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2014年1月

2014年1月 2日 (木)

ドイツ騎士団の興亡Ⅵ  ドイツ騎士団の終焉(最終回)

 タンネンベルクの敗戦は、ドイツ人にとって深い屈辱として残ります。はるか後年の第1次大戦中、東プロイセンでドイツ軍がロシアの大軍を破った戦いを場所が離れているにもかかわらず「タンネンベルクの会戦」と名付けたのもその表れでした。
 
 
 1410年7月17日、追撃を開始したポーランド・リトアニア連合軍は早くも7月25日にはドイツ騎士団の本拠マリエンブルクを囲みます。タンネンベルクの戦いで総長以下主だった幹部を失ったドイツ騎士団では唯一生き残ったシュベッツ管区長プラウエンが籠城の指揮をとります。
 
 ところがこのプラウエン意外と名将で民間人も含む籠城軍を良く指揮し、何と2カ月も連合軍の猛攻を防いだそうです。リヴォニア騎士団がマリエンブルク救援軍を派遣したという報告を受けた連合軍は、挟撃を恐れ撤退します。
 
 
 こうして騎士団最大の危機は去りました。しかし連合軍との力関係は完全に逆転し、1466年の第2次トルニの和約でダンチヒや首都マリエンブルクを含む東ポメラニアをポーランドに割譲、残された領土はケーニヒスベルクを中心とする東プロイセンのみになります。
 
 さらにその東プロイセンさえ、ポーランド国王の宗主権が及ぶ地域とされ騎士団はポーランドと屈辱的な主従関係を結ばされました。東方植民というドイツ騎士団の歴史的使命はこの時終わります。
 
 
 第37代総長はアルブレヒト・フォン・ブランデンブルク(在位1511年~1525年)という人物でした。名前からも分かる通りブランデンブルク選帝侯家(ベルリンを中心とする地域)出身です。
 
 このアルブレヒトという人物は特異な人物で、1523年マルティン・ルターと会見して感銘を受け同調する騎士と共に騎士団を離れルター派(プロテスタント)に改宗しました。そればかりかポーランド王ジグムント1世に改めて忠誠を誓い、反対派の騎士たちをプロイセンから追放します。
 
 この段階で、カトリックを信奉するドイツ騎士団は終わりました。アルブレヒトは、1525年プロイセンをポーランド国王宗主権下の世俗の領邦国家に作り替え、ホーエンツォレルン家(ブランデンブルク選帝侯家)が世襲するよう定めます。
 
 これがプロイセン公国の始まりでした。プロイセン公国はブランデンブルク選帝侯が同君連合として支配します。1660年ポーランドから独立、1701年大選帝侯フリードリヒ1世の時王号を称しプロイセン王国が誕生しました。
 
 アルブレヒトによってプロイセンを追放されたドイツ騎士団は、国家を失いわずかに残ったドイツ南部の所領を中心に細々と続きます。それも1809年には世俗領土をすべて失い、保護していたハプスブルク家も第1次大戦後滅亡。現在は慈善団体として存続しているそうです。
 
 
 こう言ってはなんですが、現在の状態こそ騎士団設立本来の目的に沿ったものだと思います。結成後800年を経てようやく正しい姿になったと言えるかもしれません。
 
 
 
                       (完)

ドイツ騎士団の興亡Ⅴ  タンネンベルクの決戦

 1386年、ポーランド・リトアニア合同の君主となったヴワディスワフ2世(リトアニア大公ヤゲェウォ)。彼は大国の首都をポーランドのクラコフに定めリトアニアは従弟のヴィタウタスをリトアニア大公に任命して任せます。
 
 そのヴィタウタスは、ドイツ騎士団との攻守を逆転するために騎士団領内のリトアニア人の反乱を秘かに援助しました。それまでリトアニアと騎士団は小康状態を保っていたのですが、この一件により両国の緊張は一気に高まります。
 
 
 異教徒討伐という大義名分が使えないドイツ騎士団側は、リトアニアが討伐を避けるためにカトリックに偽装改宗したと言いがかりをつけ攻撃の準備を続けました。ローマ教皇庁が同じカトリック国同士の戦争に難色を示しながらも黙認したのは、結局西欧人にとって自分たちを脅かす大国が東欧に出現したのを快く思っていなかったからだと思います。
 
 
 ドイツ騎士団は、同じくポーランド・リトアニア合同に警戒感を持つハンガリー王ジキスムント、ボヘミア王ヴァーツラフ4世と同盟を結び対ポーランド・リトアニアに対する十字軍を西欧諸国に呼びかけました。
 
 同じカトリック教徒同士で十字軍など異常でしたが、騎士団にとって大義名分などどうでもよかったのでしょう。目障りなポーランドを潰せればそれで良かったのです。ドイツ騎士団を主力とする十字軍は、ポーランドがカトリックでありながら異教徒リトアニア人に味方したという罪で1409年8月ポーランド国王ヴワディスワフ2世に宣戦布告状を送付しました。
 
 戦争が避けられない事を覚悟したポーランド・リトアニア連合軍も万全の準備を整えて待ち構えます。
 
 
 こうして中世東ヨーロッパ最大の戦いは開始されました。連合軍側は機先を制してドイツ騎士団の本拠地のあるマリエンブルク(ポーランドを北流する大河ヴィスワ河河口デルタ地帯の東岸)を急襲すべく大軍をワルシャワ近郊ツェルヴィンスクに終結させます。
 
 連合軍がプロイセン領に踏み込んだのは1410年7月。一方ドイツ騎士団総長ユンギンゲン(在位1407年~1410年)は連合軍が騎士団領と西洋諸国の連絡線である東ポメラニアに攻撃を仕掛けてくると思いこみ、主力を西へ移動させていたため連合軍の動きを知って慌てます。
 
 この遅れが、戦いの主導権を連合軍側に渡すことになりました。両軍はポーランド北部のタンネンベルクで激突します。この時の両軍の兵力は諸説ありますがポーランド・リトアニア連合軍4万、ドイツ騎士団3万。ただし騎士団側の主力はプレートメイルに身を固めた重装の騎士で、その数は2万を超えていたと言われています。さらに大砲まで有していたそうですから質でははるかに勝っていました。連合軍側の主力は軽装騎兵。
 
 連合軍を率いるヴワディスワフ2世は戦いの直前まで和平を模索して使者を送りますが、勝利に絶対の自信を持つユンギンゲンはこれを一蹴します。
 
 1410年7月15日戦闘開始。この日は夏には珍しい嵐が吹き荒れていたと言われます。当初質に勝る騎士団が圧倒し連合軍側は一時退却を検討したそうです。事実正午から始まった戦いは1時間もすると連合軍側の右翼が早くも崩れ始めます。この機会をとらえたユンギンゲンは、予備兵力を投入して戦いを一気に決しようとしました。
 
 このままでは連合軍の全軍崩壊は時間の問題でした。ところが右翼を守っていたロシア人部隊が崩壊しかけた戦列を支えます。3つの旗団のうち1つが壊滅するほどの被害を出しながらも後続の援軍と共に騎士団の猛攻を防ぎました。
 
 騎士団の兵士は、戦いの帰趨は決まったとばかり勝ち誇って追撃し略奪を開始していました。この驕りが手痛いしっぺ返しになる事をまだ気づいていません。戦いは騎士団側の騎士がポーランド国王に一騎打ちを挑むほど錯綜していたと伝えられています。
 
 が、ギリギリのところで戦列を持ちこたえていた連合軍は、重い鎧をつけて長時間戦い疲れの見え始めた騎士団を次第に巻き返し始めました。こうなると重い鎧はかえってハンデになります。逃げ遅れた騎士たちは、連合軍の軽装騎兵に次々と討ち取られていきました。
 
 略奪に夢中になり広く分散していたことも騎士団に不利に働きました。左翼で連合軍に包囲されたユンギンゲンは、敵中突破を図るも失敗。総長ユンギンゲン、管区長、分団長、名だたる騎士たちが次々と討たれ、騎士団は潰走します。
 
 ここで連合軍がすぐ追撃をしていれば、ドイツ騎士団はこの時滅亡していたでしょう。しかし連合軍側も傷つき追撃する余力はもう残っていませんでした。結局連合軍は3日間ここに留まり休養、騎士団の本拠地マリエンブルクに進撃を開始したのは7月17日。
 
 
 タンネンベルクの戦いは、東ヨーロッパの覇権を決定付けた戦いでした。以後ドイツ騎士団は振るわず、ヤゲェウォ朝ポーランド・リトアニア連合の黄金時代が幕開けます。
 
 
 次回、最終回ドイツ騎士団の終焉を描きます。

ドイツ騎士団の興亡Ⅳ  大敵出現

 世界史を見ていると現在では想像できないほど、かつては広く強大だった国があります。以前紹介したデンマーク・北海帝国然り、スウェーデン・バルト帝国然り。
 
 皆さんは意外に思われるかもしれませんが、ポーランドという国もそうでした。ポーランドが世界史にはっきりと登場するのは土着王朝ピャスト朝ミェシュコ1世が国土を統一しカトリックに改宗して西欧世界に認知された966年だと言われています。この時の領域はほぼ現在のポーランドくらいでした。1241年バトゥ率いるモンゴル軍とリーグニッツで戦って敗北したのもピャスト朝の時代です。
 
 最初の民族王朝ピャスト朝が14世紀に断絶するとポーランド王位は姻戚関係から当時ハンガリー王であったフランスのアンジュー家に移ります。しかしそのラヨシュ1世も1382年に没し、ポーランド貴族によってラヨシュの末娘ヤドヴィガ(1373年~1399年)がポーランド王に迎えられました。
 
 1384年即位したときわずか10歳だったと伝えられます。ハンガリー王位は長女マリアが継承するのでこの段階でポーランド・ハンガリーの同君連合は終わりました。
 
 成年にも達しない娘に厳しい国際情勢を生き抜く力は当然ありません。そこでポーランド貴族たちは隣国リトアニア大公ヤギェウォに目をつけます。当時リトアニアは自然崇拝の蛮族国家でしたから、ヤドヴィガと結婚するにあたってカトリックに改宗することが条件でした。
 
 ヤギェウォにとっては改宗するだけでポーランドという大国が手に入るのですから二つ返事で承諾します。ここにヤドヴィガの意思は入っていません。典型的な政略結婚でした。
 
 ヤギェウォは1385年カトリックに改宗。翌1386年リトアニアの首都ヴィルニュスにおいてヤドヴィガと結婚式を挙行、ポーランド王に戴冠しました。ポーランド王としてはヴワディスワフ2世と名乗ります。ポーランドはこれによりリトアニアと同君連合となりました。世界史ではこれをポーランド・リトアニア連合と呼びます。所謂ヤギェウォ朝の始まりです。
 
 
 リトアニアはドイツ騎士団の侵略をほとんど受けていません。というのも他の諸民族と違い民族としての団結力が強かったからです。ここにポーランドという国が加わったということはドイツ騎士団との力関係を完全に逆転しました。ヤギェウォは武将としても有能でポーランド・リトアニア連合は彼の時代以降白ロシア(ベラルーシ)、ウクライナと領土を拡大し一躍東欧最強の国家となります。
 
 ヤギェウォ朝は以後紆余曲折がありながらも1598年まで200年8代の歴史を刻みました。一方ドイツ騎士団にとってカトリックの強国が突如出現した事は誤算でした。異民族教化の北方十字軍という大義名分が使えないからです。すでにカトリック教化は形骸化し、ドイツ騎士団領は一つの領域国家となっていました。
 
 
 拡大路線を続けたドイツ騎士団、西からの侵略者に対する正義の戦いに団結したポーランドとリトアニア。両者の対決は間もなく起ころうとしていました。
 
 
 次回、バルト海の覇権を決定付けたタンネンベルクの戦いを描きます。

ドイツ騎士団の興亡Ⅲ  チュード湖氷上の戦い

 ドイツ騎士団の歴史を調べると意外と敗戦が多い事に気付きます。しかし領土は着実に拡大していった事を考えると個々の戦闘結果で戦局が左右されないような方策を取っていたということなのでしょう。
 
 騎士団は、ある地域を占領するとそこに要塞を築き周辺の村々にも防衛拠点の砦を築きます。ドイツから招き寄せたドイツ人入植者は平時には開墾に従事しますが有事になると騎士の指揮のもと要塞や砦に逃げ込んで兵士として敵と戦います。所謂屯田兵方式で領土を拡大していったのでした。
 
 この方法は急速な領土拡大には向きませんが、要塞を中心にした防衛ネットワークを構築することで面として拡大できたわけです。
 
 
 おそらく中東のイスラム教徒相手に有効だった方法なのでしょう。ドイツ騎士団はバルト海でもこの方法を採用しプロシア、クールラント、リヴォニアと領土を拡大していきました。
 
 
 ドイツ騎士団がエストニアのデンマーク勢力やノブゴロド公国と国境を接し衝突が起こった事は前記事で書きました。そのうち当時バルト海沿岸に領土を持っていた強国デンマークとの全面戦争は避けられます。というのも同じカトリック教国であったデンマークとの戦争をローマ教皇庁が望まなかったからです。おそらく騎士団も強大なデンマーク軍との戦争はできれば回避したかったのでしょう。
 
 騎士団は、北上を諦め矛先を東に向けます。そこにはギリシャ正教国ノブゴロドがありました。教皇庁はノブゴロドとの戦争に関しては沈黙します。おそらくローマカトリックでない国は例え同じキリスト教国でも異教徒扱いだったのでしょう。ノブゴロドを滅ぼしてカトリック圏が拡大するのが望ましいと考えていたのかもしれません。
 
 
 ここでノブゴロドという国に関して説明しておきましょう。ノブゴロドはノルマン人リューリックによって建国されたといわれています。いわゆるノルマン人(ヴァイキング)拡大の一環です。だいたい9世紀後半ごろの出来事でした。その後リューリックの子孫たちはキエフに拠点を移し政治の中心はキエフになります。しかしノブゴロドはハンザ同盟に加盟し地中海・黒海・バルト海を結ぶ交易ルートの要衝として栄えました。
 
 ノブゴロド公国は交易都市ノブゴロドを中心に発展し、公国とは云いながら実態は貴族共和制の国でした。公は貴族たちの代表としての地位しか持たず、力の無い公は貴族たちにより追放されました。この時のノブゴロド公はアレクサンドル・ネフスキーという人物です。
 
 
 知勇兼備の名将として名高い人物で、ロシアでは救国の英雄とした崇められているそうです。この時代彼がノブゴロド公であった事はロシアにとって幸いでした。
 
 
 ドイツ騎士団の侵略が始まる前、フィンランドを制圧したスウェーデンが北方からノブゴロドを窺い攻撃します。ネフスキーはこれを1240年ネヴァ河畔の戦いで撃破しました。ネフスキーというのは「ネヴァ川の勝利者」という意味だそうです。
 
 
 ドイツ騎士団のノブゴロド侵略は1242年、連続して外敵に狙われた事になります。実は1241年には有名なバトゥ率いるモンゴル軍によるリーグニッツの戦いがポーランドで起こりドイツ騎士団もこれに参加して惨敗してますから、よくそんな余裕があったものだと感心します。
 
 おそらくノブゴロドもドイツ騎士団領もあまりにも北辺すぎてモンゴル軍の侵攻ルートから外れていたのかもしれません。ドイツ騎士団側で直接ノブゴロド侵略に当たったのは現地リヴォニア騎士団でした。
 
 
 両軍は、エストニアとロシアの境チュード湖で激突します。万単位の軍勢が乗っても割れないほど厚い氷が張っていたそうですからこの地がいかに極寒か分かります。1242年4月侵攻してきたドイツ騎士団は待ち伏せしていたネフスキーのノブゴロド軍に包囲され惨敗しました。
 
 これによりドイツ騎士団の東方進出は頓挫します。一方ネフスキーもウクライナに出現したモンゴルの汗国ジュチ・ウルスに対する事で忙殺され騎士団とはチュード湖を国境とする事で休戦しました。
 
 ネフスキーは強大なジュチ・ウルス(キプチャク汗国)と戦う愚を悟り臣従する事で難を逃れました。所謂タタールの軛(くびき)の始まりです。ロシアが属国状態から逃れるのは数世紀後の事でした。
 
 
 一方、敗戦したものの直接領土が戦場になったわけではないドイツ騎士団は以後守りの時代に入ります。占領地を確実に領土とするためにドイツからの移民を受け入れ開発を進めました。
 
 
 しかし、ドイツ騎士団は最大最強の敵が南から迫っていた事にまだ気づいていません。それは国家存亡を掛けるほどの危機でした。
 
 
 次回、「大敵出現」にご期待ください。

ドイツ騎士団の興亡Ⅱ  バルト海へ

 ドイツ騎士団第4代総長ヘルマン・ザルツァ(在位1210年~1239年)はその後のドイツ騎士団の方向性を決めた人物であり、傑出した外交能力の持ち主でした。「中世最大のドイツ人政治家」と呼ぶ人もいます。ただ有能な分、野心が勝りすぎていたきらいもあり評価が分かれる人物です。
 
 
 最初、ドイツ騎士団はハンガリー王の期待通り、王国の南部辺境トランシルバニアを異民族クマン族の襲撃からよく守り領域を南部のワラキア(ルーマニア南部)に拡大しもしました。しかしドイツ騎士団が確固たる地位を得るにつれ総長ザルツァに野心が芽生え始めます。
 
 ハンガリー王から自立し、ドイツ騎士団王国をこの地に建国しようとしたのです。ザルツァは秘かにローマ教皇庁と連絡を取り騎士団の支配領域ブルツェンラントをローマ教皇直轄にしようとします。ローマ教皇が統治できるはずありませんから実質的には騎士団のハンガリーからの独立でした。
 
 しかしその野心は間もなくハンガリー王アンドラーシュ2世の知るところとなりました。烈火のごとく怒ったハンガリー王は、騎士団の追放を決定します。1225年王は騎士団に与えていた特権をすべて剥奪しハンガリーから出て行くよう命じました。
 
 いくら騎士団が強くても一国を相手に戦争できるはずはありません。結局ハンガリー入植14年目でまたもや元の黙阿弥に戻りました。
 
 
 その冬、失意の騎士団のもとにポーランドのマソウィア公コンラートから誘いがきます。コンラートは異民族プルーセン人(彼らの住んでいた領域が後にプロイセンと呼ばれるようになった。現ポーランド北東部からリトアニア西南部にかけてのバルト海沿岸地域)の侵入に悩まされており騎士団に辺境防衛を委ねようと云うのです。
 
 しかしハンガリーで懲りていたザルツァはなかなか承諾しませんでした。何回かの折衝の末新たな占領地はドイツ騎士団の領有とすることをコンラートに認めさせた末ようやくポーランド行きを決意したのです。
 
 さらにザルツァはローマ教皇庁が何の実力もない事をハンガリーの件で悟り世俗の強力な庇護者を求めました。それが神聖ローマ皇帝です。皇帝のお墨付きを得た上で騎士団国家創設をバルト海で実現しようと目論みます。
 
 ザルツァはローマ教皇の権威を利用する事も忘れませんでした。時のローマ教皇グレゴリウス9世にも「騎士団が異教徒の地で獲得したすべての土地を完全なる権利として譲与する」という確約を得ます。
 
 
 こうして騎士団はプロイセンの地へ教化と言う名の侵略を開始します。と言っても最初は弱体な騎士団だけでは実行できないので教皇庁と神聖ローマ皇帝を動かし北方十字軍を組織させ侵略の片棒を担がせました。
 
 これは十字軍に参加したドイツ諸侯にとっても魅力あるものだったのでしょう。相手は異教徒、略奪し放題、奪った領土は自分のものにできるのですから参加する者が後を絶ちませんでした。ある意味中東の十字軍より敵が弱体なためより容易だったともいえます。
 
 
 騎士団のバルト海侵略は順調に進みます。占領した土地には要塞を建設し1241年までにポメサニア・ポゲサニア・ワルミア・バルタ・ナタンギアを次々と騎士団の領土にしました。1237年にはドイツ騎士団に先行してラトビア征服に従事していたリヴォニア騎士団も吸収します。
 
 
 順調に見えた騎士団の征服事業は、すでにエストニアに進出していたデンマーク、さらにはその東ギリシャ正教を信奉するノブゴロドと衝突するまでに至りました。カトリック国(当時)のデンマーク、そしてギリシャ正教のノブゴロドは同じキリスト教徒です。
 
 
 さすがにキリスト教徒同士の戦争にはローマ教皇庁が難色を示しました。が、騎虎の勢とも言うべきかドイツ騎士団の進撃は止まりません。そして驕れる騎士団に大鉄槌が下されようとしていました。
 
 
 次回、ドイツ騎士団の拡大路線が頓挫した戦い「氷上の戦い」を描きます。

ドイツ騎士団の興亡Ⅰ  誕生

 15世紀の歴史地図を見ると現在のバルト三国あたりにドイツ騎士団領という国がある事に気付かれると思います。ただこの国の歴史に関して語られる事はありません。残念ながら高校世界史レベルでは西欧の歴史が中心で東欧史はおざなりになっているのが現状です。
 
 これは日本の世界史学会でも同様で、東欧史の研究者は西欧史に比べて甚だ少ないそうです。本シリーズではユニークな騎士団国家であるドイツ騎士団領を中心に、騎士団と大きく関わる当時東欧世界最強だったポーランド・リトアニア連合を語ろうと思います。
 
 
 話は12世紀の十字軍時代にさかのぼります。皆さんは騎士団あるいは騎士修道会という名を聞かれた事はありますか?騎士修道会とはローマ教皇が認めた剣を持った修道会で騎士であると同時に修道士であった団体です。
 
 第一回十字軍でパレスチナに十字軍国家ができると、ヨーロッパからの巡礼者を守るためにいくつかの騎士修道会が誕生します。有名なのはテンプル騎士団、聖ヨハネ騎士団、チュートン騎士団などです。
 
 このチュートン騎士団こそドイツ騎士団でした。テンプル騎士団が巡礼者保護から次第に金融業に活動の中心を移し、聖ヨハネ騎士団が別名ホスピタル騎士団と呼ばれるように医療活動を専らにしたのに対し、ドイツ騎士団はドイツ出身者で結成され主にドイツからの巡礼者の保護を活動目的としました。
 
 ただどんな崇高な目的で結成された団体でも時がたつにつれ腐敗し、、世俗化していくのは世の習いです。騎士団関係者には甚だ失礼ながら騎士団が世俗化するのは意外と早いものでした。
 
 
 騎士団は十字軍国家や西欧からの十字軍とともに戦争に参加し、異教徒であるイスラム教徒を数多く虐殺しました。これでは現地住民の支持を得ることはできません。キリスト教の名のもとに虐殺する殺人集団、これが現地の人々から抱かれた騎士団のイメージでした。
 
 
 ドイツ騎士団は、イスラム教徒側の反撃でパレスチナの十字軍国家がことごとく滅ぼされ中東における拠点を失います。普通なら活動の意義を失ったのですから解散するはずでした。ところが既得権益を守りたいと云うのは人間の性なのでしょう。
 
 
 1210年、第4代騎士団総長ヘルマン・ザルツァはハンガリー王アンドラーシュ2世に招かれ騎士団は中東からハンガリーへと移りました。ハンガリー王は騎士団にトランシルバニアを与え、そこを騎士団領としてクマン人(当時ウクライナにいたトルコ系遊牧民)から王国の南部国境を防衛する役目を与えます。
 
 このことはドイツ騎士団が活動の拠点を東欧に移しても変わりません。とくに東欧世界ではローマカトリックでないならギリシャ正教というキリスト教の一派さえ異教徒扱いされ虐殺されたのですからたまりません。これにはカトリック内部からでさえ批判が起き心ある司教や修道士たちは辺境における騎士団の残虐性をローマ教皇に訴えたりします。
 
 しかし騎士団は、神聖ローマ皇帝という世俗権力に巧みに取り入りこういう正義の声を力で圧殺しました。教皇庁内部も騎士団の豊富な資金力(それもほとんどは異教徒から略奪した財産!)の前に屈服したというのが現実でした。
 
 
 この段階ですでに騎士団は変容し、騎士修道会とは名ばかりのカトリック伝道を隠れ蓑にした世俗領主となり果てます。さらにザルツァが野心家であった事が話をさらに複雑にしました。
 
 
 次回は、騎士団がハンガリーを叩き出されバルト海沿岸地方へ東方植民する歴史を語ります。

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