2023年2月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28        
無料ブログはココログ

« ナポレオン戦記Ⅰ  ガルダ湖畔の戦い1796年 | トップページ | ナポレオン戦記Ⅲ  アウステルリッツ会戦1805年 »

2014年3月 1日 (土)

ナポレオン戦記Ⅱ  マレンゴ会戦1800年

 ナポレオン戦術の真髄を見せたガルダ湖畔の戦いから4年。ナポレオンの立場は大きく変わっていました。
 
 1797年4月、ナポレオン総裁政府の意向を無視してオーストリアと単独講和、カンポ・フォルミオ条約締結。
 1797年12月、エジプト遠征。1798年7月、ピラミッドの戦い勝利。
 同月、アブキール湾海戦で英ネルソン提督に仏艦隊敗北。
 1799年11月、ブリュメール18日のクーデターでナポレオン第一統領になる。
 
 フランス国内が混乱するさ中、北イタリアではオーストリア軍が再び進出奪われた領土をほとんど奪還していました。残されたフランス現地軍はナポレオンの宿将マッセナが率いてジェノバに籠城、オーストリア軍の重包囲下にありました。
 
 ナポレオンは、この危機を脱し再びイタリアを制圧するため遠征を決意します。1800年5月、ナポレオンは敵の意表を突くアルプス越えのルートを選択しました。大サン・ベルナール峠を越えたフランス軍3万7千。
 
 ジェノバのマッセナ軍は兵力1万6千。補給が断たれていた上にチフスまで発生していました。結局ナポレオンの救援は間に合わず、マッセナは包囲するオーストリア軍と交渉し、ジェノバ開城、武装したままの撤退を認めさせます。
 
 ナポレオン軍はその頃ミラノに入城していました。遠征の目的の一つマッセナ軍の救援は失敗したものの、籠城軍が無事に撤退できたので合流して一時帰還する選択肢もあったはず。しかしナポレオンは、この報告を受けると直ちに出発します。まもなくフランス軍先鋒ランヌ軍団は、ジェノバから北上してきたオットー将軍のオーストリア軍とぶつかりました。最初数に勝るオーストリア軍が優勢でしたが、ヴィクトール軍団の増援が間に合い逆転、勝利します(モンテベロ会戦)。
 
 オーストリア軍は、モンテベロの敗戦のあとアレッサンドリア(イタリア北西部の都市)に終結しフランス軍を待ちかまえました。その数3万。一方フランス軍にはエジプト戦役から戻ったばかりのドゼー将軍が加わりナポレオンを喜ばせました。
 
 ドゼー(1776年~1800年)、1797年ナポレオンの知遇を得てエジプト遠征に参加。有能な将軍であるばかりでなく、公明正大なことからエジプト人の間で「正義のスルタン」として尊敬を受ける。ナポレオンより1歳年長、当時31歳。
 
 ナポレオンは、オーストリア軍主力がトリノに集結していると誤認し兵力を分散させます。6月14日朝、フランス軍先鋒ヴィクトール軍団9千がマレンゴに進出。待ちかまえていたメラス将軍を司令官とするオーストリア軍3万1千はこれを攻撃、劣勢のヴィクトール軍はたまらずマレンゴ村に逃げ込みます。戦場から5キロ後方にいたナポレオンは、ランヌ軍団とミュラの騎兵部隊を直ちに増援に送りだしました。この時ナポレオンの手元にあったのは2万3千。大砲の数もフランス軍28門に対しオーストリア軍100門と圧倒的に劣勢でした。
 
 最初の誤認がナポレオンの判断を狂わせつつありました。兵力でも大砲の数でも劣勢のフランス軍は午後5時になった時点で敗北一歩手前、ナポレオンの常勝伝説もここで終わるかに見えました。ところが間一髪ドゼーの援軍5千が間に合います。
 
 ドゼーは、ド・マルモンの砲撃の援護を受けようやく疲れの見えていたオーストリア軍に突撃を敢行。新手の出現で戦場のバランスは崩れ支えきれなくなったオーストリア軍は潰走しました。ところがここで悲劇が起こります。敵の放った弾丸がドゼーの胸を貫いたのです。即死でした。
 
 マレンゴ会戦はナポレオンの薄氷を踏むような勝利に終わります。しかしドゼーという有能な将軍を失った痛手は計りしれません。
 
 
 15日、オーストリアは和平交渉を申し出ます。フランスはこれによって再びイタリアの半分を奪回。しかし、あまりにも犠牲が大きな勝利でした。

« ナポレオン戦記Ⅰ  ガルダ湖畔の戦い1796年 | トップページ | ナポレオン戦記Ⅲ  アウステルリッツ会戦1805年 »

 世界史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: ナポレオン戦記Ⅱ  マレンゴ会戦1800年:

« ナポレオン戦記Ⅰ  ガルダ湖畔の戦い1796年 | トップページ | ナポレオン戦記Ⅲ  アウステルリッツ会戦1805年 »