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2014年1月 2日 (木)

ドイツ騎士団の興亡Ⅴ  タンネンベルクの決戦

 1386年、ポーランド・リトアニア合同の君主となったヴワディスワフ2世(リトアニア大公ヤゲェウォ)。彼は大国の首都をポーランドのクラコフに定めリトアニアは従弟のヴィタウタスをリトアニア大公に任命して任せます。
 
 そのヴィタウタスは、ドイツ騎士団との攻守を逆転するために騎士団領内のリトアニア人の反乱を秘かに援助しました。それまでリトアニアと騎士団は小康状態を保っていたのですが、この一件により両国の緊張は一気に高まります。
 
 
 異教徒討伐という大義名分が使えないドイツ騎士団側は、リトアニアが討伐を避けるためにカトリックに偽装改宗したと言いがかりをつけ攻撃の準備を続けました。ローマ教皇庁が同じカトリック国同士の戦争に難色を示しながらも黙認したのは、結局西欧人にとって自分たちを脅かす大国が東欧に出現したのを快く思っていなかったからだと思います。
 
 
 ドイツ騎士団は、同じくポーランド・リトアニア合同に警戒感を持つハンガリー王ジキスムント、ボヘミア王ヴァーツラフ4世と同盟を結び対ポーランド・リトアニアに対する十字軍を西欧諸国に呼びかけました。
 
 同じカトリック教徒同士で十字軍など異常でしたが、騎士団にとって大義名分などどうでもよかったのでしょう。目障りなポーランドを潰せればそれで良かったのです。ドイツ騎士団を主力とする十字軍は、ポーランドがカトリックでありながら異教徒リトアニア人に味方したという罪で1409年8月ポーランド国王ヴワディスワフ2世に宣戦布告状を送付しました。
 
 戦争が避けられない事を覚悟したポーランド・リトアニア連合軍も万全の準備を整えて待ち構えます。
 
 
 こうして中世東ヨーロッパ最大の戦いは開始されました。連合軍側は機先を制してドイツ騎士団の本拠地のあるマリエンブルク(ポーランドを北流する大河ヴィスワ河河口デルタ地帯の東岸)を急襲すべく大軍をワルシャワ近郊ツェルヴィンスクに終結させます。
 
 連合軍がプロイセン領に踏み込んだのは1410年7月。一方ドイツ騎士団総長ユンギンゲン(在位1407年~1410年)は連合軍が騎士団領と西洋諸国の連絡線である東ポメラニアに攻撃を仕掛けてくると思いこみ、主力を西へ移動させていたため連合軍の動きを知って慌てます。
 
 この遅れが、戦いの主導権を連合軍側に渡すことになりました。両軍はポーランド北部のタンネンベルクで激突します。この時の両軍の兵力は諸説ありますがポーランド・リトアニア連合軍4万、ドイツ騎士団3万。ただし騎士団側の主力はプレートメイルに身を固めた重装の騎士で、その数は2万を超えていたと言われています。さらに大砲まで有していたそうですから質でははるかに勝っていました。連合軍側の主力は軽装騎兵。
 
 連合軍を率いるヴワディスワフ2世は戦いの直前まで和平を模索して使者を送りますが、勝利に絶対の自信を持つユンギンゲンはこれを一蹴します。
 
 1410年7月15日戦闘開始。この日は夏には珍しい嵐が吹き荒れていたと言われます。当初質に勝る騎士団が圧倒し連合軍側は一時退却を検討したそうです。事実正午から始まった戦いは1時間もすると連合軍側の右翼が早くも崩れ始めます。この機会をとらえたユンギンゲンは、予備兵力を投入して戦いを一気に決しようとしました。
 
 このままでは連合軍の全軍崩壊は時間の問題でした。ところが右翼を守っていたロシア人部隊が崩壊しかけた戦列を支えます。3つの旗団のうち1つが壊滅するほどの被害を出しながらも後続の援軍と共に騎士団の猛攻を防ぎました。
 
 騎士団の兵士は、戦いの帰趨は決まったとばかり勝ち誇って追撃し略奪を開始していました。この驕りが手痛いしっぺ返しになる事をまだ気づいていません。戦いは騎士団側の騎士がポーランド国王に一騎打ちを挑むほど錯綜していたと伝えられています。
 
 が、ギリギリのところで戦列を持ちこたえていた連合軍は、重い鎧をつけて長時間戦い疲れの見え始めた騎士団を次第に巻き返し始めました。こうなると重い鎧はかえってハンデになります。逃げ遅れた騎士たちは、連合軍の軽装騎兵に次々と討ち取られていきました。
 
 略奪に夢中になり広く分散していたことも騎士団に不利に働きました。左翼で連合軍に包囲されたユンギンゲンは、敵中突破を図るも失敗。総長ユンギンゲン、管区長、分団長、名だたる騎士たちが次々と討たれ、騎士団は潰走します。
 
 ここで連合軍がすぐ追撃をしていれば、ドイツ騎士団はこの時滅亡していたでしょう。しかし連合軍側も傷つき追撃する余力はもう残っていませんでした。結局連合軍は3日間ここに留まり休養、騎士団の本拠地マリエンブルクに進撃を開始したのは7月17日。
 
 
 タンネンベルクの戦いは、東ヨーロッパの覇権を決定付けた戦いでした。以後ドイツ騎士団は振るわず、ヤゲェウォ朝ポーランド・リトアニア連合の黄金時代が幕開けます。
 
 
 次回、最終回ドイツ騎士団の終焉を描きます。

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