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2014年3月 1日 (土)

ナポレオン戦記Ⅲ  アウステルリッツ会戦1805年

 大国オーストリアを屈服させたことはフランス国民を沸き立たせます。しかしこの頃産業革命の端緒に着いたばかりのイギリスは欧州一(=世界一)の工業力を誇り強大な力を有していました。イギリス首相小ピット(ウィリアム・ピット1759年~1806年)は、フランス革命とその後のナポレオン帝国が欧州の秩序を乱すものと警戒し対仏大同盟を主導して敵対します。
 
 イギリス国内の経済不況で英仏が一時的に和平し、アミアン条約でフランスの植民地が回復された事を背景にナポレオンは元老院に諮り統領を終身制にする事を認めさせました。そして1804年5月国民の圧倒的支持を受けフランス皇帝に即位します。
 
 一方、イギリスはこのようなナポレオンの振る舞いを苦々しく見守っていました。ナポレオンが大陸の市場からイギリスを締め出そうとしたことも火に油を注ぎます。同五月、イギリスはアミアン条約を破棄しフランスに宣戦布告します。怒ったナポレオンはイギリス本土上陸を考えますが圧倒的な英海軍の力の前にこれを断念する事になりました。1805年10月フランス・スペイン連合艦隊はスペイン、トラファルガー沖でネルソン率いるイギリス艦隊と激突、壊滅的打撃を受けて敗北したのです。
 
 これにより大西洋・北海の制海権はイギリスのものとなり、ナポレオンは英本土上陸を諦めます。トラファルガー海戦は他の欧州諸国を勢いづかせました。特にオーストリアは、ロシアと組んで公然とフランスに敵対の態度を示します。ナポレオンはイギリスを屈服させるには大陸を統一することだと悟り、この際オーストリアの息の根を止めるべく遠征軍を送りました。1805年のことです。
 
 第1軍団(べルナドット元帥)
 第2軍団(ド・マルモン元帥)
 第3軍団(ダヴー元帥)
 第4軍団(スルト元帥)
 第5軍団(ランヌ元帥)
 第6軍団(ネイ元帥)
 第7軍団(オジュロー元帥)
 騎兵軍団(ミュラー元帥)
 近衛軍団(べシェール元帥)
 
から成る実に22万の大軍です。大砲も350門有していました。オーストリアはこれに対抗しロシアと同盟を結びます。ナポレオン率いるフランス大陸軍(グランダルメ)はドイツ南部バイエルンに進出、マック将軍率いるオーストリア軍7万2千は、ウルムでこれを迎え撃ちますが22万のうち15万の兵力を集結させたナポレオンの前に完敗。その勢いを駆ってナポレオンはオーストリアの首都ウィーンを落としました。
 
 しかし、オーストリア皇帝フランツ1世(神聖ローマ皇帝フランツ2世)はいち早く首都を脱出、軍主力と共にロシア軍と合流します。ロシアもこの戦いを天王山と覚悟し皇帝アレクサンドル1世が直卒して来ていました。
 
 
 ロシアの宿将クツーゾフはナポレオン軍が手ごわい事を警戒しアレクサンドル1世に慎重な行軍を進言しますが、血気にはやる若い皇帝はこれを一蹴、ナポレオンと決戦すべく軍を進めました。ロシア・オーストリア連合軍8万5千、砲278門。
 
 対するフランス軍は第1、第3、第4、第5軍団と近衛、騎兵軍団を中心とする兵力7万3千、砲139門。ナポレオンはこの戦いで一気に決着すべくブルノからアウステルリッツへ向かう緩やかな丘陵地帯を戦場に定めます。戦いは途中にあるブラッツェン高地をどちらが制するかにかかっていました。
 
 ところがナポレオンは、ブラッツェン高地をわざと敵軍に明け渡し、高地の麓に布陣。そればかりか最も兵力の少ないダヴーの第3軍団(兵力4300、砲12門)を最右翼に配しました。フランス軍の布陣をみたアレクサンドル1世は笑います。敵右翼を目指して全軍高地から駆け下れば容易に勝利できると踏んだのです。しかしクツーゾフはここでも慎重論を唱えます。皇帝の不興を買ったクツーゾフは名目だけの司令官に祭り上げられ左遷されました。
 
 1805年12月2日、両軍は激突します。連合軍は高地を駆け下り最も弱体なフランス軍右翼ダヴーの第3軍団に襲いかかりました。ダヴーは、これを支えきれず大きく後退します。いや、後退したかに見えました。
 
 ナポレオンはこの機を見逃さず、中央に布陣するスルトの第4軍団に突撃を命じます。ブラッツェン高地のロシア軍中央はダヴー追撃に夢中になり手薄になっていました。勝ち誇っていたロシア軍は、自軍の背後に敵兵が現れ驚愕します。ブラッツェン高地は容易にフランス軍の手に落ちました。
 
 攻守逆転した連合軍は、一気に浮足立ちます。フランス軍左翼中央のべルナドット軍団も攻勢に転じ、アレクサンドルは近衛軍を投入しますが後の祭りでした。結局全面攻勢に転じたフランス軍の前に連合軍は死傷者1万5千という大損害を出して敗退します。フランス軍の死傷者は8千2百。
 
 
 世に言うアウステルリッツ会戦です。この戦いは戦場の選択、罠、機動、作戦すべてにおいてナポレオン快心の成果でした。ここにきてオーストリア皇帝フランツ1世は12月4日ナポレオンに降伏。26日プレスブルクの和約でオーストリアは戦争から脱落しました。ロシア皇帝アレクサンドル1世は「我々は巨人の前の赤子だった」と嘆いたと伝えられます。
 
しかし、ロシア軍は依然健在でした。本国に逃げ帰ったアレクサンドルは一時逼塞しますがフランスへの敵愾心は捨てておらず大陸封鎖令に反発してイギリスと同盟、ナポレオンのロシア遠征を招きます。
 
 
 アウステルリッツにおける連合軍敗退の報告を受けたイギリス首相小ピットは、壁に広げてあった欧州の地図を指さし「その地図を巻け。今後10年間は見る必要なし」と吐き捨てました。

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