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2014年4月 1日 (火)

播磨戦国史Ⅱ  赤松氏の滅亡と再興

 赤松満祐の将軍義教暗殺は守護大名たちに衝撃を与えました。彼らがすぐ行動を起こさなかったのは時の幕府管領細川持之(勝元の父)が、将軍を守りもせず真っ先に逃げ出すという醜態を晒した事もありましたが、諸将の間にもし赤松の単独犯行ではなく同心する大名がいるかもしれないと疑心暗鬼になったこともありました。
 
 諸将から臆病者と嘲られた管領持之は、事件の翌日ようやく評定を開き義教の嫡子千也茶丸を次期将軍とする事に決まります。すなわち室町幕府七代将軍足利義勝です。だらしない管領に代わって赤松追討の音頭を取ったのは侍所頭人(長官)山名持豊でした。持豊の祖父時義の時代、山名氏は一族で全国に十一カ国の守護領国を持ち『六分の一殿』と呼ばれるほど権勢を誇りましたが、将軍足利義満の挑発を受け一度滅ぼされています。
 
 持豊の時代、本国但馬に加えて伊賀・安芸・備後と四カ国の守護を獲得し一族で八カ国の守護国を持つまでに回復していました。実は山名氏が明徳の乱で滅ぼされた後、山名氏の守護領国は細川氏や赤松氏に奪われており積年の恨みがあったとも伝えられます。この時持豊30歳、脂の乗り切った時代でした。
 
 持豊率いる山名軍本隊は本国但馬から、一族で石見守護だった教清は美作路から、細川持常、赤松貞村、赤松満政らは摂津から播磨を攻める計画を立てます。追討軍に赤松の名がある通り、実は赤松満祐に一族全部が味方したわけではありませんでした。宗家から離れて将軍家の直臣となっていた有馬持家や、満祐に代わって赤松氏惣領の座を狙っていた従兄弟の赤松(大河内)満政、赤松(春日部)貞村らは幕府軍に加わります。
 
 そのころ赤松氏は、本拠白旗城(赤穂郡上郡町赤松)があまりにも播磨の西に偏り過ぎている事から守護所を坂本城に移していました。坂本城は、姫路城、龍野城、置塩城を三角形としたらその中心に位置する場所にありました。所在地は兵庫県姫路市書写字構江。しかし坂本城は要害とはいえず、満祐は赤松氏が坂本城に移るまで本拠としていた城山城(きのやまじょう、たつの市)に籠城します。城山城はたつの市亀山(きのやま)にあり標高458m。大和朝廷時代に古代山城があった要害の地で赤松円心の子則祐の時代に再び城郭として整備したものでした。
 
 嘉吉元年(1441年)8月、山名持豊を総大将とする赤松追討軍は播磨国境を越えます。赤松満祐は衆寡敵せず幕府の大軍を受けて城山城で自刃しました。ほとんどの一族が満祐と運命を共にしますが、満祐の弟伊予守義雅は秘かに寄せ手の赤松満政の陣を訪れました。そこで「自分は謀反人の一族だから罪は免れないが、どうか一子千松丸だけは助けてほしい」と頼むと自害して果てます。
 
 満政はさすがに従兄弟の頼みを聞き入れ、千松丸は天隠龍沢という高僧に預けられ近江成願寺で匿われました。また満祐の別の弟則繁は、死地を脱し海路筑前の少弐氏を頼って落ち伸びます。当時少弐氏は周防の大内氏に攻められ本国筑前も危うい状況でしたが、これを匿い朝鮮に逃しました。則繁は朝鮮で海賊を働いていたそうですが赤松再興を掲げ少弐氏の援軍と共に備前に上陸、大内氏の軍勢に敗れ再び逃亡。最後は河内の畠山氏を頼りますが、受け入れられずその地で自害しました。
 
 赤松満祐滅亡後、赤松氏の旧領播磨・備前・美作は山名持豊の守護領国となります。満祐に代わって赤松惣領の座を狙っていた満政は、乱後播磨三郡を貰いますが、持豊の猛抗議で取り上げられました。怒った満政は播磨で挙兵するも山名軍にあえなく敗れ、赤松一族で同じく満祐討伐軍に加わった有馬持家を頼ります。ところが持家はこれを拒否、逆に討手を差し向けて満政主従を討ち果たしました。野望に燃えた満政の最期です。
 
 宗家を滅ぼし頼ってきた一族を討ち果たした有馬持家は、さすがに寝覚めが悪かったのでしょう。室町八代将軍足利義政の寵臣となった持家は、享徳三年(1454年)将軍に願い出て赤松氏の赦免を勝ち取りました。これに入道して宗全と名乗っていた山名持豊は猛反対したとされますが、有馬持家・元家父子は宗全の政敵管領細川勝元に取り入り実現させました。細川勝元は山名宗全の娘婿でしたが、これをきっかけとして両者は激しく対立する事となります。
 
 ただ赦免といっても、幕府から追討される事を免れただけで赤松氏の家督が認めたわけではありませんでした。赤松一族は家督相続を現実のものとするために満祐の弟祐尚の子則尚が播磨において挙兵します。山名宗全はこれを強大な軍事力で圧殺、則尚は敗北して自害します。赤松浪人たちの希望の星は、近江成願寺にいた伊予守義雅の一子千松丸でした。千松丸は元服して時勝と名乗ります。ところが時勝は康正元年(1455年)に夭折。幸いに一子法師丸が生まれていたので、赤松一族はこれを奉じることに決めます。
 
 時の管領細川勝元は、赤松浪人たちに何か大手柄を立てなければお家再興は叶わないと言い、暗に後南朝に奪われていた神璽を奪いかえしてくるよう促しました。長禄元年(1457年)12月赤松浪人たちは奥吉野に分け入り南朝後胤とされた自天王と忠義王の兄弟を殺して神璽を奪い返しました。これを長禄の変と呼びます。
 
 いくら神璽を奪い返すためとはいえ、皇族を殺すのは当時の武将でもためらわれる事でした。勝元は、赤松浪人ならお家再興を餌にすれば汚れ仕事でも必死でやると思って彼らに押し付けたのです。法師丸は元服して赤松政則と名乗っていましたが、この功績によりお家再興を認められとりあえず加賀半国守護となります。ところが加賀は平安時代からの名族富樫氏の国で、たまたまお家騒動で加賀半国を取り上げられていた時期でしたから加賀国人たちは他所者の赤松氏支配を嫌い抵抗します。赤松側も本国播磨を回復するまでの一時的なものだと解釈しており騒乱は絶えませんでした。
 
 ただ、旧領播磨は山名宗全の守護領国でした。宗全は管領細川勝元と勢力を二分するほどの実力者でしたから播磨奪回など夢物語だったのです。しかし、その機会は意外な事から実現する事となります。
 
 
 次回、応仁の乱と赤松氏を描きます。

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