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2014年5月

2014年5月11日 (日)

概説ロシア史Ⅺ  ロシア革命

 即位早々デカブリストの乱の洗礼を受けたニコライ1世(在位1825年~1855年)は、民主改革を求める革命勢力から国家を守り専制政治を布く事が自分の使命だと考えました。死刑制度こそ廃止しましたが、これに代わる残酷な「隊列笞打刑」を創設し「笞(むち)のニコライ」という異名をとります。ポーランドの自治権拡大運動も弾圧、1848年にはヨーロッパの憲兵としてハンガリーの独立運動さえ鎮圧しました。
 
 対外的には、伝統の汎スラブ主義に則り南下政策を推進、世界中で大英帝国と所謂グレート・ゲーム(ユーラシアの覇権を握るための両国の闘争)を開始します。極東方面でもプチャーチンを日本に派遣して1855年日露和親条約締結、ペルシャにはトルコマンチャーイ条約を強要しペルシャ領アルメニアを支配下に収めました。ニコライ1世の南下政策は英仏の怒りを買い1853年から始まるクリミア戦争が勃発します。戦争の最中の1855年3月ニコライ1世は58歳で没しました。
 
 ニコライの長男である皇太子アレクサンドルが後を継ぎアレクサンドル2世(在位1855年~1881年)として即位します。新皇帝の最初の仕事は絶望的な戦況になったクリミア戦争を終結させる事でした。英仏サルディニア連合軍も戦費が嵩み財政的危機を生じたのでここに講和の機運が生じます。1856年パリで講和会議が開催されロシアの南下政策は一時頓挫しました。
 
 クリミア戦争の敗北は、ロシア国内で農奴制を未だにとる旧体制では欧州列強に対抗できないという議論を白熱させます。資本主義的経済発展には民主改革が不可避、そしてそれを阻害しているのがツァーリ専制政治だと支配階級の中でさえ公然と議論されるようになりました。アレクサンドル2世自身も改革の必要性は感じていましたが、結局中途半端に終わり、反ツァーリ主義を掲げるナロードニキ(人民主義者)の投じた爆弾により1881年3月13日暗殺されます。
 
 後継は息子のアレクサンドル3世(在位1881年~1894年)でした。アレクサンドル3世は、国内の不満を逸らすためにも海外に進出せざるを得ません。ところが欧州や中央アジアでは大英帝国に押されこれ以上の勢力拡大は不可能になっていました。ロシアは極東に狙いを定め、シベリア鉄道の整備を開始します。1891年の事でした。また国内の敵を作って人民の不満を宥め1881年にはポグラム(ユダヤ人大虐殺)が起こっています。1894年11月、過度の飲酒で体調を崩したアレクサンドル3世死去。彼の次男で皇太子のニコライが即位します。
 
 ニコライ2世(在位1894年~1917年)はロシア帝国最後の皇帝です。父の政策を踏襲し極東進出はますます加速していきました。1895年、日清戦争の結果日本が租借する事になった遼東半島を、仏独と組んで三国干渉で日本に圧力をかけこれを断念させ、自分は旅順・大連を租借します。日本国民は激昂しますが欧州列強を相手に戦争する実力は当時なく、臥薪嘗胆を合言葉に国民一丸となって富国強兵に邁進しました。
 
 ニコライ2世は、日本を舐めていたのだと思います。しかし極東の一角に突如出現した新興国日本は、彼が考えているような弱小国家ではありませんでした。1900年清国で起こった義和団の乱に際しても、これに介入して満洲を占領するなどやりたい放題。さすがにイギリスも、清国における自国の権益が脅かされる事を危惧し始めロシアに復讐を誓う日本と1902年歴史的な日英同盟を締結しました。
 
 朝鮮半島、満州における対立からついに1904年日露戦争勃発。弱小国日本など鎧袖一触と舐めていたロシア軍ですが陸戦で連戦連敗。頼みの旅順要塞も落とされ奉天会戦で敗北。日本の同盟国イギリスは、ロシアの敗戦を徹底的に世界に拡散しましたから国際外交上も不利になってきました。ロシアと同盟していたフランスやドイツもこの状況をみてロシアから距離を取り始めます。
 
 当時の明治日本政府は巧妙で、軍事だけでなく国際宣伝戦でもロシアの上を行っていました。陸軍大佐明石元二郎を欧州に派遣しロシアの革命勢力と接触させます。明石は、預かった機密費をふんだんに使い革命派の指導者だったレーニンを援助、情報収集、ストライキ、サボタージュを扇動し、ついにはレーニンをロシアに送り込みました。(明石工作)
 
 1905年1月9日、当時のロシアの首都サンクトペテルブルクでは労働者たちが皇宮に向けて平和的な請願行進を行います。ロシア政府は軍隊を動員し平和的なデモに発砲しました。無差別発砲でデモ隊は死者4000、負傷者数千名という甚大な被害を出しました。これを『血の日曜日事件』と呼びます。革命勢力はこの時までまだまだロシアでは少数派でした。大半の農民はロシア皇帝に対する尊崇の念を持っていたのです。ところがこの事件でロシア国民の皇帝に対する信頼は無くなりました。血の日曜日事件はロシア革命が始まった日として記憶する必要があるでしょう。
 
 ニコライ2世は、ともかく日露戦争で勝利すれば国内問題もなんとかなると考えバルチック艦隊の極東派遣を決めます。日本海と黄海の制海権を握り満洲の日本陸軍を孤立させ一気に勝利しようと目論んだのです。ロシア皇帝の命で長大な距離を航海してきたバルチック艦隊は、1905年5月27日対馬海峡で待ち受けていた日本連合艦隊に捕捉されます。日本にとっても絶対に負けられない戦いでした。
 
 運命の海戦は、6時21分連合艦隊の有名な「敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ聯合艦隊ハ直チニ出動、コレヲ撃滅セントス。本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」の打電から開始されます。長大な航海で疲弊しきっていたロシア艦隊は日本海軍の丁字戦法に翻弄されました。この日のために血の滲むような猛訓練を行っていた日本海軍はほぼ百発百中という信じられない命中率でロシア艦船を攻撃しました。二日間に渡る海戦では日本海軍の損害がわずか水雷艇三隻なのに対し、ロシア海軍は戦艦8隻を含む主力艦21隻撃沈、拿捕6隻というほぼパーフェクトゲームで完敗します。
 
 ニコライ2世は、戦争を諦めアメリカのセオドア・ルーズベルト大統領の斡旋でポーツマス講和条約の席につきました。日本は賠償金を取れず南樺太と南満州鉄道の敷設権を得たばかりで国内に不満が生じましたが、日本もまた戦費がかさみ破産寸前だったのです。国力の差を考えると明治日本政府はよくやったと思います。日露戦争の勝利で日本は列強の一員に加わりました。
 
 ロシアは、日露戦争の敗戦でガタガタになります。1905年6月には黒海艦隊所属の戦艦ポチョムキンで水兵の反乱が起こりました。ニコライ2世は、革命運動の拡大を恐れ10月勅令で国会開設と憲法制定を約束します。しかし結局第1次世界大戦の勃発で改革は有耶無耶のうちに終わりました。当時のロシア社会民主労働党は知識階級に基盤を置くメンシェヴィキ(少数派)と労働者農民に基盤を置くレーニン、トロッキーなどボルシェヴィキ(多数派)に分裂し対立します。他により穏健派の社会民主党などがありました。
 
 
 第1次大戦は、ロシア軍がタンネンベルク会戦で敗北したため逆にドイツ軍に攻め込まれ破局的な方向に進みました。ドイツ軍も西部戦線での不利をロシアで回復しようと1915年9月西部に84個師団を残し、東部戦線に161個師団を投入しました。ポーランド、白ロシア、ウクライナは次々と占領され、ロシア国民はだらしない軍部とロシア政府に怒りの矛先を向けます。1917年2月23日首都ペテルブルクで国際婦人デーに合わせ女性労働者のデモが行われました。デモは、次第に他の労働者が次々に加わり「戦争反対」「ロシア専制体制打倒」を叫び収拾がつかなくなっていきます。
 
 ニコライ2世は、暴動に発展したデモを鎮圧するため軍隊に出動を命じました。ところが兵士の中からも次々にデモに加わる者が続出、2月27日にはメンシェヴィキの呼びかけでペトログラード・ソヴィエトが結成されるに至りました。ここに至ってニコライ2世は退位へと追い込まれ、300年の歴史を誇るロマノフ朝は崩壊。これを二月革命と呼びます。
 
 その日のうちに臨時政府成立、リヴォフが首相、社会革命党のケレンスキーが司法相に就任しました。2月革命以後ロシアは臨時政府とソヴィエトの二重権力時代に入ります。ボルシェヴィキを主導するレーニンは、亡命先のスウェーデンから帰国し4月テーゼを発表し、方針をさだめます。これに対しソヴィエト内で権力を握っていたメンシェヴィキと社会革命党は臨時政府との協調を進め、ボルシェヴィキを弾圧しました。(7月事件)
 
 ボルシェヴィキ側も軍事革命委員会を設立、赤衛隊を組織しこれに対抗します。1917年10月ロシア国民の絶対多数を占める労働者、農民の支持を得たボルシェヴィキがこの闘争に勝ち権力を握りました。(10月革命)
 1918年3月ブレスト=リトフスク条約でドイツと単独講和。欧米列強は、社会主義政権の存在を許さず1918年干渉戦争を開始します。革命勢力はこの戦争を勝利し名実ともに社会主義国家としての道を歩み続けるのです。退位したニコライ一家は干渉戦争の中、保守派や外国勢力に利用されるのを恐れた革命政府によって一家ともども惨殺されました。1922年12月30日、干渉戦争に勝利したロシア革命勢力は世界初の社会主義国家、ソヴィエト連邦社会主義共和国樹立を宣言します。
 
 
 以後のロシアの歴史は現代史の範疇に入るのでここでは述べません。第2次世界大戦、ゴルバチョフのペレストロイカを経て1991年ソ連が崩壊したのは記憶に新しいところです。
 

概説ロシア史Ⅹ  アレクサンドル1世と19世紀のロシア

 エカテリーナ2世の後を継いだパーヴェル1世は、母を憎むあまり女帝の政策と正反対のことを実行します。女帝の寵臣もすべて追放し、恐怖政治を布きました。ただ軽率な人物だったらしく最初は母の好きだったフランス文化を憎みフランス革命政府と対立しますが、ナポレオンが台頭し革命の圧殺者に転じるとこれを崇拝、オーストリアとの同盟を破棄、マルタ島帰属問題からイギリスとも断交します。
 
 当時のロシアはイギリスとの貿易に依存しきっており、断交によってまず経済が冷え込みました。最初は商人達、そして経済制裁で生活が苦しくなった民衆の不満が爆発します。皇太子アレクサンドルは、国内の不満を上手く利用し貴族たちと結託し宮廷クーデターを計画。これには駐露イギリス大使ウィットボルトも一枚かんでいたそうですから恐ろしい。1801年3月12日陰謀は成功し、パーヴェルは寝室で殺害されました。
 
 それにしてもエカテリーナから続く血の惨劇はどうでしょう。祖母が夫殺し、息子は暴君、孫は父殺し。ロシアに暗いイメージが付きまとうのはこういうところからだと思います。
 
 即位したアレクサンドル1世(在位1801年~1825年)は、当初自由主義的政策を取ったそうです。しかしナポレオン戦争が本格化するとイギリス・オーストリアと同盟しナポレオンと対立します。1806年のアウステルリッツ会戦についてはナポレオン戦記で詳しく触れたのでここでは述べませんが、アウステルリッツ敗戦後もプロイセンを後援し1807年には東プロイセンのアイラウ、フリートラントで相次いでナポレオン率いるフランス軍に惨敗しました。
 
 ナポレオンの強さを目の当たりにしたアレクサンドル1世はここでようやくフランスに屈服しますが、ナポレオンが大陸封鎖令を発するとこれに反発、イギリスと同盟して再び対立しました。ロシアにとって、イギリスとの貿易を断たれる事は経済的な死を意味したので、これは死活問題でした。ナポレオンがロシア経済をまったく理解してなかった証拠でしょう。
 
 1812年、ナポレオンは自分に背いたロシアを攻めます。同盟国も含めて70万もの大軍がロシア国境を越えました。ロシア軍は連戦連敗し、アレクサンドルは個人的に嫌っていた老将クツーゾフの出馬を仰がなければならなくなります。将兵たちからの突き上げに屈した形でした。
 
 クツーゾフはロシア軍将兵と民衆の期待に見事こたえ、焦土戦術でナポレオンを苦しめます。加えて冬将軍まで襲いかかったため、モスクワ攻略を果たしながらナポレオンはついに撤退を決断。大きな損害を出して引き揚げました。
 
 続くライプチヒの戦いでもプロイセンの提唱した連合軍の作戦がナポレオンに勝ち、戦場はフランス本土に移ります。ナポレオン戦争の講和を話し合うウィーン会議の途中エルバ島に流されたナポレオンの復活がありましたが、これも連合軍の力で粉砕、ナポレオンはセントヘレナ島に流され1815年ナポレオン戦争は終結しました。
 
 
 アレクサンドル1世は、ウィーン会議の主役として会議を主導します。ナポレオンによって併合されていた欧州各国は独立を回復し王政が復活しました。フランスもまたブルボン家が復位、アレクサンドルはオーストリア外相メッテルニヒとともに、復古主義を掲げロシア・オーストリア・プロイセンと神聖同盟を結成、ヨーロッパの憲兵としてフランス革命の輸出を警戒します。これはメッテルニヒに上手く利用されただけだという意見もありますが、アレクサンドル個人としても皇帝権力を揺るがす市民革命思想は絶対に許せないものでした。
 
 ところがナポレオン戦争でフランス本土に入った兵士たちは、現地で市民革命の雰囲気に触れ革命主義者になっていました。これは各国の兵士も同様で、ナポレオン戦争後の保守反動政策はいずれ破綻する運命だったのです。
 
 加えてロシアでは、ナポレオン戦争で軍費が嵩み国家財政は危機に陥っていました。インフレも進行し重い租税負担は庶民を苦しめます。ヨーロッパ市民革命の空気に触れた将校の中から民主主義改革を掲げるいくつかの政治結社が生まれました。最初は立憲主義を唱える穏健な者たちが主でしたが、政府が国民の要求を無視したため次第に先鋭化したのです。ロシア国内を不穏な空気が漂う中、アレクサンドル1世は1825年11月クリミア旅行中に急死します。皇位は弟のニコライが継ぎました。すなわちニコライ1世(在位1825年~1855年)です。
 
 
 ニコライが正式に即位するまでの3週間、空位が生じました。民主主義を掲げる秘密結社のうち一番過激思想(連邦共和主義)を持つ者たちは、この間隙を衝いて市民革命を起こす計画を練ります。実行はニコライが正式に即位するための儀式元老院での宣誓式12月14日が選ばれました。12月に蜂起した事から彼らはデカブリスト(12月党員)と後に呼ばれます。
 
 デカブリストにはロシア軍将校が多数加わっていましたから、近衛連隊、砲兵連隊、海兵隊など3000人がクーデターの兵力となります。正午広場に現れたニコライは、兵士たちが自分の名前ではなく『憲法万歳』と叫んでいるのを聞いて驚愕しました。顔面蒼白になったニコライは広場を退去、怒った皇帝は1万3千の軍隊を動員し革命軍を包囲、無差別攻撃を命じます。革命軍側では、指導者に予定されていたトゥルベツコイ将軍が恐れをなし当日に逃げ出したため統制が取れず、ほとんど抵抗できずに虐殺されました。デカブリストの乱と呼びます。
 
 これに懲りたニコライ1世は、民主改革の声を一切無視し終始弾圧政策を取りました。しかし、逆に弾圧によって革命勢力はロマノフ朝に対して激しい憎悪を抱きます。これが後のロシア革命に繋がるのです。
 
 次回最終回、ロシア革命にご期待ください。

概説ロシア史Ⅸ  女帝エカテリーナ2世

 18世紀というのは世界史とくに欧州史にとって大きな転機になった時代だと思います。それまで世界史の主役だったオランダ海上帝国が陰りを見せ、北欧・東欧でもスウェーデン・バルト帝国が崩壊、ポーランド・リトアニア合同も1655年から16667年まで続いたスウェーデンのポーランド侵略(大洪水時代)、1660年のプロイセン公国独立で大きく国力を後退させ大北方戦争で止めを刺されました。1733年に始まったポーランド継承戦争ではスペイン、フランス、ロシア、ザクセン、プロイセンの介入を受け完全に没落します。以後ポーランドはロシア・オーストリア・プロイセンの緩衝国という惨めな存在に成り下がりました。
 
 代わって台頭したのはロシア、プロイセンなどでした。ロシアの発展も著しいものでしたが、プロイセンはポーランドから独立したのが1660年。1701年にはフリードリヒ3世がスペイン継承戦争で神聖ローマ皇帝を援けたことで王号を獲得、プロイセン王国フリードリヒ1世として即位します。その子フリードリヒ・ウィルヘルム1世(在位1713年~1740年)は「兵隊王」と渾名されるほど質実剛健を実行し強力な常備軍を整備しました。少ない人口(当時400万)の中から8万の常備軍を持つようになったのですから驚きます。その発展のスピードは遥かにロシアを凌駕し、有名なフリードリヒ2世(大王 在位1740年~1786年)の時代を迎えるのです。
 
 ピョートル1世以後のロシアは、皇位継承で揉めやや停滞しました。大帝の死後まず皇后エカテリーナ1世が近衛兵の支持で即位。在位2年で死去するとピョートルに廃嫡されたアレクセイの子ピョートル2世(大帝の孫)が継承しました。この時首都はモスクワに戻されます。1730年ピョートル2世がわずか14歳で死去すると、今度はピョートル1世の異母兄イヴァン5世の娘アンナが貴族たちに擁立されました。こうなると皇帝権力は弱まり貴族たちが国政を動かし始めます。特にアンナはクールラント公に嫁いでいたためクールラントのドイツ系貴族たちが台頭してきました。1740年アンナが死去し、イヴァン5世系のイヴァン6世が即位しました。といってもわずか生後2か月の赤子、このままではドイツ人に支配されると危惧した近衛兵たちはクーデターを起こしてイヴァン6世を廃位、ピョートル1世の娘エリザベータを即位させます。
 
 エリザベータは、近衛隊を率いてクレムリン宮殿に入ると幼帝を幽閉、ドイツ系貴族の有力者ミュンニッヒ、オステルマンをシベリア送りにしたそうです。エリザベータには嫡出子(愛人の子はいた?)がいなかったためホルシュタイン公国に嫁いでいた姉アンナの子ピョートルを後継者に指名しました。ところが皇太子ピョートルはドイツ人意識が抜けず(実際ドイツ人ですが…)、同じドイツ人のプロイセン王フリードリヒ2世を崇拝し女帝から嫌われていました。
 
 エリザベータ女帝(在位1741年~1762年)の時代に7年戦争(1756年~1763年)が起こります。エリザベータはオーストリア女帝マリア・テレジアと組みロシア・オーストリア・フランスでプロイセンを袋叩きにすべく宣戦布告しました。ところがフリードリヒ2世は、エリザベータが驚くほどの戦争の天才で不屈の闘志で戦いぬき、ロシア軍はしばしば戦闘で敗北します。しかし多勢に無勢、ロシア軍はプロイセンの首都ベルリンを一時占領。このままいけば連合軍の勝利に終わるかに見えました。ところが戦争のさなか、エリザベータ女帝急死。後を継いだピョートル3世はもともとフリードリヒ大王贔屓だったため単独講和して戦争から脱落しました。フリードリヒはこの奇跡のような幸運を最大限に生かし反撃に転じます。結局オーストリアから奪ったシュレジェン地方を守りぬき列強の仲間入りを果たすのです。ちなみにシュレジェン地方は資源が豊富で工業も盛ん、当時のオーストリア工業生産力の3分の1を占めていたと云いますから、この地方をプロイセンが獲得した意味は大きかったと思います。
 
 実はエリザベータ死去の段階でロマノフ朝の男系は途絶えました。ですから以後をロマノフ朝と呼ぶのは抵抗があるのですがそのまま続けます。ピョートル3世は、ドイツ出身でその妻もエリザベータ女帝がアンハルト公の娘エカテリーナを迎えていました。ピョートル3世はドイツ贔屓でロシアより出身国ホルシュタイン公国の利益を重んじる政策を進めたためロシア貴族の怒りを買います。加えてホルシュタインのためにデンマークと戦争を企てたことで我慢の限界に達した近衛隊はついに決起、クーデターを起こしピョートル3世を廃位、後に彼は殺されます。実はこのクーデター、ピョートルの皇后エカテリーナとその情夫で近衛将校だったグレゴリー・オルロフが首謀者で、ピョートル3世を殺したのもオルロフでした。
 
 エカテリーナは野心家で、この日のために近衛兵を手なずけていたと云います。ピョートル3世は精神薄弱だったと評価させる事が多いですが、これはエカテリーナ側の悪宣伝で事実ではないと指摘する史家もいるそうです。エカテリーナは、ロシア人の血が一滴も入ってないにもかかわらず即位します。すなわちエカテリーナ2世(在位1762年~1796年)です。
 
 その私生活は何人もの愛人を抱えるだらしないものでしたが、一方彼女の時代にロシア帝国が発展してのも事実でした。一説ではピョートルとの間に生まれたとされる息子パーヴェルも実子ではないと噂されるほどです。そのせいか、母子関係はぎくしゃくしたままでした。
 
 エカテリーナは、即位の翌年国王アウグスト3世死去で内紛が起こったポーランドに介入、プロイセンのフリードリヒ2世と組んで1764年ポーランドの有力貴族チャルトルイスキー家の出身で自分の愛人の一人だったスタニスラフ・ポニアトフスキーをポーランド王位に就けることに成功します。ところが意外に新国王がまともな政治を行った事を不快に思ったのか、再びフリードリヒ2世と組んでオーストリア皇帝ヨーゼフ2世を仲間に引き入れ1772年第1次ポーランド分割を行います。
 
 ヨーゼフの共同統治者だった母親オーストリア女帝マリア・テレジアはあまりにも恥知らずな侵略行為に激怒息子を生涯許さなかったそうです。それにしてもポーランド人の哀れさはどうでしょう?敵国の女帝の愛人を国王にすげられたばかりか、国土まで奪われたのですから。ポーランド分割は第2次(1793年)第3次(1795年)と繰り返され、ポーランドという国はこの時消滅しました。
 
 またエカテリーナ2世は長年の宿敵クリミア汗国にも攻撃を続け、1768年露土戦争開始、1774年のキュチュク・カイナルジ条約でまずクリミア汗国をトルコから独立させます。そうしておいて本格的な侵略を開始、1783年条約を破ってクリミア汗国をロシア帝国に併合しました。
 
 エカテリーナ2世は、豪放磊落で派手好み私生活も乱れ切っていたそうです。愛人は公称10人、非公認なものを加えると数百人はいたという証言もあります。一番有名なのはポチョムキンですね。ただし人格的欠点はあるものの有能な君主であった事は事実。愛人たちにも公的な権力を持たせない良識は持ち合わせていました。皇帝権力強化のために貴族たちの要求を入れ農奴制を強化します。これが1773年のプガチョフの乱へと繋がりました。
 
 息子で皇太子であったパーヴェルとは父殺し、母親の愛人問題などもあり生涯確執が続いていたそうです。そのためかエカテリーナ2世は、パーヴェルの長子アレクサンドルを溺愛します。孫アレクサンドルは彼女の薫陶を受け後に有能な皇帝になりました。すなわちアレクサンドル1世です。
 
 1796年11月5日、エカテリーナ2世は脳卒中の発作に襲われ意識を失います。女帝危篤の報を受け冬宮に向かったパーヴェルは外務大臣べズボロドコから女帝の遺言書を受け取ったそうです。そこにはアレクサンドルを後継者にすると書かれており、受け取ったパーヴェルはそのまま焼却したとされますが真相は分かりません。11月6日、エカテリーナ2世は意識が回復しないまま崩御、享年67歳。皇太子パーヴェルがそのまま即位しました。
 
 
 次回はパーヴェルの短い治世、そしてアレクサンドル1世とナポレオン戦争を描きます。
 

概説ロシア史Ⅷ  ピョートル大帝と大北方戦争

 ピョートル1世(在位1682年~1725年)はロマノフ朝初代ミハイル・ロマノフの孫にあたります。父で2代ツァーリ、アレクセイと2番目の妻ナタリア・ナルイシキナとの間に生まれました。アレクセイの6男です。通常ならツァーリを継ぐ事はできなかったのです。
 
 最初に彼が即位するまでのロマノフ朝の歩みを簡単に振り返りましょう。大動乱の時代を経てロマノフ朝が誕生した時、ロマノフ家に匹敵するロシアの有力貴族は皆没落していました。1654年に起こったウクライナの領有を巡るポーランドとの戦争、1656年のバルト海沿岸地帯を争ったスウェーデンとの戦争、1670年に起こったステンカ・ラージンの乱など何度か危機が訪れますが、ロマノフ朝の屋台骨を揺るがすまでには至りませんでした。
 
 ロマノフ朝最大の宿敵、ポーランド・リトアニア連合が1655年から始まったバルト海の覇権を賭けてのスウェーデンとの戦争で疲弊しロシアに介入する余裕がなかった事も幸いします。ポーランドはこの後ロシア、ブランデンブルク、ワラキアなど周辺諸国と次々と開戦し1667年のアンドルソヴォの和約まで戦い続けます。この戦乱で東欧最強国家ポーランドは没落しました。世界史ではこれを大洪水時代と呼びます。代わってバルト海の覇権を握ったのはスウェーデンでした。スウェーデンはバルト海沿岸に領土を拡大しスウェーデン・バルト帝国と呼ばれます。
 
 1676年父アレクセイが死去すると、異母兄フョードル3世が即位しました。ところが1682年に死去。ピョートルの母の実家ナルイシキン家の後押しを受けピョートルは10歳で即位します。ところがアレクセイの先妻マリアの実家ミロスラフスキー家は宮廷クーデターを起こしピョートルの異母兄イヴァン5世を即位させました。このクーデターでナルイシキン家の有力者はことごとく殺されます。
 
 ピョートルとイヴァンは共同統治者とされますが、ピョートルはその母とともにクレムリンを追い出されモスクワ郊外のプレオプラジェンスコエに軟禁されました。イヴァン5世には精神障害があったのでその姉ソフィアが摂政として国の実権を握ります。ソフィアは教養深く有能な女性でロシアの統治は安定しました。
 
 摂政ソフィアにとってピョートルは邪魔な存在でした。事あるごとに殺そうと画策しますが、ピョートルは何度かの危機を乗り越え生き残ります。その当時幼少期のピョートルは側近たちと戦争ごっこをして遊んだり、近くの外国人村に行って外国人と交友したりしました。後に戦争ごっこをした側近たちからロシア軍を支える将軍たちが誕生します。外国人との交友でピョートルは西欧文化に深い感銘を受けました。
 
 ソフィアの摂政政府は1686年、1689年のクリミア遠征で失敗、急速に国民の支持を失います。1689年9月、官僚や軍人たちの突き上げで身の危険を感じたソフィアは、ついにピョートルに政権を返しました。ソフィアは修道院に幽閉され一生を終えます。1696年異母兄で共同統治者のイヴァン5世が死去したため、ようやく単独統治が実現しました。
 
 
 ピョートルは親政を開始するとまず海への出口を求めてアゾブ海に遠征します。ところが黒海の制海権を握るオスマン帝国海軍に完敗、一度は失敗します。しかし執拗に攻撃を繰り返しついにアゾブ海を手に入れました。ところがアゾブは黒海の内海にすぎず、黒海進出するには強大なオスマン帝国と本格的な戦争に陥る可能性があります。南方進出を一時断念したピョートルは、まずロシアを西欧化し近代国家に生まれ変わらせようと1697年から1698年にかけて欧州へ大使節団を派遣しました。その中には身分を隠したピョートル自身も加わります。
 
 オランダ・イギリス・プロイセン・ザクセン・オーストリアと巡り西欧近代技術を学んだ使節団はロシアに帰国。同時に大量の最新式兵器を購入、1000人もの軍事、技術顧問団を招聘、国家の近代化を推進しました。
 
 南方進出を断念したピョートルは今度はバルト海へ進出しようと考えます。ところがバルト海はスウェーデンが支配していました。単独では勝ち目がないと思ったピョートルは、ポーランド王アウグスト2世、デンマーク王フレデリック4世と反スウェーデン同盟(北方同盟)を結び来る日に備えます。
 
 1700年2月、デンマークがスウェーデンの同盟国ホルシュタイン公国、ポーランドがスウェーデン領リヴォニア、ロシアがスウェーデンのバルト海支配の要ナルヴァ要塞を同時に攻撃して大北方戦争が始まりました。戦争の詳しい経過は過去記事「カール12世と北方大戦争」で触れたのでここでは簡単に述べるに止めます。
 
 スウェーデン王カール12世は世界史上有数の戦争の天才で、ナルヴァを包囲するロシア軍を猛吹雪を衝いて急襲、大破しました。ロシア軍は大損害を出し開戦早々脱落します。ところがカールはロシアを侮り矛先をポーランドに向けたため一息つく事が出来ました。1708年カールがふたたびロシアに攻め込んだときには、ロシア軍はほぼ戦前の水準に回復していたのです。
 
 ピョートルはまともにカールと戦っても勝ち目がないと考え、焦土戦術でスウェーデン軍に対抗しました。冬将軍も襲いかかったためさしもの精強スウェーデン軍も疲弊します。1709年6月、南ウクライナ、ポルタヴァの戦いでロシア軍はようやくスウェーデン軍を撃破しました。これが転機となりロシア軍は反攻に転じます。
 
 カールはオスマン帝国を経て本国に逃げ帰りますが、1718年ノルウェーの戦場で流れ弾に当たり急死しました。これで勢いをなくしたスウェーデンは連合国に降伏、ロシアはバルト海への出口とフィンランドを獲得します。
 
 ところでピョートルは、1703年ネヴァ川河口のデルタ地帯に新都を建設しました。これはロシアがバルト海へ進出するという固い意思の表れでした。ピョートルは、この都市に「聖ペテロの町」を意味するサンクトペテルブルクと名付けます。ペテロとは同時にピョートルのラテン語読みでもありました。ピョートルは自分の名を冠した新しい首都を建設したのです。
 
 1721年ニスタット条約締結で大北方戦争が終わった時、スウェーデンは没落し、ポーランドも戦勝国とはいえ疲弊の極に達していました。ピョートルのロシアだけが台頭し、ここに欧州列強の仲間入りをします。輝かしい業績からピョートルは大帝と称えられます。1725年ピョートル1世死去。享年52歳。
 
 次回は、ロシアを強国にした外国人エカテリーナ2世の治世を描きます。

概説ロシア史Ⅶ  ディミトリー事件とロマノフ朝の成立

 リューリク朝最後のツァーリ、フョードル1世は気が弱く病弱な人物でした。妻の兄ボリス・ゴドゥノフは、野心家で義弟から実権を奪い事実上国政を壟断します。そんな中1598年フョードル1世が後継ぎを残さず病死しました。これも疑えばきりがないのですが、リューリク朝断絶をうけて次のツァーリを決めるべく全国会議が開かれます。
 
 当然ゴドゥノフは根回しをしていたので、ツァーリに選出されました。しかし貴族たちは彼の正統性に疑問を持ったため、ゴドゥノフは彼らを圧迫し有力貴族を追放します。最も有力な貴族ロマノフ家のフョードルも例外ではなく、モスクワから追放したばかりか出家させて禍の芽を摘みました。
 
 ゴドゥノフは彼なりにツァーリ権力強化に頑張ったようですが、士族階級と商人階級を優遇し過ぎたために貴族階級と圧迫政策で生活が窮乏した農民たちから深い恨みを受けます。農民一揆は続発し、ゴドゥノフ政権を揺るがしました。
 
 1603年、ポーランド・リトアニア連合領ウクライナにディミトリーという青年が登場します。彼はイヴァン4世の末子を名乗りリューリク朝の正統な後継者である自分を援助してほしいとポーランド政府に申し出ました。実は、ディミトリーという人物は確かにイヴァン4世の末子にいましたがすでに1591年に死去していたのです。その事実を知っているポーランド政府はこの要求を黙殺しますが、ポーランドの不平分子やゴドゥノフ政権に不満を持つロシア人、コサックたちが彼のもとに集まり一大勢力となります。
 
 1604年偽ディミトリーは、彼らを率いてロシア領に入りました。ゴドゥノフは討伐軍を差し向けますが、全国で農民反乱が相次ぎその鎮圧に追われ、国軍の士気も低下していたためこれを滅ぼすことができませんでした。そんな中、1605年4月、ゴドゥノフは死去します。ゴドゥノフに不満を持っていたロシア貴族たちは、彼の息子フョードルを殺害、偽ディミトリーをモスクワに迎えツァーリとして推戴しました。
 
 おそらく偽物と知りながら貴族たちがこのような暴挙に出たのは、ちょっとロシア以外では例がないと思います。いかし所詮は簒奪者で偽者にすぎませんでした。満足な政治ができるはずもなく間もなく首都モスクワで反乱が起こり偽ディミトリーと彼の推戴者たちは民衆に虐殺されます。
 
 残った貴族たちは、自分たちの中から名門のヴァシーリー・シェイスキーを次のツァーリに選びました。が、依然生活が苦しく何ら改善を見せなかった事から農民の不満は収まらず、首都モスクワでも下層民の反乱が相次ぎます。そういう民衆の不満を巧みに糾合し、南ロシアでボロトニコフという人物が反乱を起こしました。ボロトニコフはもと貴族の奴隷だったそうですが脱出しコサックの群れに投じ彼らの支持を受けていたと云います。
 
 反乱軍は、コサックの他に農民や都市の下層民が合流し侮れない勢力となりました。1606年にはモスクワ郊外に迫る勢いでした。ただ首都モスクワの守りは固く膠着状態に陥ります。間もなく反乱軍の中で内紛が起こり、混乱を衝いた政府軍の攻撃によってボロトニコフは殺されました。
 
 しかし動乱は収まりませんでした。1607年には再びディミトリーと名乗る者がポーランド国境に出現しロシアへ進軍を開始したのです。当然偽者でした。しかも「前年モスクワで殺されたのは身代わりで自分は助かったのだ」という主張までしたのです。これを偽ディミトリー2世(1世は最初の偽者)と呼びます。
 
 今回の偽ディミトリーの性質が悪かったのは、どうやらポーランド王ジグムント3世(在位1587年~1632年)の援助を受けていた事でした。偽ディミトリー軍はモスクワに迫るも攻略失敗、モスクワ郊外のツシノ村に布陣します。シェイスキーのロシア政府は、反乱を鎮圧できず1609年バルト沿岸のロシア領を割譲する条件でスウェーデンに援軍を求めました。スウェーデンの援軍を受けたロシア軍は勢力を回復し偽ディミトリー軍を破ります。反乱軍はたまらず敗走カールガに逃げ込みます。
 
 偽ディミトリー陣営は、相手がスウェーデンという外国に援助を頼むなら自分たちもそうしようとポーランド王ジグムント3世に使者を送りました。これを待ちかまえたいたジグムントは大軍を率いて国境を越えスモレンスクを包囲します。恐れをなしたモスクワ政府はジグムントに使者を送り、「ジグムントの王子ウラディスラフを次のツァーリに迎えるからどうか兵を引いてほしい」と懇願しました。
 
 ジグムントの狙いは、偽ディミトリーを助ける事ではなく自分がロシアの支配者になる事でしたからこれを二つ返事で承諾しました。ところが1610年偽ディミトリーがモスクワを急襲し、恐れをなしたモスクワ貴族たちはまたしても自分たちが推戴したシェイスキーを裏切りクーデターを起こしてこれを廃位します。貴族たちはポーランド軍のモスクワ入城を要請、これをうけてジェルキエフスキー将軍率いるポーランド軍がモスクワに入り治安回復に努めました。ジグムントは、偽ディミトリーを見限り黙殺します。反乱軍は軍隊としての体を成さなくなり偽者は根拠地トゥシノから秘かに逃亡、仲間に裏切られて殺されました。
 
 実は、偽ディミトリー2世はディミトリーの生母マリアから本物と認められその正妻マリナ・ムニシュフヴナとの間に子をもうけています。その子供は「小悪党」とよばれコサックから推戴されますが1614年、ミハイル・ロマノフによって処刑されたそうです。よほど本人と似ていたのでしょう。
 
 ところでこの一連の事件で一番悪いのは誰でしょう。私は隣国の混乱に付け込んで国を乗っ取ったポーランド王ジグムント3世だと思います。モスクワを制圧したジグムントは、ロシア貴族たちとの約束を反故にし、息子ではなく自分自身がツァーリになると宣言しました。反対者は次々と逮捕し、恐怖政治を布きます。さすがに外国勢力にここまで好き勝手にされては収まりませんでした。だらしないロシア貴族に代わって、民衆が反ポーランド闘争に立ち上がります。
 
 こうなるといくらポーランド軍が精強でも、膨大な数の反乱軍には敵いません。1610年モスクワ総主教ゲルモゲンの提唱で各地で解放軍が組織され1611年にはモスクワに迫りました。ポーランド軍はクレムリン宮殿に籠城します。しかしさすがにポーランド軍、頑強に抵抗し宮殿を守りぬきました。1611年夏には、ロシア西方の要スモレンスクも陥落し事態はどう転ぶか分からなくなりました。
 
 クレムリンの友軍を救うべくスモレンスクのポーランド軍がモスクワに迫ります。ロシアを守る解放軍、ロシア征服を企むポーランド軍はモスクワ郊外でぶつかりました。激しい戦いが続きます。しかし膨大な犠牲を出しながらも首都モスクワは解放軍が守りぬきました。援軍が敗走した事で、クレムリンのポーランド軍もついに降伏、ロシア国家を揺るがした未曽有の動乱はここに終わりを遂げます。
 
 ロシアの心ある貴族たちも加わった解放軍は、それまでのロシア貴族たちとは違い賢明でした。1613年2月、全国会議が開かれかつて追放されたフョードル・ロマノフの息子ミハイル・フョードルビッチ・ロマノフをツァーリに選出します。すなわちロマノフ朝の始まりでした。
 
 ロマノフ家は、リューリクの子孫ではありませんでしたがイヴァン4世の最初の妃をロマノフ家から出すなどロシア随一の名門で、彼の即位に文句を言う者はほとんどいなかったそうです。次回はロマノフ朝の発展とピョートル大帝の治世を描きます。

概説ロシア史Ⅵ  イヴァン雷帝とリューリク朝の滅亡

 ロシアという国はヨーロッパの東の辺境にあるとともに、北東アジア中央アジアと連なる遊牧国家の西の果てでもありました。当然ヨーロッパ的要素とアジア遊牧民族的要素がミックスされた独特の文化を持っていたと言えます。そこへ1453年に滅亡したビザンツのギリシャ正教文化まで流入したのです。
 ロシアを訪れた他のヨーロッパ人が「ロシアはヨーロッパというよりアジアだ」と感じる理由はこのあたりにあるのかもしれません。
 
 イヴァン3世の孫に当たるイヴァン4世(在位1533年~1584年、ただし途中1年ブランクがある)が1533年モスクワ大公となった時、ロシア貴族の半数はモンゴル系だったとも云われています。イヴァン4世自体、母方の祖先はキプチャク汗国に勢力を振るったママイで、父方からリューリクの血、母方からモンゴルの血を受け継いでいました。
 
 イヴァン3世時代、長きに渡りロシア人を苦しめたキプチャク汗国による「タタールの軛(くびき)」に終止符を打った事は前回述べましたが、実は実態は少々複雑でした。1502年、分裂の果てに衰退したキプチャク汗国(大オルダ)はジュチの13男トカ・テムルから出たハージー・ギレイの建国したクリミア汗国によって首都サライを陥れられ滅亡します。その残党は中央アジアに逃れてしばらく命脈を保ちますが、キプチャク汗国を滅ぼしたハージー・ギレイの息子メングリ1世ギレイは、キプチャクの旧領を併合しにわかに強大化します。
 
 しかもクリミア汗国は、1478年ビザンツを滅ぼし日の出の勢いだったオスマントルコにいち早く服属し宗主権を認めていましたから、当時のロシアには手が出ない強国でした。結局ロシアは、クリミア汗国に攻められないため貢納を復活しなければならなかったのです。実際、1571年にはポーランドと同盟しモスクワを襲撃、焼き払っているほどです。結局モンゴルの影響力は1783年、エカテリーナ2世がクリミア汗国を併合するまで続きます。
 
 イヴァン4世は、キプチャクの後継国家と血みどろの抗争を続けました。1552年カザン汗国、1556年にはアストラハン汗国を滅ぼします。イヴァン4世は、同じ頃コサックの首領イェルマークを使って東方植民を開始しました。
コサックというのはキプチャク汗国の滅亡で流浪した遊牧民と過酷な農奴制から脱出した逃亡農民の連合体でしたから、何のことはない同じ遊牧民が東から西へ辿った道を逆に戻ったにすぎません。
 
 イヴァン4世は、戦争の合間ロシア最初の議会を作るなど中央集権化を推し進めます。1558年にはバルト海進出を目指しリヴォニア戦争を開始しました。しかしこれはポーランド・リトアニア連合とスウェーデンの連合軍に袋叩きにあい失敗します。まだまだ当時のロシアは欧州列強を相手にするには力不足だったのでしょう。
 
 1575年、イヴァン4世はシメオン・べクブラトビッチというチンギス汗の血を引く者を探し出し突如譲位してツァーリの位を授けます。全ルーシの皇帝に推戴し自らも忠誠を誓いました。そうしておいて一年後の1576年シメオンから譲り受ける形で復位します。これはどういう事かというと、『チンギス汗の子孫でなければ汗になることができない』という所謂チンギス統原理に基づく正当な手続きで全ルーシの支配者になったというデモンストレーションでした。
 
 このあたり、やはりロシアはヨーロッパの国ではなくモンゴルの後継国家の一つだと言えるかもしれません。半数以上を占めるモンゴル系の貴族たちを納得させるにはこれしかなかったのでしょう。イヴァン4世が復位した1576年をロシア帝国の開始だとする史家も多いそうです。
 
 
 リューリクから続くリューリク朝の最盛期を築いたイヴァン4世。一方、モンゴル遊牧民の血がそうさせるのか残虐非道な人物だったとも伝えられます。流血・粛清を繰り返す恐怖政治は人心の離反を招きました。ロシア史上最悪の暴君という意味も込めて「雷帝」と呼ばれる所以です。1584年イヴァン4世死去。享年53歳。
 
 
 後を継いだ息子のフョードル1世も1598年亡くなります。フョードルには子がなかったため9世紀から続いたリューリク朝はついに断絶しました。この後ロシアは未曽有の混乱期を迎えます。次回、ディミトリー事件とロマノフ朝成立を描くこととしましょう。

概説ロシア史Ⅴ  イヴァン3世とモンゴル支配からの脱却

 ロシア史や東欧史を見ると、いかにも独力でロシア(ルーシ)がキプチャク汗国(ジュチ・ウルス)から独立できたように思いがちですが実態は複雑な国際的動きが大きな要因でした。最初にイヴァン3世登場までの両者の歴史を振り返ってみましょう。
 
 モンゴルに限らず遊牧国家は、多くの部族の集まりで例え汗でも配下の領内に介入することはできませんでした。汗が支配できるのは直轄領のみ。臣下は自領の自治を認められる代わりに汗に人口に応じた兵力を提供します。一種の封建的な社会でした。キプチャク汗国も例外ではなく、建国当時からジュチの次男で家長になったバトゥがルーシ諸国を含む帝国の西半分を領し、東半分はその兄オルダが支配しました。兄弟たちと臣下たちは両者で折半されそれぞれに属します。一応宗主権はバトゥの子孫が持つものの建国当初から爆弾を抱えていたと言えます。バトゥのウルス(国家という意味)を特に青のオルド(青帳ハン国)と呼びました。一方オルダのウルスは白のオルド(白帳ハン国)と呼ばれます。
 
 一説では全生産量の十分の一という過酷な人頭税を課せられていたルーシ諸国も、いつまでも属国のままでいるつもりはありませんでした。例えば第6代モスクワ大公ドミトリー・ドンスコイ(イヴァン1世の孫、在位1369年~1389年)は、キプチャク汗国が後継者争いで内戦に入った混乱期を衝いて、1373年キプチャク汗国への貢納を中止します。有力貴族出身でキプチャク汗国の事実上の支配者だったママイは、大軍を率いてドミトリーを攻めました。
 
 1380年ドミトリーはルーシ諸国を糾合した連合軍を率いて迎え撃ち、クリコヴォの戦いでこれを撃破します。ところがママイの政敵でキプチャク汗国の大汗位を狙っていたトクタミシュ(ジュチの13男トカ・テムルの子孫)は中央アジアに大帝国を築いていたティムールの援助を受けてカルカ河畔の戦いでママイを破り、ためにママイは本拠のクリミア半島に逃げ帰りました。後にママイはクリミア半島にあったジェノヴァ人の町カッファに逃げ込み、そこで財産を狙ったジェノヴァ人に殺されたとも、トクタミシュの追手に補殺されたとも云われています。
 
 キプチャクの支配者となったトクタミシュは反抗したドミトリーを攻め、力尽きたドミトリーは再びキプチャク汗国に屈服します。しかしまもなくトクタミシュは援助を受けていたティムールと敵対、ティムールによる懲罰遠征をうけ首都サライは陥落。没落したトクタミシュはシベリア方面に逃亡するも配下に暗殺されました。
 
 すでに後継者を巡る内戦で痛手を受けていたキプチャク汗国は、ティムール軍の遠征を受けて徹底的に破壊され国力を大きく後退させます。以後汗国は分裂し、ジュチの後裔だった各地の王族が自立しヴォルガ中流にカザン汗国、カスピ海北岸にアストラハン汗国、クリミア半島とウクライナ南部にクリミア汗国など多くの国が勃興しました。
 
 第9代モスクワ大公イヴァン3世(在位1462年~1505年)が即位したときはこのような状況だったのです。実質的にキプチャクのモンゴル人支配は形骸化し、イヴァン3世は近隣諸国を次々と併呑します。1478年には、モンゴル支配に入らずハンザ同盟で独自の経済発展を遂げていたノヴゴロド公国を併合しました。1472年には、ビザンツ皇帝コンスタンティノス11世の姪ソフィアと再婚するなど着々と地歩を固め、ついにキプチャクのアフマド汗に対し貢納停止を宣言します。
 
 ただし独力での反抗には不安だったのか、分裂したモンゴル勢力の一つクリミア汗国と同盟しました。これに対しアフマド汗も、モスクワを挟撃すべくポーランド・リトアニア連合のカジミェシュ4世(在位1440年~1492年)と同盟を結ぶなどもはや宗教も民族もへったくれもないような混乱した事態に陥ります。
 
 1480年、アフマドはモスクワの臣従と貢納の再開を要求し大軍を率いてモスクワに遠征を開始。イヴァン3世は、全軍を率いてウグラ川に陣を布き、対岸のキプチャク軍と対峙しました。この時、アフマドはモスクワを挟撃すべくポーランド王カジミェシュ4世に援軍を要請し、背後から攻めてくれるように頼みます。ところがポーランド軍はいつまでたっても動き出さず、単独でのモスクワ攻撃を躊躇したアフマドは、数週間対峙した後戦う事をせず撤退しました。
 
 史上これをウグラ河畔の対峙と呼びますが、これによって事実上タタールの軛(くびき)は終止符を打ちます。以後発展する一方のモスクワとキプチャク諸国は力関係が逆転、各個撃破される運命でした。ところでイヴァンは、ビザンツ皇女ソフィアと結婚した1470年代頃から「ツァーリ」を名乗ります。これはラテン語でカエサルの事で、ドイツのカイザーと同様皇帝を意味しました。ただし当時のロシア語のニュアンスでは「大公より格上だが皇帝よりは劣る」と云うくらいのもので、実質的にはモスクワ王国いやロシア王国の誕生といっても良いでしょう。
 
 以後、この国の事をロシアと呼びます。ギリシャ正教の総本山コンスタンティノープルがオスマン帝国に滅ぼされた後、ロシアはビザンツの後継者を自任し「第3のローマ」たる事を誇りました。ただし国際的にそれが認められるにはまだまだ時間がかかります。
 
 イヴァン3世は、モンゴルに対し反撃に転じます。キプチャク諸国の一つカザン汗国の保護国化を目指し1487年には首都カザンを囲みました。これによりカザンはロシアの忠実な同盟者となります。東方を固めたイヴァンは、大敵ポーランド・リトアニア連合に挑みました。1492年カジミェシュ4世が亡くなり両国を二人の息子が継承し一時的に同君連合が途切れた隙を衝いての攻撃です。
 
リトアニア大公国領の一部を占領し、これを交渉材料として1494年には「全ルーシの君主」の称号を認めさせました。翌1495年には娘エレナをリトアニア大公アレクサンデルに嫁がせます。1501年娘婿アレクサンデルが兄の死によってポーランド王を継承、再び同君連合を復活させると、その混乱に乗じてスモレンスクなどルーシ西部の広大な領土を割譲させました。
 
 イヴァン3世は、モンゴル支配を脱し、東西に大きく領土を拡大した事で『大帝』と称えられます。彼の孫が有名なイヴァン4世(雷帝)です。次回はイヴァン4世の治世とその混乱を描きます。

概説ロシア史Ⅳ  モスクワ大公国の台頭

 ロシア史上救国の英雄アレクサンドル・ネフスキーが1263年42歳の働き盛りで死去したことは前記事で書きました。しかし個人的力量だけではモンゴルの圧力に抗する事は物理的に不可能で、彼が屈服した事により全ロシアはキプチャク汗国(ジュチ・ウルス)に服属する事となります。
 
 ルーシ諸国はモンゴルの重税に喘ぎ、人民は疲弊しました。タタールの軛(くびき)と呼びます。これはイヴァン3世(大帝 在位1462年~1505年)が1480年ジュチ・ウルスへの貢納を止めるまで実に200年以上も続きました。
 
 ジュチ・ウルスは最初軍隊と徴税官を派遣し支配していましたが、次第に徴税の役目をルーシの諸侯国に代行させるようになります。モンゴル人たちは、そのためにルーシ支配の拠点をキエフから自分たちに近い北東ルーシのウラジーミル大公国へ移します。ウラジーミルがルーシの指導的立場にあったアレクサンドル・ネフスキーの国であったと云う事も理由の一つでした。
 
 ところで、アレクサンドル・ネフスキーの末子ダニール・アレクサンドロビッチは父の死後分領されモスクワの地に封じられます。最初は辺境でしたが、ヴォルガ河水運の要衝だった事から次第に発展し1318年にはダニールの子ユーリー3世が、ノブゴロドとモンゴルの支援を受けウラジーミル大公位を獲得しました。以後モスクワはウラジーミルに代わり、モンゴルに対する徴税請負を担当しルーシ諸国の指導的立場になります。
 
 
 一方、ルーシの西でも大きな変動が起ころうとしていました。バルト海沿岸はデンマークやスウェーデンの進出が著しくルーシを圧迫しつつありましたが、そこにドイツ騎士団が加わった事で収拾のつかない事態に陥ります。この混乱は、バルト諸国のうちまだドイツ騎士団の侵略を受けていなかったリトアニアを大いに刺激し、同じくドイツ騎士団の存在を苦々しく思っていたポーランド王国との合同の動きを加速させました。1385年リトアニア大公ヤギェウォはカトリックに改宗しポーランド女王ヤドヴィガと結婚、同君連合の君主ヴワディスワフ2世として即位します。歴史上これをポーランド・リトアニア合同と呼びます。ヴワディスワフ2世の創始したヤギェウォ朝は一気に東ヨーロッパの大国として君臨する事となりました。
 
 ポーランド・リトアニア連合はドイツ騎士団との戦いに勝利しルーシへの侵略を加速させます。この方面は主にリトアニア大公国が担当しました。ルーシ諸国も異教徒の蛮族モンゴル人に支配されるよりはと、ギリシャ正教とは違っても同じキリスト教徒という安心感もあって雪崩をうってリトアニアに靡きます。全ルーシの3分の2、今で言うウクライナ・ベラルーシ(白ロシア)の大半がポーランド・リトアニア連合に属しました。
 
 この動きを、かつての勢いの無くなったキプチャク汗国が阻止する事は不可能でした。内部分裂で衰え、中央アジアでもティムール帝国が台頭していたからです。ポーランド・リトアニア連合がいかに強大だったかは、後に黒海北岸に進出してきたオスマン帝国を戦争で押し戻した事でも分かります。しかし、連合はこれによって疲弊しルーシに対する支配力を衰えさせました。
 
 モンゴル支配下に残されたのは北東ルーシのみ。モスクワ大公国は、モンゴル支配の代理人として他のルーシ諸国を圧し、モンゴルの力を背景に台頭します。歴代モスクワ大公はモンゴル(キプチャク汗国)の汗から大公に任命され、ユーリー3世の子イヴァン1世(在位1325年~1340年)以降はウラジーミル大公を兼任するほどの強勢を誇ります。
 
 このモスクワ大公国が後のロシア帝国へと発展するのです。次回はモスクワ大公国に現れた英主イヴァン3世の活躍とモンゴル支配からの脱却、モスクワ王国の誕生を描きます。

概説ロシア史Ⅲ  キエフ・ルーシの危機

 リューリク朝キエフ公国第7代ウラジーミル1世(在位955年~1015年)は、キエフ公国に初めてキリスト教を導入し国教にしたことから聖公と称えられます。キエフ公国は成立の過程からもビザンツ帝国と関係が深く、ウラジーミルが導入したのもビザンツのギリシャ正教でした。ただ文弱だけの公ではなく、彼の時代にドナウ河畔からブルガール人(のちにブルガリアを建国。この時はロシアの東にいた)の住むカマ河畔まで領土を拡大します。
 
 ウラジーミルがギリシャ正教を国教としたことでロシアとビザンツは貿易だけでなく文化的にも大いに結び付けられました。後にビザンツ帝国が滅亡した後その文化を継承したのもロシア(当時はルーシ)です。
 
 
 キエフは全ルーシの盟主でしたが、リューリク朝発祥の地でハンザ同盟の重要都市でもあったノブゴロドもまた大きな力を有していました。当時ルーシ諸国ではリューリクの血統が正統とされ、当然ノブゴロド公もリューリクの血を引いています。両国は全ルーシの盟主の座を巡ってしばしば激しく戦いました。またこれらは同じ親戚のようなものですから、公を他国から迎える事もあったのです。例えばヤロスラフ1世(賢公、1016年~1054年)はノヴゴロド公からキエフ公の兄スヴャトポルクを戦争で倒しキエフ公の地位を手に入れています。二人はウラジーミル聖公の息子たちですから、早くも子の時代で分裂が始まったと言えます。
 
 12世紀ころにはルーシの分裂は明らかとなり、北東部を纏めたウラジーミル大公国、北西部を纏め貴族共和制を実現させたノブゴロド公国など有力な諸侯国が割拠する戦国時代を迎えました。一応キエフ大公国の盟主権はありましたが権威だけの存在となり他のルーシ諸国を押さえつけるだけの実力はなかったのです。ちょうど日本の戦国時代と似ていますね。
 
 国が分裂すると、周辺の外国からは恰好の目標となるのも世界史の常です。危機は13世紀にやってきました。ここに一人の人物がいます。ウラジーミル大公ヤロスラフ2世の息子でアレクサンドル。1236年彼は父からノブゴロド公を継ぐよう命じられます。アレクサンドルのノブゴロド公即位はノブゴロド貴族の要請によるものかウラジーミル大公国がノブゴロドより軍事的に優位に立っていた結果かは分かりません。
 
 この1236年という年はルーシにとって不幸の始まりでした。というのもバトゥ率いるモンゴル軍がルーシに侵入した年だからです。1223年のチンギス汗征西の時はルーシは辺境を荒らされたばかりでしたが今回は違いました。ルーシを始めとしてヨーロッパ全土の征服を目指したモンゴル軍はヴォルガ流域にいたブルガール人を降し、1237年から38年にかけてウラジーミルをはじめとする北東ルーシを征服、その後南方に転進し全ルーシの首都ともいうべきキエフを攻撃、徹底的に破壊します。その後ウクライナ平原を西に進みポーランド、ハンガリーに侵攻しました。1241年オゴタイ汗の死でモンゴル軍の西進は止まりましたがバトゥは本国に帰らずヴォルガ河畔に駐屯します。この地にキプチャク汗国(ジュチ・ウルス)を建国したバトゥは中央アジアからウクライナにまたがる広大な遊牧国家を築きました。ルーシの人々もモンゴル帝国の過酷な支配下に組み入れられます。
 
 ところでモンゴル軍の被害をほとんど受けなかったのがノブゴロド公国です。森林と沼沢が続く極寒の地であった事がモンゴル軍に嫌われたのだとも言われています。しかし、侵略者は北と西からやってきました。まず1240年ビルゲル率いるスウェーデン軍がノブゴロドに侵入します。アレクサンドルはこれをネヴァ河畔で迎え撃ち少数の兵力でスウェーデン軍に大勝利、侵略の意図を挫きました。名声はルーシ全土に鳴り響き「ネヴァ河の勝利者」を意味するアレクサンドル・ネフスキーと呼ばれ称賛されます。
 
 次にノブゴロド公国を襲った危機は、バルト海沿岸から延びて来たドイツ騎士団でした。1242年4月、チュード湖氷上の戦いでこれを撃破したアレクサンドル・ネフスキーはその名声を不動のものとします。1245年にはポーランド・ハンガリー連合軍も破っています。
 
 1246年、モンゴルに服属していたウラジーミル大公ヤロスラフ2世はモンゴルの第3代大汗グユクの即位式に参加するためにモンゴルに赴き、無理がたたったのか現地で死去しました。父の死でウラジーミル大公国を引き継いだアレクサンドルでしたが、さすがに巨大なモンゴルに敵対する事の愚を悟ります。自らジュチ・ウルスの首都サライに赴いたアレクサンドルはその場で臣従を誓いました。
 
 アレクサンドルのモンゴル臣従は、ルーシ国家を存続させるための苦渋の選択だったと思います。しかしそのためにルーシはタタールの軛(くびき)という苦難の時代を迎える事となりました。このあたりは評価の分かれるところですが、当時の国際情勢を考えれば彼の選択は仕方なかったように思います。1263年アレクサンドル・ネフスキー死去。享年42歳。
 
 
 次回は、ポーランド・リトアニア連合のウクライナ侵入とモスクワ公国の台頭を描きます。

概説ロシア史Ⅱ  キエフ国家の成立

 ヨーロッパロシアの東西が遊牧民族の道なら、南北は商人の道でした。それにはまず二つの大河の水系を語らねばなりますまい。北ロシア、ヴァルダイの丘に源流を発し南流して黒海に注ぐドニエプル河。ヴォルガ河とドン河は共にモスクワ近郊の高原地帯に発し、ドン河はアゾブ海に、ヴォルガ河はカスピ海にそれぞれ注ぎます。ドンとヴォルガはほぼ並行して流れるのでヴォルガ水系と一つに纏めて良いでしょう。
 
 バルト海では、12世紀に成立したハンザ同盟に先行して現在のオランダ沿岸地帯に住むフリーセン人を中心に早くも6世紀ごろから広く交易が行われていたそうです。彼らが扱ったのは木材・ワイン・穀物・織物など。交易商人たちは販路と原料供給地を求めてバルト海を東へ東へと進みます。
 
 バルト海の東の果てにはスラブ人がいました。交易商人と接触するうちに自分たちの交易商品として木材や毛皮がある事に気付きます。交易商人たちは自分たちの住む西欧の他に巨大な貿易相手が南方にある事を知っていました。すなわちビザンツ帝国です。
 
 彼らは、ドニエプルやヴォルガの水系を利用し黒海を目指し南方に赴きます。ロシアの南北地方をつなげたのは最初は交易商人だったと思います。ビザンツへ向かう黒海沿岸にはアジア系のハザール汗国が成立していました。最初は西欧系の商人だけだったでしょうが、スラブ人たちの中からも交易商人が誕生します。彼らの移動でドニエプル河沿いやヴォルガ水系に最初の都市が誕生したと想像できるのです。
 
 ところが、利のあるところには必ずそれを奪おうとする者たちが出現するのは世の習い。現在のスカンジナビア半島に住んでいたノルマン人の一派、ヴァリャーグ人たちは自分たちの仲間がヴァイキングとして西欧世界を荒らしまわっている事に刺激を受け、東方ロシアの地に目を付けました。
 
 といっても最初は商人として、次には都市に雇われる傭兵としてロシアの地に上陸したのでしょう。そして各地の都市の情報が本国に入るにつれ「この都市が奪いやすそうだ」と作戦を練ったに違いありません。
 
 バルト海を渡りロシアに降り立った最初のヴャリャーグ人権力者をリューリクといいました。リューリクは現在のペテルブルグから南に200キロほど下った内陸部のノブゴロドを占領し、ノブゴロド公を名乗ります。862年の事です。いわゆるノブゴロド国家の成立でした。
 
 実はリューリクの実在を疑う史家もいます。ただヴァリャーグ人たちによってノブゴロド国家が成立したのは事実で彼らは自分たちの祖をリューリク1世として称えました。ちなみにロシアの語源であるルーシはリューリクの出身部族ルス族に由来するそうです。ノブゴロドはドニエプル水系とヴォルガ水系の交点という好立地でハンザ同盟が成立すると東方の拠点の交易都市として大発展を遂げます。
 
 ヴァリャーグ人たちは、ノブゴロドを基地としてドニエプル水系を南に下り882年にはキエフを陥れます。キエフは対ビザンツ、ハザール交易の要衝でした。キエフは拡大したヴァリャーグ人国家の首都となり、さらに彼らは東方のヴォルガ水系にも手をつけました。
 
 伝説では、キエフを占領したのはリューリクの子イーゴリだと伝えられます。以後イーゴリの子孫がキエフ公として広大なルーシー国家の盟主となり支配しました。といっても成立の過程から、強力な中央集権国家ではなくキエフは各地の都市国家の盟主という立場にすぎず、緩やかな統合だったといえます。これがキエフ大公国の始まりでした。
 
 次回はキエフ国家を襲った危機を描きます。
 

概説ロシア史Ⅰ  ロシアの地勢とスラブ民族

 歴史地理的にロシアを私なりに規定すれば、ウラル山脈の西から白ロシア(ベラルーシ)まで。北は白海から南は黒海・カスピ海まで。ちょうどそれは東スラブ族(ロシア人・白ロシア人・ウクライナ人)の住地と合致します。スラブ民族というのは、印欧語族スラブ語派に属する民族集団です。コーカソイドで、おそらくインドヨーロッパ語族の民族大移動の途中ゲルマン民族と分かれて発展した民族だろうと言われています。その民族発祥地も諸説ありますが、私はカルパチア山脈(スロバキア・ポーランド・ウクライナ・ルーマニアにまたがりちょうどハンガリー盆地を半月形に囲むように広がる山脈)北麓説を取ります。
 
 スラブ民族はここから拡大し、ポーランド・チェコ・スロバキア人は西スラブ族として、ロシア・白ロシア・ウクライナは東スラブ族として、セルビア・クロアチアなど旧ユーゴ諸国は南(ユーゴ)スラブ族として発展していきました。
 
 最初遊牧民族だったスラブ族は、ドナウ沿岸やウクライナの豊かな平原に定着し農耕生活を始めます。その時期はアーリア人の民族移動が始まった前20世紀ころから紀元前後にかけてゆっくりとしたものではなかったかと私は考えています。ところで世界史に詳しい方ならご存知ですがウクライナ平原は古代スキタイ民族を始めとして多くの遊牧民族の通り道になりました。
 
 これらの民族はコーカソイドもいればアジア系もおり、スラブ民族との関係が気になります。おそらく遊牧民たちは少数で、多数のスラブ民族を支配下に組み込んだのだと思います。そのために混血が進み現在でもロシア人に中には他のコーカソイドと違いアジア系に近い顔立ちが見かけられるのでしょう。
 
 ちなみに、ロシアの森林地帯やウクライナの平原地帯を通って東ヨーロッパに建国した民族にはマジャール人(ハンガリーを建国)やブルガール人(ブルガリアを建国)、フィン人(フィンランドを建国)などがあります。ロシア民族が、このような遊牧民族の支配からようやく脱したのは紀元後8世紀ごろでした。なお黒海沿岸のウクライナ南部ステップ地帯は、さらに後まで遊牧民族の支配下にありました。
 
 しかし、ロシアの地に文明をもたらしたのは外からの力です。バルト海を通って北から侵入してきたノルマン人の一派ヴァリャーグ人でした。ヴァリャーグ人は現在のスウェーデンあたりにいた民族だと言われています。ロシアでは15世紀ごろまでスウェーデン人をヴァリャーグ人と呼んでいましたから、少なくともロシア人は同じ民族だと認識していたようです。
 
 次回は、ロシアにおけるヴァリャーグ国家の成立を描きます。

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