ドイツ騎士団の興亡Ⅲ チュード湖氷上の戦い
ドイツ騎士団の歴史を調べると意外と敗戦が多い事に気付きます。しかし領土は着実に拡大していった事を考えると個々の戦闘結果で戦局が左右されないような方策を取っていたということなのでしょう。
騎士団は、ある地域を占領するとそこに要塞を築き周辺の村々にも防衛拠点の砦を築きます。ドイツから招き寄せたドイツ人入植者は平時には開墾に従事しますが有事になると騎士の指揮のもと要塞や砦に逃げ込んで兵士として敵と戦います。所謂屯田兵方式で領土を拡大していったのでした。
この方法は急速な領土拡大には向きませんが、要塞を中心にした防衛ネットワークを構築することで面として拡大できたわけです。
おそらく中東のイスラム教徒相手に有効だった方法なのでしょう。ドイツ騎士団はバルト海でもこの方法を採用しプロシア、クールラント、リヴォニアと領土を拡大していきました。
ドイツ騎士団がエストニアのデンマーク勢力やノブゴロド公国と国境を接し衝突が起こった事は前記事で書きました。そのうち当時バルト海沿岸に領土を持っていた強国デンマークとの全面戦争は避けられます。というのも同じカトリック教国であったデンマークとの戦争をローマ教皇庁が望まなかったからです。おそらく騎士団も強大なデンマーク軍との戦争はできれば回避したかったのでしょう。
騎士団は、北上を諦め矛先を東に向けます。そこにはギリシャ正教国ノブゴロドがありました。教皇庁はノブゴロドとの戦争に関しては沈黙します。おそらくローマカトリックでない国は例え同じキリスト教国でも異教徒扱いだったのでしょう。ノブゴロドを滅ぼしてカトリック圏が拡大するのが望ましいと考えていたのかもしれません。
ここでノブゴロドという国に関して説明しておきましょう。ノブゴロドはノルマン人リューリックによって建国されたといわれています。いわゆるノルマン人(ヴァイキング)拡大の一環です。だいたい9世紀後半ごろの出来事でした。その後リューリックの子孫たちはキエフに拠点を移し政治の中心はキエフになります。しかしノブゴロドはハンザ同盟に加盟し地中海・黒海・バルト海を結ぶ交易ルートの要衝として栄えました。
ノブゴロド公国は交易都市ノブゴロドを中心に発展し、公国とは云いながら実態は貴族共和制の国でした。公は貴族たちの代表としての地位しか持たず、力の無い公は貴族たちにより追放されました。この時のノブゴロド公はアレクサンドル・ネフスキーという人物です。
知勇兼備の名将として名高い人物で、ロシアでは救国の英雄とした崇められているそうです。この時代彼がノブゴロド公であった事はロシアにとって幸いでした。
ドイツ騎士団の侵略が始まる前、フィンランドを制圧したスウェーデンが北方からノブゴロドを窺い攻撃します。ネフスキーはこれを1240年ネヴァ河畔の戦いで撃破しました。ネフスキーというのは「ネヴァ川の勝利者」という意味だそうです。
ドイツ騎士団のノブゴロド侵略は1242年、連続して外敵に狙われた事になります。実は1241年には有名なバトゥ率いるモンゴル軍によるリーグニッツの戦いがポーランドで起こりドイツ騎士団もこれに参加して惨敗してますから、よくそんな余裕があったものだと感心します。
おそらくノブゴロドもドイツ騎士団領もあまりにも北辺すぎてモンゴル軍の侵攻ルートから外れていたのかもしれません。ドイツ騎士団側で直接ノブゴロド侵略に当たったのは現地リヴォニア騎士団でした。
両軍は、エストニアとロシアの境チュード湖で激突します。万単位の軍勢が乗っても割れないほど厚い氷が張っていたそうですからこの地がいかに極寒か分かります。1242年4月侵攻してきたドイツ騎士団は待ち伏せしていたネフスキーのノブゴロド軍に包囲され惨敗しました。
これによりドイツ騎士団の東方進出は頓挫します。一方ネフスキーもウクライナに出現したモンゴルの汗国ジュチ・ウルスに対する事で忙殺され騎士団とはチュード湖を国境とする事で休戦しました。
ネフスキーは強大なジュチ・ウルス(キプチャク汗国)と戦う愚を悟り臣従する事で難を逃れました。所謂タタールの軛(くびき)の始まりです。ロシアが属国状態から逃れるのは数世紀後の事でした。
一方、敗戦したものの直接領土が戦場になったわけではないドイツ騎士団は以後守りの時代に入ります。占領地を確実に領土とするためにドイツからの移民を受け入れ開発を進めました。
しかし、ドイツ騎士団は最大最強の敵が南から迫っていた事にまだ気づいていません。それは国家存亡を掛けるほどの危機でした。
次回、「大敵出現」にご期待ください。
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