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2014年2月

2014年2月 3日 (月)

ハプスブルク帝国Ⅹ  ハプスブルク帝国の最期

 オーストリア・ハンガリー二重帝国皇帝フランツ・ヨーゼフ1世(在位1848年~1916年)は、最後の神聖ローマ皇帝フランツ2世(オーストリア皇帝としてはフランツ1世)の孫にあたります。叔父フェルディナント1世(フランツ2世の長男)が3月革命で退位したため皇帝となりました。
 
 ちなみに退位後のフェルディナントは、病弱で健康を危ぶまれましたがなんとその後27年間も生き1875年82歳の長命で亡くなります。
 
 フランツ・ヨーゼフ1世は即位したときまだ18歳でした。斜陽の帝国を支えるには知識も経験も不足していたのです。しかし彼は幾度かの危機を乗り切り無難に統治しました。ところが彼を襲ったのは外患だけではありませんでした。
 
 まず弟マクシミリアンがフランスのナポレオン3世の口車に乗せられメキシコ皇帝に即位。間もなく勃発したメキシコ革命で1867年処刑されてしまいます。次に最愛の嫡子ルドルフが1889年政略結婚を嫌い下級貴族(男爵)の娘と心中。悪い事は重なるもので今度は皇后エリザベートが1898年無政府主義者の凶刃に倒れました。
 
 家庭の不幸は老皇帝の心を痛めたと思います。ルドルフ亡きあと甥のフランツ・フェルディナント大公が皇位継承者と定められました。
 
 時代は宰相ビスマルクからドイツ皇帝ウィルヘルム2世のドイツを中心に動き始めます。人口的にも工業力も経済力でもドイツ帝国がオーストリアを凌駕し、国際政治上の発言力も逆転していました。
 
 そのウィルヘルム2世は、太陽の没せぬ帝国イギリスの海上権に挑戦し大建艦競争を仕掛けます。イギリスはこれに対抗しフランス、ロシアと三国協商を結びドイツの封じ込めを図りました。かつてビスマルクはドイツの孤立を恐れロシアとの接近を図っていましたが、その失脚後自己の野望で冷静な判断ができなくなったドイツ皇帝は自ら孤立の道を突き進んだのです。
 
 ドイツは、孤立を避けるためオーストリア、イタリアを誘って三国同盟を結びますがチロルなど未回収のイタリア問題で対立したイタリアは、英仏の誘いを受け寝返りました。ドイツは、さらにブルガリア、オスマントルコと同盟を結びます。
 
 当時のバルカン半島は民族問題が噴出し世界の火薬庫と呼ばれていました。オーストリア領のクロアチアやボスニア・ヘルツェゴビナでもロシアに扇動され南スラブ族が独立の機会を虎視眈々と狙っていました。各地でテロが横行し治安は最悪になります。
 
 そんな中1914年、オーストリア皇太子フランツ・フェルディナント夫妻はボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボを訪問します。皇太子自身は開明的である程度の民族自治も認めようという考えだったらしいのですが、セルビア人青年ガヴリロ・プリンツィプによって暗殺されてしまいました。
 
 激怒したオーストリアはセルビアに宣戦布告。これに英独仏露伊など各国が参戦し第一次世界大戦が勃発します。オーストリア帝国は領内に多くのスラブ人を抱え民族的団結力に欠けていました。バルカン半島ではスラブ系民族が独立を画策しそれをロシアが後押ししていたのです。オーストリアはこの東方問題に悩まされます。
 
 戦争は東方問題解決という側面もありました。ところがオーストリア軍は劣勢で、南部戦線で苦戦します。ドイツ軍の援助を受けてようやく撃退する状態でした。一方北イタリア戦線ではさらに弱いイタリア軍に対して優位に戦いを進めます。
 
 しかしこれらの戦線はあくまで脇役にすぎませんでした。戦争の主役はドイツと英仏がまともにぶつかった西部戦線、そしてドイツとロシアが戦った東部戦線です。そしていくらドイツ軍が精強と言えど限界がありました。同盟軍側は次第に押し込まれていきます。
 
 1916年、老皇帝フランツ・ヨーゼフは戦争の行く末を案じながら崩御。死因は肺炎だったと伝えられています。享年86歳。
 
 後を継いだのはハプスブルク帝国最後の皇帝カール1世でした。彼はフランツ・ヨーゼフ皇帝の甥の子にあたります(在位1916年~1918年)。
 
 
 戦争は1917年アメリカの参戦によりますます同盟側に不利になりました。戦争勝利のためにはドイツが西部戦線でパリを占領する必要があります。しかし戦線は膠着し、旗色の悪い同盟側で厭戦気分が蔓延しました。戦争の行く末に絶望したカールは連合国(協商国を中心にほとんど全世界が参加)との単独講和を図りますが、これは失敗し返ってドイツの不信を招く結果となりました。
 
 1918年、戦線が崩壊していく中チェコスロバキア、ポーランド、ハンガリーが次々と離反、独立を宣言します。帝国は解体し、1918年11月無条件降伏しました。カール1世はシェーンブルン宮殿青磁の間で退位宣言します。
 
 これにより700年の歴史を誇るハプスブルク帝国は滅亡。カールはポルトガル領マデイラ島に亡命、1922年肺炎のため死去しました。享年35歳。
 
 
 
 
 やはり近代国民国家時代に入って多民族国家の帝国を維持するのは困難だったのだと思います。あらゆる矛盾を抱えていた帝国は戦争という劇薬によって終焉を迎えたのです。しかし、幾度もの危機を乗り越えルドルフ1世から始まる700年もの帝国を維持できたという事は、それだけで世界史上の奇跡だったとも言えるでしょう。

ハプスブルク帝国Ⅸ  ウィーン体制

 これはあくまで私見ですが、ロシアの宿将としてナポレオンのロシア遠征を撃退したクツーゾフには「老練」という言葉が似合うように思います。ナポレオン不在のスペイン戦線でフランス軍を苦しめ続けワーテルローで最後の勝利をもたらしたイギリスのウェリントン公爵アーサー・ウェルズリーには「緻密」という言葉を贈ります。同じく叩き上げの軍人で諸国民戦争後パリに一番乗りしワーテルローでも決定的瞬間に援軍が間に合い連合軍に勝利をもたらしたプロイセンのブリュッヘルは「堅実」としましょう。
 
 ところがオーストリア軍の最高司令官であったカール大公(皇帝フランツ2世の弟)は、1809年アスぺリン・エスリンクの戦いで初めてナポレオンに黒星を与えた人物の割にはこれら前記の人物から比べると地味な存在です。
 
 というのもカール大公の活躍は認めるにしてもオーストリア軍の戦いは全般的に旗色が悪かった印象が拭えなからです。ナポレオン最後の戦闘だったワーテルローでもオーストリア軍は蚊帳の外に置かれています。私が考えるに、19世紀は国民国家の時代に入っており多民族国家オーストリアはすでに時代遅れの存在になりつつあったということかもしれません。実際ドイツ諸侯はオーストリアではなくドイツ人国民国家プロイセンに期待していたふしがあります。
 
 ではオーストリアの強みは何か?というとそれは外交力でした。1814年9月ナポレオン戦争後各国代表をウィーンに集めその後の国家体制を話し合ったウィーン会議を主催したのはオーストリア外相メッテルニヒでした。
 
 メッテルニヒの方針を一言で表すと保守反動。フランス革命とその後のナポレオン戦争に疲れ果てた各国にとってはそれが自然な方向だったのです。しかし、各国の利害は衝突し会議はなかなか纏まりませんでした。そんな中1815年2月26日、「会議は踊る」と評されたウィーンに驚愕の知らせが入ります。
 
 ナポレオンがエルバ島を脱出しフランスに上陸。王政復古で王位に就いていたルイ18世を追放しパリに入城、再び帝位に就いたというのです。慌てた各国は第7回対仏大同盟を結成し、とりあえず難敵ナポレオンを倒す方針を決めました。
 
 1815年6月18日、ナポレオン率いるフランス軍7万2千、ウェリントン卿率いる英蘭連合軍6万8千がベルギー南部ワーテルローにおいて激突。運命の会戦が始まりました。最初優勢だったフランス軍ですが、ウェリントンが戦線を支えている間にブリュッヘル率いるプロイセン軍5万がぎりぎりで間に合い形勢逆転。ついにナポレオンは敗れました。
 
 この敗戦でナポレオンの百日天下は終わり、6月22日再び退位。ナポレオンは南大西洋の孤島セント・ヘレナに流されます。稀代の英雄はこの地で波乱の生涯を閉じました。
 
 
 ナポレオンの一連の騒動は、逆に各国の間に危機感を生じさせウィーン会議は妥協の末ウィーン議定書としてまとまります。ロシア皇帝アレクサンドル1世の提唱で1815年9月オーストリア・プロイセンとの間に神聖同盟を結成しました。
 
 オーストリアは会議の結果南ネーデルラント(現在のベルギー)をオランダに譲る代わりにヴェネチアを含む北イタリア、チロル、ダルマチアを得ます。フランスを含む列強各国はフランス革命を恐れ保守反動政治を行いました。
 
 しかしフランス革命の余波は弾圧すればするほど燃え上がり、返って各国に拡散していきました。ドイツ統一運動、ラテンアメリカ諸国のスペインからの独立。1830年にはフランスで7月革命。1848年には再びフランスで2月革命、オーストリアでも帝国各地で暴動が発生しました。ウィーン体制の崩壊です。会議の功績で帝国宰相になっていたメッテルニヒはついに失脚、イギリスに亡命しました。
 
 ドイツでは国民国家形成が急務という声が大きくなり、オーストリアを中心にした統一国家を目指す「大ドイツ主義」と、オーストリアを排除しプロイセン中心で統一する「小ドイツ主義」が対立します。1848年に即位したフランツ・ヨーゼフ1世(在位1848年~1916年)はもちろん大ドイツ主義を推進しました。
 
 ところが皮肉なことに民族統一の流れはオーストリアの支配する北イタリアでも激しくなり、それをサルディニアのイタリア統一戦争に利用されます。フランスのナポレオン3世を引き込んだサルディニアは1859年オーストリアに挑戦。この戦争で敗北したオーストリアは北イタリアを失陥しました。
 
 悪い事は重なるもので、プロイセン宰相ビスマルクの策謀に踊らされ1866年普墺戦争でも敗北。統一ドイツからはじき出されます。結局プロイセンは1871年普仏戦争でフランスに勝利、悲願のドイツ統一を果たしました。
 この頃オーストリア帝国は、1867年ハンガリー議会のアウグスライヒ和協法案によってオーストリア・ハンガリー二重帝国の道を歩み始めます。しかしこれはハンガリーの支配民族マジャール人にオーストリアのドイツ人と同等の権利を認めたものにすぎず、それ以外の帝国諸民族には大きな不満を生じさせました。
 帝国各地には民族運動による暴動が巻き起こります。そして1914年6月28日サラエボ事件へと繋がるのです。
 次回、最終回ハプスブルク帝国の最期を描きます。

ハプスブルク帝国Ⅷ  ナポレオン戦争

 マリア・テレジアの娘マリー・アントワネットが歴史的な外交革命で宿敵フランスの王太子ルイに嫁いだ事は前記事で述べました。ルイは、祖父ルイ15世の死去を受け1774年即位します。
 
 マリー・アントワネットの浪費癖が原因でフランス革命が起こったとされますが、私は関係はほとんどないと思います。といいますのもすでにルイ14世の時代からフランスは、スペイン、オランダ、イギリスと血みどろの戦争を続けたしかに領土は拡大しましたが、国民は重税にあえぎ生活も疲弊していました。後を継いだルイ15世も、内政に専念することなく7年戦争に介入するなど国家財政をより悪化させます。
 
 おそらく誰が国王でもフランス革命は避けられなかったと思います。調べてみるとルイ16世は無能ではありましたが好人物。マリー・アントワネットも頭が良いとはいえないただの浪費癖がある我がままな女性。市井に生まれればちょっと困った人だが愛すべき存在として生涯を終えたはずです。
 
 1792年フランス革命が起こった時、オーストリア皇帝はアントワネットの兄レオポルド2世(マリア・テレジアの三男)でした。最初レオポルドは隣国フランスには不介入の態度を示します。アントワネットと夫ルイ16世を亡命させてくれれば良しとしていたのです。
 
 ところがフランス革命政府はルイ16世夫妻をギロチンに架けて処刑してしまいます。激怒したレオポルドはプロイセンと結びフランスに宣戦布告しました。革命戦争は、しかしかえってフランス国内を団結させナポレオンという風雲児を台頭させます。
 
 レオポルド2世は1792年3月在位わずか2年で死去。後を長男フランツ2世(在位1792年~1835年)が継ぎました。対フランス革命介入戦争は、イギリスの首相小ピット提唱でイギリス、オーストリア、プロイセン、ロシアの対仏大同盟へと発展します。
 
 ところが、まもなくプロイセンが国内事情から中立に転じたためオーストリアが陸戦の矢面に立たされることになりました。オーストリアとフランスは主に北イタリアでぶつかります。1796年フランスの若き将軍ナポレオン・ボナパルトに率いられたフランス軍が北イタリアに侵入。1800年マレンゴの戦いでオーストリア軍はナポレオンの前に一敗地に塗れます。1801年リュネヴィル条約でフランスのライン左岸領有を認めるなど良いところが全くありませんでした。
 
 
 ナポレオンは数々の戦勝を背景にフランス革命政府の権力を掌握、1799年ブリュメールのクーデターで第一統領に、1804年には国民の圧倒的支持を受けてついにフランス皇帝に即位しました。(在位1804年~1814年、1815年)
 
 1805年、対フランス戦の矢面に立たされ続けたオーストリアは首都ウィーンをフランス軍に占領されます。そして1805年12月2日史上名高いアウステルリッツ会戦が起こりました。この戦いはフランス皇帝ナポレオン1世、オーストリア皇帝フランツ2世、ロシア皇帝アレクサンドル1世が一堂に会したため三帝会戦とも呼ばれます。ナポレオン率いるフランス軍7万5千、オーストリア・ロシア連合軍8万5千。真っ向からぶつかった戦いは、ナポレオンの指揮能力の高さでフランス軍が圧倒、連合軍は死傷者1万5千、捕虜2万を出すなど惨憺たる敗北を喫しました。
 
 アウステルリッツの敗戦でついにオーストリアは戦争から脱落、フランスと屈辱的な講和を結ばされます。この時が皇帝ナポレオンの絶頂期だったと思います。1806年ナポレオンは南部ドイツ諸州を独立させライン同盟を結成させます。フランスがその後押しをしたため、フランツ2世は布告して存在意義の無くなった神聖ローマ皇帝の称号を廃しました。これにより伝統ある神聖ローマ帝国は消滅します。以後、正式にオーストリア帝国と呼ばれる事となりました。
 
 
 絶望的状況のオーストリアでしたが、1809年外相としてメッテルニヒが登場します。メッテルニヒは、現在ナポレオンに敵対する事は不利だとして、彼の没落を冷静に待つ方針を固めました。ナポレオンは1806年10月イエナ会戦でプロイセンを破り、イギリスに対しては大陸封鎖令で締め出しを図ります。しかしナポレオンに反感を持つロシアのアレクサンドル1世は、逆にイギリスと結び敵対の構えを見せました。
 
 ナポレオンはロシアを屈服させるため1812年総兵力70万に及ぶ大軍を率いてロシア遠征を決行します。ロシアの老将クツーゾフは正面からフランス軍に当たらず焦土戦術でこれに対抗しました。こうなるとフランス軍は大軍だけに補給に困るようになります。8月26日ボロジノで大きな被害を出しながらフランス軍辛勝。モスクワに入城するも攻勢はここまででした。間もなく冬将軍が到来し、後方の占領地でもパルチザンが発生し補給は絶望的になってきました。
 
 ナポレオンはついに撤退を決断します。この時を待っていたクツーゾフは追撃を開始、ナポレオンがロシア国境を越えた時あれほど大軍を誇ったフランス軍はわずか3万に激減していました。
 
 常勝ナポレオンの敗北は、それまでナポレオンに苦しめられていた各国を勢いづかせます。まずプロイセンが1813年3月フランスに宣戦布告。8月にはイギリス、オーストリア、ロシア、スウェーデンがこれに加わり第6回対仏大同盟が結ばれました。1813年10月、諸国民の戦いと云われたライプチヒの戦いが勃発。ここで19万のフランス軍は、オーストリア、プロイセン、ロシア、スウェーデンの連合軍36万の前に敗北します。
 
 1814年にはウェリントン公爵アーサー・ウェルズリー率いるイギリス軍もフランス国内に侵入し、3月31日連合軍はパリに入城しました。こうなるとついにナポレオンも諦め4月6日退位を表明します。ナポレオンは連合国によってイタリア半島とコルシカ島の間にある小さな島エルバ島に追放されました。
 
 
 1815年9月、連合国はナポレオン戦争後の国際秩序を決めるためウィーンに終結します。所謂ウィーン会議です。ナポレオンはこのままエルバ島で朽ち果ててしまうのでしょうか?いや、そうではありません。歴史はもう一度繰り返しました。
 
 
 次回はナポレオン奇跡の復活とワーテルロー会戦、ウィーン体制後のオーストリア帝国を描きます。

ハプスブルク帝国Ⅶ  マリア・テレジア

 1740年、マリア・テレジア(在位1740年~1780年)がオーストリア皇位(正式にはオーストリア帝国の名はウィーン会議後だが慣例的にこう呼びます)を継いだ時、案の定彼女の継承に異議を唱えた者がいました。
 
 バイエルン選帝侯カール・アルブレヒトです。実はカールも先帝カール6世の兄ヨーゼフ1世の娘を妃にしており、欧州の古い慣習法では継承権を申し立てる事が出来たのです。
 
 そして先帝カール6世が危惧したとおり、まずプロイセンのフリードリヒ2世が厚かましくも「オーストリア領シュレジェンを割譲すればマリアの継承を認めてやる」と申し出て、それを実力で確保すべく出兵しました(第1次シュレジェン戦争)。これに勢いづいたフランス、スペインら列強がバイエルン侯カールを後押しして参戦、オーストリア継承戦争(1740年~1748年)が勃発します。
 
 生前の約束は、その王あるいは皇帝が生きている間だけ有効であるということは、豊臣秀吉の死後約束を反故にし天下を取った徳川家康の例を知っている我々日本人はよく理解できます。結局国際政治は自国の利害関係のみで動いているのです。そこに人道とか道義的責任などが入り込む余地はありません。
 
 ともかく、周辺国すべてを敵に回したマリア・テレジアは絶体絶命の危機に陥りました。夫ロートリンゲン公フランツとの間に子供が生まれていましたが、その赤子を抱いたまま単身ハンガリーに乗り込み、議会でハンガリー貴族たちに涙ながらに協力を訴えます。
 
 ハンガリーはオーストリアと同君連合でしたが、ハプスブルク家の継承に反感を抱く貴族も多く、彼らの協力なしには戦争遂行は不可能でした。赤子を抱いた23歳のうら若き美しい女帝の訴えは、ハンガリー貴族たちの心を打ちます。
 
 こうして内部を固めたマリア・テレジアは、フランスと伝統的に対立するイギリス、建国の経緯から両ハプスブルクに憎しみを抱くオランダと同盟を結びます。さらにプロイセンに対してはシュレジェンを割譲する代わりに戦争から手を引かせました。
 
 戦局は二転三転しますが、最後はマリア・テレジアの的確な戦争指導のおかげで実力で皇位継承を列強に認めさせます。しかし豊かなシュレジェン地方をかつて臣下だったプロイセンのフリードリヒ2世に奪われた事はマリア・テレジアにとって我慢ならない事でした。
 
 1745年マリア・テレジアは夫フランツを名目上の神聖ローマ皇帝に就ける事に成功します。こうして内部を固めておいて、プロイセンに対抗するため30年戦争以来の宿敵フランスと結ぶ事を考えました。これには外務大臣カウニッツ伯の助言が大きかったと云います。
 
 1756年、フランス王太子ルイ(のちのルイ16世)と、マリア・テレジアの第11女マリー・アントワネットとの間に婚約が成立、両国は長年の敵対関係を止め同盟を結ぶ事となりました。これを外交革命と呼びます。同時にロシア帝国とも結びました。
 
 外交的にプロイセンを孤立させたマリア・テレジアは満を持してシュレジェン奪回のためプロイセンに宣戦布告します。戦争は1756年から1763年まで続いたので7年戦争と呼びます。
 
 オーストリア継承戦争と違い、孤立したのはフリードリヒ2世の方でした。プロイセンは唯一の同盟国イギリスの資金援助を頼りに戦い抜きます。ところがフリードリヒ2世は当時最高の軍略家でした。戦略的な絶体絶命の危機を神がかり的な戦術で耐え抜き1757年にはロスバッハでフランス軍を、ロイテンでオーストリア軍を撃破するなど驚異的な粘りを見せます。有名な斜行戦術(過去記事参照)が使われたのもこれらの戦いです。
 
 さらに1762年ベルリン陥落直前にロシアの女帝エリザベータが死去し、後をフリードリヒ信奉者で頭の弱いピョートル3世が継ぐとロシアは突如軍を返しプロイセンと単独講和を結びます。フリードリヒはこの時死を覚悟して毒薬を常時持ち歩いていたそうですが、降って湧いたような幸運によって窮地を脱しました。これがブランデンブルクの奇跡です。
 
 一方、マリア・テレジアにとっては青天の霹靂でした。宿敵フリードリヒ2世をあと一歩のところまで追いつめていたからです。危機を脱したプロイセンは次第に盛り返し、オーストリアと同盟各国も勝利を諦めます。結局1763年パリで講和条約が結ばれプロイセンはシュレジェンを確保しました。
 
 この戦争でプロイセン王国は急速に台頭し列強の一員となります。マリア・テレジアは苦々しく思いながらも認めざるを得ませんでした。
 
 
 マリア・テレジアは、家庭的には恵まれていました。初恋の人ロートリンゲン公フランツと結ばれ、彼との間に男子5人、女子11人という16人もの子を成しました。ちょっと信じがたい数字ですが、有名なマリー・アントワネットが彼女の第11女なのでようやく納得できます。この計算だと毎年妊娠していた事になりますね。夫婦仲は良かったのでしょう。
 
 1765年マリアの夫フランツが死去すると、彼女の長男ヨーゼフ2世が共同統治者として神聖ローマ皇帝に即位します。しかし親の心子知らずで、ヨーゼフは彼女の天敵フリードリヒ2世の崇拝者でした。ロシアのピョートル3世といいヨーゼフ2世といい、この時代の若者は戦上手のフリードリヒ2世が好きだったようですね。
 
 1772年息子ヨーゼフは、母マリアの反対を押し切りロシア・プロイセンとの間で第一回ポーランド分割に参加します。さらにフランスに嫁いだ娘マリー・アントワネットの浪費癖など悪い噂に悩まされた晩年でした。
 
 
 晩年のマリア・テレジアは急速に絶対王政を進める息子ヨーゼフ2世としばしば意見を対立させ、さらには娘マリー・アントワネットの行く末を案じながら過ごしました。1780年女帝マリア・テレジア崩御。その遺体は最愛の夫フランツとともにハプスブルク家の墓所カプチーノ礼拝堂に眠っています。
 
 
 マリア・テレジアはハプスブルク家最後の男系皇帝でした。ヨーゼフ2世からはハプスブルク・ロートリンゲン朝が始まります。彼女の死は一つの時代の終わりだったと言えるでしょう。

ハプスブルク帝国Ⅵ  30年戦争からカール6世まで

 前記事で、兄カール5世から神聖ローマ皇帝位とオーストリア大公領、ドイツ本土のハプスブルク領を譲り受けフェルディナント1世(在位1556年~1564年)がオーストリア・ハプスブルクの祖となった事は書きました。
 
 しかし甥(カールの子)のスペイン王フェリペ2世と比べるとどうにも地味な印象が拭えません。国際政治はまさにフェリペ2世を中心に動いていたと言っても過言ではなく、義弟ハンガリー王ラヨシュ2世の戦死で棚ぼた的に得たハンガリー王位とボヘミア王位もハンガリー貴族の反発を受けたりオスマン帝国がハンガリー領の大半を制していた事から実を伴うものではありませんでした。
 
 フェルディナント1世は激化するプロテスタント(ルター派)との宗教戦争に生涯をささげたと言っても良く、後を継いだマクシミリアン2世(フェルディナントの子)、ルドルフ2世(同孫、在位1576年~1612年)の治世も基本的には変わりませんでした。
 
 ルドルフ2世は融和政策を布いた父とは違い、プロテスタントを弾圧します。これが彼の死後に起こる30年戦争の遠因となりました。
 
 ルドルフの死後、皇位は弟のマティアス(在位1612年~1619年)が継ぎますがまさにこの時代30年戦争が勃発します(1618年~1638年)。
 
 詳しくは過去記事で書いているのでここでは概略を述べるに止めましょう。
 
 シリーズ30年戦争①~④
 
 最初はカトリックとプロテスタントの宗教対立から始まった30年戦争でしたが、帝権を拡大したいハプスブルク側とそれに反発したプロテスタント諸侯の対立からデンマーク、スウェーデン、フランスを巻き込む大戦争に発展しいたずらにドイツ国内を荒廃させただけの戦いとなります。1648年ウエストファリア条約で戦争終結、この結果ネーデルラント北部17州が正式に独立しオランダとなりました。
 
 世界帝国スペインの凋落は決定的となり、ハプスブルク家もドイツ国内でのこれ以上の帝権拡大を諦めオスマン領だったバルカンへの進出に矛先を向け始めます。プロテスタント諸侯の中ではブランデンブルク選帝侯が急速に勢力を拡大し後のプロイセン王国になりました。フランスは、その後もスペインとの戦争を継続しスペインに代わってルイ14世が国際政治の中心に躍り出ます。
 
 ハプスブルクとオスマン帝国との対立は1683年第2次ウィーン包囲に発展しますが、ハプスブルクは帝都を守りぬきました。これがオスマン帝国最後の攻勢となります。以後オーストリアは反撃に転じ、ポーランド、ロシア、ヴェネチアと神聖同盟を結びオスマン帝国を攻めました。戦争は16年に及びます。歴史上大トルコ戦争と呼ばれました。
 
 1699年カルロビッツ条約で、オーストリアはハンガリー全土とトランシルヴァニア、スラボニアをオスマン帝国に割譲させます。その他の同盟国もそれぞれ領土を得、オスマン帝国との攻守は完全に逆転しました。
 
 
 1711年兄ヨーゼフ1世死去の後を受けカール6世が神聖ローマ皇帝に即位します(在位1711年~1740年)。神聖ローマ皇帝の名は形骸化しこの時にはオーストリア皇帝と呼ぶのが一般化していました。
 
 カール6世には長女マリア・テレジアをはじめとして4人の女子をもうけますがついに後継ぎの男子は得られませんでした。歴史あるハプスブルク帝国を断絶させるわけにはいかないカールは、長女マリア・テレジアを後継者にすべく涙ぐましい努力をします。
 
 無理に無理を重ねたカールは、ドイツ諸侯やフランスなど隣国に妥協を重ね1713年金印勅書によって性別に関係なく長子が後継者となる事を決めました。とくにドイツ国内で最有力の選帝侯であったフリードリヒ1世(有名なフリードリヒ2世の祖父、在位1701年~1713年)には正式に王号を認めます。それまでは辺境プロイセンにおいてのみ王号を認め、ドイツ国内ではあくまでブランデンブルク選帝侯でした。
 
 当時のプロイセン王国は、ドイツ騎士団領を併合しスウェーデンからはポンメルン(ドイツ北東部、バルト海沿岸地域)を奪うなど発展著しく急速に台頭していました。フリードリヒ1世の後を継いだフリードリヒ・ウィルヘルム1世(在位1713年~1740年)などは軍隊王と渾名されるほどで、後の軍国プロイセンの基礎を築きます。
 
 1740年、オーストリア皇帝カール6世は跡取り娘マリア・テレジアの行く末を案じながらその生涯を閉じました。享年56歳。胃癌だったと言われています。
 
 
 当時の欧州では考えられない女子相続、プロイセンを始めとするドイツ諸侯はこれをすんなり認めるのでしょうか?1740年マリア・テレジアが弱冠23歳で即位したとき波乱の生涯はすでに約束されていたとも言えます。同じ年、終生のライバルとなるフリードリヒ2世がプロイセン王国で即位していました。
 
 次回、女帝マリア・テレジアとフリードリヒ大王の死闘を描きます。

ハプスブルク帝国Ⅴ  フェリペ2世

 カール5世退位後ハプスブルク帝国は息子のフェリペ2世と弟フェルディナント1世に分裂したことは前回書きました。
 
 本来なら神聖ローマ皇帝であり本領オーストリア大公であるフェルディナント1世について言及すべきです。しかし、受け継いだものを比較するとフェルディナントがオーストリアとドイツ国内のわずかばかりの領土だけなのに対し、フェリペはスペイン、低地諸国(ネーデルラント、フランドル、ブラバンド)、ミラノ公国、ナポリ王国(イタリア半島南部とシチリア島)、新大陸(メキシコからペルー、チリに至る広大な領土)、フィリピンなど帝国のほとんどを受け継いでいます。
 
 どちらがハプスブルクの中心かは一目瞭然で、教皇をはじめとする欧州各国もフェリペ2世をカールの後継者と見ていました。当時のスペインはまさに「太陽の没せぬ帝国」だったのです。フェリペ2世(在位1556年~1598年)は自他共に認める全カトリック教徒の擁護者、盟主として宿敵オスマントルコに当たることを全欧州から期待されていました。
 
 実はフェリペは即位する2年前の1554年、イングランドの女王メアリー1世と結婚しています。ところがメアリーは11歳も年上でしかも醜女(失礼!)。典型的な政略結婚でおそらく夫婦仲も良くなかったと思います。
 
 そのメアリーが子供ももうけず1558年死去すると、フェリペは彼女の異母妹でイングランド王位を継承したエリザベス1世に求婚します。フェリペの意図は明らかで、イングランドをハプスブルク領に加えようという野心の表れでした。聡明なエリザベスはその手に乗らずこれを拒否。以後二人の仲は険悪化し終生のライバルとなります。
 
 そのころスペイン領ネーデルラントでは、ただ収奪されるだけの存在に我慢ならない貴族や市民たちがスペインに対して独立戦争を始めていました。1568年の事です。父カールの時代は、カールがフランドル生まれという事もあって表面化しませんでしたが、スペイン育ちのフェリペに代替わりして不満が爆発したのです。フェリペはスペインから軍隊を送り武断政治でこれに臨みます。後にネーデルラント北部17州がスペインからの独立に成功しますが、正式に独立を勝ち取ったのは1648年のウエストファリア条約。実に80年もの時がかかりました。これがオランダ独立戦争です。
 
 イングランド女王エリザベス1世は、スペインに対抗するためネーデルラント諸州に援助を与え両者の対立はのっぴきならぬものになりました。それでもスペインの屋台骨を揺るがす事にならなかったのは、いかに当時のスペインが超大国であったかの証明です。
 
 フェリペ2世は、カトリックの盟主として大艦隊を派遣し1571年レパントの海戦で初めて強敵オスマントルコ海軍を撃破します。オスマントルコは敗戦しても実質的な損害は軽微でしたが、事実上この戦いによってオスマン帝国の拡大路線が頓挫したのは事実でした。1579年にはネーデルラント南部諸州(現在のベルギーに当たる)を独立戦争から脱落させ、1580年にはポルトガルを併合、七つの海を支配する大帝国を築きました。
 
 おそらくこの時期がフェリペ2世の、そしてスペインの絶頂期だったと言えるでしょう。しかしその時期は間もなく終焉を迎えようとしていました。
 
 世界の海を制し無敵艦隊と称した強大なスペイン艦隊は、1588年オランダ独立戦争を支援する小癪なイングランドを叩くため北上します。艦船130隻、兵員18000名、火砲2500門という圧倒的な大軍でした。これを迎え撃ったフランシス・ドレイク提督率いるイングランド艦隊と英仏海峡で激突。当時のイングランドは後世のイメージとは違い小国でした。太陽の没せぬ帝国の主フェリペ2世は歯牙にも掛けていなかったと思います。
 しかし結果は無敵艦隊の惨憺たる敗北。小型船が多かったイングランド艦隊は機動力で勝り敵を翻弄しました。
 
 世に言うアルマダ海戦です。この海戦の結果スペインの絶頂期は陰りを見せ、イングランドが世界史の舞台に颯爽と登場しました。といってもスペインはまだまだ超大国でした。スペインの退潮がはっきりとしたのは1648年のオランダ独立だといえます。ベルギーがスペイン領に残ったとはいえ、欧州一富裕なオランダを失った事は致命的でした。そればかりかオランダはスペインの海上権に公然と挑戦してくるようになります。
 
 
 フェリペ2世の晩年は、長年のオランダ独立戦争で財政が傾き長男が夭折するなど家庭的にも恵まれませんでした。子供たちの多くは早くに亡くなり唯一残った男子フェリペ3世が王太子になります。
 
 
 1598年フェリペ2世死去。享年71歳。悪性の腫瘍を悪化させての孤独な死だったと伝えられます。彼の死とともにスペインの世紀も終わりを遂げました。以後スペインはフェリペ3世、フェリペ4世、カルロス2世(在位1661年~1700年)と受け継がれますが、カルロスに子がなかったため断絶。スペイン継承戦争が勃発し、結局スペイン王国はフランス・ブルボン家のものとなりました。現在のスペイン王室はブルボン家の子孫です。
 
 
 あれほど強大で世界一とも言える財力を誇ったスペインが凋落したのは何故でしょうか?多くの史家を悩ませる問題ですが、有力な説として海外植民地からの莫大な富に頼り国内産業を育成しなかったからだと云われます。イングランドやオランダはスペインの失敗を学び、海外植民地をただ収奪するだけでなく国内産業の原料供給地、そして市場として育成しました。
 
 その差が、のちの発展を決定付けたのだと思います。

ハプスブルク帝国Ⅳ  カール5世

 神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世(在位1493年~1519年)は婚姻政策によってハプスブルク家の領土を拡大した皇帝でした。嫡男フィリップ美公をスペイン王女ファナと結婚させスペインを獲得した事は前記事で述べました。
 
 それ以外にもフィリップの次男フェルディナント(のちのオーストリア大公、神聖ローマ皇帝)をボヘミア王兼ハンガリー王の王女と結婚させ、さらには孫(フィリップの三女)のマリアを同ボヘミア王兼ハンガリー王の太子ラヨシュ2世と結婚(二重結婚)させるなど着々と領土を拡大していきます。
 戦争という手段に訴えず、ハプスブルクの家領をドイツ本国のみならずスペインおよびスペインの持つ広大な植民地、ナポリ(当時スペイン王が兼任)、ハンガリーなどに拡大したのですからある意味名君と言えるかもしれません。
 
 
 しかし、ハプスブルクの前に大きな暗雲が立ちこめようとしていました。すなわちオスマントルコの台頭です。マクシミリアンと彼の後を継いだ孫のカール5世はオスマントルコの脅威と生涯対峙し続ける事になります。
 
 
 フィリップ美公とスペイン王女ファナとの間に生まれたカールは、生まれながらにしてスペイン王位とネーデルラント・フランドルを領土とする当時欧州一富裕なブルゴーニュ公位を約束されていました。生まれたのはフランドルの大都市ガン。そのため本国オーストリアより低地諸国(ネーデルラント、ブラバンド、フランドル地方。現在のオランダ・べルギー)に生涯愛着を持ち続けたと言います。
 
 愛する夫フリップ美公が夭折(1506年)し発狂した(と噂された)ファナが1508年父フェルナンド2世(アラゴン王、カスティリア女王イサベルの夫)によって事実上幽閉されると、アラゴンとカスティリアを統合したスペイン王国の王位継承権は宙に浮きます。そのフェルナンド2世も1516年死去したことでスペインの廷臣たちは、ファナとフィリップ美公の間に生まれた長男カールを新たなスペイン国王として迎えました。すなわちスペイン王カルロス1世の誕生です。
 
 この時点でカールが領有することになったのはスペイン(含む植民地)、低地諸国(ネーデルラント・フランドル・ブラバンド)、サルディニア島、シチリア島、ナポリ王国(イタリア半島南部)という広大なものでした。
 
 1519年、祖父マクシミリアン1世が死去します。次期神聖ローマ皇帝はしかしカールにすんなりとは受け継がれませんでした。フランドルで生まれこれまでの生涯の大半をこの地で過ごしたカールに選帝侯たちが待ったをかけたのです。祖父の死でさらにオーストリア大公位を継承したとしても選帝侯たちはこれを認めようとしませんでした。
 
 反対派は、何とフランス王フランソワ1世を次期皇帝に推します。皇帝選挙は熾烈を極めました。カールはアウグスブルクの大富豪フッガー家の莫大な資金援助を受けてからくもこの選挙に勝利します。神聖ローマ皇帝カール5世(在位1519年~1556年)の誕生です。
 
 フランソワ1世とは、豊かなフランドルやイタリアの領有権を賭け激しく戦う生涯のライバルとなりました。ところがドイツの危機はフランスからではなく南からやってきます。
 
 オスマントルコの進出です。アナトリア半島の一角に興ったオスマン帝国は数次に渡る欧州の対オスマン十字軍を撃破しバルカン半島を浸食しつつありました。時のオスマン帝国スルタンは帝国最盛期を築いたスレイマン1世(大帝、在位1520年~1566年)。即位後間もない1521年には早くもハンガリー王国からベオグラードを奪います。1526年モハッチの戦いでハンガリー王ラヨシュ2世を敗死させるとハンガリー中央部を征服、ラヨシュの死後ハンガリーを受け継いだハプスブルク家のオーストリア大公国領と接しました。
 
 1525年イタリア・パヴィアの戦いでカールに一敗地塗れたフランス王フランソワ1世は、カール憎しの感情から何とオスマン帝国のスレイマン大帝と同盟を結びます。スレイマンは1529年12万の大軍をもってイスタンブールを発し長駆オーストリアの首都ウィーンを囲みました。
 
 ウィーンを守備するのはオーストリア軍わずか2万。まさにヨーロッパ存亡の危機でした。もしドイツが滅ぼされたら次は自分の番だとフランソワ1世は分かっていたかどうか?
 
 オーストリア軍は、帝都ウィーンを必死に防戦します。さしもの精強を誇るオスマン軍も攻めあぐね包囲戦は冬に突入しました。攻囲2カ月、オスマン軍は大軍だけに補給に困るようになります。カールは各地から兵力を集め包囲するオスマン軍をさらに遠巻きにしたため、スレイマン大帝は攻略を諦め撤退します。こうして最大の危機は去りました。
 
 しかし、ハンガリーの大半はオスマン領に組み込まれハプスブルグ家に残ったのは名目だけのハンガリー王位でした。これが現実のものになるにはさらに150年の月日がかかります。
 
 オスマン帝国の圧力はこれだけではありませんでした。1528年にはスペイン、ベネチア、ローマ教皇の連合艦隊がプレヴェザの海戦でオスマン艦隊に敗北、オスマン朝との戦いではカールは終始押され気味でした。
 
 
 
 オスマン朝とハプスブルクの力関係が逆転するのは、カールの息子フェリペ2世の時代です。カール5世の時代は外患だけでなく国内にも爆弾を抱えていました。すなわちルター派の問題です。マルティン・ルターは腐敗したカトリック教会を糾弾し宗教改革を唱えます。このプロテスタント運動はドイツ国内を席巻し庶民だけでなく貴族たちにまで信者を拡大しました。
 
 カールは1545年トリエント公会議を開きカトリックとプロテスタントの融和を図りますがほとんど効果はありませんでした。逆にプロテスタント諸侯と新教諸都市からなるシュマルカルデン同盟は勢いづきカール5世に戦いを挑む始末でした。この宗教戦争はカールを悩ませます。結局カールの時代では解決せず、1618年から始まる30年戦争に繋がるのです。
 
 1556年、内憂外患に疲れたカール5世は退位を決意しました。持病の痛風が悪化していたとも云われています。スペインと低地諸国は息子のフェリペ2世に受け継がれます。一方オーストリア大公と神聖ローマ皇帝の地位は弟フェルディナント1世に譲りました。
 
 これをスペインハプスブルクとオーストリアハプスブルクの分裂といいます。しかし圧倒的な力を持っていたのはスペインとその植民地、ナポリ王国、ドル箱ともいうべき豊かなネーデルラントを保有していたフェリペ2世の方でした。国際政治はフェリペ2世を主、フェルディナント1世を従として動きます。対オスマン戦争もすべてフェリペ2世が主導していました。
フェリペ2世の時代がスペインハプスブルクそしてスペイン王国の全盛期です。
 
 
 退位後のカールはどうなったでしょう?彼はスペインのユステ修道院に隠棲し1558年その生涯を終えます。この後ドイツは宗教改革の嵐・30年戦争、そしてスペインはレパントの海戦・ネーデルラントの独立・無敵艦隊がイギリスに敗れたアルマダ海戦と激動の時代を迎えました。

ハプスブルク帝国Ⅲ  マクシミリアン1世

 ハプスブルク家の初代神聖ローマ皇帝ルドルフ1世が没した後、ドイツ諸侯はボヘミア王オタカル2世に代わってハプスブルクがドイツの覇権を握るのを嫌い、勢力均衡の観点から再び小領主のナッサウ伯アドルフをドイツ王に選出しました。
 
 ところがアドルフは帝国の統治に失敗し王位から追放されます。再び行われた国王選挙でようやくルドルフの息子アルブレヒト1世の即位が認められました(在位1298年~1308年)。しかしアルブレヒト1世は1308年甥のヨーハン・パリツィーダによって暗殺されます。
 
 以後ハプスブルク家はドイツ王(=神聖ローマ皇帝)の地位から遠ざかりました。ハプスブルク家がようやく神聖ローマ皇帝に返り咲いたのは1408年に即位したアルブレヒト2世からでした。これ以後はドイツ王位を独占し20世紀にオーストリア・ハンガリー帝国が滅亡するまで続きます。
 
 前置きが長くなりましたが、本編の主人公はアルブレヒト2世の甥にあたるマクシミリアン1世(在位1493年~1519年)です。と言っても彼が特段政治的手腕に優れていたわけでも軍事的才能があったわけでもありません。皇帝としては文化を愛好し保護しただけの平凡な君主でした。
 
 では何故彼を取り上げたかというと、その婚姻が大きく世界史を動かしたからです。
 
 
 ところで皆さんは100年戦争とブルゴーニュ公国の記事を覚えておられるでしょうか?神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の名はブルゴーニュ公国の話の最後の方で出てきたはずです。
 
 
 過去記事の復習の意味も込めてブルゴーニュー公国の歴史を振り返ってみましょう。ブルゴーニュ公国はフランス・ヴァロワ朝の一族でありながらフランス外のフランドル、ネーデルラントに領地を獲得したため次第に自立し最後は独立国のようになります。ちなみにブルゴーニュとはブルグントのフランス語訛り。もともとは異民族ブルグント族の土地です。
 
 ブルゴーニュ公国4代シャルル突進公(在位1467年~1477年)には残念なことに後継ぎの男子がいませんでした。ただ一人の子供は女子のマリーのみ。シャルルは自領の大半が神聖ローマ帝国に含まれる事から次第に自分も神聖ローマ皇帝になれるのではないか?という野望を抱きます。
 
 そこで目をつけたのがハプスブルク家の跡取りマクシミリアン。彼と娘のマリーを結婚させることで最悪でも外戚としてドイツ全土に号令をかける事を目論みました。
 
 一方、ハプスブルク家側としても言う事を聞かないドイツ選帝侯たちに対抗するため、彼らに匹敵する大勢力であったブルゴーニュ公と結ぶのは願ってもない好機でした。両者の利害は一致しマクシミリアンとマリーの婚約は成立します。
 
 ところが戦争馬鹿であったシャルル突進公は、公国の経済中心地ネーデルラントと本国ブルゴーニュ公領を結ぶ回廊建設のためのライン沿岸征服事業の途中戦死してしまいました。
 
 後に残されたのは一人娘マリーのみ。女一人で激動の国際情勢に当たるわけには行きませんから生前の約束通り1477年ハプスブルク家のマクシミリアンと結婚します。こうしてマクシミリアンは労せずして豊かな商業先進地帯であったネーデルラント、フランドル地方を得ました。
 
 1493年神聖ローマ皇帝に即位した後もマクシミリアンは豊かなフランドルに住み続けます。二人の間にはフリップ美公、マルグレットという二人の子供が生まれました。
 
 マクシミリアンが幸運だったのは、息子フィリップの妻に先ごろレコンキスタでイベリア半島を統一したばかりのスペインのフェルナンド5世(アラゴン王としては2世)、イサベル1世(カスティリア女王)の一人娘ファナを迎えた事でした。当然両王の死後スペインも自分たちの子孫の物になるという計算があったのは確かでしょう。期待していた息子フィリップ美公は1506年早世しますがすでにフィリップはスペイン王女ファナと結婚した事でブルゴーニュ公・スペイン王の称号を得ていましたから、マクシミリアンが1519年に没しても、孫カールはブルゴーニュ公とスペイン王位は獲得してていた事になります。
 
 
 このカールこそスペイン王カルロス1世、そして神聖ローマ皇帝カール5世でした。次回はハプスブルク家の歴史上クライマックスの一つウイーン包囲とカール5世の治世を描きます。

ハプスブルク帝国Ⅱ  ルドルフ1世

 スイス北東部アールガウ地方のドイツ国境付近、チューリヒからバーゼルを結ぶ幹線道路沿いにハプスブルクという地名があります。現在でも小さな城塞が残っているそうですが、ここが後に大帝国を築くハプスブルク家発祥の地だと言われています。
 
 ちなみにブルクというのはドイツ語で城塞とか砦を意味します。この城塞はハビヒツブルク城という名で、これがハプスブルクの語源になったそうです。日本語では「鷹の城」と呼びます。鷹と言ってもハビヒツとは実は鷲の意味でハプスブルク家の家紋が鷲なのもこれが由来です。
 
 ハプスブルク家が歴史上初めて文献に登場するのは10世紀ころですが12世紀には神聖ローマ皇帝ホーエンシュタウフェン家と密接な関係を結びます。といってもハプスブルク家はドイツからアルプス越えでローマに向かう街道の関守程度の小貴族でザクセン公やボヘミア王などドイツの大諸侯から見れば取るに足らない弱小勢力でした。自称伯爵ではありましたが、これは戦国時代各地の武将が勝手に○○守と名乗るようなもので何ら由緒あるものではなく、ようはその程度の存在だったと思って下さい。
 
 1249年オーストリア大公バーベンベルク家が断絶すると空位になった大公位を巡ってドイツ諸侯は長年激しく争います。有力だったのはボヘミア(現在のチェコ)王オタカル2世。しかしオタカルの大公位獲得はドイツ内に巨大な勢力が誕生する事から他の大諸侯たちの反発を受けました。
 
 オタカルに奪われる前に一時的に他の弱小勢力にオーストリアを委ね、ボヘミア勢力を排除してから正式に大公位を決めようというのが諸侯の思惑でした。そこで白羽の矢が立ったのがハプスブルク家のルドルフです。
 
 ルドルフなら一応皇帝ホーエンシュタウフェン家とも血縁があり(ルドルフの祖母がホーエンシュタウフェン家の傍系出身)、いざとなったらいつでも奪い返せるような弱小勢力であったことからボヘミア以外の有力諸侯に歓迎されます。
 
 
 こうして1273年、バーゼル大司教と交戦中だったルドルフの陣中に皇帝の使者としてホーエンツォレルン家ニュルンベルクの城代ハインリヒが訪れます。ホーエンツォレルン家は後にブランデンブルク辺境伯からプロイセン王となりハプスブルクと対立することになりますから歴史は面白いですね。
 
 ハインリヒは、陣中のルドルフ(ハプスブルク伯ルドルフ3世)に対し「選帝侯会議の結果ルドルフをドイツ王(実質的には神聖ローマ皇帝)に選出することが決まった。受託する意思が有りや無きや?」と尋ねました。
 
 ルドルフは降ってわいたような珍事に呆然とし戸惑いますが、このような千載一遇のチャンスを逃すはずもなく二つ返事で受託します。こうしてハプスブルク伯ルドルフ3世は正式に神聖ローマ皇帝(在位1273年~1291年)として即位しました。
 
 ちなみに選帝侯とは以前記事でも書いた通りドイツ王を選挙で決める有力諸侯で選定侯あるいは選挙侯とも呼ばれますが、ドイツ王はのちに神聖ローマ皇帝に就任するのが慣例でしたから選帝侯と呼ぶのが一般的です。マインツ、トリエル、ケルンの大司教(聖界諸侯)とボヘミア王、プファルツ伯(ライン宮中伯)、ザクセン公、ブランデンブルク辺境伯(世俗諸侯)の七人で構成されていました。
 
 これは想像ですが、自ら神聖ローマ皇帝、オーストリア大公位を狙っていたボヘミア王オタカル2世はルドルフの就任に反対で、ブランデンブルク辺境伯(ホーエンツォレルン家)がオタカルの反対派を纏めルドルフを選出したのではないかと思います。
 
 そのためボヘミア王オタカル2世は、事あるごとにルドルフを馬鹿にし皇帝として認めませんでした。皇帝になった時ルドルフはすでに55歳の老境に入っていました。しかし弱小勢力とはいえ戦上手で、バーゼルの囲みを解くや皇帝としての実をあげるべくフランクフルトに進出、臣従を拒否したボヘミア王オタカル2世と対決しました。
 
 完全にルドルフを舐めていたオタカル2世でしたが、1278年マルヒフェルトの戦いでルドルフに敗北戦死してしまいます。こうなると他の選定侯もルドルフの実力を認めないわけには行かなくなりました。ルドルフはオタカルの持っていたオーストリア大公領を手中に収め本拠地をスイスからオーストリアに移しウィーンを首都と定めました。それまでは帝国議会の開かれるケルンやフランクフルトがドイツの中心でした。
 
 皇帝ルドルフ1世は、その後のハプスブルク家発展の基礎を築き1291年没します。彼の目指した皇帝位世襲こそ果たせませんでしたが、オーストリア大公領は確保しのちの大発展に繋がりました。ルドルフ1世の即位を持って大空位時代の終わりとされます。

ハプスブルク帝国Ⅰ  オストマルクからオーストリアへ

 オーストリア、ドイツ語でエスターライヒ。かつて英独仏露と並ぶ中欧の強国。ドイツ人が多数派を占めるオーストリアを中心にハンガリー、チェコ、スロバキア、ルーマニア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、クロアチアにまたがる大領土を誇った多民族国家でした。
 これらを纏めていたのはハプスブルクという一つの家です。オーストリア栄光の歴史は同時にハプスブルク家の歴史でもありました。
 
 本稿ではハプスブルク家の興亡を中心にオーストリアをはじめとする中欧、東欧、バルカン諸国を見て行こうと思います。
 
 
 最初に、オーストリア国家がいつ成立したか見てみましょう。時代はカール大帝(在位768年~814年)のカロリング朝フランク王国まで遡ります。カール大帝は、現在のドイツ・フランス・イタリアに領土を広げカロリング朝の最盛期を築いた皇帝として有名ですが、772年から始まり10回も重ねられた対ザクセン戦争によってニーダーザクセン地方を征服します。これは現在のユトラント半島の付け根からドイツ西北部一帯(ハノーバーやハンブルクのある辺り)です。ちなみにザクセン族というのは現在のイギリス人の源流の一つサクソン族(ドイツ語でザクセン)のことです。
 
 778年にはドイツ南部のバイエルン族を攻め、さらにパンノニア平原(現在のハンガリー盆地)にいた遊牧民族アヴァール族を討ちます。カールは新しく獲得した領土に辺境伯を設けました。この辺境伯というのは単なる地方長官に過ぎない伯ではなく、辺境領土の内政と軍事を司る強大な権限を持ち特に大きな領土を持つ辺境伯は公や侯と同格の地位を持つとされます。
 
 帝国の北東辺境を守るのがブランデンブルク辺境伯であり、南東を守るのが現在のオーストリアにあったオストマルク辺境伯でした。ブランデンブルク辺境伯は後のドイツに発展します。オストマルク辺境伯領は、帝国南東の守りとしてスラブ人次いでマジャール人(のちのハンガリー人)との戦いに明け暮れました。
 
 フランク王国が分裂し東フランクになり神聖ローマ帝国に代わってもオストマルクの重要性は変わらず歴代皇帝は辺境伯バーベンベルク家に大きな権限を与えます。そしてオストマルクの名は次第にオーストリアと言い換えられ始めました。皇帝とオストマルク辺境伯は長年良好な関係を築きますが、叙任権闘争(のちにカノッサの屈辱に繋がる)の時、辺境伯が教皇側に付いた事からこれが壊れました。
 
 カノッサの屈辱の後勢力を盛り返したドイツ皇帝ハインリヒ4世は、この時の恨みを忘れておらず1081年辺境伯レオポルド2世からオーストリア辺境伯領を取り上げ、ボヘミア公にこれを与えます。その後皇帝と和解しレオポルド2世は辺境伯領を取り戻しますが、この事件以後バーべンベルク家は慎重になり皇帝により忠勤を励むようになりました。
 
 皇帝家ザリエル朝が断絶しコンラート3世のホーエンシュタウフェン朝が創始されると、コンラートは異父弟にあたるオーストリア辺境伯レオポルド4世にバイエルンを与えます。しかし諸侯の反発が大きくバイエルンを元の持ち主ザクセン公ヴェルフ家に返還した事からバーべンベルク家とヴェルフ家との間に対立が生じました。
 
 1156年、事態はレーゲンスブルク議会で調停が行われるほど紛糾し結局バーベンベルク家はバイエルンを諦める代わりにオーストリアを大公領に昇格し世襲する事など諸特権を認められます。
 
 その後バーベンベルク家は1249年断絶しました。神聖ローマ皇帝としてはオーストリア大公領を皇帝派に残すために一族のものを配すのがベストでしたが、肝心の皇帝コンラート4世が1254年後継ぎを残さず死去しホーエンシュタウフェン朝が断絶したためにその野望は潰えます。
 
 以後、1273年まで皇帝権は安定せず大空位時代が始まりました。ドイツ諸侯たちは神聖ローマ皇帝位、そして豊かなオーストリア大公領を巡って争います。
 
 互いに争い、少なくともオーストリア大公領が敵側に渡らないための一時的措置として大公に選ばれたのはスイスの田舎貴族に過ぎないハプスブルク家のルドルフでした。しかし後にボヘミア王(この頃公から王に昇格していた)ら有力諸侯は馬鹿にしていたルドルフにしてやられることになります。
 
 そしてルドルフは神聖ローマ皇帝に即位、その後20世紀まで続くハプスブルク王朝の祖となりました。次回、ハプスブルク朝の基礎を作ったルドルフ1世の生涯について語ります。

朝鮮半島南部が日本領である確固たる証拠

まず、次の記事をお読みください。
 
5世紀の墓発掘、日本スタイルが見えて…学界の意見入り乱れ

5世紀の墓発掘のニュースが話題だ。

国立羅州(ナジュ)文化財研究所は5世紀前半の墓と見られる文化財資料第218号‘高興(コフン)野幕里(ヤマンニ)野幕(ヤマク)古墳’発掘調査に関して、去る26日、明らかにした。

文化財庁国立羅州文化財研究所は27日午後2時、高興郡豊陽面(プンヤンミョン)で全羅南道(チョルラナムド)文化財資料第218号‘高興 野幕里 野幕古墳’の現場説明会を開催する予定だ。

野幕古墳は独立した丘陵に1基だけ造営される位置づけの独自性と墳丘表面に石を敷いて仕上げる墓の形式の‘葺石施設’で作った。葺石施設は日本で古墳時代(3世紀後半から7世紀末)に普遍的に現れる墓の形式だ。

野幕古墳は2006年発掘された高興・吉頭里(キルドゥリ)雁洞(アンドン)古墳のように沿岸航路を通行した交易主導者の勢力の様相を調べることができる重要な資料だ。特に日本的要素が目立って学界の論議が予想される。

5世紀の墓発掘のニュースに接したネチズンらは「5世紀の墓発掘、その時から日本と交流があったのか?」、「5世紀の墓発掘、どんな分析が出てくるのか気になる」等の反応を見せた。

ソース:コンシューマータイムズ(韓国語) 2012.11.27

http://www.cstimes.com/news/articleView.html?idxno=85117
 これ結局どうなったと思いますか?
①前方後円墳は先進的な朝鮮半島から日本に伝わったものだという論拠が崩れた。日本の方が発生時期が早いため。(日本では3世紀後半、朝鮮半島では5世紀)
②しかも被葬者はどうも日本人らしい。古墳内部の構造も日本式。
③日本が少なくとも朝鮮半島南部を支配していた歴史的事実が発覚して都合が悪い。大きな墓はその土地の支配者でなければ造れないから。
④日韓共同調査だから日本側から真実を発表されると困る。
⑤日本の調査団に頼み込んで独自で発表しないように決める。
⑥その間に必死に言い訳を考えて、朝鮮の豪族が自分に仕えた日本人家臣に功績の褒美として古墳造営を許可したというとんでもない見解を発表。(もちろん嘘八百。さすがに朝鮮人造営とまでは捏造できなかった模様)
⑦動かぬ証拠である古墳が残っては都合が悪いので、埋め戻す。そのあと開発という名の破壊活動で跡かたも無くす。
 
 
 いかがですか?我々が相手にしているのはこのような連中なのです。彼らには歴史の真実を追求するというような考えはさらさらないのでしょう。自分たちの都合の良いように歴史を歪曲し捏造し嘘八百のウリナラファンタジーを歴史と称し、日本にもそれを正しい歴史認識と言って押し付けようとする。歴史上ここまでおぞましい民族もちょっと見当たりません。
 
 
 それにしても、私が過去記事「稲作伝播」「製鉄技術伝播」で考察した仮説が歴史的発見によって裏付けられたわけです。支那江南地方から海路によって伝わった稲作は、九州と朝鮮半島南部に住む和人によって定着した。和人は海洋民族でもあった(稲作を伝えたほどですから)ため任那日本府は日本の植民地ではなくもともと和人の居住地であった。百済と高句麗はツングース系扶余族の王朝。新羅の支配民族は不明だが王統の一つに日本から渡来した一族があった(これは伝説が残っています。詳しくはウィキを見て下さい)。
 
 ちなみにこの韓国の前方後円墳は日本の九州地方のそれと全く同じ形式だそうですから、被葬者も九州出身の豪族であった可能性が高いです。
 
 現在半島に住んでいる朝鮮人は、古代三韓時代の住民ではありません。それより後代に満洲地方から渡ってきたエベンキ族を中心とする連中。エベンキ族は支那の史書でも糞尿で顔を洗う最も不潔な民族であったとされ、トンスルを愛好する現在の朝鮮人と相通じるものがある。
 
 ところで韓という名も、もともとは半島南部の和人を指す言葉だった可能性があるそうです。
 
 彼らが大量流入して古代三韓の人々から土地を奪ったのです。おそらく民族虐殺もあったでしょう。同化という名のレイプもあったでしょう。男は殺され女は犯されエベンキ族との混血が大量に生まれたのです。そういう歴史の暗部をもっている連中だという事を肝に銘じて対処しなければならないと思います。
 
 このブログは一応歴史系ブログをうたっているので、歴史記事では特に嘘は書きません。私の矜持に反するからです。確かに朝鮮人は大嫌いですが、こと歴史に関しては嘘は言いたくありません。そういう冷徹な目で見ても朝鮮人の歴史歪曲は甚だしい。これは歴史的犯罪行為と言っても過言ではありません。
 
 
 このような朝鮮人とは、断交以外の選択肢はないと確信します。

魏志倭人伝  対馬が日本領である確固たる証拠 その2

 倭人(わじん)は帯方(たいほう)の東南大海の中に在り、山島に依(よ)りて国邑(こくゆう)を為(な)す。旧(もと)百余国。漢の時朝見(ちょうけん)する者有り。今、使訳(しやく)通ずる所三十国。
 郡より倭に至るには、海岸に循(したが)って水行し、韓(かん)国を歴(へ)て、乍(あるい)は南し乍は東し、其の北岸狗邪韓(くやかん)国に到(いた)る七千余里。始めて一海を度(わた)る千余里、対馬(つしま)国に至る。其の大官を卑狗(ひこ)と曰(い)ひ、副を卑奴母離(ひなもり)と曰ふ。居る所絶島、方四百余里可(ばか)り。土地は山険(けわ)しく、深林多く、道路は禽鹿(きんろく)の径(みち)の如(ごと)し。千余戸有り。良田無く、海物を食して自活し、船に乗りて南北に市糴(してき)す。又(また)南一海を渡る千余里、名づけて瀚海(かんかい)と曰ふ。一大〔一支(いき)〕国に至る。官を亦(また)卑狗と曰ひ、副を卑奴母離と曰ふ。方三百里可り。竹木・叢林(そうりん)多く、三千許(ばか)りの家有り。差々(やや)田地有り、田を耕せども猶(なお)食するに足らず、亦南北に市糴す。
 又一海を渡る千余里、末盧(まつろ)国に至る。四千余戸有り。山海に浜(そ)ひて居る。草木茂盛(もせい)し、行くに前人(ぜんじん)を見ず。好んで魚鰒(ぎょふく)を捕へ、水深浅と無く、皆沈没して之(これ)を取る。東南陸行五百里にして、伊都(いと)国に到る。官を爾支(にき)と曰ひ、副を泄謨觚(せもこ)・柄渠觚(へくこ)と曰ふ。千余戸有り。世々(よよ)王有るも、皆女王国に統属す。郡使(ぐんし)の往来常に駐(とど)まる所なり。東南奴(な)国に至る百里。官を 馬觚(しまこ)と曰ひ、副を卑奴母離と曰ふ。二万余戸有り。東行不弥(ふみ)国に至る百里。官を多模(たも)と曰ひ、副を卑奴母離と曰ふ。千余家有り。
 南、投馬(とうま)国に至る水行二十日。官を弥弥(みみ)と曰ひ、副を弥弥那利(みみなり)と曰ふ。五万余戸可り。南、邪馬壹(やまい)〔台(たい)〕国に至る、女王の都する所、水行十日陸行一月。官に伊支馬(いきま)有り、次を弥馬升(みましょう)と曰ひ、次を弥馬獲支(みまかくき)と曰ひ、次を奴佳 (なかてい)と曰ふ。七万余戸可り。女王国より以北、其の戸数道里は略載す可(べ)きも、其の余の旁国(ぼうこく)は遠絶にして得て詳(つまびら)かにす可からず。
 次に斯馬(しま)国有り、次に巳百支(しおき)国有り、次に伊邪(いや)国有り、次に都支(とき)国有り、次に弥奴(みな)国有り、次に好古都(こうこと)国有り、次に不呼(ふこ)国有り、次に姐奴(そな)国有り、次に対蘇(つそ)国有り、次に蘇奴(そな)国有り、次に呼邑(こお)国有り、次に華奴蘇奴(かなそな)国有り、次に鬼(き)国有り、次に為吾(いご)国有り、次に鬼奴(きな)国有り、次に邪馬(やま)国有り、次に躬臣(くし)国有り、次に巴利(はり)国有り、次に支惟(きい)国有り、次に烏奴(うな)国有り、次に奴(な)国有り。此(こ)れ女王の境界の尽くる所なり。
 
 
 
 
 
 上記は魏志倭人伝(正式には三国志魏書東夷伝倭人条)の一部抜粋(読み下し文)です。少し長いですが証拠のために載せました。
 
 読んで頂けば分かる通り、完全に対馬を日本の一部だと断定してますね。いや地理的に日本に近いだけで朝鮮人が住んでいたと反論する者もいるでしょうが、そもそも魏志倭人伝当時朝鮮人は存在しません。私の過去記事でも検証していますが高句麗と百済はツングース系扶余族の王朝。新羅は民族系統不明ですがおそらく扶余系と支那大陸からの亡命者、そしてなんと日本系(そういう神話がある)民族で形成された国家だったと推定します。
 
 さらにこれも過去記事ですが稲作が支那江南地方から海流に乗って伝わった時、九州北部と朝鮮半島南部には稲作を行う同じ民族、ありていに言えば日本人が住んでいたと論証しています。私は日本史で言う任那日本府とはまさに日本から渡った日本人が稲作を行っていた地方ではなかったかと睨んでいます。
 
 
 朝鮮民族が形成されたのは新羅後期。というより高麗初期ではなかったかと思います。当時の極東アジアは動乱期で朝鮮人の前身といわれるツングース系のエベンキ族はこの時民族大移動の流れに乗って半島に渡り半島原住の民族と混血して(あるいは滅ぼして)現在の朝鮮人が形作られたのだと考えます。おそらく新羅から高麗に王朝が交代した裏には民族移動に関わる歴史の闇があったような気がしてなりません。
 
 歴史上対馬が朝鮮領だった時は一度もありません。これはちょっと文献を調べれば分かる事。なのに対馬が韓国領などとよく妄言を吐けるものです。私は逆にその厚顔無恥さに感心しますね。そもそも支那の半万年属国だった国がどうして他国領を支配できるのでしょう?寝言は死んでから言え!
 
 
 彼らの妄言を打破するためには正しい歴史知識を持つ事。彼らがふざけた事を言ってきたら「対馬が朝鮮領だった時はいつだ?証拠を示してみろ」と反論する事。さらに「お前の主張が真実なら魏志倭人伝はすべて嘘か?」と問い詰める必要があります。
 
 おそらく答えに窮した彼らは火病する事でしょう。要するに嘘八百の言いがかりなんです。日本人の多くが正しい歴史知識を持てば朝鮮人の嘘を指摘し逆襲する事が出来ます。その意味では「知らない事が罪」だとも言えますね。

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