ドイツ騎士団の興亡Ⅳ 大敵出現
世界史を見ていると現在では想像できないほど、かつては広く強大だった国があります。以前紹介したデンマーク・北海帝国然り、スウェーデン・バルト帝国然り。
皆さんは意外に思われるかもしれませんが、ポーランドという国もそうでした。ポーランドが世界史にはっきりと登場するのは土着王朝ピャスト朝ミェシュコ1世が国土を統一しカトリックに改宗して西欧世界に認知された966年だと言われています。この時の領域はほぼ現在のポーランドくらいでした。1241年バトゥ率いるモンゴル軍とリーグニッツで戦って敗北したのもピャスト朝の時代です。
最初の民族王朝ピャスト朝が14世紀に断絶するとポーランド王位は姻戚関係から当時ハンガリー王であったフランスのアンジュー家に移ります。しかしそのラヨシュ1世も1382年に没し、ポーランド貴族によってラヨシュの末娘ヤドヴィガ(1373年~1399年)がポーランド王に迎えられました。
1384年即位したときわずか10歳だったと伝えられます。ハンガリー王位は長女マリアが継承するのでこの段階でポーランド・ハンガリーの同君連合は終わりました。
成年にも達しない娘に厳しい国際情勢を生き抜く力は当然ありません。そこでポーランド貴族たちは隣国リトアニア大公ヤギェウォに目をつけます。当時リトアニアは自然崇拝の蛮族国家でしたから、ヤドヴィガと結婚するにあたってカトリックに改宗することが条件でした。
ヤギェウォにとっては改宗するだけでポーランドという大国が手に入るのですから二つ返事で承諾します。ここにヤドヴィガの意思は入っていません。典型的な政略結婚でした。
ヤギェウォは1385年カトリックに改宗。翌1386年リトアニアの首都ヴィルニュスにおいてヤドヴィガと結婚式を挙行、ポーランド王に戴冠しました。ポーランド王としてはヴワディスワフ2世と名乗ります。ポーランドはこれによりリトアニアと同君連合となりました。世界史ではこれをポーランド・リトアニア連合と呼びます。所謂ヤギェウォ朝の始まりです。
リトアニアはドイツ騎士団の侵略をほとんど受けていません。というのも他の諸民族と違い民族としての団結力が強かったからです。ここにポーランドという国が加わったということはドイツ騎士団との力関係を完全に逆転しました。ヤギェウォは武将としても有能でポーランド・リトアニア連合は彼の時代以降白ロシア(ベラルーシ)、ウクライナと領土を拡大し一躍東欧最強の国家となります。
ヤギェウォ朝は以後紆余曲折がありながらも1598年まで200年8代の歴史を刻みました。一方ドイツ騎士団にとってカトリックの強国が突如出現した事は誤算でした。異民族教化の北方十字軍という大義名分が使えないからです。すでにカトリック教化は形骸化し、ドイツ騎士団領は一つの領域国家となっていました。
拡大路線を続けたドイツ騎士団、西からの侵略者に対する正義の戦いに団結したポーランドとリトアニア。両者の対決は間もなく起ころうとしていました。
次回、バルト海の覇権を決定付けたタンネンベルクの戦いを描きます。
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