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2014年6月 4日 (水)

越中における佐々成政Ⅳ   本能寺の変と越中の成政

 天正十年(1582年)六月二日未明、信長の命で中国出陣を控えていた武将明智光秀は丹波亀山城(京都府亀岡市)を出陣、桂川を渡りました。ここから西へ向かえば山陽路、東へ向かえば京。光秀の采配は東を向きます。「我が敵は本能寺にあり!」
 
 日本史上屈指の名場面、頼山陽の日本外史から格調高い文章をお借りしましょう。
「本能寺, 溝 ( みぞ ) は 幾尺 ( いくせき ) ぞ?」
「 吾 ( われ )  大事を 就 ( な ) すは  今夕 ( こんせき ) に在り。」
茭粽 ( かうそう )  手に 在 ( あ ) り  茭 ( かう ) を 併 ( あは ) せて 食 ( くら ) ふ,
四簷 ( し えん ) の 楳雨 ( ばい う )  天 墨 ( すみ ) の如し。
老 ( おい ) の 阪 ( さか )  西へ去れば  備中 ( びっちゅう ) の道,
鞭 ( むち ) を揚げて 東に 指 ( さ ) せば 天 猶 ( な ) ほ早し。
「 吾 ( わ ) が敵は  正 ( まさ ) に 本能寺に在り」,
「敵は  備中 ( びっちゅう ) に在り   汝 ( なんぢ ) 能 ( よ ) く 備 ( そな ) へよ!」
 
 明智軍1万3千は、ひたひたと信長の宿泊する本能寺を囲みます。同時に信長の嫡男信忠の居る二条城にも軍勢を差し向けました。信長は、近習小者を入れても三百に満たず。ここに日本史上屈指の英雄織田信長は49年の波乱の生涯を閉じます。彼の好む敦盛の一節にはわずか一年足りませんでした。
 
 主君信長討たれるの報は、魚津城落城で意気上がる織田軍諸将に衝撃を与え意気消沈させました。柴田勝家、佐々成政らは軍議を開き、とりあえずそれぞれが自分の領国を守るという基本方針を決めました。というのも織田方になって日の浅い領地では、まだまだ反信長勢力も強く今まで織田家に抑えられていた外敵が嵩にかかって攻めかかるからです。
 
 事実、上野国と信濃二郡を貰い関東管領として君臨していた滝川一益は北条氏政・氏直父子に神流川の合戦で敗れ上野国を放棄、本領伊勢長島に逃げ帰ります。甲斐の河尻秀隆は武田旧臣が起こした国人一揆で討たれました。信濃川中島四郡の森長可は越後領奥深くまで攻め込んでいたため、追撃する上杉軍を交わしさらに領内で起こった国人一揆とも苦闘を重ねながら美濃兼山城に戻ります。
 
 北陸路で一番困難な立場に置かれたのは最前線の越中を任された佐々成政でした。上杉景勝は復讐に燃え早くも越中侵攻の構えを見せます。さらに越中の国人たちに使者を送り一揆まで扇動しました。ちょうど関東における滝川一益と同じ立場に立たされたのが成政です。とりあえず成政は、兵を引き本拠富山城を中心として領土の再編成を図りました。無人になった魚津城は上杉景勝が簡単に奪取します。越中の国人たちは連名で景勝に使者を送り「景勝公の出馬があれば自分達も一揆を起こしこれを助ける」と約束します。
 
 最初に動き出したのは佐々方と上杉方の中間に位置する弓庄城(中新川郡上市町)の土肥政繁でした。天正十年八月、成政は軍勢を率いて弓庄城を囲みました。ここで負ければ成政の越中支配は崩れます。佐々方は激しく攻め立てますが深田が広がる天然の要害弓庄城はなかなか落ちませんでした。一旦富山に引いた成政は城方が頼みとする上杉勢を何とかしなければ状況の打開はないと確信します。そこで一転して景勝の重臣須田満親の守る魚津城を急襲しました。しかも包囲軍を残したまま長駆越後国境を越え糸魚川付近まで攻め込んであたりに火を放ちます。
 
 さらに成政は、調略によって越後国内の反景勝勢力新発田重家らと結び背後で蜂起させたため、景勝は越中どころではなくなりました。完全に孤立した魚津城は翌天正十一年三月開城、須田満親らは越後へ撤退します。絶体絶命の危機から一転優位な立場を得た佐々成政、私が彼を滝川一益より高く評価する所以です。後は孤立した越中の国人たちを各個撃破するだけ。天正十一年夏頃には最後まで抵抗した城生城(じょうのうじょう)の斎藤信和を降し越中平定を果たしました。
 
 織田方の諸将が新領地を追われ本国へ次々と逃げ帰る中、唯一佐々成政一人は最前線の領国を守りぬきます。その武将としての器量は優れていたと思います。が、織田家の跡目をかけた天下分け目の賤ヶ岳の合戦には、その時越中平定中だった佐々成政は参加できませんでした。頼みとする越前の柴田勝家は羽柴秀吉のために攻め滅ぼされ、同僚だった佐久間盛政も斬られます。盟友であった前田利家は、はやくも秀吉と誼を通じ盛政の旧領加賀を拝領して能登・加賀二か国の大大名になっていました。
 
 上杉景勝も秀吉と通じ、成政は前後に敵を受ける危機に陥ります。次回、最終回末森城の決戦ご期待ください。

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