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2014年3月

2014年3月 1日 (土)

ナポレオン戦記Ⅶ  ワーテルロー会戦1815年(最終回)

 ナポレオンの敗北、王政復古はナポレオンの元帥たちの人生を変えます。1815年2月ナポレオンがエルバ島を脱出し不死鳥のごとく蘇った事が彼らの運命にも大きな影響を与えました。
 
 まず、ナポレオンの妹婿、ナポリ王ミュラについて語りましょう。ミュラはロシア遠征失敗の時からナポレオンを見限り離れる決断をします。1814年、連合軍側に接近しナポリ王国独立を画策しますが当然認められるはずもなくウィーン会議で王位剥奪。ナポレオンがエルバ島から脱出すると馳せ参じようとしますがナポレオンは裏切り者を許さず再びナポリへ。ワーテルロー後わずかな手勢を率いてナポリ奪回の挙兵するも失敗。処刑されました。
 
 次にナポレオンの参謀長、べルティエ。ナポレオン失脚後王政を支持し離反。しかしナポレオンがエルバ島を脱出すると旧主と現在の立場の板挟みにあい自殺。事故死という説もあります。
 
 勇将ネイの場合は、南フランスに上陸したナポレオンを討伐に向かったにもかかわらず旧主と相対するとあっさりと帰順しました。
 
 ダヴーもルイ18世に忠誠を誓った一人ですが、ナポレオンのエルバ島脱出を知っていち早くナポレオン支持に回ります。
 
 マッセナは王政復古時マルセイユ司令官。ナポレオンの百日天下では彼を支持するも軍には加わりませんでした。ワーテルロー敗戦後すべての官職を剥奪され1817年4月パリで死去。
 
 スルトは王政復古後戦争大臣。彼もまたナポレオンがエルバ島脱出すると馳せ参じナポレオンによりべルティエ後任の参謀総長に任じられました。ただ叩き上げの軍人で管理能力や戦略的思考に難があったためワーテルローでは致命的な失策を犯します。
 
 
 1815年3月20日ナポレオン軍パリ入城。ルイ18世は逃亡しフランス国民は圧倒的な支持で彼を迎えました。再び帝位に返り咲くナポレオン。連合国は第7回対仏大同盟を結成してこれに対抗します。
 
 ナポレオンは20万の兵を集めました。一方連合国は総勢70万。ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリーはイギリス・オランダ連合軍10万を率いオランダへ。ブリュッヘル指揮下のプロイセン軍12万はナミュール方面へ。バークレーのロシア軍17万はライン河中流方面。シュワルツェンベルクのオーストリア軍25万はライン河上流方面へ。オーストリア・サルディニア連合軍6万も北イタリアからフランス本土を狙いました。
 
 ナポレオンは、ベルギーでイギリス軍・プロイセン軍を叩けば連合軍は瓦解すると踏みます。各方面に最低限の守備部隊を配置すると自ら13万、火砲370門を率いてベルギー国境を越えました。この時フランス軍でもっとも戦術能力があったダヴーはナポレオンに同行する事を希望しますが、重要なパリ防衛を担当する人材が他にいなかったためナポレオンはやむなくダヴーを首都防衛軍司令官として止めました。歴史にIFは禁物ですが、ワーテルローの戦いでダヴーがいたら結果は変わっていたかもしれません。
 
 
 斥候の報告でイギリス軍とプロイセン軍が60km離れている事を知ったナポレオンは、得意の機動戦術、各個撃破で両軍を叩こうと考えます。6月15日リニーに到達したフランス軍はまずプロイセン軍と当たりました。さすがに直接対決ではナポレオンに分があり、ブリュッヘルはたまらず敗走します。いつまでもプロイセン軍に関わっていては貴重な時間を逸するので、ナポレオンはグルーシーの軍団にこれを追撃させました。
 
 この時ブリュッヘルは負傷しており、参謀長グナイゼナウが代わって指揮を取ります。グナイゼナウは最初リエージュ方面に退却しますが、途中進路を西に変えワーブルに急ぎました。機転のきかないグルーシーは、プロイセン軍が敗走している事を侮り敵がリエージュ方面に退却しているものと思い込んでいましたから追撃も緩慢でした。この判断ミスが後に致命傷になります。
 
 ナポレオンの本隊7万2千は、ブリュッセルへ向かう街道を進みました。ウェリントンは6万8千の兵を率いブリュッセル街道の要害ワーテルローでこれを迎え撃ちます。イギリス軍は街道を見下ろす丘陵上に布陣しました。6月18日決戦の火蓋は切られます。ウェリントンとしてはその日のうちに来援すると約束していたプロイセン軍が来るまで持ちこたえれば良いと考えていました。一方、ナポレオンもプロイセン軍追撃に向かったグルーシーを呼び戻すべく参謀長スルトに命じて伝令を発します。
 
 戦いの帰趨はプロイセン軍の来援が早いか、それともグルーシー軍団が間に合うかにかかっていたのです。ところがスルトは、伝令を一人しか出しませんでした。後にナポレオンは「もし参謀長がべルティエだったらあの時伝令を1ダースも出していただろうに」と悔やんだと伝えられます。軍隊指揮官としては優秀でも、スルトは参謀長としては荷が重かったのでしょう。
 
 それでも戦闘は最初フランス軍が押し気味でした。イギリス軍と相対する南方の別の尾根に布陣したナポレオンは敵が丘陵上でよく見えないため前線の指揮を歴戦の勇士ネイに任せます。ウェリントンはネイの攻撃を支えきれなくなり午後3時百歩だけ戦列を後ろに下げました。これをネイが全面退却と勘違いし有名な5000騎の騎兵突撃を敢行。ウェリントンはなんとか撃退するものの、ナポレオンはこれを好機と考えデルロン軍団を右翼から突撃させます。
 
 夕方に入るとイギリス軍の敗色濃厚になっていました。ウェリントンは「ブリュッヘルか夜か死か!」という有名な言葉を叫びます。
 
 その時戦場の北東に一群の軍馬が現れました。両軍は固唾をのんで見守ります。それはプロイセン軍5万でした。ウェリントンは賭けに勝ったのです。一方、フランス軍の間には失望が走りました。午後4時30分、プロイセン軍を指揮するグナイゼナウは、迷いもなくフランス軍右翼に襲いかかります。こうなるとどうあがいてもフランス軍に勝ち目はなくなりました。精鋭近衛軍団の突撃も不発に終わり午後7時、ナポレオンはついに戦場を脱します。
 
 イギリス軍に追撃の余力はありませんでした。ところがプロイセン軍は余力十分で、グナイゼナウは夜間追撃まで敢行し90キロも進撃したそうです。そしてフランス軍はここでも甚大な被害を出しました。
 
 ワーテルロー会戦は、ナポレオン常勝伝説の終焉であると同時に、プロイセンの訓令統帥戦法が世界史上に輝きはじめる端緒でした。
 
 
 ナポレオンは、6月21日ようやくパリに辿りつきます。彼が率いたフランス大陸軍は4万以上の損害を出していました。人心はすでに離れています。ナポレオンはこれ以上抗戦の意欲を失い、6月22日退位を宣言しました。
 
 ほどなく連合軍がパリに入ってきます。連合国はナポレオンが二度と復活しないよう大西洋上の絶海の孤島セント・ヘレナに流しました。そして不世出の英雄は、1821年この地で波乱の生涯を終えます。享年51歳。
 
 
 
 
 ナポレオン戦争とはいったい何だったのでしょうか?私はフランス革命の結果であり、個人が軍を指揮し結果を出せた最後の戦争だったのではないかと考えます。これ以後、戦争はドイツ参謀本部に代表される組織の戦い、国家総力戦へと突入していきました。
 
 
 
 最後に、ナポレオンにつき従った元帥たちのその後を記します。
 
 
◇参謀長スルト
 ナポレオン退位後復活した王政復古では冷遇されます。しかし1830年の7月革命で革命派を支持して復活。戦争大臣から1832年首相。1840年にはナポレオンの改葬に立ち会い、のち大元帥の称号を受ける。1851年名誉と栄光に満ちた82歳の生涯を終えました。ワーテルローでは不手際を見せるも、彼がナポレオンの元帥中ではべルナドットに次ぐ勝ち組のような気がします。
 
 
◇ネイ
 敗戦後、フーシェ(警察大臣)は亡命を勧めますがこれを拒否。おとなしく拘束されます。ルイ18世はネイを反逆罪に問い、1815年12月6日銃殺。最後までナポレオンへの忠誠心を失いませんでした。
 
 
◇ダヴー
 ワーテルローの敗戦を知ると、手勢を率いパリを出発。勝ち誇るプロイセン軍を破り友軍の撤退を助けました。首都パリを守り抜いたのも彼の功績です。王政復古後すべての官職を剥奪されますが、ネイの裁判では危険を顧みず旧友を弁護。これが仇となり冷遇されますが3年後元帥の称号を取り戻し名誉回復。その4年後肺結核で死去します。彼こそナポレオン配下最良の司令官でした。
 
 
◇グルーシー
 ワーテルローでは大失敗したものの、敗戦後パリに戻りダヴーと協力して首都を死守。1840年ナポレオン改葬時にはスルトとともに立ち会っています。1847年死去、享年81歳。
 
 
 
◇べルナドット
 彼は他の元帥たちと違い同列には論じられませんが、1818年スウェーデン王カール14世ヨハンとして即位。彼のべルナドッテ王朝は現在まで続いています。ミュラと同様裏切り者として語られる事の多いべルナドットですが、ミュラとは違い裏切ったわけではないと思います。その時々与えられた自分の職責を忠実に守っただけだと考えるのです。これは想像ですが、べルナドットに関してはナポレオンもそれほど怒ってはいなかったような気がします。

ナポレオン戦記Ⅵ  ライプチヒの戦い1813年

 ナポレオンのロシア遠征失敗は各国に大きな影響を与えます。中でもプロイセンにおいて顕著でした。ここでチルジット条約(1807年)以降のプロイセンについて述べます。
 
 チルジット条約はプロイセンにとって国土と国民の半分を奪う過酷なものでした。国軍は解体し、一気に二流国に転落したのです。しかしプロイセン国民は諦めていませんでした。まず国軍はシャルンホルスト、グナイゼナウが中心となって改革を進めます。徴兵に例外の多かったフランスよりもさらに徹底して国民軍を建設しました。
 国民皆兵を維持するためには旧態依然とした身分制社会では駄目で、国民平等と国民の政治への参加が達成されなければなりません。これはシュタインやハイデルベルクなど少壮官僚が担いました。
 さらに国民運動家フィヒテが「ドイツ国民に告ぐ」を記してプロイセン国民のナショナリズムを煽ります。プロイセンはまったく新しい国に生まれ変わろうとしていました。
 
 それにしても国軍壊滅からわずか6年弱で、フランスに対抗しうる国民軍を建設したシャルンホルストの手腕は恐るべきものでした。その自信を背景に1813年3月、プロイセンはフランスに宣戦布告します。一方、フランス軍はロシア遠征の大敗でナポレオン挙兵以来の有能な兵士がいなくなっていました。新たに徴募した兵士は訓練もままならず相対的にフランス軍の力は落ちていたと言えます。
 
 プロイセンはブリュヘルを国軍総司令官、シャルンホルストを参謀総長、グナイゼナウを先任参謀に任命し、フランスに当たりました。1813年5月2日、リュッツェンの戦いでシャルンホルストは脛を撃たれて負傷してしまいます。しかしその傷をおしてオーストリアを味方につけるためウィーンに向かいました。6月28日、プラハで傷が悪化し敗血症になったシャルンホルストは亡くなります。享年57歳。
 
 後任の参謀総長にはグナイゼナウが就任しました。国王フリードリヒ・ウィルヘルム3世はシャルンホルストの生前の功を感謝しベルリンに彼の彫像を立てさせます。
 
 
 シャルンホルストの作戦計画は、第6回対仏大同盟として結実しました。イギリス、オーストリア、ロシア、スウェーデンがこれに加わりナポレオンを追い詰めます。といってもやはり野戦ではナポレオンに一日の長がありました。連合軍は、個々の戦闘では敗北しても戦略的にナポレオンのフランス大陸軍を追い詰めて行きます。特にナポレオン不在のスペイン戦線は絶望的で、ウェリントン率いるイギリス・ポルトガル連合軍にスペイン民衆のゲリラが加わり国王ジョゼフをスペインから叩き出すほどでした。
 
 
 そしてドイツにおいても決定的な戦いが始まろうとしていました。8月26日から27日にかけてのドレスデンの戦いに勝利したナポレオンは、ここで連合軍の息の根を止めるべくザクセンの首都ライプチヒに進軍します。これに対しプロイセン軍はライプチヒの北西から、 スウェーデン軍は北東から、オーストリア軍は南から、ロシア軍は南東から大きくフランス軍を包囲するように機動します。両軍の兵力はナポレオン軍19万火砲700門、連合軍36万火砲1500門。
 
 
 布陣図を見ると完全に包囲されており、ナポレオンらしからぬ布陣であることが分かります。逆にこの形こそ生前シャルンホルストが待ち望んでいたものでした。包囲することによってフランス軍の強みの一つである機動力を封じる事が出来ます。一方味方は倍の兵力と優勢な火力で敵を圧迫し包囲の輪を縮めるだけです。誰が指揮してもほぼ負ける事のない理想的な作戦でした。
 
 連合軍は、この作戦の総指揮をスウェーデン王太子べルナドットに委ねます。この名前に違和感を覚えた方は多いと思います。そう、彼こそかつてのフランス軍の宿将べルナドット元帥でした。実は1809年スウェーデンで軍事クーデターが起き、対仏強硬派のグスタフ4世アドルフが廃されていました。後を継いだ伯父のカール13世は老齢で、後を継ぐべき王太子カール・アウグストも1810年病死したため、国家生き残りのためにフランスに接近したのです。ナポレオンはスウェーデンを自国の衛星国とすべくべルナドットをカール13世の養子に押し込みました。
 
 ところが王太子になったべルナドットは、スウェーデンの国益を重視する政策を取りフランスから離反します。もともとナポレオンの部下ではあってもナポレオン個人にそれほど忠誠心は持っていませんでした。さらに彼の妻デジレがナポレオンの元婚約者だった事もあり両者の関係はぎくしゃくしていたのです。
 
 ロシアやオーストリアの将軍ではなく、ナポレオン戦術を知り尽くしているべルナドットに総指揮権を与える事もシャルンホルストの計画にあったかもしれません。べルナドットはその期待に見事に応えました。
 
 1813年10月16日、後に諸国民戦争とも呼ばれることになるライプチヒ会戦が始まります。最初は獅子奮迅の活躍を見せていたフランス軍も戦略的に負けていたため次第に追いつめられていきました。激戦は4日間に渡って続き、敗色濃厚のナポレオンは白エルスター河に血路を開き脱出します。この時橋が破壊されていたため、殿軍を務めたポニャトフスキー元帥が溺死するという悲劇まで起こりました。
 
 ポニャトフスキーは、ポーランド人で最後のポーランド王の甥です。ナポレオンが祖国ポーランドを再興してくれると信じ部下を率いフランス軍に参加。死の前日元帥に補されたばかりでした。
 
 
 フランス軍の死傷者3万8千、捕虜3万。連合軍の死傷者5万4千。ナポレオンの意図としてはライプチヒで連合軍を粉砕し再び欧州に覇を唱える事を夢見ていたと思います。アウステルリッツの再来を期待していたのです。ところが今のフランス大陸軍はかつての常勝軍ではなくなっていました。
 
 ライプチヒ会戦は、ナポレオン戦争の分水嶺とも言える戦いでした。これ以後ナポレオン帝国は瓦解の道を突き進みます。1814年に入ると、戦場はフランス本土に移るのです。スペインからはすでにイギリス軍が侵入していました。局地的には幾度かナポレオンも勝利しますが、もはや大勢が覆ることはなく、3月31日パリが陥落。
 
 4月6日、フランス皇帝ナポレオン・ボナパルトはついに退位、エルバ島に流されます。9月各国はオーストリア外相メッテルニヒの提唱でウィーンに集まりナポレオン戦争後の国際秩序を話し合いました。所謂ウィーン会議です。
 
 
 フランスでは王政復古が成されルイ18世が即位しました。このまま不世出の英雄ナポレオンは終わってしまうのでしょうか?次回最終回、ワーテルロー会戦にご期待ください。

ナポレオン戦記Ⅴ  ロシア戦役1812年

 アウステルリッツからイエナ会戦を中心とする前後数年間がナポレオンの絶頂期だったと言えます。領土自体は1812年ロシア遠征直前が最大でしたが、この頃すでにナポレオン帝国は陰りを見せ始めていました。
 
 最初のつまずきはスペインでした。国王カルロス4世は精神疾患で王妃マリア・ルイザと宰相ゴドイが実権を握っていました。そこへ王太子フェルナンドが加わりスペイン宮廷は血みどろの権力闘争を繰り返していたのです。ナポレオンは混乱するスペインを自国領に加えようと、1808年軍隊を送り当時傀儡のナポリ王だった実兄ジョゼフを強引にスペイン王位につけました。空席になったナポリ王にはナポレオンの宿将で妹婿でもあったミュラが即位します。
 
 抵抗するスペイン軍は、精鋭フランス軍の前に一蹴。スペインは完全にナポレオンの支配下に入ったかに見えました。ところが本当の戦いはこれからでした。スペイン国民は怒りゲリラ戦でフランス軍に対抗します。当時ポルトガルを属国としていたイギリスも、イベリア半島にアーサー・ウェルズリー(のちのウェリントン公爵)を送り込み半島情勢は収拾のつかない事態に陥ります。
 
 1808年12月ナポレオンが直接乗り込み一時的に情勢は安定したかに見えましたが、ナポレオンがイベリアを去ると元の黙阿弥でした。スペイン戦線にはマッセナ、スルト、ヴィクトールなど多くの宿将が投入されましたがゲリラ戦に対抗できず無駄な努力に終わります。1809年2月スペインにおけるフランス軍の苦戦を見たオーストリアは再びナポレオンに宣戦布告しました。オーストリア軍の最高司令官に就任したカール大公(皇帝フランツ1世の弟)率いる主力軍20万がバイエルンへ、イタリア半島にはヨハン大公率いる5万が、ポーランドにはフェルディナント大公の6万がそれぞれ向かいます。
 
 1809年5月、ここであろうことかナポレオン率いる7万3千のフランス軍が、カール大公の10万のオーストリア軍にアスペルン・エスリンクの戦いで敗北してしまうのです。ナポレオン直接指揮の軍隊が敗北したのはおそらく初めてでした。宿将ランヌもこの戦いで戦死します。常勝ナポレオン伝説に陰りが見えた象徴とも言える戦いでした。最終的には1809年7月のヴァグラム会戦でカール大公のオーストリア軍を破り再びオーストリアを屈服させますが、この事はナポレオンの生涯の大きなしこりとなります。
 
 自分の人生に陰りが見え始めた事を知ってか知らずか、ナポレオンは大陸封鎖令を発し宿敵イギリスを締め出す策に出ました。しかしイギリスとの貿易に頼っていたロシアはこれに反発、1810年イギリスと同盟して公然とナポレオンに敵対します。
 
 ナポレオンはロシアを屈服させる事を決意しました。ロシア遠征に先立ちナポレオンはロシアの宿敵オスマントルコに使者を送ります。フランスと同盟し、ロシアを南北から攻めようと云うのです。時のスルタン、マフムト2世はイェニチェリを廃止し軍の近代化を進めたスルタンとして有名ですが、国内外のあらゆる情勢を分析してナポレオンのフランス帝国絶対有利、ロシア完敗という情報を得ます。ところがマフムト2世は、フランスとの同盟を断り戦争中だったロシアと講和してしまったのです。この恐るべき慧眼はどうでしょう!彼はナポレオンの没落を予測していたのでしょうか?
 
 最初からつまずいたロシア遠征でしたが、1812年6月ナポレオンはフランス軍だけで45万、同盟軍を入れると70万という空前の大軍を率いてロシア国境を越えました。火砲も940門を数えます。一方、ロシアもオスマントルコとの戦争から解放された部隊を転用し、総勢40万と言われる軍隊を動員します。
 
 皇帝アレクサンドル1世は、この戦いをナポレオン戦争の天王山と覚悟していました。ロシアは全国民をあげて侵略者と戦います。ナポレオンは、最初アウステルリッツやフリートラントの戦いぶりからロシア軍を舐めていたふしがあります。食料を2週間分しか準備していなかった事もその表れです。
 
 事実ロシア軍は精鋭フランス軍の前に連戦連敗で、6月26日には早くもダヴーの軍団がミンスクを落とします。ロシア西方司令官パグラチオン将軍とバルクライ将軍は要衝スモレンスクに兵力を集結し8月16日フランス軍に決戦を挑みました。しかしロシア軍はここでも敗れスモレンスクの街は炎上します。
 
 ロシア皇帝アレクサンドル1世は、ここに至って国民の圧倒的な支持を受けていたクツーゾフ将軍の復帰を認めざるを得ませんでした。アウステルリッツで関係の悪化していた両者でしたが背に腹は代えられない状況になっていたのです。クツーゾフはロシア全軍の最高司令官としてナポレオンと対峙することになります。
 
 1812年8月22日、モスクワ西方120kmにあるボロジノに布陣したクツーゾフ軍13万はフランス軍を待ちかまえます。ナポレオンも同数の13万を率いてボロジノに迫りました。ボロジノ会戦はフランス軍の死傷者5万以上、ロシア軍の死傷者4万4千と互いに甚大な被害を出しながらもナポレオンが辛勝します。しかしフランス軍にクツーゾフを追撃する余力は残っていませんでした。
 
 クツーゾフはモスクワ放棄という思い切った策に出ます。9月14日、ナポレオンはモスクワに入城しました。ロシア軍は、直接戦闘を避け攻めれば撤退し、引けば押し出すという戦法でフランス軍を苦しめます。フランス軍の進出する地域を焦土と化し現地調達を不可能にします。後方の補給線はロシア民衆のパルチザンが襲い、フランス軍は戦わずして消耗を続けました。所謂焦土戦術です。
 
 さらにモスクワは何者かが放った火によって炎上、フランス側はモスクワ総督ロストプチンが放火したと非難し、ロシア側はフランス軍の放火と主張しますが真相は謎です。モスクワの大火は物理的なものだけではなくフランス兵の精神も蝕みました。あれだけの精鋭を誇ったフランス兵の士気は完全に弛緩しモスクワ市内では略奪暴行が横行します。
 
 困り果てたナポレオンは、アレクサンドル1世に使者を送り講和を模索します。ところがアレクサンドルはこれに黙殺をもって答えました。そして、ついに恐れているものが到来しました。冬将軍です。補給の断たれたフランス兵は戦わずしてバタバタと倒れます。
 
 10月19日、ナポレオンはついにモスクワから撤退を決意。11月には本格的な冬将軍が襲いかかります。この機会を待っていたクツーゾフは追撃を命じました。ロシアのコサック騎兵は戦う気力も失ったフランス兵を襲い損害は鰻のぼりに増大します。ロシア農民のパルチザンも嵩にかかって攻めかけ、フランス大陸軍は戦病死者37万、捕虜20万という恐るべき損害を出しました。
 
 ナポレオンが無事にロシア国境を越えた時、わずか3万が付き従っていたにすぎませんでした。ついにナポレオンはロシアを屈服させることができなかったのです。
 
 
 ロシア遠征失敗の原因は古来様々言われています。
①ロシア軍撃滅よりもモスクワ占領を優先させたこと。
②侵攻時期が早すぎた事。少なくとも1813年雪解けを待って進軍すべきだった。
③ロシアの戦略的縦深は深すぎ70万程度では兵力不足だった事。
④兵力云々とは別に70万という大軍は当時の兵站能力では無理だった。
 
 ともかく、ロシア遠征の失敗はナポレオンの前途を暗いものにしました。それまで逼塞していたプロイセンやオーストリアが再び蠢動を始めたのです。スペイン戦線も絶望的になっていました。
 
 破局は間もなく訪れようとしていました。次回諸国民戦争ライプチヒの戦いを描きます。

ナポレオン戦記Ⅳ  イエナ会戦1806年

 アウステルリッツにおけるナポレオンの勝利は欧州諸国を震撼させました。特にプロイセンは大きな衝撃を受けます。
 
 ナポレオンは、欧州の強国プロイセンをオーストリア・ロシア同盟軍に合流させないために外交攻勢をかけていました。イギリス領ハノーバー(当時ハノーバー朝イギリスと同君連合)をプロイセンに譲る代わりにフランス側に付くかせめて中立を保つように、と。
 
 冷静に考えればこれがナポレオンの甘言だと容易に分かります。フランスに対抗しうる潜在的敵国の力を強くするはずはないからです。同時にハノーバーという餌をちらつかせることでプロイセンとイギリスの離間を図る事が出来ます。プロイセンの国論が、親墺派と親仏派に分かれて激しい議論を重ねている間にナポレオンはアウステルリッツで勝利しオーストリアを屈服させました。こうなるとプロイセンに気兼ねする必要性が無くなります。
 
 プロイセン首脳部に国家間のパワーバランスを理解できる者がいれば、少なくともアウステルリッツの段階でオーストリア・ロシア側に立って参戦しフランス軍を北方から襲うべきでした。この最大の機会を逸したことでプロイセンの命運は尽きたとも言えます。
 
 時のプロイセン国王フリードリヒ・ウィルヘルム3世(在位1797年~1840年)は優柔不断で決断力のない人物でした。むしろ王后ルイーゼの方が強硬派でフランスに対しては徹底抗戦を唱えました。ナポレオンから最後通牒が来た時もルイーゼが夫の尻を叩きロシアと同盟を結んで戦いを決断させます。
 
 1806年、ナポレオンは南ドイツに20万の兵力を集めてプロイセンを威圧しました。この頃のプロイセン軍は18世紀世界最先端だったフリードリヒ大王時代の軍隊ではありません。伝統にすがりつくだけで旧式化し軍の首脳部には王族や門閥貴族が能力もなくただ地位だけで就任している現状でした。
 
 ナポレオン率いるフランス軍が、ドイツとオーストリアを隔てるエルツ山脈とチューリンゲンの森、フランケンの森の南西に集結しているとの報告を受けたプロイセンでは作戦会議が紛糾します。チューリンゲンの森はなだらかな丘陵地帯でしたが、標高700mドイツ南北を隔てる分水嶺をなしていました。森は深くマインツ、ニュルンベルク方面からベルリンに抜けるには何本かの峠道があるのみでした。
 
 兵站総監部第三旅団長(参謀本部次長にあたる)だったシャルンホルスト(1755年~1813年)は、「機動力に勝るフランス軍がチューリンゲンの森を越えてイエナに到達すれば、後はベルリンまで平野なので(防衛拠点もなく)勝ち目がない」と力説し、こちらからチューリンゲンの森を突破しフランス軍を奇襲すべきだと強硬に主張します。
 
 しかし門閥貴族たちは、ナポレオンを恐れ「そんな事をすれば峠道でフランス軍に待ち伏せされ全滅する」と反対しました。平民出身のシャルンホルストは、無能な門閥貴族たちに絶望しつつも説得しましたが、恐怖観念に凝り固まっている門閥貴族の決意を覆すことはできませんでした。
 
 結局、フランス軍が峠を越えてきたところを平野で待ち伏せし叩くという愚にもつかない作戦に決まりました。素人考えでも分かりますが、自然の障壁であるチューリンゲンの森を防衛拠点に利用しない愚策中の愚策だったのです。シャルンホルストは、質で勝るフランス軍に勝つにはこちらが先手先手を取り戦いの主導権を握るしかないと確信していましたが、このような有能な人材が軍の指揮権を握っていなかった事でもプロイセン軍がいかに旧態依然とした軍隊だったか理解できます。
 
 
 プロイセン軍は15万を動員しリュヘルの右翼軍1万5千がフランクフルト方面から侵入が予想されるフランス第7軍団に備え、ブランシュバイク公指揮の中央軍(参謀長シャルンホルスト)7万はチューリンゲン森中央部に陣取り、ホーエンローエ侯の左翼軍5万はバイロイエ方面を警戒しました。また戦略総予備1万5千をマグデブルクに置きます。
 
 1806年10月、ナポレオンは斥候の情報からプロイセン軍の布陣を知り軍の重心を東方バイロイト、ニュルンベルク、ウェルツブルク方面に移し、10月7日18万の主力を三縦隊に分けて一気に分水嶺を越えました。
 
 プロイセン軍は、10月8日ようやくフランス軍の進行方向を知り慌てて中央のブランシュバイク軍と右翼のリュヘル軍が移動を開始しますがすでに手遅れでした。劣勢のプロイセン軍が先手先手を敵のフランス軍に取られたのですから勝敗は戦う前から明らかです。
 
 10月12日、ナポレオンはプロイセン軍の動きを見ながらイエナに至ります。すでにザーレ河を渡河していたランヌ軍団を動かし正面のホーエンローエ軍を襲わせした。ホーエンローエ軍5万は簡単に撃破されランヌはザーレ川左岸高地の有利な地点を占領します。ダヴーとべルナドット軍団には敵左翼に向かうよう命じました。
 
 こうして10月13日、イエナ会戦は開始されます。体勢的にはフランス軍有利でしたが、流石フリードリヒ大王以来の伝統を誇るプロイセン軍は頑強に抵抗します。さしものナポレオンも焦りの色を隠せませんでした。ナポレオンは、イエナ西北方に布陣するホーエンローエ軍を撃破することが勝利のカギと見て、13日夜敵軍の目の前のランドグラーフェンベルク高地(361m)に砲兵部隊を登らせ頭上から砲撃しようと考えます。ところが、山は険しく悪い事に雨まで降りだしたため移動は困難を極めました。ついに砲兵隊の将校から「不可能です」という声まで上がる始末。
 
 この時です、ナポレオンの名言が飛び出したのは。
 「我が辞書に不可能の文字はなし」
 
 ナポレオンはランヌ軍団を動員し、急造の道を作らせ大砲にロープをくくりつけて強引に山頂まで移動させました。夜が明けると、ホーエンローエ軍は山頂にフランス軍砲兵部隊が陣取っている事を知り驚愕します。頭上から激しい砲撃を受けたホーエンローエ軍はひとたまりもなく潰走しました。こうなると他の方面で善戦していた部隊も包囲を恐れ後退、これが恐怖を誘い全面敗走に至ります。
 
 
 一方、フランス軍最左翼を進んでいたダヴー軍団2万は14日、アウエルシュタットでブランシュバイク軍5万を捕捉、倍以上の敵に苦戦しながらもこれを撃破します。司令官ブランシュバイク公は重傷を負い、同行していた国王は退却を命じました。
 
 この時ブランシュバイク軍が崩壊しなかったのは一人の人物がいたからでいた。47歳の老中隊長グナイゼナウです。この時はブリュッヘルの幕僚になっていましたが、敗戦で浮足立つプロイセン軍司令部にあって一人沈着冷静に退却部署、経路、補給、防御計画を立て実行します。彼がいなかったらプロイセンが敗戦から立ち直り復活する事はなかったかもしれません。
 
 グナイゼナウは、友軍の退却を助け一人コルベール要塞に籠ります。絶望的な状況の中グナイゼナウは要塞を守り抜きチルジット条約締結まで持ち堪えたそうです。
 
 
 シャルンホルスト、グナイゼナウ、そしてのちに戦争論を記すクラウゼビッツもイエナの戦場に立っていました。彼ら世界史上でも通用する一流の人材が責任ある地位に就いていなかった事を見てもプロイセンの敗北は明らかだったと思います。
 
 
 
 10月25日、ナポレオンのフランス軍先鋒は敗走するプロイセン軍を追い越すようにベルリンに入城。さらに東方に逃げたプロイセン軍主力はミュラの快速騎兵軍団に追わせます。10月28日ブレンツラウにおいてプロイセン軍主力降伏。リューベクに逃げたブリュッヘル軍も11月5日降伏しました。プロイセン救援のために東プロイセンまで進出していたロシア軍は、プロイセン主力の降伏を聞いて軍を返しました。
 
 
 国王フリードリヒ・ウィルヘルム3世は東プロイセンまで逃れさらに抵抗しますが、救援に向かったロシア軍が1807年6月フリートラントでナポレオン軍に敗れたため抵抗を断念。1807年7月7日、領土の半分を失い屈辱的講和を結ばされました。(チルジット条約)
 
 王妃ルイーゼは、無能な王に代わって少しでも有利な条件で講和を結ぼうと努力しプロイセン国民の尊敬と賛美を受けます。彼女がいなかったらプロイセンは再生できなかったでしょう。ナポレオンに完敗したプロイセンは事実上国軍が壊滅します。しかしこれにより王族や門閥貴族は発言権を失い、シャルンホルスト、グナイゼナウなどが中心になって軍の改革を進めました。
 
 一度滅んだプロイセン軍が不死鳥のごとく復活するのはライプチヒの戦いにおいて。しかしその前に、我々はナポレオンの前に最後に残った大陸の敵ロシアとの戦いを眺めなければなりません。

ナポレオン戦記Ⅲ  アウステルリッツ会戦1805年

 大国オーストリアを屈服させたことはフランス国民を沸き立たせます。しかしこの頃産業革命の端緒に着いたばかりのイギリスは欧州一(=世界一)の工業力を誇り強大な力を有していました。イギリス首相小ピット(ウィリアム・ピット1759年~1806年)は、フランス革命とその後のナポレオン帝国が欧州の秩序を乱すものと警戒し対仏大同盟を主導して敵対します。
 
 イギリス国内の経済不況で英仏が一時的に和平し、アミアン条約でフランスの植民地が回復された事を背景にナポレオンは元老院に諮り統領を終身制にする事を認めさせました。そして1804年5月国民の圧倒的支持を受けフランス皇帝に即位します。
 
 一方、イギリスはこのようなナポレオンの振る舞いを苦々しく見守っていました。ナポレオンが大陸の市場からイギリスを締め出そうとしたことも火に油を注ぎます。同五月、イギリスはアミアン条約を破棄しフランスに宣戦布告します。怒ったナポレオンはイギリス本土上陸を考えますが圧倒的な英海軍の力の前にこれを断念する事になりました。1805年10月フランス・スペイン連合艦隊はスペイン、トラファルガー沖でネルソン率いるイギリス艦隊と激突、壊滅的打撃を受けて敗北したのです。
 
 これにより大西洋・北海の制海権はイギリスのものとなり、ナポレオンは英本土上陸を諦めます。トラファルガー海戦は他の欧州諸国を勢いづかせました。特にオーストリアは、ロシアと組んで公然とフランスに敵対の態度を示します。ナポレオンはイギリスを屈服させるには大陸を統一することだと悟り、この際オーストリアの息の根を止めるべく遠征軍を送りました。1805年のことです。
 
 第1軍団(べルナドット元帥)
 第2軍団(ド・マルモン元帥)
 第3軍団(ダヴー元帥)
 第4軍団(スルト元帥)
 第5軍団(ランヌ元帥)
 第6軍団(ネイ元帥)
 第7軍団(オジュロー元帥)
 騎兵軍団(ミュラー元帥)
 近衛軍団(べシェール元帥)
 
から成る実に22万の大軍です。大砲も350門有していました。オーストリアはこれに対抗しロシアと同盟を結びます。ナポレオン率いるフランス大陸軍(グランダルメ)はドイツ南部バイエルンに進出、マック将軍率いるオーストリア軍7万2千は、ウルムでこれを迎え撃ちますが22万のうち15万の兵力を集結させたナポレオンの前に完敗。その勢いを駆ってナポレオンはオーストリアの首都ウィーンを落としました。
 
 しかし、オーストリア皇帝フランツ1世(神聖ローマ皇帝フランツ2世)はいち早く首都を脱出、軍主力と共にロシア軍と合流します。ロシアもこの戦いを天王山と覚悟し皇帝アレクサンドル1世が直卒して来ていました。
 
 
 ロシアの宿将クツーゾフはナポレオン軍が手ごわい事を警戒しアレクサンドル1世に慎重な行軍を進言しますが、血気にはやる若い皇帝はこれを一蹴、ナポレオンと決戦すべく軍を進めました。ロシア・オーストリア連合軍8万5千、砲278門。
 
 対するフランス軍は第1、第3、第4、第5軍団と近衛、騎兵軍団を中心とする兵力7万3千、砲139門。ナポレオンはこの戦いで一気に決着すべくブルノからアウステルリッツへ向かう緩やかな丘陵地帯を戦場に定めます。戦いは途中にあるブラッツェン高地をどちらが制するかにかかっていました。
 
 ところがナポレオンは、ブラッツェン高地をわざと敵軍に明け渡し、高地の麓に布陣。そればかりか最も兵力の少ないダヴーの第3軍団(兵力4300、砲12門)を最右翼に配しました。フランス軍の布陣をみたアレクサンドル1世は笑います。敵右翼を目指して全軍高地から駆け下れば容易に勝利できると踏んだのです。しかしクツーゾフはここでも慎重論を唱えます。皇帝の不興を買ったクツーゾフは名目だけの司令官に祭り上げられ左遷されました。
 
 1805年12月2日、両軍は激突します。連合軍は高地を駆け下り最も弱体なフランス軍右翼ダヴーの第3軍団に襲いかかりました。ダヴーは、これを支えきれず大きく後退します。いや、後退したかに見えました。
 
 ナポレオンはこの機を見逃さず、中央に布陣するスルトの第4軍団に突撃を命じます。ブラッツェン高地のロシア軍中央はダヴー追撃に夢中になり手薄になっていました。勝ち誇っていたロシア軍は、自軍の背後に敵兵が現れ驚愕します。ブラッツェン高地は容易にフランス軍の手に落ちました。
 
 攻守逆転した連合軍は、一気に浮足立ちます。フランス軍左翼中央のべルナドット軍団も攻勢に転じ、アレクサンドルは近衛軍を投入しますが後の祭りでした。結局全面攻勢に転じたフランス軍の前に連合軍は死傷者1万5千という大損害を出して敗退します。フランス軍の死傷者は8千2百。
 
 
 世に言うアウステルリッツ会戦です。この戦いは戦場の選択、罠、機動、作戦すべてにおいてナポレオン快心の成果でした。ここにきてオーストリア皇帝フランツ1世は12月4日ナポレオンに降伏。26日プレスブルクの和約でオーストリアは戦争から脱落しました。ロシア皇帝アレクサンドル1世は「我々は巨人の前の赤子だった」と嘆いたと伝えられます。
 
しかし、ロシア軍は依然健在でした。本国に逃げ帰ったアレクサンドルは一時逼塞しますがフランスへの敵愾心は捨てておらず大陸封鎖令に反発してイギリスと同盟、ナポレオンのロシア遠征を招きます。
 
 
 アウステルリッツにおける連合軍敗退の報告を受けたイギリス首相小ピットは、壁に広げてあった欧州の地図を指さし「その地図を巻け。今後10年間は見る必要なし」と吐き捨てました。

ナポレオン戦記Ⅱ  マレンゴ会戦1800年

 ナポレオン戦術の真髄を見せたガルダ湖畔の戦いから4年。ナポレオンの立場は大きく変わっていました。
 
 1797年4月、ナポレオン総裁政府の意向を無視してオーストリアと単独講和、カンポ・フォルミオ条約締結。
 1797年12月、エジプト遠征。1798年7月、ピラミッドの戦い勝利。
 同月、アブキール湾海戦で英ネルソン提督に仏艦隊敗北。
 1799年11月、ブリュメール18日のクーデターでナポレオン第一統領になる。
 
 フランス国内が混乱するさ中、北イタリアではオーストリア軍が再び進出奪われた領土をほとんど奪還していました。残されたフランス現地軍はナポレオンの宿将マッセナが率いてジェノバに籠城、オーストリア軍の重包囲下にありました。
 
 ナポレオンは、この危機を脱し再びイタリアを制圧するため遠征を決意します。1800年5月、ナポレオンは敵の意表を突くアルプス越えのルートを選択しました。大サン・ベルナール峠を越えたフランス軍3万7千。
 
 ジェノバのマッセナ軍は兵力1万6千。補給が断たれていた上にチフスまで発生していました。結局ナポレオンの救援は間に合わず、マッセナは包囲するオーストリア軍と交渉し、ジェノバ開城、武装したままの撤退を認めさせます。
 
 ナポレオン軍はその頃ミラノに入城していました。遠征の目的の一つマッセナ軍の救援は失敗したものの、籠城軍が無事に撤退できたので合流して一時帰還する選択肢もあったはず。しかしナポレオンは、この報告を受けると直ちに出発します。まもなくフランス軍先鋒ランヌ軍団は、ジェノバから北上してきたオットー将軍のオーストリア軍とぶつかりました。最初数に勝るオーストリア軍が優勢でしたが、ヴィクトール軍団の増援が間に合い逆転、勝利します(モンテベロ会戦)。
 
 オーストリア軍は、モンテベロの敗戦のあとアレッサンドリア(イタリア北西部の都市)に終結しフランス軍を待ちかまえました。その数3万。一方フランス軍にはエジプト戦役から戻ったばかりのドゼー将軍が加わりナポレオンを喜ばせました。
 
 ドゼー(1776年~1800年)、1797年ナポレオンの知遇を得てエジプト遠征に参加。有能な将軍であるばかりでなく、公明正大なことからエジプト人の間で「正義のスルタン」として尊敬を受ける。ナポレオンより1歳年長、当時31歳。
 
 ナポレオンは、オーストリア軍主力がトリノに集結していると誤認し兵力を分散させます。6月14日朝、フランス軍先鋒ヴィクトール軍団9千がマレンゴに進出。待ちかまえていたメラス将軍を司令官とするオーストリア軍3万1千はこれを攻撃、劣勢のヴィクトール軍はたまらずマレンゴ村に逃げ込みます。戦場から5キロ後方にいたナポレオンは、ランヌ軍団とミュラの騎兵部隊を直ちに増援に送りだしました。この時ナポレオンの手元にあったのは2万3千。大砲の数もフランス軍28門に対しオーストリア軍100門と圧倒的に劣勢でした。
 
 最初の誤認がナポレオンの判断を狂わせつつありました。兵力でも大砲の数でも劣勢のフランス軍は午後5時になった時点で敗北一歩手前、ナポレオンの常勝伝説もここで終わるかに見えました。ところが間一髪ドゼーの援軍5千が間に合います。
 
 ドゼーは、ド・マルモンの砲撃の援護を受けようやく疲れの見えていたオーストリア軍に突撃を敢行。新手の出現で戦場のバランスは崩れ支えきれなくなったオーストリア軍は潰走しました。ところがここで悲劇が起こります。敵の放った弾丸がドゼーの胸を貫いたのです。即死でした。
 
 マレンゴ会戦はナポレオンの薄氷を踏むような勝利に終わります。しかしドゼーという有能な将軍を失った痛手は計りしれません。
 
 
 15日、オーストリアは和平交渉を申し出ます。フランスはこれによって再びイタリアの半分を奪回。しかし、あまりにも犠牲が大きな勝利でした。

ナポレオン戦記Ⅰ  ガルダ湖畔の戦い1796年

 ナポレオン・ボナパルト(1769年~1821年)はコルシカの貧乏貴族出身、フランス革命時には陸軍大尉でした。しかし若いころから野心にあふれ、特に砲兵戦術には自信を持っていました。
 
 1793年、ツーロン包囲戦において砲兵隊指揮官ド・マルタン少佐が負傷した事から後任にボナパルト大尉が選ばれます。当時革命軍には正式な士官教育を受けた者がおらず、質は相当悪いといわれていました。その中で正式に士官学校を卒業したナポレオンは貴重な存在である程度出世は約束されていたとも言えます。そして少佐に進級したナポレオンは期待以上の働きを示しました。砲撃の後夜陰に紛れて奇襲しツーロン要塞を占領したのです。この戦功でナポレオンは三階級特進、少将になります。
 
 しかし、ロベスピエール派と目されていたナポレオンは、革命政府の権力争いに巻き込まれ左遷されついには失職してしまいました。革命政府は混乱を極め王党派の反乱を招きます。無能な指揮官しかいない革命政府はこれを鎮圧できず、やむなく有能なナポレオンを復職させるしかありませんでした。ナポレオンは、パリ市民に被害が出るのも顧みず反乱軍を容赦なく砲撃、鎮圧します。これによってナポレオンは中将に進級、国内軍総司令官という要職を得ました。私はナポレオンの能力は言うまでもなく、時代が彼を求めていたような気がしてなりません。
 
 
 列強のフランス革命干渉戦争は未だ続いていました。1796年3月、革命政府はオーストリアの支配する北イタリアへ遠征軍を派遣する事を決定します。司令官に選ばれたのはナポレオン。イタリア方面軍は参謀長べルティエ、先任副官ミュラ、配下の師団長にマッセナ、オジュロー、セリュリエなど後のナポレオン戦争で活躍する将帥たちが含まれていました。この第一次イタリア遠征は後のナポレオン戦術のすべての要素が発揮された戦役として有名です。その中で彼の戦術を象徴する「ガルダ湖畔の戦い」について語ろうと思います。
 
 
 1796年4月オーストリア軍主力を北イタリアから駆逐したナポレオンは、北イタリアの要衝でオーストリア軍1万が籠るマントバ要塞を攻囲中でした。8月オーストリア軍はこれを救援すべく5万の兵力を派遣します。主力ヴィルムザー将軍率いる2万5千はガルダ湖東岸の中央路を。右翼のカスダノビッチは2万を率いてガルダ湖西岸を、メツァロシュは5千を率いて左翼を進みました。
 
 地図を見てもらうと分かる通り、ガルダ湖は南北に細長くドイツとイタリアを隔てるアルプス山麓にあります。オーストリア軍はアルプスの峠道を三方に分かれて進撃しました。この時ナポレオンの手元にあったのは3万。従来なら、マントバ要塞の1万を包囲中に背後を襲われるのですから一時包囲を解き撤退するのが軍事常識でした。しかし、ナポレオンはオーストリア軍の進む進撃路が自然の障壁に阻まれ横の連絡が困難だという点に注目します。
 
一度決断するとナポレオンの行動は迅速でした。攻囲に最低限の兵力を残すと、残り全軍を率いまずオーストリア軍右翼に襲いかかります。両軍はガルダ湖西岸サロー付近でぶつかりますが、油断していたオーストリア軍2万は奇襲に驚き潰走してしまいました。この時中央のヴィルムザーは友軍の異変に気付き、湖南岸を回って救援に駆けつけます。しかし待ちかまえていたフランス軍によってさんざんに叩かれ死傷者2万という壊滅的打撃を受けて敗北しました。
 
 一度激しい戦闘をした部隊が連戦で自軍より大きな兵力とぶつかるのは一見不利な気がします。疲労も相当なものでしょう。しかし、意外とこのようなケースでは疲労よりも戦勝で上がった士気の方が凌駕するものなのです。戦場巧者のナポレオンは兵士の心理をよく理解していたと言えます。
 
 兵力集中、機動、各個撃破、ナポレオン戦術の真髄が発揮された戦いと言っても良いでしょう。戦争論を記したクラウゼビッツもこの戦いを激賞しています。ナポレオンは、この時乗馬5頭を乗り潰し、機動力を得るため自軍の大砲をすべて埋めて移動しました。

ナポレオン常勝伝説Ⅱ  各国の対抗策

 常勝ナポレオンに対して各国はどのような対抗策を講じたのでしょうか?
 
 まず、各国はフランス大陸軍最大の利点が国民皆兵による豊富な兵力とその補充力にあると悟ります。19世紀に入ってもまだまだ各国は傭兵に頼っていました。いち早くこれに気付き、国民軍を採用し常備軍化したのはプロイセンでした。
 
 後にライプチヒの戦いの話の時に詳しく書く予定ですが、イエナ・アウエルシュタットの戦い(1806年)で事実上国軍が壊滅したプロイセンでは、門閥貴族の権威が完全に失墜し平民出身(ハノーバーの富農)のシャルンホルストが急速に台頭、参謀本部初代参謀総長に大抜擢されます。
 
 シャルンホルストは、二代目参謀総長になるグナイゼナウと共にプロイセン陸軍の改革を進めナポレオンの大陸軍(グランダルメ)に匹敵する軍隊を作り上げました。その成果が諸国民戦争とよばれたライプチヒの戦いにつながるのです。ナポレオンは事実上この戦いの敗北で欧州の覇権を失いナポレオン帝国は瓦解します。
 
 他国もプロイセンほど極端ではありませんが、多かれ少なかれ国民軍を採用しました。イギリスの場合はこれとは違い、志願兵制でしたので数は揃いませんが質的にはフランス大陸軍に匹敵するかむしろ凌駕していました。
 
 
 次に各国は師団というものに注目します。師団とは軍隊の編制単位であり、歩兵と騎兵、砲兵を組み合わせ独立で作戦を遂行できる部隊でした。単独で作戦行動でき、大規模な戦いではこれをいくつも集めて挑みます。師団単位の行動は補給の面でも有利でした。
 
 師団という考え方は現代陸軍でも受け継がれています。最初に師団が登場したのは7年戦争時のフランス軍でした。その後フランス革命戦争のとき陸軍大臣ラザール・カルノーによって独立作戦能力が与えられます。ナポレオン時代には11個師団がありました。師団は、プロイセンやオーストリアが最初に採用し世界標準になっていきます。
 
 
 三番目は各国が自分の得意な分野でフランスに対抗したことです。イギリスは海軍力で、オーストリアは外交で、スペインはゲリラ戦で。これらはフランスが不得意な分野か対応が難しい分野でしたので効果がありました。
 
 さらに、各国はフランス軍の弱点に気づきます。というのも天才ナポレオンは一人しかいないという点でした。イギリス軍に顕著な傾向で、ナポレオンの居る戦場では現状維持、居ない戦場では攻勢に出て大局的に追い詰めるという戦法です。ウェリントン卿アーサー・ウェルズリーは最初ナポレオン不在のポルトガルに派遣されスペインで徹底的にフランス軍を苦しめます。
 
 
 大陸軍の将帥もそれぞれ優秀でしたが、ナポレオンが余りにも天才過ぎたために彼の指揮を受けて動く場合は大きな働きができてもいざ独立して行動するときには思うように動けなかったといいます。スペイン戦役はその悪いところが出た戦いでした。
 
 
 最後に、フランス大陸軍はナポレオンの個人的力量が大きな要素であったためナポレオンが直接指揮できる10万以下の規模の時が最も強かったということが挙げられます。大軍になればなるほど大陸軍が弱体化したのはその表れです。一方プロイセンは1808年参謀本部を創設し、訓令統帥という手法を採用します。
 
 訓令統帥とは、参謀本部が戦略の大方針を決め各部隊はそれに従って動くというものです。各部隊には参謀本部から参謀が派遣され、指揮官に助言し本部と連絡を取りながら部隊を動かしました。いわば組織力で勝負したといえます。
 
 この訓令統帥は、唯一フランスの真似ではなくプロイセン独自のものでした。参謀システムも各国の模倣するところとなりますがここまで徹底したのはプロイセンだけです。後に普仏戦争でプロイセン軍がフランス軍を圧倒出来た理由の一つがこれでした。

ナポレオン常勝伝説Ⅰ  強さの秘密

 ナポレオン・ボナパルト(1769年~1826年)、18世紀末彗星のように登場し一時は全ヨーロッパに覇を唱えた稀代の英雄です。おそらくその名を知らない人はいないでしょう。
 
 ハプスブルクの歴史を記すうちに、本格的にナポレオンに触れなくてはならないだろうと思いました。実は本ブログを立ちあげた時の目標の一つがナポレオンについて語る事。今回ついにその夢が叶ったかと思うと感無量です。予定では『マレンゴ会戦』から始まるナポレオンのいくつかの重要な戦いをピックアップしてその生涯を眺めてみようと思っています。過去記事の『アレクサンドロス戦記』と同様の形式です。
 
 ただそれだけではナポレオンの全貌を語った事にはならないので、本編に進む前にナポレオンが何故常勝を誇ったかその秘密の一端を考えてみようと思いました。次に、無敵のナポレオンに欧州列強はどんな対抗策を用いたかについても検証します。
 
 
 本記事ではナポレオン常勝の理由を箇条書きであげましょう。
 
 
①『兵站』
 
 ルイ14世時代からフランスは毎年のように戦争し兵站の考え方も欧州で最も進んでいました。ナポレオン時代にも、補給部隊は存在しています。まず軍隊は分進行動(主力部隊をいくつかに分けること)で行軍し敵地に近いところ(予定戦場)で合流しました。これにより補給の負担をできるだけ軽くするとともに各補給部隊は4日分の食料を携行し現地調達が難しい場合に備えます。
 
 
 
②『国民軍』
 
 19世紀初頭のフランス人口は3000万から3500万。フランス革命により従来の傭兵主体から国民皆兵が実現します。その動員力はそれまでとは桁違いで、総人口3000万としても徴兵兵力210万、そのうち外征兵力90万を数えました。さらに徴兵制はフランス国民に愛国心と国防意識、責任感をもたらしたため軍隊につきものだった逃亡兵の悩みが解消されました。
 
 それまでの軍隊は兵士の逃亡を防ぐため陣形を組んで監視する必要がありましたが、フランス大陸軍は、散兵戦術という高度な戦術を採用できるようになったのです。
 
 
 
③『機動力』
 
 19世紀当時各国の軍事教範では行軍速度を1分間に70歩と決めていました。ところがナポレオンフランス軍は1分間に120歩。これは戦闘時なので常時この速度という訳には行きませんが、通常軍隊が1日に平均30km進む時、フランス軍は40km以上進めたのです。ナポレオンはしばしば速度というアドバンテージで戦いの主導権を握り勝利しました。
 
 
 
④『人事』
 
 ナポレオンは、自身が叩き上げのため実力本位で将帥を抜擢しました。平民出身の将軍も多くナポレオン軍の将軍の平均年齢40歳ともいわれています。一方各国はただ貴族であるだけで将軍に選ばれた無能な者も多く、フランス軍が圧倒できた理由の一つです。
 
 
 
⑤『戦術』
 
 ナポレオンは、上記フランス軍の利点を最大限発揮できる戦術を用いました。機動力を使って常に相手の先手を取り、敵に対応の暇を与えず決勝点(戦いの帰趨を決定する地点)に兵力を集中しました。絶対的数の優勢を理想としつつも、それができない場合は決勝点において局所優勢になるよう部隊を動かします。
 
 そのためには分進合撃で敵にこちらの目標を知らせず、自軍は決勝点で集結常に戦いの主導権を握り続け敵にそれを渡さなかったのです。
 
 
 
 
 いかがでしたか?これでは負けようがありませんよね。しかし優れた戦術は他国が真似し出すと色あせ、いつかは敗北してしまいます。次回は、ナポレオンに負けた欧州列強がどのような対抗策を用いたかについて語りましょう。

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