかり騙しました。彼の報告を聞いた曹爽は安心して司馬懿への警戒を緩めます。

 

 

 

 

 

 249年曹爽一行が皇帝曹芳による明帝の墓参りに同行して首都洛陽を離れると、この時を待っていた司馬懿は秘かに連絡を取っていた子飼いの部下たちを集め挙兵します。宮中に乱入した司馬懿軍は郭太后(明帝の皇后)を脅して曹爽兄弟の官職を剥奪、一気に都を制圧しました。

 

 

 

 帰るところを失った曹爽一派は結局降伏し一族郎党皆殺しに遭います。こうして魏の実権を掌握した司馬懿は、以後独裁者として君臨しました。

 

 

 

 

 

 さすがにこの暴挙は魏の諸官の反発を生じさせ251年には司馬一族排斥のクーデターが起こりました。しかしこれはすぐさま鎮圧され、謀反に加担したという理由で魏の皇族たちを鄴に軟禁します。これ以後の魏王朝は名ばかりの皇帝が続き、諡号(明帝とか文帝などと云う諡)さえないという酷さでした。このあたり司馬懿が後世大悪人と呼ばれる所以です。

 

 

 

 

 

 251年、司馬懿は魏の全権を握ったまま死去しました。後を長男の司馬師(208年~255年)が継ぎます。父の官職である撫軍大将軍から大将軍(軍の最高司令官)の地位を得ました。沈着冷静で父もその才能を買っていましたが、252年呉の孫権死去に乗じて攻めた東興の戦いには敗北します。

 

 

 

 ところが自分の過ちを素直に認めたため帰って評判が上がりました。254年には魏の皇帝曹芳が傀儡に飽き足らず自分を取り除く陰謀を企んだという理由で廃し、明帝の甥にあたる曹髦を傀儡皇帝の座に据えます。

 

 

 

 あまりにも酷い司馬一族の専横に我慢の限界を超えた魏の重臣毌丘倹(かんきゅうけん)は、255年任地の楊州寿春で挙兵しました。しかし司馬師は自ら親政してこれを鎮圧、逆に権力基盤を強化します。

 

 

 

 

 

 ただこの戦争で、持病の眼病を悪化させ片方の目を失明してしまいました。そのため激痛が続き凱旋の途中255年許昌で死去します。弟の司馬昭が遺言により後を継ぎました。

 

 

 

 

 

 司馬昭(211年~265年)は、父や兄ほどの才能は無かったと言われますがすでに彼が継承した時は司馬氏の権力は盤石でした。すでに魏の皇室は有名無実な存在となり、大将軍・禄尚書事となった彼に対抗できる者は皆無となっていたのです。

 

 

 

 

 

 司馬昭が次に起こす行動は傀儡皇帝を廃して自分が皇帝になる事でした。腹心の賈充と共に準備を着々と進めます。まず潜在的に敵となり得る諸葛誕を挑発して挙兵に追い込みました。諸葛誕は魏の重臣で毌丘倹亡きあと司馬昭に対抗しうる地位と実力を持っていたからです。さらに曹爽とも姻戚関係があったのでいずれ除かれる運命だったと言えます。

 

 

 

 

 

 諸葛誕の反乱は待ちかまえていた司馬昭によって鎮圧されます。260年には皇帝曹髦さえ謀反の嫌疑をかけて廃し殺しました。

 

 

 

 263年すでに衰亡していた蜀を滅ぼすと、264年にはついに晋王の称号を得ます。これは皇帝になるための前準備でした。ところが265年8月中風のため56歳で死去。一族の野望は嫡男司馬炎(晋の武帝。265年~290年)に引き継がれました。

 

 

 

 265年12月、司馬炎は魏の元帝(曹奐)を脅迫して禅譲をせまりついに念願の晋王朝を開きます。ただ父や伯父、祖父のように非情に徹する事は出来なかったらしく曹奐の子孫たちは長らく陳留王の地位を保ちました。曹奐の直系が絶えると曹操の玄孫である曹勱が陳留王の位を継承し曹一族は南朝宋の479年まで続きます。

 

 

 

 

 

 さすがに曹一族を皆殺しにしていれば、おそらく支那史上でも指折りの大悪人として語り継がれたでしょうから、世間の悪評を恐れたとも云えます。

 

 

 

 

 

 279年数々の内紛で衰えた呉を滅ぼし、晋はついに天下を統一しました。

三国志外伝Ⅰ  諸葛氏の一族

 三国志というのは内容が膨大すぎて本編だけではすべてを語り尽くしたとは言えません。そこで外伝では書き足らなかった部分をいくつか補おうと思います。
 
 最初は諸葛氏。三国時代から晋にかけて突如勃興し、その後歴史から姿を消した一族についてです。三国時代陳羣を輩出した頴川陳氏(玄奘三蔵や作家の陳舜臣もその一人)のように現在に至るまで続く家系は稀で大半の名族は戦乱の時代に滅び去りました。諸葛氏もその一つと言えます。それでは本編に登場する諸葛亮、諸葛瑾以外の魏呉蜀の諸葛氏について述べて行きましょう。
 
【蜀の諸葛氏】
 
◇諸葛瞻(しょかつせん・227年~263年)
 
 亮の嫡男。生母が黄夫人(黄承彦の娘)かどうかは不明。幼少時から利発だったが逆に父は早熟過ぎて大物になれない事を心配。父の死後爵位武卿侯を継承。17歳の時皇帝劉禅の娘を娶る。その後順調に昇進し261年衛将軍、平尚書事になる。
 
 ただし宦官黄皓の専横になすすべなく、軍の実権を持つ姜維と対立するなどイメージは良くない。最後は魏の鄧艾が蜀に迫った時綿竹関で玉砕。
 
 
◇諸葛尚(245年~263年)
 
 諸葛瞻の長子。諸葛亮の孫であるとともに母方から劉備の孫にもあたる。父が黄皓を除かなかったことに批判的だったが、最後は263年父とともに綿竹関で戦死。
 
 
◇諸葛京(生没年不詳)
 
 諸葛瞻の子(次子?)、尚の弟。蜀滅亡時年少であり264年河東に移住を命じられる。長じて晋に仕え江州刺史に出世。近年発見された諸葛亮の子孫と称する浙江省蘭渓市の諸葛八卦村は京の末裔らしい。
 
 
◇諸葛質(生没年不詳)
 
 諸葛瞻の子。263年蜀滅亡時皇帝劉禅の子洮陽王劉恂が降伏を拒否し南蛮に逃れた際関索、霍弋、呂凱と共に同行し南蛮王孟虬に保護を求めた時の使者とされる。ただし劉恂が南蛮に逃れたという事実は正史には無く呂凱もすでに亡くなっており史実とは認めがたい。関策も民間説話上の架空の人物と思われる。
 
 伝説では劉恂一行は南蛮王の保護を受け南中県水昌(貴州省)に隠棲したとされる。
 
 
◇諸葛懐(生没年不詳)
 
 諸葛亮の三男。諸葛亮の子だという事で晋の武帝(司馬炎)から爵位を与えられようとしたが拒否。成都郊外の田舎で隠棲したと云う。ただし正史では他の諸葛一族とともに河東に移住させられたとされはっきりしない。
 
 
 
【呉の諸葛氏】
 
◇諸葛恪(しょかつかく・203年~253年)
 
 呉の元老諸葛瑾の長男。諸葛亮の甥。幼少時から才気あふれ将来を嘱望されるが才能をひけらかすところがあり父は心配していたという。246年大将軍。251年呉の皇太子孫亮(孫権の七男)の太子太傅。
 
 孫亮が即位すると呉の独裁者になる。253年合肥の戦いの失敗により人望を失い、クーデターで一族皆殺しになった。恪は傲岸不遜な性格で嫌われており姪とその夫まで巻き添えに遭う。
 
 
◇諸葛喬(しょかつきょう・204年~228年)
 諸葛瑾の次男。子の無かった叔父諸葛亮の養子になる。その後亮に実子が生まれた後も厚遇されたらしい。才能は兄恪に劣っていたが温厚な性格で人に愛された。漢中で病死。享年25歳。子の諸葛攀は諸葛恪一族誅殺の後呉に戻って仕えたが、孫の諸葛顕は蜀に残り滅亡後他の一族とともに河東に移される。
【魏の諸葛氏】
◇諸葛誕(?~258年)
 
 徐州琅邪郡陽都県の人。諸葛瑾・亮兄弟の又従兄弟とされる。ただしこれには異説があり瑯邪諸葛氏の嫡流という説も。『歴代神仙通鑑』では、諸葛誕は諸葛珪の末子。
 『世説新語』では「蜀漢は其の竜を得、呉は其の虎を得、魏は其の狗を得たり」と書かれているがこれは誕には酷な評価だろう。
 魏では厚遇され、御史中丞・尚書から楊州刺史・昭武将軍になる。252年東興の戦いで呉に敗れ一時失脚するが255年毌丘倹と文欽の乱鎮圧後再び楊州刺史に復帰。鎮東大将軍・都督揚州諸軍事・儀同三司に任命される。
 曹爽一族の縁戚だったことから司馬氏がクーデターで曹爽を滅ぼした後も潜在的敵だとみなされていたらしい。257年司馬昭が実権を握ると、挑発されついに楊州寿春で挙兵。善戦するも司馬昭率いる26万の大軍の前に戦死。
 諸葛誕の奮戦ぶりに感心した司馬昭は、彼の部下たちに「降伏して自分に仕えれば助ける」と言ったがこれを受け入れる者は一人もいなかったという。後、部下たちは全員処刑された。その数数百人。それだけ人望を得ていたと言える。
 当時の人は秦末の田横(その死を聞いて500人の食客は全員殉死した)と引き比べ賞賛したという。
 諸葛誕の三族は皆殺しにあい、魏における諸葛誕一族は滅亡した。

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