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2014年5月11日 (日)

概説ロシア史Ⅷ  ピョートル大帝と大北方戦争

 ピョートル1世(在位1682年~1725年)はロマノフ朝初代ミハイル・ロマノフの孫にあたります。父で2代ツァーリ、アレクセイと2番目の妻ナタリア・ナルイシキナとの間に生まれました。アレクセイの6男です。通常ならツァーリを継ぐ事はできなかったのです。
 
 最初に彼が即位するまでのロマノフ朝の歩みを簡単に振り返りましょう。大動乱の時代を経てロマノフ朝が誕生した時、ロマノフ家に匹敵するロシアの有力貴族は皆没落していました。1654年に起こったウクライナの領有を巡るポーランドとの戦争、1656年のバルト海沿岸地帯を争ったスウェーデンとの戦争、1670年に起こったステンカ・ラージンの乱など何度か危機が訪れますが、ロマノフ朝の屋台骨を揺るがすまでには至りませんでした。
 
 ロマノフ朝最大の宿敵、ポーランド・リトアニア連合が1655年から始まったバルト海の覇権を賭けてのスウェーデンとの戦争で疲弊しロシアに介入する余裕がなかった事も幸いします。ポーランドはこの後ロシア、ブランデンブルク、ワラキアなど周辺諸国と次々と開戦し1667年のアンドルソヴォの和約まで戦い続けます。この戦乱で東欧最強国家ポーランドは没落しました。世界史ではこれを大洪水時代と呼びます。代わってバルト海の覇権を握ったのはスウェーデンでした。スウェーデンはバルト海沿岸に領土を拡大しスウェーデン・バルト帝国と呼ばれます。
 
 1676年父アレクセイが死去すると、異母兄フョードル3世が即位しました。ところが1682年に死去。ピョートルの母の実家ナルイシキン家の後押しを受けピョートルは10歳で即位します。ところがアレクセイの先妻マリアの実家ミロスラフスキー家は宮廷クーデターを起こしピョートルの異母兄イヴァン5世を即位させました。このクーデターでナルイシキン家の有力者はことごとく殺されます。
 
 ピョートルとイヴァンは共同統治者とされますが、ピョートルはその母とともにクレムリンを追い出されモスクワ郊外のプレオプラジェンスコエに軟禁されました。イヴァン5世には精神障害があったのでその姉ソフィアが摂政として国の実権を握ります。ソフィアは教養深く有能な女性でロシアの統治は安定しました。
 
 摂政ソフィアにとってピョートルは邪魔な存在でした。事あるごとに殺そうと画策しますが、ピョートルは何度かの危機を乗り越え生き残ります。その当時幼少期のピョートルは側近たちと戦争ごっこをして遊んだり、近くの外国人村に行って外国人と交友したりしました。後に戦争ごっこをした側近たちからロシア軍を支える将軍たちが誕生します。外国人との交友でピョートルは西欧文化に深い感銘を受けました。
 
 ソフィアの摂政政府は1686年、1689年のクリミア遠征で失敗、急速に国民の支持を失います。1689年9月、官僚や軍人たちの突き上げで身の危険を感じたソフィアは、ついにピョートルに政権を返しました。ソフィアは修道院に幽閉され一生を終えます。1696年異母兄で共同統治者のイヴァン5世が死去したため、ようやく単独統治が実現しました。
 
 
 ピョートルは親政を開始するとまず海への出口を求めてアゾブ海に遠征します。ところが黒海の制海権を握るオスマン帝国海軍に完敗、一度は失敗します。しかし執拗に攻撃を繰り返しついにアゾブ海を手に入れました。ところがアゾブは黒海の内海にすぎず、黒海進出するには強大なオスマン帝国と本格的な戦争に陥る可能性があります。南方進出を一時断念したピョートルは、まずロシアを西欧化し近代国家に生まれ変わらせようと1697年から1698年にかけて欧州へ大使節団を派遣しました。その中には身分を隠したピョートル自身も加わります。
 
 オランダ・イギリス・プロイセン・ザクセン・オーストリアと巡り西欧近代技術を学んだ使節団はロシアに帰国。同時に大量の最新式兵器を購入、1000人もの軍事、技術顧問団を招聘、国家の近代化を推進しました。
 
 南方進出を断念したピョートルは今度はバルト海へ進出しようと考えます。ところがバルト海はスウェーデンが支配していました。単独では勝ち目がないと思ったピョートルは、ポーランド王アウグスト2世、デンマーク王フレデリック4世と反スウェーデン同盟(北方同盟)を結び来る日に備えます。
 
 1700年2月、デンマークがスウェーデンの同盟国ホルシュタイン公国、ポーランドがスウェーデン領リヴォニア、ロシアがスウェーデンのバルト海支配の要ナルヴァ要塞を同時に攻撃して大北方戦争が始まりました。戦争の詳しい経過は過去記事「カール12世と北方大戦争」で触れたのでここでは簡単に述べるに止めます。
 
 スウェーデン王カール12世は世界史上有数の戦争の天才で、ナルヴァを包囲するロシア軍を猛吹雪を衝いて急襲、大破しました。ロシア軍は大損害を出し開戦早々脱落します。ところがカールはロシアを侮り矛先をポーランドに向けたため一息つく事が出来ました。1708年カールがふたたびロシアに攻め込んだときには、ロシア軍はほぼ戦前の水準に回復していたのです。
 
 ピョートルはまともにカールと戦っても勝ち目がないと考え、焦土戦術でスウェーデン軍に対抗しました。冬将軍も襲いかかったためさしもの精強スウェーデン軍も疲弊します。1709年6月、南ウクライナ、ポルタヴァの戦いでロシア軍はようやくスウェーデン軍を撃破しました。これが転機となりロシア軍は反攻に転じます。
 
 カールはオスマン帝国を経て本国に逃げ帰りますが、1718年ノルウェーの戦場で流れ弾に当たり急死しました。これで勢いをなくしたスウェーデンは連合国に降伏、ロシアはバルト海への出口とフィンランドを獲得します。
 
 ところでピョートルは、1703年ネヴァ川河口のデルタ地帯に新都を建設しました。これはロシアがバルト海へ進出するという固い意思の表れでした。ピョートルは、この都市に「聖ペテロの町」を意味するサンクトペテルブルクと名付けます。ペテロとは同時にピョートルのラテン語読みでもありました。ピョートルは自分の名を冠した新しい首都を建設したのです。
 
 1721年ニスタット条約締結で大北方戦争が終わった時、スウェーデンは没落し、ポーランドも戦勝国とはいえ疲弊の極に達していました。ピョートルのロシアだけが台頭し、ここに欧州列強の仲間入りをします。輝かしい業績からピョートルは大帝と称えられます。1725年ピョートル1世死去。享年52歳。
 
 次回は、ロシアを強国にした外国人エカテリーナ2世の治世を描きます。

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