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2014年5月11日 (日)

概説ロシア史Ⅺ  ロシア革命

 即位早々デカブリストの乱の洗礼を受けたニコライ1世(在位1825年~1855年)は、民主改革を求める革命勢力から国家を守り専制政治を布く事が自分の使命だと考えました。死刑制度こそ廃止しましたが、これに代わる残酷な「隊列笞打刑」を創設し「笞(むち)のニコライ」という異名をとります。ポーランドの自治権拡大運動も弾圧、1848年にはヨーロッパの憲兵としてハンガリーの独立運動さえ鎮圧しました。
 
 対外的には、伝統の汎スラブ主義に則り南下政策を推進、世界中で大英帝国と所謂グレート・ゲーム(ユーラシアの覇権を握るための両国の闘争)を開始します。極東方面でもプチャーチンを日本に派遣して1855年日露和親条約締結、ペルシャにはトルコマンチャーイ条約を強要しペルシャ領アルメニアを支配下に収めました。ニコライ1世の南下政策は英仏の怒りを買い1853年から始まるクリミア戦争が勃発します。戦争の最中の1855年3月ニコライ1世は58歳で没しました。
 
 ニコライの長男である皇太子アレクサンドルが後を継ぎアレクサンドル2世(在位1855年~1881年)として即位します。新皇帝の最初の仕事は絶望的な戦況になったクリミア戦争を終結させる事でした。英仏サルディニア連合軍も戦費が嵩み財政的危機を生じたのでここに講和の機運が生じます。1856年パリで講和会議が開催されロシアの南下政策は一時頓挫しました。
 
 クリミア戦争の敗北は、ロシア国内で農奴制を未だにとる旧体制では欧州列強に対抗できないという議論を白熱させます。資本主義的経済発展には民主改革が不可避、そしてそれを阻害しているのがツァーリ専制政治だと支配階級の中でさえ公然と議論されるようになりました。アレクサンドル2世自身も改革の必要性は感じていましたが、結局中途半端に終わり、反ツァーリ主義を掲げるナロードニキ(人民主義者)の投じた爆弾により1881年3月13日暗殺されます。
 
 後継は息子のアレクサンドル3世(在位1881年~1894年)でした。アレクサンドル3世は、国内の不満を逸らすためにも海外に進出せざるを得ません。ところが欧州や中央アジアでは大英帝国に押されこれ以上の勢力拡大は不可能になっていました。ロシアは極東に狙いを定め、シベリア鉄道の整備を開始します。1891年の事でした。また国内の敵を作って人民の不満を宥め1881年にはポグラム(ユダヤ人大虐殺)が起こっています。1894年11月、過度の飲酒で体調を崩したアレクサンドル3世死去。彼の次男で皇太子のニコライが即位します。
 
 ニコライ2世(在位1894年~1917年)はロシア帝国最後の皇帝です。父の政策を踏襲し極東進出はますます加速していきました。1895年、日清戦争の結果日本が租借する事になった遼東半島を、仏独と組んで三国干渉で日本に圧力をかけこれを断念させ、自分は旅順・大連を租借します。日本国民は激昂しますが欧州列強を相手に戦争する実力は当時なく、臥薪嘗胆を合言葉に国民一丸となって富国強兵に邁進しました。
 
 ニコライ2世は、日本を舐めていたのだと思います。しかし極東の一角に突如出現した新興国日本は、彼が考えているような弱小国家ではありませんでした。1900年清国で起こった義和団の乱に際しても、これに介入して満洲を占領するなどやりたい放題。さすがにイギリスも、清国における自国の権益が脅かされる事を危惧し始めロシアに復讐を誓う日本と1902年歴史的な日英同盟を締結しました。
 
 朝鮮半島、満州における対立からついに1904年日露戦争勃発。弱小国日本など鎧袖一触と舐めていたロシア軍ですが陸戦で連戦連敗。頼みの旅順要塞も落とされ奉天会戦で敗北。日本の同盟国イギリスは、ロシアの敗戦を徹底的に世界に拡散しましたから国際外交上も不利になってきました。ロシアと同盟していたフランスやドイツもこの状況をみてロシアから距離を取り始めます。
 
 当時の明治日本政府は巧妙で、軍事だけでなく国際宣伝戦でもロシアの上を行っていました。陸軍大佐明石元二郎を欧州に派遣しロシアの革命勢力と接触させます。明石は、預かった機密費をふんだんに使い革命派の指導者だったレーニンを援助、情報収集、ストライキ、サボタージュを扇動し、ついにはレーニンをロシアに送り込みました。(明石工作)
 
 1905年1月9日、当時のロシアの首都サンクトペテルブルクでは労働者たちが皇宮に向けて平和的な請願行進を行います。ロシア政府は軍隊を動員し平和的なデモに発砲しました。無差別発砲でデモ隊は死者4000、負傷者数千名という甚大な被害を出しました。これを『血の日曜日事件』と呼びます。革命勢力はこの時までまだまだロシアでは少数派でした。大半の農民はロシア皇帝に対する尊崇の念を持っていたのです。ところがこの事件でロシア国民の皇帝に対する信頼は無くなりました。血の日曜日事件はロシア革命が始まった日として記憶する必要があるでしょう。
 
 ニコライ2世は、ともかく日露戦争で勝利すれば国内問題もなんとかなると考えバルチック艦隊の極東派遣を決めます。日本海と黄海の制海権を握り満洲の日本陸軍を孤立させ一気に勝利しようと目論んだのです。ロシア皇帝の命で長大な距離を航海してきたバルチック艦隊は、1905年5月27日対馬海峡で待ち受けていた日本連合艦隊に捕捉されます。日本にとっても絶対に負けられない戦いでした。
 
 運命の海戦は、6時21分連合艦隊の有名な「敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ聯合艦隊ハ直チニ出動、コレヲ撃滅セントス。本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」の打電から開始されます。長大な航海で疲弊しきっていたロシア艦隊は日本海軍の丁字戦法に翻弄されました。この日のために血の滲むような猛訓練を行っていた日本海軍はほぼ百発百中という信じられない命中率でロシア艦船を攻撃しました。二日間に渡る海戦では日本海軍の損害がわずか水雷艇三隻なのに対し、ロシア海軍は戦艦8隻を含む主力艦21隻撃沈、拿捕6隻というほぼパーフェクトゲームで完敗します。
 
 ニコライ2世は、戦争を諦めアメリカのセオドア・ルーズベルト大統領の斡旋でポーツマス講和条約の席につきました。日本は賠償金を取れず南樺太と南満州鉄道の敷設権を得たばかりで国内に不満が生じましたが、日本もまた戦費がかさみ破産寸前だったのです。国力の差を考えると明治日本政府はよくやったと思います。日露戦争の勝利で日本は列強の一員に加わりました。
 
 ロシアは、日露戦争の敗戦でガタガタになります。1905年6月には黒海艦隊所属の戦艦ポチョムキンで水兵の反乱が起こりました。ニコライ2世は、革命運動の拡大を恐れ10月勅令で国会開設と憲法制定を約束します。しかし結局第1次世界大戦の勃発で改革は有耶無耶のうちに終わりました。当時のロシア社会民主労働党は知識階級に基盤を置くメンシェヴィキ(少数派)と労働者農民に基盤を置くレーニン、トロッキーなどボルシェヴィキ(多数派)に分裂し対立します。他により穏健派の社会民主党などがありました。
 
 
 第1次大戦は、ロシア軍がタンネンベルク会戦で敗北したため逆にドイツ軍に攻め込まれ破局的な方向に進みました。ドイツ軍も西部戦線での不利をロシアで回復しようと1915年9月西部に84個師団を残し、東部戦線に161個師団を投入しました。ポーランド、白ロシア、ウクライナは次々と占領され、ロシア国民はだらしない軍部とロシア政府に怒りの矛先を向けます。1917年2月23日首都ペテルブルクで国際婦人デーに合わせ女性労働者のデモが行われました。デモは、次第に他の労働者が次々に加わり「戦争反対」「ロシア専制体制打倒」を叫び収拾がつかなくなっていきます。
 
 ニコライ2世は、暴動に発展したデモを鎮圧するため軍隊に出動を命じました。ところが兵士の中からも次々にデモに加わる者が続出、2月27日にはメンシェヴィキの呼びかけでペトログラード・ソヴィエトが結成されるに至りました。ここに至ってニコライ2世は退位へと追い込まれ、300年の歴史を誇るロマノフ朝は崩壊。これを二月革命と呼びます。
 
 その日のうちに臨時政府成立、リヴォフが首相、社会革命党のケレンスキーが司法相に就任しました。2月革命以後ロシアは臨時政府とソヴィエトの二重権力時代に入ります。ボルシェヴィキを主導するレーニンは、亡命先のスウェーデンから帰国し4月テーゼを発表し、方針をさだめます。これに対しソヴィエト内で権力を握っていたメンシェヴィキと社会革命党は臨時政府との協調を進め、ボルシェヴィキを弾圧しました。(7月事件)
 
 ボルシェヴィキ側も軍事革命委員会を設立、赤衛隊を組織しこれに対抗します。1917年10月ロシア国民の絶対多数を占める労働者、農民の支持を得たボルシェヴィキがこの闘争に勝ち権力を握りました。(10月革命)
 1918年3月ブレスト=リトフスク条約でドイツと単独講和。欧米列強は、社会主義政権の存在を許さず1918年干渉戦争を開始します。革命勢力はこの戦争を勝利し名実ともに社会主義国家としての道を歩み続けるのです。退位したニコライ一家は干渉戦争の中、保守派や外国勢力に利用されるのを恐れた革命政府によって一家ともども惨殺されました。1922年12月30日、干渉戦争に勝利したロシア革命勢力は世界初の社会主義国家、ソヴィエト連邦社会主義共和国樹立を宣言します。
 
 
 以後のロシアの歴史は現代史の範疇に入るのでここでは述べません。第2次世界大戦、ゴルバチョフのペレストロイカを経て1991年ソ連が崩壊したのは記憶に新しいところです。
 

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