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2014年2月 3日 (月)

ハプスブルク帝国Ⅰ  オストマルクからオーストリアへ

 オーストリア、ドイツ語でエスターライヒ。かつて英独仏露と並ぶ中欧の強国。ドイツ人が多数派を占めるオーストリアを中心にハンガリー、チェコ、スロバキア、ルーマニア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、クロアチアにまたがる大領土を誇った多民族国家でした。
 これらを纏めていたのはハプスブルクという一つの家です。オーストリア栄光の歴史は同時にハプスブルク家の歴史でもありました。
 
 本稿ではハプスブルク家の興亡を中心にオーストリアをはじめとする中欧、東欧、バルカン諸国を見て行こうと思います。
 
 
 最初に、オーストリア国家がいつ成立したか見てみましょう。時代はカール大帝(在位768年~814年)のカロリング朝フランク王国まで遡ります。カール大帝は、現在のドイツ・フランス・イタリアに領土を広げカロリング朝の最盛期を築いた皇帝として有名ですが、772年から始まり10回も重ねられた対ザクセン戦争によってニーダーザクセン地方を征服します。これは現在のユトラント半島の付け根からドイツ西北部一帯(ハノーバーやハンブルクのある辺り)です。ちなみにザクセン族というのは現在のイギリス人の源流の一つサクソン族(ドイツ語でザクセン)のことです。
 
 778年にはドイツ南部のバイエルン族を攻め、さらにパンノニア平原(現在のハンガリー盆地)にいた遊牧民族アヴァール族を討ちます。カールは新しく獲得した領土に辺境伯を設けました。この辺境伯というのは単なる地方長官に過ぎない伯ではなく、辺境領土の内政と軍事を司る強大な権限を持ち特に大きな領土を持つ辺境伯は公や侯と同格の地位を持つとされます。
 
 帝国の北東辺境を守るのがブランデンブルク辺境伯であり、南東を守るのが現在のオーストリアにあったオストマルク辺境伯でした。ブランデンブルク辺境伯は後のドイツに発展します。オストマルク辺境伯領は、帝国南東の守りとしてスラブ人次いでマジャール人(のちのハンガリー人)との戦いに明け暮れました。
 
 フランク王国が分裂し東フランクになり神聖ローマ帝国に代わってもオストマルクの重要性は変わらず歴代皇帝は辺境伯バーベンベルク家に大きな権限を与えます。そしてオストマルクの名は次第にオーストリアと言い換えられ始めました。皇帝とオストマルク辺境伯は長年良好な関係を築きますが、叙任権闘争(のちにカノッサの屈辱に繋がる)の時、辺境伯が教皇側に付いた事からこれが壊れました。
 
 カノッサの屈辱の後勢力を盛り返したドイツ皇帝ハインリヒ4世は、この時の恨みを忘れておらず1081年辺境伯レオポルド2世からオーストリア辺境伯領を取り上げ、ボヘミア公にこれを与えます。その後皇帝と和解しレオポルド2世は辺境伯領を取り戻しますが、この事件以後バーべンベルク家は慎重になり皇帝により忠勤を励むようになりました。
 
 皇帝家ザリエル朝が断絶しコンラート3世のホーエンシュタウフェン朝が創始されると、コンラートは異父弟にあたるオーストリア辺境伯レオポルド4世にバイエルンを与えます。しかし諸侯の反発が大きくバイエルンを元の持ち主ザクセン公ヴェルフ家に返還した事からバーべンベルク家とヴェルフ家との間に対立が生じました。
 
 1156年、事態はレーゲンスブルク議会で調停が行われるほど紛糾し結局バーベンベルク家はバイエルンを諦める代わりにオーストリアを大公領に昇格し世襲する事など諸特権を認められます。
 
 その後バーベンベルク家は1249年断絶しました。神聖ローマ皇帝としてはオーストリア大公領を皇帝派に残すために一族のものを配すのがベストでしたが、肝心の皇帝コンラート4世が1254年後継ぎを残さず死去しホーエンシュタウフェン朝が断絶したためにその野望は潰えます。
 
 以後、1273年まで皇帝権は安定せず大空位時代が始まりました。ドイツ諸侯たちは神聖ローマ皇帝位、そして豊かなオーストリア大公領を巡って争います。
 
 互いに争い、少なくともオーストリア大公領が敵側に渡らないための一時的措置として大公に選ばれたのはスイスの田舎貴族に過ぎないハプスブルク家のルドルフでした。しかし後にボヘミア王(この頃公から王に昇格していた)ら有力諸侯は馬鹿にしていたルドルフにしてやられることになります。
 
 そしてルドルフは神聖ローマ皇帝に即位、その後20世紀まで続くハプスブルク王朝の祖となりました。次回、ハプスブルク朝の基礎を作ったルドルフ1世の生涯について語ります。

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