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2014年2月 3日 (月)

ハプスブルク帝国Ⅶ  マリア・テレジア

 1740年、マリア・テレジア(在位1740年~1780年)がオーストリア皇位(正式にはオーストリア帝国の名はウィーン会議後だが慣例的にこう呼びます)を継いだ時、案の定彼女の継承に異議を唱えた者がいました。
 
 バイエルン選帝侯カール・アルブレヒトです。実はカールも先帝カール6世の兄ヨーゼフ1世の娘を妃にしており、欧州の古い慣習法では継承権を申し立てる事が出来たのです。
 
 そして先帝カール6世が危惧したとおり、まずプロイセンのフリードリヒ2世が厚かましくも「オーストリア領シュレジェンを割譲すればマリアの継承を認めてやる」と申し出て、それを実力で確保すべく出兵しました(第1次シュレジェン戦争)。これに勢いづいたフランス、スペインら列強がバイエルン侯カールを後押しして参戦、オーストリア継承戦争(1740年~1748年)が勃発します。
 
 生前の約束は、その王あるいは皇帝が生きている間だけ有効であるということは、豊臣秀吉の死後約束を反故にし天下を取った徳川家康の例を知っている我々日本人はよく理解できます。結局国際政治は自国の利害関係のみで動いているのです。そこに人道とか道義的責任などが入り込む余地はありません。
 
 ともかく、周辺国すべてを敵に回したマリア・テレジアは絶体絶命の危機に陥りました。夫ロートリンゲン公フランツとの間に子供が生まれていましたが、その赤子を抱いたまま単身ハンガリーに乗り込み、議会でハンガリー貴族たちに涙ながらに協力を訴えます。
 
 ハンガリーはオーストリアと同君連合でしたが、ハプスブルク家の継承に反感を抱く貴族も多く、彼らの協力なしには戦争遂行は不可能でした。赤子を抱いた23歳のうら若き美しい女帝の訴えは、ハンガリー貴族たちの心を打ちます。
 
 こうして内部を固めたマリア・テレジアは、フランスと伝統的に対立するイギリス、建国の経緯から両ハプスブルクに憎しみを抱くオランダと同盟を結びます。さらにプロイセンに対してはシュレジェンを割譲する代わりに戦争から手を引かせました。
 
 戦局は二転三転しますが、最後はマリア・テレジアの的確な戦争指導のおかげで実力で皇位継承を列強に認めさせます。しかし豊かなシュレジェン地方をかつて臣下だったプロイセンのフリードリヒ2世に奪われた事はマリア・テレジアにとって我慢ならない事でした。
 
 1745年マリア・テレジアは夫フランツを名目上の神聖ローマ皇帝に就ける事に成功します。こうして内部を固めておいて、プロイセンに対抗するため30年戦争以来の宿敵フランスと結ぶ事を考えました。これには外務大臣カウニッツ伯の助言が大きかったと云います。
 
 1756年、フランス王太子ルイ(のちのルイ16世)と、マリア・テレジアの第11女マリー・アントワネットとの間に婚約が成立、両国は長年の敵対関係を止め同盟を結ぶ事となりました。これを外交革命と呼びます。同時にロシア帝国とも結びました。
 
 外交的にプロイセンを孤立させたマリア・テレジアは満を持してシュレジェン奪回のためプロイセンに宣戦布告します。戦争は1756年から1763年まで続いたので7年戦争と呼びます。
 
 オーストリア継承戦争と違い、孤立したのはフリードリヒ2世の方でした。プロイセンは唯一の同盟国イギリスの資金援助を頼りに戦い抜きます。ところがフリードリヒ2世は当時最高の軍略家でした。戦略的な絶体絶命の危機を神がかり的な戦術で耐え抜き1757年にはロスバッハでフランス軍を、ロイテンでオーストリア軍を撃破するなど驚異的な粘りを見せます。有名な斜行戦術(過去記事参照)が使われたのもこれらの戦いです。
 
 さらに1762年ベルリン陥落直前にロシアの女帝エリザベータが死去し、後をフリードリヒ信奉者で頭の弱いピョートル3世が継ぐとロシアは突如軍を返しプロイセンと単独講和を結びます。フリードリヒはこの時死を覚悟して毒薬を常時持ち歩いていたそうですが、降って湧いたような幸運によって窮地を脱しました。これがブランデンブルクの奇跡です。
 
 一方、マリア・テレジアにとっては青天の霹靂でした。宿敵フリードリヒ2世をあと一歩のところまで追いつめていたからです。危機を脱したプロイセンは次第に盛り返し、オーストリアと同盟各国も勝利を諦めます。結局1763年パリで講和条約が結ばれプロイセンはシュレジェンを確保しました。
 
 この戦争でプロイセン王国は急速に台頭し列強の一員となります。マリア・テレジアは苦々しく思いながらも認めざるを得ませんでした。
 
 
 マリア・テレジアは、家庭的には恵まれていました。初恋の人ロートリンゲン公フランツと結ばれ、彼との間に男子5人、女子11人という16人もの子を成しました。ちょっと信じがたい数字ですが、有名なマリー・アントワネットが彼女の第11女なのでようやく納得できます。この計算だと毎年妊娠していた事になりますね。夫婦仲は良かったのでしょう。
 
 1765年マリアの夫フランツが死去すると、彼女の長男ヨーゼフ2世が共同統治者として神聖ローマ皇帝に即位します。しかし親の心子知らずで、ヨーゼフは彼女の天敵フリードリヒ2世の崇拝者でした。ロシアのピョートル3世といいヨーゼフ2世といい、この時代の若者は戦上手のフリードリヒ2世が好きだったようですね。
 
 1772年息子ヨーゼフは、母マリアの反対を押し切りロシア・プロイセンとの間で第一回ポーランド分割に参加します。さらにフランスに嫁いだ娘マリー・アントワネットの浪費癖など悪い噂に悩まされた晩年でした。
 
 
 晩年のマリア・テレジアは急速に絶対王政を進める息子ヨーゼフ2世としばしば意見を対立させ、さらには娘マリー・アントワネットの行く末を案じながら過ごしました。1780年女帝マリア・テレジア崩御。その遺体は最愛の夫フランツとともにハプスブルク家の墓所カプチーノ礼拝堂に眠っています。
 
 
 マリア・テレジアはハプスブルク家最後の男系皇帝でした。ヨーゼフ2世からはハプスブルク・ロートリンゲン朝が始まります。彼女の死は一つの時代の終わりだったと言えるでしょう。

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