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2014年6月

2014年6月 4日 (水)

越中における佐々成政Ⅴ   末森城の決戦

 ようやく越中を統一した佐々成政。しかし歴史はすでに彼の預かり知らぬところで大きく動き始めていました。
 
 天正十一年(1583年)四月、賤ヶ岳の合戦で柴田勝家を破った羽柴秀吉はそのまま北上して越前に入ります。同年四月二十八日柴田勝家とその妻お市の方は北の庄城で自害。五月には降伏した前田利家の案内で加賀国に入り大軍をもって越中の佐々成政を威圧しました。そのころ成政は斎藤氏や土肥氏など国人一揆の鎮圧の真っ最中でしたから秀吉の大軍と戦う余裕はなく、使者を送って和議を請います。
 
 秀吉は、「佐々殿に異心のないことはよく分かった」と王者の余裕を見せこれを許します。実際秀吉も、越中攻めに手間取り長い間上方を留守にすれば背後で反秀吉勢力が蠢動しかねずそれを恐れたのでしょう。この時前田利家は「佐々成政は危険人物だからこの際討つべきです」と秀吉に進言したそうです。自分は勝家を裏切っておいてよく言えるものだと苦笑しますが、逆にいえば利家はそれだけ成政の器量を恐れていたとも言えます。
 
 秀吉は、本能寺の変で主君織田信長を討った明智光秀を山崎の合戦で滅ぼし、織田家筆頭家老の柴田勝家を賤ヶ岳で撃破し着々と天下人の道を歩み始めていました。柴田勝家らに織田家の跡目と期待された信長の三男で才気のあった信孝を自害に追い込み、自分は信長の嫡男信忠の忘れ形見三法師を擁し独裁を開始します。
 
 実は信長の子にはもう一人伊勢・尾張を領する次男の信雄がいたのですが、最初秀吉はこれを舐めていました。というのも信雄は凡庸かつ優柔不断な人物でとても織田家の家督を継げるような人物ではなかったからです。秀吉は、無能な信雄を徹底的に利用し主筋の信孝に切腹を命じる時も信雄の名前を持ちだしたくらいでした。
 
 しかし、ここまで馬鹿にされてはさすがに信雄も怒ります。といっても単独では強大な秀吉に対抗できないので、その頃三河・遠江・駿河の他に甲斐・信濃に勢力を拡大していたかつての信長の盟友徳川家康に泣きつきました。
 
 天正十二年(1584年)三月、信雄・徳川連合軍はついに挙兵し尾張北部に進駐。これに対し秀吉もすぐ反応し6万(8万、10万という説もあり)の大軍を集めて対峙します。連合軍の兵力は2万弱。まともに戦っては勝ち目がないので連合軍は小牧から長久手の線に長大な防衛陣地を築きました。これが史上名高い小牧・長久手の戦いです。
 
 にらみ合いが続く中、最初に動き出したのは秀吉方でした。四月、池田恒興・森長可らは秀吉の甥秀次を名目上の総大将に押し立て2万の兵力で連合軍の陣地帯を迂回し家康の本国三河を衝く作戦を開始します。兵法用語でこれを「中入り」というそうですが、余りにもリスクが高く秀吉は最初これを許可しませんでした。ところが秀吉の軍は寄せ集めの悲しさ、秀吉の元同僚である池田恒興の強硬な申し出に渋々同意せざるを得なかったのです。そして案の定、この動きは家康に察知され奇襲するはずの池田・森勢は背後から接近した徳川勢に散々に撃ち破られ池田恒興・元助父子、娘婿の森長可まで討死するという大敗を喫しました。これに懲りた秀吉は、武将たちの軽挙妄動を堅く戒め陣地での睨み合いを続行します。
 
 
 佐々成政は、柴田勝家と同様古いタイプの武将でした。あくまで主家に忠義を貫く事こそ正義と考えたのです。客観情勢からいうと加賀・能登に秀吉派の前田利家、越後の上杉景勝も秀吉と誼を通じている中、本領安堵のために秀吉についても良かったはずです。ところが成政は、織田信雄挙兵の報を受けると一も二もなくこれに参加、自らも越中で兵を挙げます。
 
 秀吉もこの事を予測し、信頼する前田利家を加賀に残していました。利家と成政、この時の両者の勢力を見てみましょう。成政は越中一国50万石余。対する利家は加賀・能登二か国を領有。一見利家の方が大きそうですが実はこの二か国で50万石ほどしかありません。勢力的にはほぼ互角でした。ただし、すべての兵力を越中に振り向けられる利家と違って、成政は背後に上杉景勝を抱えての対峙でこの点不利だったのです。
 
 
 天正十二年(1584年)八月、越後の上杉への備えを施し成政は1万の兵を率いて西へ向かいました。目指すは能登南部にある末森城。地図を見てもらうと分かる通り、利家の領国はちょうど末森城のあたりが一番幅が細くなっています。ここを占領すれば能登と加賀を完全に分断する事が出来るのです。
 
 佐々軍は、利家が対佐々戦に備えて国境に築いていた朝日山砦(金沢市加賀朝日町)を奪取。九月には能登に入り要衝末森城(押水町竹生野)を奇襲しました。末森城は、加賀・越中・能登の要に位置する標高138.8mの末森山に築かれた能登屈指の山城です。能登半島の最もくびれた場所に位置し日本海までわずか3キロ。
 
 前田利家もこの事を予測し、勇将奥村家福(まさとみ)を大将とする1500の兵力を置いていました。成政は末森城を南・西・東の三方から包囲します。成政軍には佐々平左衛門、佐々与左衛門、前野小兵衛、野々村主水、神保氏張らそうそうたる武将が参加しまさに佐々方が総力戦で当たった事が分かります。
 
 急報をうけた前田利家は驚愕しました。といっても兵力を集めていては間に合わないので手勢3千のみを率い末森城救援に北上します。この時前田軍の諸将は「今からの援軍では間に合いません。ここは秀吉公の援軍を待って佐々勢に当たるのがよろしいでしょう」と口々に諌めたそうですが、利家は全く取り合わず「人は一代、名は末代。命を惜しんで敵の侵入を黙って見ていられるものか」という有名な言葉を吐いて出陣しました。
 
 結局、この決断が明暗を分けました。利家の援軍が到着した時、末森城は成政の猛攻で本丸を残すのみになっていました。城兵もわずか300まで減っています。間一髪間に合ったのです。
 
 「利家の援軍来る」の報告を受けた成政は、前田勢が決死の覚悟で挑む気配を見せたためついに末森城攻略を断念します。しかしその撤退戦も見事でした。前田勢の追撃を上手くあしらいほぼ無傷で越中に帰りつくのです。以後北陸戦線も膠着しました。戦いは、主戦場である尾張で終結しつつありました。秀吉は外交戦で信雄と単独講和し、大義名分を失った徳川勢も兵を引きます。一方越中では、秀吉の要請を受けた越後勢が侵入し成政と激闘を続けました。
 
 成政は、どうしても諦めきれず天正十二年冬猛吹雪を衝いて厳冬の飛騨山脈・立山山系を越えて単身浜松の徳川家康を説得すべく移動します。しかし、家康は成政の壮挙を労いはしましたが挙兵の誘いを承諾する事はありませんでした。失意の成政は再び同じコースで帰途につきます。これを「さらさら越え」あるいは「成政のアルプス越え」と呼びます。
 
 
 天正十三年(1585年)、秀吉は自ら10万ともいわれる大軍を率いて越中に入りました。富山城は秀吉の大軍に囲まれ風前の灯でした。成政は、織田信雄の仲介で降伏。一命は助けられますが、新川郡を除くすべての領地を没収され妻子と共に大坂に移住させられました。
 
 
 その後、天正十五年(1587年)には九州征伐で功を挙げ恩賞として肥後一国を拝領。再び50万石の大大名に返り咲きます。しかし、間もなく起こった肥後国衆一揆の責任を問われ領地没収、天正十六年尼崎で自害、波乱の生涯を閉じました。享年52歳。

越中における佐々成政Ⅳ   本能寺の変と越中の成政

 天正十年(1582年)六月二日未明、信長の命で中国出陣を控えていた武将明智光秀は丹波亀山城(京都府亀岡市)を出陣、桂川を渡りました。ここから西へ向かえば山陽路、東へ向かえば京。光秀の采配は東を向きます。「我が敵は本能寺にあり!」
 
 日本史上屈指の名場面、頼山陽の日本外史から格調高い文章をお借りしましょう。
「本能寺, 溝 ( みぞ ) は 幾尺 ( いくせき ) ぞ?」
「 吾 ( われ )  大事を 就 ( な ) すは  今夕 ( こんせき ) に在り。」
茭粽 ( かうそう )  手に 在 ( あ ) り  茭 ( かう ) を 併 ( あは ) せて 食 ( くら ) ふ,
四簷 ( し えん ) の 楳雨 ( ばい う )  天 墨 ( すみ ) の如し。
老 ( おい ) の 阪 ( さか )  西へ去れば  備中 ( びっちゅう ) の道,
鞭 ( むち ) を揚げて 東に 指 ( さ ) せば 天 猶 ( な ) ほ早し。
「 吾 ( わ ) が敵は  正 ( まさ ) に 本能寺に在り」,
「敵は  備中 ( びっちゅう ) に在り   汝 ( なんぢ ) 能 ( よ ) く 備 ( そな ) へよ!」
 
 明智軍1万3千は、ひたひたと信長の宿泊する本能寺を囲みます。同時に信長の嫡男信忠の居る二条城にも軍勢を差し向けました。信長は、近習小者を入れても三百に満たず。ここに日本史上屈指の英雄織田信長は49年の波乱の生涯を閉じます。彼の好む敦盛の一節にはわずか一年足りませんでした。
 
 主君信長討たれるの報は、魚津城落城で意気上がる織田軍諸将に衝撃を与え意気消沈させました。柴田勝家、佐々成政らは軍議を開き、とりあえずそれぞれが自分の領国を守るという基本方針を決めました。というのも織田方になって日の浅い領地では、まだまだ反信長勢力も強く今まで織田家に抑えられていた外敵が嵩にかかって攻めかかるからです。
 
 事実、上野国と信濃二郡を貰い関東管領として君臨していた滝川一益は北条氏政・氏直父子に神流川の合戦で敗れ上野国を放棄、本領伊勢長島に逃げ帰ります。甲斐の河尻秀隆は武田旧臣が起こした国人一揆で討たれました。信濃川中島四郡の森長可は越後領奥深くまで攻め込んでいたため、追撃する上杉軍を交わしさらに領内で起こった国人一揆とも苦闘を重ねながら美濃兼山城に戻ります。
 
 北陸路で一番困難な立場に置かれたのは最前線の越中を任された佐々成政でした。上杉景勝は復讐に燃え早くも越中侵攻の構えを見せます。さらに越中の国人たちに使者を送り一揆まで扇動しました。ちょうど関東における滝川一益と同じ立場に立たされたのが成政です。とりあえず成政は、兵を引き本拠富山城を中心として領土の再編成を図りました。無人になった魚津城は上杉景勝が簡単に奪取します。越中の国人たちは連名で景勝に使者を送り「景勝公の出馬があれば自分達も一揆を起こしこれを助ける」と約束します。
 
 最初に動き出したのは佐々方と上杉方の中間に位置する弓庄城(中新川郡上市町)の土肥政繁でした。天正十年八月、成政は軍勢を率いて弓庄城を囲みました。ここで負ければ成政の越中支配は崩れます。佐々方は激しく攻め立てますが深田が広がる天然の要害弓庄城はなかなか落ちませんでした。一旦富山に引いた成政は城方が頼みとする上杉勢を何とかしなければ状況の打開はないと確信します。そこで一転して景勝の重臣須田満親の守る魚津城を急襲しました。しかも包囲軍を残したまま長駆越後国境を越え糸魚川付近まで攻め込んであたりに火を放ちます。
 
 さらに成政は、調略によって越後国内の反景勝勢力新発田重家らと結び背後で蜂起させたため、景勝は越中どころではなくなりました。完全に孤立した魚津城は翌天正十一年三月開城、須田満親らは越後へ撤退します。絶体絶命の危機から一転優位な立場を得た佐々成政、私が彼を滝川一益より高く評価する所以です。後は孤立した越中の国人たちを各個撃破するだけ。天正十一年夏頃には最後まで抵抗した城生城(じょうのうじょう)の斎藤信和を降し越中平定を果たしました。
 
 織田方の諸将が新領地を追われ本国へ次々と逃げ帰る中、唯一佐々成政一人は最前線の領国を守りぬきます。その武将としての器量は優れていたと思います。が、織田家の跡目をかけた天下分け目の賤ヶ岳の合戦には、その時越中平定中だった佐々成政は参加できませんでした。頼みとする越前の柴田勝家は羽柴秀吉のために攻め滅ぼされ、同僚だった佐久間盛政も斬られます。盟友であった前田利家は、はやくも秀吉と誼を通じ盛政の旧領加賀を拝領して能登・加賀二か国の大大名になっていました。
 
 上杉景勝も秀吉と通じ、成政は前後に敵を受ける危機に陥ります。次回、最終回末森城の決戦ご期待ください。

2014年6月 3日 (火)

越中における佐々成政Ⅲ   魚津城の戦い

 佐々成政(1536年~1588年)は織田信長の武将です。通称内蔵助。信長の馬廻から武功を重ね黒母衣衆に抜擢。長篠合戦では前田利家らとともに鉄砲隊を率いました。天正三年(1575年)信長が越前を平定すると、北陸方面軍司令官柴田勝家の与寄として前田利家・不破光治と共に府中三人衆として三万三千石を拝領。以後は北陸戦線を中心に転戦します。
 
 その成政が、上杉との最前線である越中を任されたのは信長が成政の武勇を買っていたということでしょう。旧守護代家でありながら越中を追放され奇跡の復活を遂げた神保長住も、織田家の背景がなければ自分の存在が吹き飛ぶので最初は越中国守に任じられた佐々成政に協力していたと思います。神保一族も成政に従い、神保氏張などは成政の重臣となり嫡子氏興が成政の婿となるほど関係を深めました。
 
 しかし、織田信長という人は役に立つ人間はとことん使いますが役立たずとなると躊躇なく切り捨てる冷徹さを持っていました。織田家の越中支配にとって旧守護代家の神保氏は、越中を確保した後は有害無益な存在に過ぎなかったのです。天正十年(1582年)、長住は突如起こった上杉方の国人小島職鎮らの一揆勢に本拠富山城を急襲され城内に幽閉されてしまいます。一揆は柴田勝家、佐々成政の軍勢にまもなく鎮圧され長住も無事救出されますが、この事件の責任を取らされ長住は追放されるのです。ただ神保氏張らは佐々方に残ったので、長住だけが割りを食った形でした。
 
 どうもこれは織田方の陰謀の臭いがしてなりません。上杉方に残った新川郡東部以外の越中国を完全に平定していた状況で、富山城近辺で一揆が起こるのも不自然だし、その直後待ちかまえていたように織田軍が鎮圧できたのも不思議です。私は長住追放のための出来レースだったのではないかと疑っています。
 
 天正十年当時の越中を巡る情勢を眺めてみましょう。織田方は北陸方面軍司令官の柴田勝家が越前八郡を領し北の庄にいました。越前大野郡は三分の二を金森長近、三分の一を原政茂が領します。越前敦賀郡は武藤舜秀に与えられました。佐久間盛政は加賀半国を領し金沢に在城、前田利家は加賀の一部と能登一国を拝領。織田家の北陸方面の陣容は最前線の越中を除いても越前・加賀・能登三か国で約120万石、動員兵力は4万を数えます。
 
 それに対し上杉景勝は越後一国と上州沼田領、越中東部で最大限贔屓目に見て60万石。兵力にして2万。ただ織田方が上杉に対する以外はすべて味方で4万すべてを越中に投入できるのに対し、上杉方は上野に滝川一益、信濃川中島四郡に森長可と織田方に囲まれており、この方面にも防衛軍を裂かなければならなかったため、越中方面にはせいぜい5千くらいしか出せなかったのです。
 
 このままでは上杉景勝の滅亡は時間の問題でした。織田信長は、柴田勝家らに越中に残る上杉方の拠点松倉城、魚津城を攻略しそのまま越後に攻め入って上杉景勝を滅ぼすよう命じました。同時に信濃の森長可、上野の滝川一益にも越後侵攻を命じます。
 
 柴田勝家を総大将とする織田勢は実に4万8千を数えたといいます。対する上杉方は3千。まともに戦ってはとても勝ち目がないので籠城策を取りました。といっても松倉城は山城で越後からの援軍が届きにくい事もあって上杉方は海沿いの魚津城に籠ります。織田方は魚津城を十重二十重に囲んだのみならず佐久間隊、前田隊は松倉城からの援軍を遮断すべく両城の中間に布陣。万全の包囲体制でした。
 
 魚津城危機の報告を受けた上杉景勝は5千の兵を率い春日山城を出立、越中に入るも織田軍とまともに戦っては敗北が決まりきっているので遠巻きに眺めるのみでした。それでも魚津城は頑強に抵抗します。しかし抵抗むなしく激闘80日、天正十年六月三日、ついに魚津城落城。中条景泰以下上杉家諸将は全員討死しました。
 
 さらに信濃から森長可勢が上杉家本拠春日山城に迫っているとの急報を受けた上杉景勝は無念の撤退をせざるを得ませんでした。絶望的な状況に上杉景勝はこの時死を覚悟したと思います。が、運命は急展開を迎えようとしていました。
 
 
 次回、本能寺の変で激変した越中戦線と佐々成政の越中統一を描きます。

越中における佐々成政Ⅱ   織田軍越中侵攻

 長尾景虎、すなわち後の上杉謙信は生涯で何度か名前を変えています。まず北条氏康に関東を追われ越後に亡命してきた上杉憲政から上杉家督と関東管領職を譲り受けて上杉政虎。上洛して13代将軍足利義輝から一字拝領して上杉輝虎。出家して上杉謙信。ディープな戦国ファンからはお叱りを受けそうですが、一般の読者の理解を助けるためにも、紛らわしいので上杉謙信で通します。
 
 上杉謙信(1530年~1578年)は、父長尾為景死後湧きおこった兄晴景との家督争いを制し越後国主となりました。時の椎名家当主康胤は、自分の娘を謙信の従兄弟長尾景直に嫁がせるなど越後との連携を深めます。越後勢力の後ろ盾を得た椎名康胤は、富山城の神保長職を圧迫しました。長職も対抗上謙信のライバル甲斐の武田信玄と結びました。というより謙信勢力の背後をけん制するため信玄の方から接近したのが真実のようです。
 
 永禄三年(1560年)、信玄の誘いを受けた神保長職は砺波郡の一向一揆と連合して椎名康胤の本拠松倉城を攻撃しました。康胤は慌てて越後に援軍を要請します。これに応えた上杉謙信は大軍を率いて来援、神保・一向一揆連合軍を撃破しました。神保長職は、平城の富山城では越後勢の猛攻を支えきれないと諦め、要害であった砺波郡の増山城(砺波市増山)に逃げ込みました。
 
 長職は、「まさか神通川を越えてまで攻め込むまい」と安心していたようですが、謙信はかまわず軍を進め増山城の眼前に布陣します。予想外の越後勢の動きに、とても勝ち目がないと諦めた長職は増山城からも逃亡しました。肝心の長職がいなくなっては戦のしようがありません。越後勢は一旦本国に帰還します。ところが越後勢がいなくなると、長職はどこからともなくはい出てきて失地の大半の回復しました。逃亡の芸も才能の一つです。こういう姑息な戦法は義を旗印にする謙信が最も嫌うものでしたが、弱小勢力が生き残るのは並大抵のことではできません。その意味では長職の方がしたたかだったと言えるかもしれません。
 
 神保長職の復活に烈火のごとく怒った謙信は、永禄五年(1562年)再び越中に進撃します。五福山(富山市)に籠城した長職でしたが、謙信が逃亡を警戒し逃げ出せないように囲んで猛攻したためついに抵抗を断念。謙信に降伏しました。神保氏を降した謙信は、憎き敵砺波郡の一向一揆に対する攻撃を開始します。ところがこれはあまり成功しなかったようです。
 
 一応越中を平定した謙信でしたが、武田信玄の外交・謀略の才は謙信の上を行っていました。長年の上杉方だった椎名康胤に調略の手を伸ばしたのです。永禄十一年(1568年)隣国能登の家督争いの混乱に乗じ、信玄から越中一国の支配を認められた椎名康胤は、反上杉の兵を挙げました。翌永禄十二年、謙信は越中に兵を入れ康胤を攻撃します。本拠松倉城を追われた康胤は、砺波郡の一向一揆と結びこれと連合して上杉方が支配していた富山城を占領しました。謙信は自ら兵を率い富山城を攻撃、椎名康胤は越後勢に討たれ椎名氏は事実上滅亡します。椎名氏の居城松倉城には謙信の武将河田長親が入りました。
 
 ところで謙信に降伏した神保氏はその後どうなったでしょうか?降伏後家名存続は許されたものの領土は大きく削られ家中は上杉恭順派と反上杉派に二分されます。中でも長職の嫡男長住がもっとも強硬な反上杉方で、長職が元亀三年(1572年)没すると、神保家は後を継いだ長住を中心に反上杉方が力を持ち始めました。これを放置しておいては上杉の越中支配に悪影響を与えるため、謙信は長住を攻めます。敗れた長住は越中を追放され最初は能登畠山氏を頼りました。ところがその能登も上杉謙信に征服されたため、長住は京都まで逃れ織田信長に仕えます。
 
 信長は、長住が越中侵攻の大義名分になると利用価値を認め保護しました。天正六年(1576年)3月13日、一代の驍将上杉謙信は春日山城で48歳の生涯を終えます。死因は脳溢血説が有力です。謙信死すとの報告を受けると、信長の反撃が始まります。神保長住に若干の兵を与え飛騨経由で越中に侵攻させました。長住は、謙信の死で動揺する越中において国人の斎藤氏や二宮氏らを次々と味方につけ、瞬く間に増山城を攻略、越中西南部を平定しました。織田軍の援軍を加えた神保勢は、月岡野の合戦で上杉軍に大勝、富山城を奪還します。さらには松倉城、新庄城に攻めかかるなど押しまくりました。天正九年(1581年)織田軍の本隊として佐々成政が越中に入国すると、その指揮下に入ります。
 
 次回は、織田信長にとって利用価値の無くなった神保長住の追放と佐々成政の越中支配、謙信の後を継いだ上杉景勝と織田信長による魚津城攻防戦を描きます。

越中における佐々成政Ⅰ   前史 戦国時代の越中

 現在の富山県にあたる越中国は、わずか四郡しかありません。それでいて太閤検地の数字で52万石、寛永期の加賀藩時代の数字だと73万石という堂々たる大国です。これは私見ですが、郡の数が少ないのはそれだけ国の開発が遅れたという事、一方52万石という石高はポテンシャルの高さを示すと思います。
 
 越中は礪波郡(となみぐん 西南部)、射水郡(いみずぐん  西北部)、婦負郡(ねいぐん 中央西部)、新川郡(にいかわぐん 東部、神通川より東半分)に分かれます。寛永期の数字から太閤検地当時の石高を推定すると、砺波郡17万石、射水郡11万石、婦負郡8万石、新川郡16万石となります。
 
 室町時代から戦国初期にかけて、越中国は三管領家の一つ畠山金吾家(宗家)の守護領国でした。越中は大国で畠山氏が直接支配できないので守護代を派遣します。重臣筆頭の遊佐氏が砺波郡守護代、神保氏は婦負・射水郡守護代、椎名氏は新川郡守護代となり三家で越中を統治したのです。この中で、遊佐氏は畠山氏の本国河内の守護代、有力庶家能登畠山家(畠山匠作家の守護代も兼ねたので越中支配からは次第に離れて行ったようです。
 
 応仁の乱以後、越中は神通川を境に西を神保家が、東を椎名家が支配するようになっていきました。ところが隣国加賀(石川県南部)で一向一揆が守護富樫氏を滅ぼし一国を支配するようになると隣接する砺波郡にも勢力を伸ばし始めます。神保・椎名両家とて、とても領国を完全支配するだけの力はなく国人(地侍)たちの盟主的存在にすぎませんでしたから、越中国は安定しませんでした。
 
 統一した勢力がなくかつ豊かな国が隣国の野心家たちから狙われるのは歴史の必然です。まず越中に触手を伸ばしたのは越後守護代長男為景(上杉謙信の父、1489年~1543年)でした。越後守護上杉房能を攻め滅ぼし、その養子上杉定実を傀儡の守護に押し立てた為景は、房能の実兄で関東管領だった山内上杉顕定の干渉を撥ね退け下剋上の越後支配者となります。
 
 野心家の為景は、統一勢力のいない隣国越中に目を付けました。永正十七年(1520年)、長尾為景は越後勢を率いて越中に攻め入り守護代椎名氏、神保氏を撃破。新川郡守護代に任じられます。ただ本国越後で反長尾勢力が蠢動したため、一時撤退。支配下に置いた椎名氏に新川郡守護代を委ねました。一方、神保氏は当主慶宗が越後勢に討たれたものの完全に滅亡したわけではなく、その息子(ただし異説あり)長職(ながもと)が婦負郡富崎城(婦中町)に拠って抵抗しました。長男為景の圧力が減ったため神保氏は着実に復興し、亨禄四年(1531年)には加賀に出兵するほど勢力を回復します。
 
 天文十二年(1543年)越後守護代長男為景死去による家督相続争いで長尾氏が越中に影響力を振るえなくなると、これを好機と捉えた神保長職は挙兵して神通川を越えました。神保勢は現在の富山市に当たる中新川郡に攻め入り、椎名氏を始め中新川郡の豪族土肥氏、さらには斎藤氏、鞍川氏をも巻き込む大騒乱が起こります。
 
 この時神保長職は、中新川郡支配の拠点として富山城を築城したといます。神通川を要害とし、他の三方を二重の堀で囲んだ平城でした。長職は、松倉城(魚津市)を本拠とする椎名氏に対する備えとして築城したのです。
 
 神保、椎名両家の対立を発端とする越中大乱は、旧主家と繋がりのある能登守護畠山氏の調停で天文十三年(1544年)一応の決着をみます。ただこの調停は、神保氏の中新川郡支配を認めたもので神保長職は富山城に残ったので椎名氏にとって不満の残るものでした。椎名氏は隣国越後の長尾景虎(後の上杉謙信)の力を借りてこの現状を打破しようと考えます。
 
 
 次回は、長尾景虎の越中支配と神保氏の没落、流浪の新保長住(長職の嫡子)を押し立てた織田信長の越中侵攻を描きます。
 

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