ドイツ騎士団の興亡Ⅱ バルト海へ
ドイツ騎士団第4代総長ヘルマン・ザルツァ(在位1210年~1239年)はその後のドイツ騎士団の方向性を決めた人物であり、傑出した外交能力の持ち主でした。「中世最大のドイツ人政治家」と呼ぶ人もいます。ただ有能な分、野心が勝りすぎていたきらいもあり評価が分かれる人物です。
最初、ドイツ騎士団はハンガリー王の期待通り、王国の南部辺境トランシルバニアを異民族クマン族の襲撃からよく守り領域を南部のワラキア(ルーマニア南部)に拡大しもしました。しかしドイツ騎士団が確固たる地位を得るにつれ総長ザルツァに野心が芽生え始めます。
ハンガリー王から自立し、ドイツ騎士団王国をこの地に建国しようとしたのです。ザルツァは秘かにローマ教皇庁と連絡を取り騎士団の支配領域ブルツェンラントをローマ教皇直轄にしようとします。ローマ教皇が統治できるはずありませんから実質的には騎士団のハンガリーからの独立でした。
しかしその野心は間もなくハンガリー王アンドラーシュ2世の知るところとなりました。烈火のごとく怒ったハンガリー王は、騎士団の追放を決定します。1225年王は騎士団に与えていた特権をすべて剥奪しハンガリーから出て行くよう命じました。
いくら騎士団が強くても一国を相手に戦争できるはずはありません。結局ハンガリー入植14年目でまたもや元の黙阿弥に戻りました。
その冬、失意の騎士団のもとにポーランドのマソウィア公コンラートから誘いがきます。コンラートは異民族プルーセン人(彼らの住んでいた領域が後にプロイセンと呼ばれるようになった。現ポーランド北東部からリトアニア西南部にかけてのバルト海沿岸地域)の侵入に悩まされており騎士団に辺境防衛を委ねようと云うのです。
しかしハンガリーで懲りていたザルツァはなかなか承諾しませんでした。何回かの折衝の末新たな占領地はドイツ騎士団の領有とすることをコンラートに認めさせた末ようやくポーランド行きを決意したのです。
さらにザルツァはローマ教皇庁が何の実力もない事をハンガリーの件で悟り世俗の強力な庇護者を求めました。それが神聖ローマ皇帝です。皇帝のお墨付きを得た上で騎士団国家創設をバルト海で実現しようと目論みます。
ザルツァはローマ教皇の権威を利用する事も忘れませんでした。時のローマ教皇グレゴリウス9世にも「騎士団が異教徒の地で獲得したすべての土地を完全なる権利として譲与する」という確約を得ます。
こうして騎士団はプロイセンの地へ教化と言う名の侵略を開始します。と言っても最初は弱体な騎士団だけでは実行できないので教皇庁と神聖ローマ皇帝を動かし北方十字軍を組織させ侵略の片棒を担がせました。
これは十字軍に参加したドイツ諸侯にとっても魅力あるものだったのでしょう。相手は異教徒、略奪し放題、奪った領土は自分のものにできるのですから参加する者が後を絶ちませんでした。ある意味中東の十字軍より敵が弱体なためより容易だったともいえます。
騎士団のバルト海侵略は順調に進みます。占領した土地には要塞を建設し1241年までにポメサニア・ポゲサニア・ワルミア・バルタ・ナタンギアを次々と騎士団の領土にしました。1237年にはドイツ騎士団に先行してラトビア征服に従事していたリヴォニア騎士団も吸収します。
順調に見えた騎士団の征服事業は、すでにエストニアに進出していたデンマーク、さらにはその東ギリシャ正教を信奉するノブゴロドと衝突するまでに至りました。カトリック国(当時)のデンマーク、そしてギリシャ正教のノブゴロドは同じキリスト教徒です。
さすがにキリスト教徒同士の戦争にはローマ教皇庁が難色を示しました。が、騎虎の勢とも言うべきかドイツ騎士団の進撃は止まりません。そして驕れる騎士団に大鉄槌が下されようとしていました。
次回、ドイツ騎士団の拡大路線が頓挫した戦い「氷上の戦い」を描きます。
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