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2014年5月11日 (日)

概説ロシア史Ⅹ  アレクサンドル1世と19世紀のロシア

 エカテリーナ2世の後を継いだパーヴェル1世は、母を憎むあまり女帝の政策と正反対のことを実行します。女帝の寵臣もすべて追放し、恐怖政治を布きました。ただ軽率な人物だったらしく最初は母の好きだったフランス文化を憎みフランス革命政府と対立しますが、ナポレオンが台頭し革命の圧殺者に転じるとこれを崇拝、オーストリアとの同盟を破棄、マルタ島帰属問題からイギリスとも断交します。
 
 当時のロシアはイギリスとの貿易に依存しきっており、断交によってまず経済が冷え込みました。最初は商人達、そして経済制裁で生活が苦しくなった民衆の不満が爆発します。皇太子アレクサンドルは、国内の不満を上手く利用し貴族たちと結託し宮廷クーデターを計画。これには駐露イギリス大使ウィットボルトも一枚かんでいたそうですから恐ろしい。1801年3月12日陰謀は成功し、パーヴェルは寝室で殺害されました。
 
 それにしてもエカテリーナから続く血の惨劇はどうでしょう。祖母が夫殺し、息子は暴君、孫は父殺し。ロシアに暗いイメージが付きまとうのはこういうところからだと思います。
 
 即位したアレクサンドル1世(在位1801年~1825年)は、当初自由主義的政策を取ったそうです。しかしナポレオン戦争が本格化するとイギリス・オーストリアと同盟しナポレオンと対立します。1806年のアウステルリッツ会戦についてはナポレオン戦記で詳しく触れたのでここでは述べませんが、アウステルリッツ敗戦後もプロイセンを後援し1807年には東プロイセンのアイラウ、フリートラントで相次いでナポレオン率いるフランス軍に惨敗しました。
 
 ナポレオンの強さを目の当たりにしたアレクサンドル1世はここでようやくフランスに屈服しますが、ナポレオンが大陸封鎖令を発するとこれに反発、イギリスと同盟して再び対立しました。ロシアにとって、イギリスとの貿易を断たれる事は経済的な死を意味したので、これは死活問題でした。ナポレオンがロシア経済をまったく理解してなかった証拠でしょう。
 
 1812年、ナポレオンは自分に背いたロシアを攻めます。同盟国も含めて70万もの大軍がロシア国境を越えました。ロシア軍は連戦連敗し、アレクサンドルは個人的に嫌っていた老将クツーゾフの出馬を仰がなければならなくなります。将兵たちからの突き上げに屈した形でした。
 
 クツーゾフはロシア軍将兵と民衆の期待に見事こたえ、焦土戦術でナポレオンを苦しめます。加えて冬将軍まで襲いかかったため、モスクワ攻略を果たしながらナポレオンはついに撤退を決断。大きな損害を出して引き揚げました。
 
 続くライプチヒの戦いでもプロイセンの提唱した連合軍の作戦がナポレオンに勝ち、戦場はフランス本土に移ります。ナポレオン戦争の講和を話し合うウィーン会議の途中エルバ島に流されたナポレオンの復活がありましたが、これも連合軍の力で粉砕、ナポレオンはセントヘレナ島に流され1815年ナポレオン戦争は終結しました。
 
 
 アレクサンドル1世は、ウィーン会議の主役として会議を主導します。ナポレオンによって併合されていた欧州各国は独立を回復し王政が復活しました。フランスもまたブルボン家が復位、アレクサンドルはオーストリア外相メッテルニヒとともに、復古主義を掲げロシア・オーストリア・プロイセンと神聖同盟を結成、ヨーロッパの憲兵としてフランス革命の輸出を警戒します。これはメッテルニヒに上手く利用されただけだという意見もありますが、アレクサンドル個人としても皇帝権力を揺るがす市民革命思想は絶対に許せないものでした。
 
 ところがナポレオン戦争でフランス本土に入った兵士たちは、現地で市民革命の雰囲気に触れ革命主義者になっていました。これは各国の兵士も同様で、ナポレオン戦争後の保守反動政策はいずれ破綻する運命だったのです。
 
 加えてロシアでは、ナポレオン戦争で軍費が嵩み国家財政は危機に陥っていました。インフレも進行し重い租税負担は庶民を苦しめます。ヨーロッパ市民革命の空気に触れた将校の中から民主主義改革を掲げるいくつかの政治結社が生まれました。最初は立憲主義を唱える穏健な者たちが主でしたが、政府が国民の要求を無視したため次第に先鋭化したのです。ロシア国内を不穏な空気が漂う中、アレクサンドル1世は1825年11月クリミア旅行中に急死します。皇位は弟のニコライが継ぎました。すなわちニコライ1世(在位1825年~1855年)です。
 
 
 ニコライが正式に即位するまでの3週間、空位が生じました。民主主義を掲げる秘密結社のうち一番過激思想(連邦共和主義)を持つ者たちは、この間隙を衝いて市民革命を起こす計画を練ります。実行はニコライが正式に即位するための儀式元老院での宣誓式12月14日が選ばれました。12月に蜂起した事から彼らはデカブリスト(12月党員)と後に呼ばれます。
 
 デカブリストにはロシア軍将校が多数加わっていましたから、近衛連隊、砲兵連隊、海兵隊など3000人がクーデターの兵力となります。正午広場に現れたニコライは、兵士たちが自分の名前ではなく『憲法万歳』と叫んでいるのを聞いて驚愕しました。顔面蒼白になったニコライは広場を退去、怒った皇帝は1万3千の軍隊を動員し革命軍を包囲、無差別攻撃を命じます。革命軍側では、指導者に予定されていたトゥルベツコイ将軍が恐れをなし当日に逃げ出したため統制が取れず、ほとんど抵抗できずに虐殺されました。デカブリストの乱と呼びます。
 
 これに懲りたニコライ1世は、民主改革の声を一切無視し終始弾圧政策を取りました。しかし、逆に弾圧によって革命勢力はロマノフ朝に対して激しい憎悪を抱きます。これが後のロシア革命に繋がるのです。
 
 次回最終回、ロシア革命にご期待ください。

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