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2014年4月

2014年4月 1日 (火)

播磨戦国史Ⅶ  戦国播磨の終焉

 戦国時代、統一勢力がなく小領主が割拠ししかも豊かな国というのは周辺の戦国大名の恰好の攻撃目標になりました。これを兵法では『四戦の地』と呼ぶそうですが、九州の筑前・肥後あるいは東国の越中・信濃・武蔵あたりはまさにそれに当たります。中国地方でも播磨がそうでした。
 
 守護大名赤松家が没落、それに代わるべき浦上家も大物崩れで退場したあと播磨を狙って尼子氏、三好氏が進出した話は前回書きました。そして播磨は最強にして最後の敵織田信長の進出を迎えようとしていたのです。
 
 実はその前に毛利氏の進出があるのですが、毛利氏は家祖毛利元就以来天下に対する望みは持たずひたすら家領の拡大に努めていました。備前の宇喜多直家を降したあと毛利氏は播磨に関しては外交的進出に止めます。一方、永禄十一年(1568年)9月、上洛して以来天下統一への道を着々と進める織田信長は播磨へも野心を持ち続けていたのです。
 
 ここに一人の人物が登場します。その名を黒田官兵衛孝高。御着城主小寺政職(則職の子)の家老でした。黒田氏は佐々木源氏京極氏の流れとされますが、孝高の曾祖父高政の時代に備前福岡に移り住み赤松氏の被官となりました。その子重隆(孝高の祖父)は播磨国姫路に移り住み家伝の目薬で財をなし土豪となったと伝えられます。その勢力を見込んで御着城の小寺氏が重隆の子職隆を招き家老としました。小寺氏は、職隆に小寺の姓を与え御着に移るまで小寺氏の本拠だった姫路城さえ任せます。
 
 新興の家とはいえ、赤松一門の小寺の姓さえ与えられ没落したものの旧守護代家の浦上氏と婚姻を結ぶほどでしたので、播磨ではそこそこの勢力になっていたと思います。その頃小寺家中では毛利につくか織田につくかで揉めていました。孝高は、あらゆる情報を総合した結果織田信長の方に将来性があると考え強引に小寺家の家論を纏めます。天正三年(1575年)7月、主君小寺政職の使者として岐阜の織田信長のもとに赴いた孝高は、信長に拝謁して臣従を誓います。この時取次した羽柴秀吉と縁を生じた孝高はそのまま秀吉の幕下に属する事となりました。
 
 孝高は、ひとまず播磨に帰り別所氏など各勢力の間を回り織田方につくよう説得します。その功あって翌年小寺政職、赤松広秀(龍野赤松政秀の嫡子)、別所長治らは揃って京で信長に謁見しました。
 
 信長は秀吉を毛利攻めの大将に任命し、孝高ら播磨勢もこれに従う事となります。秀吉は天正五年(1577年)播磨に入りました。黒田孝高の働きで播磨国人たちの人質を取り播磨を瞬く間に制圧しました。余勢をかって但馬を攻略、そのころ宇喜多直家の属城となっていた西播磨の上月城を攻略します。上月城には、毛利氏に復讐を誓う山中鹿介ら尼子浪人衆を入れました。
 
 ところが天正六年春、東播磨八郡を領する三木城の別所長治が突如反旗を翻します。これには長治の叔父で毛利贔屓だった別所賀相(よしちか?)と織田贔屓だったその弟別所重棟の対立があり、このまま織田方につくと重棟が勢力を持ち自分が没落する事を恐れた賀相が若年(二十歳)の当主長治を説得し毛利方につかせたと云われます。蜂起は重棟が秀吉の陣中にいる間に行われ、何も知らされていない重棟はそのまま羽柴軍中に取り残されました。
 
 また別の説として、毛利攻めの軍議で秀吉が別所氏を蔑ろにする発言をしたため賀相が怒ったのが原因とも云われますが、どちらにしろ厳しい信長より中国者の律義と云われる毛利の方に播磨国人たちがより好感をもっていたのでしょう。別所氏の反乱は東播磨の国人たちが次々と同調し収拾がつかなくなりました。
 
 それに呼応し、毛利方も小早川隆景、吉川元春が三万の大軍を率いて上月城に攻め寄せます。羽柴秀吉は黒田孝高とともに書写山に陣を布きますが、信長は上月城を見捨てて三木城に向かうよう命じました。援軍の望み断たれた上月城は落城、尼子勝久は自刃し山中鹿介は毛利方に捕えられ処刑されます。
 
 さらに間の悪い事に摂津の荒木村重まで信長に謀反、村重と旧知の孝高は村重に翻意を促すため有岡城に赴きそのまま捕えられるというエピソードがあります。孝高が裏切ったと勘違いした信長は、人質の孝高嫡男松寿丸(のちの長政)処刑を命じますが、竹中半兵衛の機転で助けられ生き延びたと云われます。後に孝高裏切りが誤解だと分かり信長は後悔したそうですが、松寿丸が生きていたと知り事なきを得たという話です。
 
 三木城謀反の時、孝高の主君小寺政職も呼応しました。しかし織田信忠の軍勢に御着城を攻められ鞆の浦に逃れ戦国大名としての小寺氏は滅びます。その後政職の子孫は黒田氏に仕えたそうです。
 
 天正七年(1579年)10月19日摂津有岡城落城。幽閉されていた黒田孝高は家臣栗山利安に救出されます。包囲され完全に補給を断たれていた三木城には飢餓地獄が訪れていました。天正八年1月、足掛け二年の包囲を耐えていた三木城がついに開城します。城主別所長治は城兵の命と引き換えに妻子兄弟と共に自害しました。享年26歳(23歳との説もある)。
 
 
 三木城落城によって播磨の戦国時代は終わったと言えます。織田家に反抗的な播磨の国人たちはこの時ことごとく淘汰されました。秀吉は孝高から譲られた姫路城を本拠に播磨支配を固めます。天正十年(1582年)6月、本能寺の変で横死した織田信長の弔い合戦のため、中国大返しをした秀吉は姫路城で準備を整え出陣します。
 
 戦国時代は終焉を迎え、天下統一の時代が始まろうとしていました。播磨は地方の群雄割拠から一気に中央政治に巻き込まれてゆくのです。

播磨戦国史Ⅵ  戦国の草刈り場

 赤松義村暗殺によって播磨・備前・美作の旧赤松領国の支配者となった浦上村宗は、永正十七年(1520年)村宗の影響下でわずか8歳で家督を継いだ赤松晴政(政村、政祐と改名しているが晴政で統一)を擁し、戦国大名への道を進み始めました。
 
 しかしこれに反発する赤松旧臣も多く、浦上一族の村国らは置塩城から晴政を脱出させ細川澄元を頼ります。実は混乱すると思って細川氏の内紛は詳しく触れなかったのですが、管領細川政元暗殺後、彼に実子がいなかったため養子の高国と澄元が細川京兆家(宗家)の家督を巡って争っていたのです。
 
 高国は備中に勢力をもつ細川野州家出身、澄元は京兆家に次ぐ家格を持つ阿波守護(下屋形)細川家出身でした。互いに実家の勢力を背景に足利将軍家まで巻き込んで両細川の乱という大乱が京都を中心に巻き起こっていました。赤松晴政は、澄元の勢力を背景に播磨に入り浦上村宗と対陣します。ところが、播磨の混乱に付け込んで但馬の山名誠豊(山名政豊の子)が再び攻め込んだのです。
 
 ですが山名誠豊の思惑通りには行きませんでした。晴政を擁する浦上村国と村宗は播磨の危機に一時和睦し共同して山名勢に当たります。大永三年(1523年)10月、書写山の戦いで播磨連合軍は山名勢に大勝、誠豊は本国但馬に逃げ帰りました。その後山名家は没落、二度と大勢力になる事はありませんでした。
 
 外敵の脅威が去ると両陣営は再び戦を始めます。晴政は敗北し美作の新庄城に逃げ込みました。晴政が細川澄元派であったため、浦上村宗は自然管領細川高国に接近します。中央政界でもこの頃高国は将軍足利義晴を擁しつつも、細川晴元(澄元の子)に京を追われ劣勢に陥っていました。村宗は、高国の要請を受けると主君晴政と一時和睦し、軍勢を率いて上洛します。
 
 浦上勢の活躍もあって細川高国は京に復帰します。この功により村宗は播磨・備前・美作の守護職を得ました。まさにわが世の春でした。置塩屋形赤松晴政と彼を擁する旧守護派は面白くありません。しかし村宗は力でこれを圧殺しました。このまま細川高国政権が続けばおそらく浦上村宗は戦国大名として歴史に名を残したでしょう。しかし歴史はそうなりませんでした。
 
 大永六年(1526年)7月、父澄元の死を受け13歳で当主となっていた細川晴元は重臣三好元長(長慶の父)とともに本国阿波で挙兵、丹波の波多野一族とも連携し打倒高国の兵を挙げます。晴元側は将軍義晴を擁する高国に対抗するため、義晴の弟義維(よしつな 堺公方)を担ぎ出していました。
 
 亨禄四年(1531年)、浦上村宗は高国の要請を受け晴元派の根拠地堺を攻撃します。ところが摂津中嶋で足止めされ膠着状態に陥りました。同年6月播磨本国では村宗の専横を快く思わない勢力が晴元と同盟し置塩の赤松晴政を擁し反村宗の兵を挙げます。背後から攻められた高国・浦上勢は総崩れとなり尼崎に撤退しました。これを大物崩れと呼びます。晴元軍の主力は1万5千を率いる三好元長。これに阿波の細川持隆勢8千、播磨の赤松勢は不明ながら数千はいたでしょう。高国・村宗勢も総数は不明ながら少なくとも万は超えていたと思います。浦上勢は数千の戦死者を出したと伝えられます。
 
 浦上村宗は敗走の途中討死しました。野望に燃える男の最期でした。細川高国も尼崎の紺屋の甕の中に隠れているのを発見され捕えられます。高国は尼崎広徳寺で自害に追い込まれました。享年48歳。勝利した細川晴元は将軍義晴と和睦、管領に就任します。浦上氏の家督は嫡男の政宗が継ぎました。主家赤松晴政とは時には和し時には合戦するという奇妙な関係が続きます。
 
 浦上村宗敗死で播磨守護に返り咲いた晴政でしたが、危機は西方よりやってきました。出雲の戦国大名尼子晴久(当時は詮久)の侵攻です。尼子氏は出雲・伯耆を完全に制圧し石見・因幡・安芸・備後・備中と勢力を拡大し当時日の出の勢いでした。天文元年(1532年)頃から尼子勢は美作に進出、当時の美作は守護赤松氏の威令は届いていませんでしたから、数年で尼子氏に制圧されます。天文六年(1537年)が尼子勢最初の播磨侵入でした。この時は小手調べだったようですがたちまち数城が陥れれれました。翌天文七年尼子晴久は自ら大軍を率いて播磨に攻め込みます。播磨の国人たちは相次いで尼子氏に降伏し、小寺氏・明石氏などは進んで尼子勢に加わり赤松晴政攻撃の姿勢さえ見せたのです。一族の龍野赤松氏の龍野城も落城、尼子勢は城山城を播磨経略の拠点と定めました。晴政は居城置塩城が危なくなり東播磨の三木城に逃げ込みます。ところが三木城の別所氏さえ尼子晴久と通じたため播磨から脱出せざるを得ませんでした。この時晴政は堺まで逃亡したそうです。
 
 結局尼子氏の播磨支配は天文九年(1540年)まで続きます。ただ支配が終わったのは外的要因にすぎませんでした。尼子氏は周防の大内義隆と対立が激化したため撤退したに過ぎなかったのです。天文十年晴政は播磨国に戻り置塩城に復帰しますが、その権威は地に堕ち別所、小寺、龍野赤松ら有力国人はすでに守護の命令など聞かなくなっていました。
 
 浦上氏の場合はより深刻でした。尼子晴久が播磨侵攻した時、同時に備前も尼子勢の侵入を受けます。当主浦上政宗はいち早く尼子晴久と結び権力を保とうとしますが、備前にいた弟宗景はこれを良しとせず安芸の毛利元就の援助を受けて兄と対立、備前国人も宗景を援助したため浦上氏は分裂します。宗景は天神山城に拠り備前支配を固め、兄政宗は備前での勢力をほとんど失い播磨国室津城を本拠と定めました。浦上氏のその後を記しておくと、兄政宗は永禄六年(1563年)ようやく弟宗景と和睦成立、翌永禄七年小寺氏の家老黒田職隆(孝高の父)と縁組し再起を図りますが、息子清宗と黒田職隆の娘との婚礼の最中敵対する龍野赤松政秀に襲撃され滅ぼされました。
 
 弟宗景は毛利の影響力を廃し備前で戦国大名化を図ります。毛利方の三村家親と合戦して勝利、備前を固め備中にも進出しました。ところが重臣の宇喜多直家に背かれ天正三年(1575年)には毛利氏と結んだ宇喜多直家のために本拠天神山城から追放されます。一時は織田信長を頼ったそうですが協力は得られず備前への復帰はついに叶いませんでした。晩年は黒田長政の招きで筑前に下向、出家して七十~八十余歳で病死したと伝えられます。
 
 
 時代は天文十五年(1546年)まで戻ります。管領細川晴元は将軍足利義晴と対立しこれを廃します。義晴の息子義輝を足利十三代将軍に据えますが、家老三好長慶(元長の子)が次第に権力を持ち始め天文十七年には長慶が離反し合戦となります。これに敗北し将軍義輝とともに近江坂本に逃れた晴元でしたが、次第に勢力を失い最後は長慶と和睦し摂津普門寺に幽閉されました。永禄六年(1563年)そのまま普門寺で病死、享年50歳。
 
 三好長慶は畿内を制圧し天文二十三年(1554年)には長慶の武将三好長逸(三好三人衆の一人)率いる三好勢が東播磨に侵入します。長逸は三木城の別所氏を攻め、三好の別動隊は淡路から海路播磨に上陸、明石氏を攻撃しました。三好長慶播磨侵入の名目は播磨守護赤松義祐(晴政の子)を後援するためでしたが、もとよりこれは口実にすぎず播磨支配を狙ったものでした。優勢な三好軍を前に播磨の国人たちは従うしかありませんでした。尼子氏に続き三好氏にも屈服した播磨国人たち。
 
 三好氏の播磨支配を覆したのも、また外的要因でした。永禄七年(1564年)三好長慶が没し養子の義継が家督を継ぐと、次第に専横の姿勢を見せ始めた家宰松永久秀は三好三人衆と語らって将軍足利義輝を二条城に襲撃、殺害していまします。ところが久秀と三人衆が間もなく三好家の支配権を巡って対立、合戦に陥ったため播磨が権力の空白地帯になったにすぎませんでした。
 
 
 
 そして、戦国時代は織田信長のもとに収斂されようとしていました。次回、最終回『戦国播磨の終焉』にご期待ください。

播磨戦国史Ⅴ  播磨の下剋上と浦上氏

 赤松氏中興の祖政則が明応五年(1496年)42歳で死去した時、嫡子がなく庶子村秀(龍野赤松氏初代)もわずか4歳でした。そこで重臣の浦上則宗、別所則治、小寺則職らは政則の後妻洞松院との間に生まれた女子「子めし」と赤松庶流七條家の義村を娶わせ、義村を赤松家督に据えました。
 
 後継者を家臣たちが勝手に決めるのですから、赤松宗家はすでに実権のないお飾りに過ぎなくなっていた証拠です。赤松宗家第十代を継いだ義村は播磨・備前・美作三国の守護職も継承しますが、すでに備前は守護代浦上則宗が抑え、美作は中村則久が守護代でした。本国播磨に関しても浦上則宗が守護代とされますが、東播磨には三木城の別所則治が東半国守護として勢力を張っていましたから、則宗の権力が及ぶのは西播磨だけだったように思います。
 
 赤松領国は、浦上則宗を中心に回り始めました。ここで浦上氏について見てみましょう。浦上氏は紀貫之あるいは紀長谷雄の子孫と云われ播磨国揖保郡浦上郷(浦上庄)が出自です。赤松円心時代から重臣として活躍し赤松氏が侍所頭人(長官)に就任すると侍所所司代(副長官)になるほど重用されました。
 
 浦上氏は則宗の祖父宗隆(ただし異説あり)の時代に、まず播磨国境に近い三石城(岡山県備前市三石)を居城に定め備前に勢力を扶植します。そして則宗は傀儡の義村を操って播磨・備前・美作で専横を極めました。美作守護代の中村則久を無理やり更迭し一族の基景を守護代に据えるなどやりたい放題でした。さすがにここまでやると、他の赤松家臣たちが黙っていません。明応八年(1499年)浦上庶流の村国がついに中村城で打倒則宗の兵を挙げ備前・播磨国境付近で合戦になりました。孤立した則宗は敗北し白旗城に籠城、家老の宇喜多能家(直家の祖父)の活躍でなんとか撃退し痛み分けに終わります。しかし浦上本家と庶流の浦上村国の対立はこの後20年も続いたそうです。文亀二年(1502年)浦上則宗三石城にて死去、享年72歳。
 
 浦上一族の対立から始まる播磨の内乱は管領細川政元の仲裁でなんとか収まりますが、成長した義村は則宗死後も続く浦上氏の傀儡状態に次第に我慢できなくなります。成人し親政を開始した義村は、浦上村宗(則宗の養子宗助の子、あるいは則宗の実子説あり)のほかに小寺則職を並び立たせ、奉行職を設けて大名権力の強化を図りました。
 
 これに不満を持った浦上村宗は、三石城に退去してしまいます。怒った義村は、小寺則職と共に軍勢を率い備前・美作の浦上氏の属城を攻撃しました。一時は守護側が優勢でしたが、浦上方は家老・宇喜多能家を中心に反撃を開始、浦上配下の国人たちも守護軍に抵抗したのでついに敗退、義村は置塩城に逃げ帰ります。赤松宗家の威信は完全に失墜しました。
 
 義村は、威信回復に必死だったのでしょう。中央政界で細川政元暗殺をきっかけに始まった細川家の後継者争いに介入、泥沼に陥りました。浦上村宗は、永正十七年(1520年)義村に圧力をかけ隠居させます。赤松家督は嫡子政村が引き継ぎました。その後義村は復権をかけて色々画策しますがことごとく失敗、村宗から和睦を持ちかけられのこのこと会見場に出向いたところを捕縛され室津城に幽閉されます。大永元年(1521年)9月、村宗の放った刺客によって暗殺されました。以後、赤松家は政村(のち晴政と改名)、義祐、則房、則秀と続きますが名目だけの守護家として置塩城の一地方勢力に過ぎなくなります。
 
 播磨においても、三木城の別所氏、姫路城→御着城の小寺氏、龍野城の龍野赤松氏など赤松一族が各地に蟠踞(ばんきょ)する本格的な戦国時代に突入しました。
 
 
 次回は、本格的戦国時代に突入した播磨の状況と尼子晴久、三好長慶の播磨侵攻を描きます。

播磨戦国史Ⅳ  真弓峠の合戦

 応仁の乱は形式的には東軍の勝利に終わりました。東軍の主将細川勝元の子政元は管領となり西軍山名宗全の嫡孫政豊は幕府の重要な役職である侍所頭人から転げ落ち、播磨・備前・美作という重要な三国を失ったのですから。が、一族で八カ国の守護領国を持つ山名氏の実力はまだまだ侮りがたいものがありました。政豊も本国但馬の他に安芸・備後・山城を有していたのです。
 
 赤松政則は、四職家の家格を取り戻し侍所頭人として幕府に仕えます。赤松氏が回復したばかりの本領播磨では、一族が早くも勢力争いを始めており国内は混乱しました。応仁の乱最中の応仁二年(1468年)、赤松一族の有馬元家(持家の子)が赤松家惣領の座を狙って反旗を翻し討たれています。それ以外にも一族間の内紛は絶えませんでした。
 
 文明十一年(1479年)、赤松政則は突如幕府から出仕停止命令を受けます。この理由としていくつかの説があり、一つは播磨における寺社領の問題を将軍足利義尚(義政の子)の意向に逆らって片づけたというもの、あるいは政則が前将軍義政の寵臣であったため、新将軍義尚に嫌われた事などが挙げられます。
 
 山名政豊は政則の失脚を冷静に眺めており、万全の準備を整えて本国但馬に下国しました。実は応仁の乱の結果幕府の統制力は京都周辺に限られており、地方ではすでに実力本位の戦国時代が到来していました。実際西軍の有力武将であった畠山義就は、勝手に本国河内に戻り幕府の命令を無視して勢力圏拡大に努めていたほどです。
 
 文明十五年(1483年)、内紛を続ける播磨を奪回する絶好の機会と見た山名政豊は、大軍を率いて赤松領国に攻めかかります。ところで但馬国は石高で言うと寛永検地の数字でわずか12万石しかありません。同時期の播磨は52万石もあります。比率は当時もそう変わってなかったはずですから、まともに戦っては山名方に勝ち目はありませんでした。山名領国で豊かなのは安芸(26万石)備後(24万石)くらいで、大半は山陰の貧しい国ばかりでした。ただその分兵の質は高く豊かな山陽の兵に比べると粘り強かったとも云われています。
 
 政豊の山名軍本隊は但馬から、政豊の嫡子俊豊は安芸・備後勢を率いて備前に攻めかかりました。ここで疑問があります。備後と備前の間にある備中は細川氏の領国なのです。しかしここで合戦した様子が見えないのは、細川氏が他国の戦争に介入する余力がなく黙認したか、あるいは将軍義尚の不興を買った政則を見捨てたかのどちらかでしょう。どちらにしろ管領細川政元の主導する室町幕府はすでに守護大名の統制力を失っていたとも言えます。
 
 進軍速度は俊豊の山陽道軍の方が早く、備前福岡城(岡山県長船町)を囲みました。守るのは政則の重臣浦上一族。政則は山名勢動くの報告を受け急ぎ播磨に下国していましたが、侍所所司代(副長官)として京都に残っていた浦上則宗は、急ぎ播磨に急使を送り救援を依頼します。ところが山名軍本隊はすでに播磨国境に迫っていました。政則は一族の政秀を備前の援軍に送りだすと、自分は本隊を率いて北上します。
 
 山名勢は、播磨但馬国境の真弓峠(兵庫県生野町)で待ち構えていました。文明十五年12月25日は大雪で猛吹雪が舞う荒天だったと伝えられます。何も知らず峠を進んでいた赤松軍は、山名軍の奇襲を受けて大混乱に陥ります。政則は多大な損害を出して敗走、福岡城も中途半端な援軍では保てるはずもなく落城してしまいました。
 
 政則の大敗北と福岡城落城の報告を受けた浦上則宗は激怒します。則宗は赤松重臣の小寺則職、明石祐実らと謀り政則を廃嫡、代わって赤松一族の有馬氏から慶寿丸を迎えて赤松当主の座に据えました。いくら侍所所司代、播磨守護代とはいえ一家臣に過ぎない浦上則宗が当主の首を挿げ替えることができるものでしょうか?私はすでに赤松氏がかつての独裁体制ではなく、有力家臣の合議制の上に立つに過ぎない脆弱な存在になり果てていたと考えます。赤松家再興も浦上氏ら赤松遺臣の力無くてはできませんでした。浦上則宗は大敗の責任を取らせて政則を追放したのだと思います。これは赤松家臣団同意の上での事でしょう。
 
 国内にごたごたがあると国を保つ事はできません。赤松勢は各地で敗北し、山名政豊はかつての赤松氏の守護所・坂本城に入って播磨統治を始めます。浦上則宗は播磨に入って山名の占領軍と戦いました。そのころ廃嫡された赤松政則はどうしていたのでしょうか?実は真弓峠の敗北後、淡路から四国へ逃亡していました。政則の凄いところは、亡命先から幕府に働きかけ将軍義尚から改めて赤松家督と播磨守護の安堵を勝ち取ったことでした。おそらく讃岐・阿波を統治する阿波細川氏(下守護家、細川京兆家【宗家】に次ぐ家格を誇った)を頼ったのだと思います。さすがに管領細川政元も、山名氏の勢力が拡大しすぎ細川領国を窺うようになるのは困った事でした。そういう中央政界のバランスを見極めての外交工作にかけては政則は一流だったのでしょう。
 
 戦国時代に突入していたとはいえ、まだまだ将軍の権威は残っていました。将軍家のお墨付きを携えて播磨入りした政則のもとに播磨国人が次々と参集し、文明十七年(1485年)蔭木城合戦で山名勢に快勝、完全に潮目は変わりました。政則の播磨入りを援けた一族の別所則治も、その功により播磨東守護代に任じられます。文明十八年(1486年)赤松軍は山名軍の籠る坂本城を攻撃、この時は攻略に失敗するも長亨二年(1488年)7月、再度の攻撃でついに撃破、山名勢は本国但馬に撤退しました。赤松軍は休む間もなく備前・美作に残っていた山名軍を追い出し六年にもわたる抗争についに勝利を収めました。
 
 山名氏は、播磨遠征の失敗で守護領国ががたがたになります。嫡男俊豊と備後衆が政豊に反旗を翻し、政豊は俊豊を廃嫡、致豊(次男?)を後継者に定めました。明応八年(1499年)山名政豊死去。享年59歳。彼の死後守護代垣屋氏が実権を握り山名王国は瓦解の道を辿ります。
 
 
 ようやく播磨を奪回した赤松政則でしたが、守護代浦上則宗との関係は微妙になっていました。赤松宗家の力も相対的に低下し、かつての足利将軍のように家臣たちを対立させてその微妙なバランスに立つしかなくなります。別所則治の重用もその現れでしょう。
 
 再び上洛した政則は、九代将軍義尚、十代将軍義殖に仕えます。六角高頼征伐に功をあげた政則は従三位という足利将軍家や有力一門(斯波氏など)以外では例のない高位を賜りました。もちろん管領細川政元(従四位下右京大夫)より上です。明応五年(1496年)政則は本国播磨で鷹狩りの途上急に病を発して急死します。享年42歳。世間では「分不相応な高位に昇ったため天罰が当たった」と噂しました。
 
 赤松政則は、赤松氏中興の祖と言われます。しかし赤松宗家が播磨で実権を振るう事の出来た最後の当主でした。以後播磨でも浦上則宗を中心に下剋上の戦国時代が到来します。次回は置塩屋形赤松宗家の没落と浦上氏の台頭を描きます。

播磨戦国史Ⅲ  応仁の乱と赤松氏

 赤松政則が加賀北半国守護として加賀に入部した時、加賀南半国は富樫政親が守護でした。もともと加賀は富樫氏が長年守護を拝命していましたが、弟富樫幸千代と家督を争っており国内がゴタゴタしていた事から半国召し上げられたのです。赤松氏は加賀に入ったもののまったく地縁がなく、富樫氏所縁の国人たちの激しい抵抗を受けます。ただ富樫政親も細川勝元陣営でしたので両者が表立って争う事はありませんでした。ところで富樫政親という人物、日本史に詳しい方ならご記憶でしょうが加賀一向一揆に攻め滅ぼされた人物です。政親は家督争いや赤松追い落としのために一向一揆の力を借り、その後仲たがいして攻められ自刃しました。政親が後に応仁の乱に出陣する際莫大な軍費を領民に課したため人心を失ったのが原因だとされます。加賀はその後90年あまり『百姓の持ちたる国』と呼ばれれる本願寺王国になりました。
 
 そんな中、京都では応仁の乱が勃発します。応仁の乱は八代将軍足利義政が無能で優柔不断な人物だったことが原因で起こりました。好きな芸術の世界に生きるために隠居して弟の浄土寺門跡義尋に将軍職を譲ろうと考えた義政は、正室日野富子にまったく相談することなく勝手に決め弟を呼び出します。義尋は還俗して義視と名乗り管領細川勝元が後見人となりました。
 
 ところが日野富子は、間もなく懐妊します。富子との間に子が生まれなかった事から弟に譲ったのに、将軍職を譲ると決まったら実子が生まれたのですから運命の皮肉です。さすがに義政は、実子を仏門に入れると言いだしますが、気の強い妻富子は絶対に認めようとしませんでした。そして我が子を将軍にするため勝元に対抗しうる幕府内の実力者山名宗全を頼ったのです。
 
 実は、それまでにも斯波氏、畠山氏ら有力守護家の間で家督争いが起こっていました。彼らは細川派と山名派に分かれて激しく対立します。自分の属する派閥が勝って将軍職を得れば、自分も大名家の家督を獲得できるのですから必死です。こうして将軍家の後継者争いから各守護家の家督争いも複雑にからんで京都で戦乱が勃発します。将軍義政にこれを収集する能力は無くただおろおろするばかりでした。この時点で足利将軍家の命運は尽きたとも言えます。
 
 戦乱は応仁元年(1467年)から始まるので応仁の乱と云われますが、そのまえから小競り合いは続いていました。山名方は京都の西陣に本陣を置いたので西軍、細川方は相国寺、 北小路町付近に布陣したので東軍と呼ばれます。
 
 西軍11万、東軍16万が京都に集まったとも云われました。もちろん赤松政則も東軍に参加するために上洛します。この時赤松勢は加賀の国人よりも山名宗全が領国としていた旧領播磨から参加した赤松旧臣たちが多数いたそうです。
 
 戦いは膠着状態に陥り容易に決着しませんでした。東軍総帥細川勝元は、秘かに赤松政則を呼び寄せ旧領播磨に入って山名方の後方を攪乱するよう命じます。これは政則にとっても渡りに船で喜び勇んで播磨に下りました。播磨でも山名氏の武断支配に反抗して赤松旧臣たちが蜂起します。
 
 本国播磨奪回は数日でなされたそうです。よほど山名宗全の支配が過酷だったかの証拠かもしれません。宗全は播磨を植民地としてしか見てなかったのでしょう。赤松勢は余勢を駆り旧守護国備前・美作まで回復しました。応仁2年(1468年)の出来事です。そのころ加賀北半国は富樫政親に奪回されました。
 
 赤松政則が播磨守護に返り咲いた時期は不明ですが、おそらくこの頃だと思います。任命したのは実質的な幕府の主宰者、管領細川勝元。赤松氏の播磨奪回に活躍したのは重臣浦上則宗、そして一族の赤松政秀らでした。ところでこの政秀、一門の龍野赤松氏に同名の人物がいますが、時代が違うため別人だと思われます。
 
 政則はそのまま播磨に留まります。応仁元年8月西軍の大内政弘が大軍を率いて上洛すると、摂津の国人衆と共にこれを防ごうとしますが、肝心の摂津国人衆が大内軍に降伏したため猪那野(現伊丹市付近)で合戦を挑み大敗、魚住氏など多くの戦死者を出して播磨に撤退しました。
 
 大内勢が上洛し西軍が有利になると、勝元は政則に上洛を促しました。この時浦上則宗が強硬に上洛を主張、赤松政則は三千騎を率いて上洛し京都東山南禅寺の上岩倉山に陣取って奮戦したそうです。ところで三千騎といえば一騎に五人の従者が付いたとして兵力1万5千です。これには当然誇張があるでしょうが赤松氏が短期間で急速に勢力を回復しているのが分かります。
 
 文明元年(1469年)山名是豊が大内勢に占拠されていた兵庫を攻撃しました。是豊は宗全の次男でしたが、家督を得られなかった事から父と対立し細川方に奔った武将でした。赤松勢もこれに協力します。赤松勢には宇野越前守則高、赤松政秀、小寺藤兵衛則職、明石道祖鶴丸らがいました。
 
 是豊・赤松軍は一旦兵庫を占領しますが長続きせず、まもなく大内勢に奪回されます。そのほか天王山の戦い、勝龍寺城の戦いにも参加し赤松勢は東軍の主力として活躍しました。政則は文明三年(1471年)侍所頭人に任ぜられるなど四職家としての家格も取り戻します。
 
 応仁の乱は決着がつかないまま、文明5年(1473年)細川勝元、山名宗全という両軍の主将が相次いで亡くなったために終結しました。彼らの後継者細川政元、山名政豊はこれ以上無意味な戦いをしても建設的でないと講和します。これに最後まで反対したのは赤松政則だったそうです。実力で勝ち取った播磨、備前、美作を山名氏に再び奪われるのを恐れたためだとも云われますが、山名政豊にそこまでの覇気は無く、このまま三国の守護は政則に認められました。
 
 赤松政則は、守護所として文明元年(1469年)、兵庫県姫路市夢前町宮置、糸田にある標高370mの置塩山に城を築きます。以後置塩城は赤松氏の本城となり、赤松氏も置塩屋形と尊称されるようになりました。
 
 次回は、播磨・美作・備前を回復した赤松氏中興の祖政則の播磨統治、宗全の後継者山名政豊の旧領奪還をかけた播磨侵入と真弓峠の合戦を描きます。

播磨戦国史Ⅱ  赤松氏の滅亡と再興

 赤松満祐の将軍義教暗殺は守護大名たちに衝撃を与えました。彼らがすぐ行動を起こさなかったのは時の幕府管領細川持之(勝元の父)が、将軍を守りもせず真っ先に逃げ出すという醜態を晒した事もありましたが、諸将の間にもし赤松の単独犯行ではなく同心する大名がいるかもしれないと疑心暗鬼になったこともありました。
 
 諸将から臆病者と嘲られた管領持之は、事件の翌日ようやく評定を開き義教の嫡子千也茶丸を次期将軍とする事に決まります。すなわち室町幕府七代将軍足利義勝です。だらしない管領に代わって赤松追討の音頭を取ったのは侍所頭人(長官)山名持豊でした。持豊の祖父時義の時代、山名氏は一族で全国に十一カ国の守護領国を持ち『六分の一殿』と呼ばれるほど権勢を誇りましたが、将軍足利義満の挑発を受け一度滅ぼされています。
 
 持豊の時代、本国但馬に加えて伊賀・安芸・備後と四カ国の守護を獲得し一族で八カ国の守護国を持つまでに回復していました。実は山名氏が明徳の乱で滅ぼされた後、山名氏の守護領国は細川氏や赤松氏に奪われており積年の恨みがあったとも伝えられます。この時持豊30歳、脂の乗り切った時代でした。
 
 持豊率いる山名軍本隊は本国但馬から、一族で石見守護だった教清は美作路から、細川持常、赤松貞村、赤松満政らは摂津から播磨を攻める計画を立てます。追討軍に赤松の名がある通り、実は赤松満祐に一族全部が味方したわけではありませんでした。宗家から離れて将軍家の直臣となっていた有馬持家や、満祐に代わって赤松氏惣領の座を狙っていた従兄弟の赤松(大河内)満政、赤松(春日部)貞村らは幕府軍に加わります。
 
 そのころ赤松氏は、本拠白旗城(赤穂郡上郡町赤松)があまりにも播磨の西に偏り過ぎている事から守護所を坂本城に移していました。坂本城は、姫路城、龍野城、置塩城を三角形としたらその中心に位置する場所にありました。所在地は兵庫県姫路市書写字構江。しかし坂本城は要害とはいえず、満祐は赤松氏が坂本城に移るまで本拠としていた城山城(きのやまじょう、たつの市)に籠城します。城山城はたつの市亀山(きのやま)にあり標高458m。大和朝廷時代に古代山城があった要害の地で赤松円心の子則祐の時代に再び城郭として整備したものでした。
 
 嘉吉元年(1441年)8月、山名持豊を総大将とする赤松追討軍は播磨国境を越えます。赤松満祐は衆寡敵せず幕府の大軍を受けて城山城で自刃しました。ほとんどの一族が満祐と運命を共にしますが、満祐の弟伊予守義雅は秘かに寄せ手の赤松満政の陣を訪れました。そこで「自分は謀反人の一族だから罪は免れないが、どうか一子千松丸だけは助けてほしい」と頼むと自害して果てます。
 
 満政はさすがに従兄弟の頼みを聞き入れ、千松丸は天隠龍沢という高僧に預けられ近江成願寺で匿われました。また満祐の別の弟則繁は、死地を脱し海路筑前の少弐氏を頼って落ち伸びます。当時少弐氏は周防の大内氏に攻められ本国筑前も危うい状況でしたが、これを匿い朝鮮に逃しました。則繁は朝鮮で海賊を働いていたそうですが赤松再興を掲げ少弐氏の援軍と共に備前に上陸、大内氏の軍勢に敗れ再び逃亡。最後は河内の畠山氏を頼りますが、受け入れられずその地で自害しました。
 
 赤松満祐滅亡後、赤松氏の旧領播磨・備前・美作は山名持豊の守護領国となります。満祐に代わって赤松惣領の座を狙っていた満政は、乱後播磨三郡を貰いますが、持豊の猛抗議で取り上げられました。怒った満政は播磨で挙兵するも山名軍にあえなく敗れ、赤松一族で同じく満祐討伐軍に加わった有馬持家を頼ります。ところが持家はこれを拒否、逆に討手を差し向けて満政主従を討ち果たしました。野望に燃えた満政の最期です。
 
 宗家を滅ぼし頼ってきた一族を討ち果たした有馬持家は、さすがに寝覚めが悪かったのでしょう。室町八代将軍足利義政の寵臣となった持家は、享徳三年(1454年)将軍に願い出て赤松氏の赦免を勝ち取りました。これに入道して宗全と名乗っていた山名持豊は猛反対したとされますが、有馬持家・元家父子は宗全の政敵管領細川勝元に取り入り実現させました。細川勝元は山名宗全の娘婿でしたが、これをきっかけとして両者は激しく対立する事となります。
 
 ただ赦免といっても、幕府から追討される事を免れただけで赤松氏の家督が認めたわけではありませんでした。赤松一族は家督相続を現実のものとするために満祐の弟祐尚の子則尚が播磨において挙兵します。山名宗全はこれを強大な軍事力で圧殺、則尚は敗北して自害します。赤松浪人たちの希望の星は、近江成願寺にいた伊予守義雅の一子千松丸でした。千松丸は元服して時勝と名乗ります。ところが時勝は康正元年(1455年)に夭折。幸いに一子法師丸が生まれていたので、赤松一族はこれを奉じることに決めます。
 
 時の管領細川勝元は、赤松浪人たちに何か大手柄を立てなければお家再興は叶わないと言い、暗に後南朝に奪われていた神璽を奪いかえしてくるよう促しました。長禄元年(1457年)12月赤松浪人たちは奥吉野に分け入り南朝後胤とされた自天王と忠義王の兄弟を殺して神璽を奪い返しました。これを長禄の変と呼びます。
 
 いくら神璽を奪い返すためとはいえ、皇族を殺すのは当時の武将でもためらわれる事でした。勝元は、赤松浪人ならお家再興を餌にすれば汚れ仕事でも必死でやると思って彼らに押し付けたのです。法師丸は元服して赤松政則と名乗っていましたが、この功績によりお家再興を認められとりあえず加賀半国守護となります。ところが加賀は平安時代からの名族富樫氏の国で、たまたまお家騒動で加賀半国を取り上げられていた時期でしたから加賀国人たちは他所者の赤松氏支配を嫌い抵抗します。赤松側も本国播磨を回復するまでの一時的なものだと解釈しており騒乱は絶えませんでした。
 
 ただ、旧領播磨は山名宗全の守護領国でした。宗全は管領細川勝元と勢力を二分するほどの実力者でしたから播磨奪回など夢物語だったのです。しかし、その機会は意外な事から実現する事となります。
 
 
 次回、応仁の乱と赤松氏を描きます。

播磨戦国史Ⅰ  嘉吉の乱

 播磨国は、現在の兵庫県南部です。ただし神戸から東の尼崎、芦屋、西宮、伊丹、宝塚などは摂津国に含まれました。兵庫県北部は但馬国。兵庫県は播磨+但馬+摂津の西部で構成されています。ちなみに神戸市は播磨と摂津にまたがっており、平安時代には福原京、大輪田泊(おおわだのとまり)と呼ばれました。江戸時代には兵庫津として知られ、1868年神戸村が開港場となって以来栄え県庁所在地となります。
 
 播磨国は、近畿に一番近い遠国で京の戦乱などからの避難地として古来多くの貴族たちが訪れました。その意味で京都の文化・情報も入りやすく山陽道ではありながら早くから栄えた土地だったと思います。もっとも大和朝廷進出前からある程度の文化は興っていた可能性もあり、兵庫県赤穂市にある大避神社など古代ロマンあふれる場所でした。大避神社の由来は、もしかしたら日本古代史の根幹に関わる秘密を持っている可能性もありますが、テーマから外れるのでこれ以上は書きません。
 
 さて播磨国です。一般に戦国時代は応仁の乱から始まったと云われます。しかし播磨に関してはそれに先立つ嘉吉の乱から戦国が始まったとも言えるでしょう。
 
 
 播磨国は、室町幕府侍所頭人(長官)を出す家柄四職家の一つ赤松氏の守護領国でした。赤松氏は、村上源氏とも云われ南北朝期足利尊氏を援け幕府創設に貢献した赤松円心入道則村の時大発展を遂げます。尊氏は円心の貢献を高く評し本国播磨の他に備前・美作(共に岡山県)の守護職を授けました。以後赤松氏は幕府の宿老として幕府内に隠然たる勢力を持ちます。
 
 嘉吉の乱は時の足利将軍義教を赤松満祐が暗殺した事件ですが、事件に至るまでには事情がありました。赤松氏は大族だけに多くの分家を生みます。その中の一つ、有馬氏は赤松氏三代則祐の五男義祐が摂津国有馬郡を賜ったのが始まりで、以後義祐の子孫は有馬氏を名乗ります。後にこの有馬氏は江戸時代筑後久留米二十一万石の大名となり没落した赤松宗家と立場が逆転します。
 
 有馬氏は、赤松庶流ながら京都に近い事もあって幕府に取り入り将軍側近となって宗家とは別の道を歩みました。足利将軍家はこの有馬氏や赤松満祐の又従兄弟赤松春日部家の持貞を寵遇し、宗家の満祐を圧迫します。一説では義教の先々代義持の時代に満祐から播磨守護職を取り上げて持貞に与える約束があったという話もあります。
 
 ただし、これは足利将軍の有力守護操縦術で山名氏も大内氏も皆この手でやられました。持貞は間もなく義持側室との密通が露見し処刑されますが、この事件以来赤松満祐は足利将軍家を信用していなかったのでしょう。
 
 五代将軍義量が早世し、くじ引きで選ばれ万人恐怖と恐れられる暴政を布いた六代将軍義教も足利将軍家伝統の守護大名圧迫策をより強力に推し進めます。斯波、畠山、山名氏ら有力守護の家督争いに介入し自分の気に入った者を当主の座に据え、そうでない者は追放しました。永享十一年(1439年)の永享の乱で鎌倉公方足利持氏を滅ぼすなど義教は彼なりに幕権強化策を行ったのだと思います。ただその政策があまりにも強引だったために人々が恐怖したのでしょう。
 
 幕府最長老となった満祐は、次は自分の番だと戦々恐々でした。性格的にも義教と満祐は合わなかったそうです。義教は背が低い満祐を事あるごとに馬鹿にし、またしても赤松庶流の貞村(持貞の甥)を寵遇し、摂津にあった満祐の弟義雅の所領を取り上げ貞村に与えます。このままでは赤松宗家が滅ぼされると満祐は恐怖した事でしょう。
 
 満祐は、自ら狂人の振りをしてそれを世間に噂として流し、隠居します。嘉吉元年(1441年)6月24日、満祐の子教康は将軍を「結城合戦の祝勝の宴として松囃子(赤松囃子・赤松氏伝統の演能)を献上したい」と称し自邸に招きました。義教はこれを赤松屈服の証として上機嫌で出かけました。ところが宴たけなわの中、突如屋敷の門が閉じられます。
 
 宴を裏で指揮していた満祐は、甲冑で武装した家来たちを呼び寄せ宴席に斬りかからせました。血の海の中、義教は討ち取られます。ご相伴していた山名熙貴惨殺、京極高数と大内持世は重傷を負い後死亡しました。将軍義教の首を抱えた満祐は、屋敷を焼き払って本国播磨に帰ります。今後やってくるであろう幕府追討軍に備えるためです。
 
 次回は、幕府の大軍と戦った赤松氏の滅亡、そして再興を描きます。

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