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2014年4月 1日 (火)

播磨戦国史Ⅳ  真弓峠の合戦

 応仁の乱は形式的には東軍の勝利に終わりました。東軍の主将細川勝元の子政元は管領となり西軍山名宗全の嫡孫政豊は幕府の重要な役職である侍所頭人から転げ落ち、播磨・備前・美作という重要な三国を失ったのですから。が、一族で八カ国の守護領国を持つ山名氏の実力はまだまだ侮りがたいものがありました。政豊も本国但馬の他に安芸・備後・山城を有していたのです。
 
 赤松政則は、四職家の家格を取り戻し侍所頭人として幕府に仕えます。赤松氏が回復したばかりの本領播磨では、一族が早くも勢力争いを始めており国内は混乱しました。応仁の乱最中の応仁二年(1468年)、赤松一族の有馬元家(持家の子)が赤松家惣領の座を狙って反旗を翻し討たれています。それ以外にも一族間の内紛は絶えませんでした。
 
 文明十一年(1479年)、赤松政則は突如幕府から出仕停止命令を受けます。この理由としていくつかの説があり、一つは播磨における寺社領の問題を将軍足利義尚(義政の子)の意向に逆らって片づけたというもの、あるいは政則が前将軍義政の寵臣であったため、新将軍義尚に嫌われた事などが挙げられます。
 
 山名政豊は政則の失脚を冷静に眺めており、万全の準備を整えて本国但馬に下国しました。実は応仁の乱の結果幕府の統制力は京都周辺に限られており、地方ではすでに実力本位の戦国時代が到来していました。実際西軍の有力武将であった畠山義就は、勝手に本国河内に戻り幕府の命令を無視して勢力圏拡大に努めていたほどです。
 
 文明十五年(1483年)、内紛を続ける播磨を奪回する絶好の機会と見た山名政豊は、大軍を率いて赤松領国に攻めかかります。ところで但馬国は石高で言うと寛永検地の数字でわずか12万石しかありません。同時期の播磨は52万石もあります。比率は当時もそう変わってなかったはずですから、まともに戦っては山名方に勝ち目はありませんでした。山名領国で豊かなのは安芸(26万石)備後(24万石)くらいで、大半は山陰の貧しい国ばかりでした。ただその分兵の質は高く豊かな山陽の兵に比べると粘り強かったとも云われています。
 
 政豊の山名軍本隊は但馬から、政豊の嫡子俊豊は安芸・備後勢を率いて備前に攻めかかりました。ここで疑問があります。備後と備前の間にある備中は細川氏の領国なのです。しかしここで合戦した様子が見えないのは、細川氏が他国の戦争に介入する余力がなく黙認したか、あるいは将軍義尚の不興を買った政則を見捨てたかのどちらかでしょう。どちらにしろ管領細川政元の主導する室町幕府はすでに守護大名の統制力を失っていたとも言えます。
 
 進軍速度は俊豊の山陽道軍の方が早く、備前福岡城(岡山県長船町)を囲みました。守るのは政則の重臣浦上一族。政則は山名勢動くの報告を受け急ぎ播磨に下国していましたが、侍所所司代(副長官)として京都に残っていた浦上則宗は、急ぎ播磨に急使を送り救援を依頼します。ところが山名軍本隊はすでに播磨国境に迫っていました。政則は一族の政秀を備前の援軍に送りだすと、自分は本隊を率いて北上します。
 
 山名勢は、播磨但馬国境の真弓峠(兵庫県生野町)で待ち構えていました。文明十五年12月25日は大雪で猛吹雪が舞う荒天だったと伝えられます。何も知らず峠を進んでいた赤松軍は、山名軍の奇襲を受けて大混乱に陥ります。政則は多大な損害を出して敗走、福岡城も中途半端な援軍では保てるはずもなく落城してしまいました。
 
 政則の大敗北と福岡城落城の報告を受けた浦上則宗は激怒します。則宗は赤松重臣の小寺則職、明石祐実らと謀り政則を廃嫡、代わって赤松一族の有馬氏から慶寿丸を迎えて赤松当主の座に据えました。いくら侍所所司代、播磨守護代とはいえ一家臣に過ぎない浦上則宗が当主の首を挿げ替えることができるものでしょうか?私はすでに赤松氏がかつての独裁体制ではなく、有力家臣の合議制の上に立つに過ぎない脆弱な存在になり果てていたと考えます。赤松家再興も浦上氏ら赤松遺臣の力無くてはできませんでした。浦上則宗は大敗の責任を取らせて政則を追放したのだと思います。これは赤松家臣団同意の上での事でしょう。
 
 国内にごたごたがあると国を保つ事はできません。赤松勢は各地で敗北し、山名政豊はかつての赤松氏の守護所・坂本城に入って播磨統治を始めます。浦上則宗は播磨に入って山名の占領軍と戦いました。そのころ廃嫡された赤松政則はどうしていたのでしょうか?実は真弓峠の敗北後、淡路から四国へ逃亡していました。政則の凄いところは、亡命先から幕府に働きかけ将軍義尚から改めて赤松家督と播磨守護の安堵を勝ち取ったことでした。おそらく讃岐・阿波を統治する阿波細川氏(下守護家、細川京兆家【宗家】に次ぐ家格を誇った)を頼ったのだと思います。さすがに管領細川政元も、山名氏の勢力が拡大しすぎ細川領国を窺うようになるのは困った事でした。そういう中央政界のバランスを見極めての外交工作にかけては政則は一流だったのでしょう。
 
 戦国時代に突入していたとはいえ、まだまだ将軍の権威は残っていました。将軍家のお墨付きを携えて播磨入りした政則のもとに播磨国人が次々と参集し、文明十七年(1485年)蔭木城合戦で山名勢に快勝、完全に潮目は変わりました。政則の播磨入りを援けた一族の別所則治も、その功により播磨東守護代に任じられます。文明十八年(1486年)赤松軍は山名軍の籠る坂本城を攻撃、この時は攻略に失敗するも長亨二年(1488年)7月、再度の攻撃でついに撃破、山名勢は本国但馬に撤退しました。赤松軍は休む間もなく備前・美作に残っていた山名軍を追い出し六年にもわたる抗争についに勝利を収めました。
 
 山名氏は、播磨遠征の失敗で守護領国ががたがたになります。嫡男俊豊と備後衆が政豊に反旗を翻し、政豊は俊豊を廃嫡、致豊(次男?)を後継者に定めました。明応八年(1499年)山名政豊死去。享年59歳。彼の死後守護代垣屋氏が実権を握り山名王国は瓦解の道を辿ります。
 
 
 ようやく播磨を奪回した赤松政則でしたが、守護代浦上則宗との関係は微妙になっていました。赤松宗家の力も相対的に低下し、かつての足利将軍のように家臣たちを対立させてその微妙なバランスに立つしかなくなります。別所則治の重用もその現れでしょう。
 
 再び上洛した政則は、九代将軍義尚、十代将軍義殖に仕えます。六角高頼征伐に功をあげた政則は従三位という足利将軍家や有力一門(斯波氏など)以外では例のない高位を賜りました。もちろん管領細川政元(従四位下右京大夫)より上です。明応五年(1496年)政則は本国播磨で鷹狩りの途上急に病を発して急死します。享年42歳。世間では「分不相応な高位に昇ったため天罰が当たった」と噂しました。
 
 赤松政則は、赤松氏中興の祖と言われます。しかし赤松宗家が播磨で実権を振るう事の出来た最後の当主でした。以後播磨でも浦上則宗を中心に下剋上の戦国時代が到来します。次回は置塩屋形赤松宗家の没落と浦上氏の台頭を描きます。

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