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2014年7月

2014年7月 3日 (木)

二人の提督の戦後

 戦記ファンにはおなじみの小沢治三郎と栗田健男。小沢は早くから航空主兵を唱えアウトレンジ戦法を編み出すも、マリアナ沖海戦では搭乗員の練度不足、航空機の性能不足もあって米軍に完敗。マリアナ沖の七面鳥撃ちと揶揄されるほどでした。ついで日本の命運を完全に決定付けたともいえるレイテ沖海戦では、なけなしの空母艦隊を率い見事ハルゼー機動部隊を北方釣り上げに成功するも、主攻であった栗田の第2艦隊がマッカーサーの大輸送船団が待つレイテ湾に突入せず謎の反転をしたために作戦は失敗、南方との海上連絡線を断たれた日本は以後敗戦へと坂道を転げ落ちるばかりになります。
 
 二人とも、戦後は沈黙を保ちました。彼らを批判し愚将と断ずる者も多かったとか。とくに栗田に対するバッシングには目に余るものがありました。例えば半藤一利は秦郁彦らとの座談会で栗田を愚将と断じ軽侮の姿勢を見せ、さすがにこれは秦にたしなめられたそうですが、戦後ジャーナリズムの旧帝国軍人に対する態度はえてしてこのようなものでした。
 
 インパール作戦で補給を無視して突進し壊滅的被害を出した牟田口や、比島決戦で部下を特攻に送りだしながら自分は偽造の診断書までつくって台湾に逃亡した卑怯者の富永らは非難されてもしかたありますまい。しかし、小沢や栗田の場合わざと負けたのではなく当時として精一杯の働きをして負けたのだと私は思います。
 
 ここに一つのエピソードがあります。昭和41年、死の床にあった小沢を見舞った栗田に対し、小沢は栗田の手を握り締めただ涙を流すだけだったとか。そして最後に絞り出すように「あの戦争は戦った者だけにしか分からない」と言ったそうです。栗田もただ頷くだけでした。
 
 栗田もまた、どのような批判にも反論一つせず死ぬまで沈黙を保ちます。戦争で散っていた部下たちの事を思うと軽々しい事は言えないと自戒していたのでしょう。戦争も知らない連中が、たらればで偉そうに語る態度とどちらが立派でしょうか?
 
 
 
 最後にこのエピソードを紹介して筆を置きます。小沢の死を伝え聞いた元アメリカ太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ元帥は
「勝った指揮官は名将で、負けた指揮官は愚将だというのは、ジャーナリズムの評価にすぎない。指揮官の成果は、むしろ、彼が持つ可能性にある。敗将といえども、彼に可能性が認められる限り名将である。オザワ提督の場合、その記録は敗北の連続だが、その敗北の中に恐るべき可能性をうかがわせている。おそらく部下は、彼の下で働くのを喜んだにちがいない」
と語りました。
 
 名将を理解できるのは名将だけ。ニミッツの言葉がすべてを物語っています。

大慶油田の油質に関する問題

 よく大東亜戦争に関するIFで、満洲にある大慶(ターチン)油田が戦前に発見されていたら歴史は大きく変わっていたかもしれないと言われます。旧満州地区、現在の黒龍江省のハルビンとチチハルの間に広がる松遼盆地の湿原に存在する大慶油田は1959年発見され年間4000万トンから5000万トンの原油を産出する大油田です。
 
 陸軍燃料廠(石井正紀著 光人社NF文庫)などを読むと、戦前に発見するチャンスは十分にあったとされます。ところがそれに対する反論として大慶油田の原油は重質油で、例え発見しても戦局に寄与することはなかったと主張する者がいるのです。私は素人なので何とも言えないのですが、ネットで調べてみるとある技術者の方の意見として、「大慶油田の油は確かに重質油ではあるが、現在開発されている非在来型の重質油と比べればずっとまともな油質で輸送が難しいのなら油田近くに製油所を作れば問題ない」とのこと。
 
 その方は、大慶油田の重質油云々で非難する連中は大日本帝国無謬論者で発見できなかった失敗を認めたくないための言い訳に過ぎないと述べておられました。
 
 ここで重質油とは何ぞや?と思われる方がいると思います。ググってみると「アスファルトや重油などが得られる、比重が大きく粘り気の強い原油」とのこと。これなら効率は悪くなるものの油田の近くに製油所を設ければいいだけだと素人考えでも理解できますね。重油が多く取れるのなら艦船動かし放題、アスファルトなら道路や飛行場作り放題でラッキーとさえ思います(苦笑)。軽油(ガソリン、灯油、ナフサなど)が多く取れたとしても、おそらく日本の航空機生産力は低いのであまりアドバンテージにはならなかったかと愚考します。戦車もそんなに多くないし、歩兵師団の機械化もいまいちだしね。
 
 まあ戦争で負けた以上、大日本帝国陸海軍や政府が無謬であったはずはありません。無謬なら戦争に勝ってます。どんな戦争にも失敗や間違いはつきもの。より失敗の少ない方が勝つというのは歴史の鉄則です。現在に生きる我々が教訓とすべきは、失敗は失敗として正しく歴史を学ぶ事。それが未来における選択で失敗しなくなる(いや、しにくくなると言うべきか?)という事でしょう。いつまでも大日本帝国最強伝説に酔っているとまた同じ間違いを犯しますよ。

オランダ独立戦争Ⅴ  オランダ連邦共和国

 マウリッツの行った軍事の諸改革で、ネーデルラント独立軍はスペイン軍を圧倒し独立を達成させたという見方が多いですが、これは間違いです。というのも当時のスペインは新大陸からもたらされる莫大な富で軍費の心配がなく、消耗品の傭兵を雇えば良いだけの話でした。新大陸の金銀のせいで当時の金銀相場が暴落したと言われるほど莫大な量でしたから、いくら当時のネーデルラントが欧州随一の富裕な土地だといっても限界があったのです。
 
 さらにスペインは人材が豊富で、ネーデルラント執政パルマ公アレッサンドロ・ファルネーゼ(1545年~1592年)のためにユトレヒト同盟は苦しめられました。私はパルマ公もカルバン派の多い北部7州の再併合はある程度諦めていたのではないかと考えます。それほど宗教対立は深刻だったのです。カトリックが多数派を占めネーデルラント経済の中枢ともいうべきブラバント・フランドルがスペインの残れば良しとしていたような気がします。ユトレヒト同盟に対抗して南部10州をスペイン側のアラス同盟としてまとめ上げた手腕は見事でした。マウリッツの改革はようやく強大なスペイン軍と互角になったというに過ぎなかったのです。
 
 
 1588年、ネーデルラント独立派にとって最大の幸運が訪れます。スペイン国王フェリペ2世は宿敵イギリスを叩くため陸軍総司令官としてパルマ公を任命したのです。パルマ公は、イギリス上陸作戦のためにダンケルクに移動します。ところがアルマダ海戦の敗戦でイギリス上陸作戦は中止。1589年、ヴァロワ朝断絶に伴う内戦がフランスで湧き起こると、フェリペ2世はこれに介入するためパルマ公の陸軍をフランス戦線に投入しました。
 
 この内戦をユグノー戦争と呼びますが、ユグノーとはフランスにおけるカルバン派プロテスタントの事。16世紀から17世紀にかけての欧州の戦乱はカトリックとプロテスタントの宗教対立が底流に流れていた事が分かります。ユグノー戦争はカルバン派貴族たちの支持を受けたブルボン家のアンリ4世が勝利し、ブルボン朝を始めました。パルマ公はフランス内のカトリック貴族たちを応援し1592年ルーアンでアンリ4世の軍隊と交戦、重傷を負ってアラスで死去しました。
 
 パルマ公の戦死でネーデルラント独立派はがぜん有利となりました。総司令官マウリッツは1596年フランス・イギリスとの間にグリニッジ条約を締結。二国からオランダの承認、対スペイン戦争の同盟を結びます。オランダの正式名称はネーデルラントですが、これはもともとベルギーを含めた低地地方全体をさしますので、混乱を避けるためにネーデルラント北部7州(ユトレヒト同盟)の勢力を以後オランダと呼びます。
 
 1597年トゥルンハウト、1600年のニーウポールトと相次いでスペイン軍を破ったマウリッツは独立戦争を有利に進めます。ところが、スペインはネーデルラント戦線に切り札とも言うべき人材を投入してきました。彼の名はアンブロジオ・スピノラ。スピノラ家はジェノバの名家でカトリックを守る使命感に燃えスペイン国王(フェリペ2世は1598年死去しているのでおそらく息子のフェリペ3世)と傭兵契約を結びフランドルに向かいます。
 
 スピノラの将軍としてのデビューはオステンド攻城戦でした。1604年これを陥落させると各地でマウリッツ率いるオランダ軍と互角の戦いを展開、独立戦争の展望はさらに混迷を深めます。スピノラの強みは攻城戦にありました。おそらく攻城戦に関してはマウリッツを凌いでいたのではないかと思います。スピノラによって独立戦争は潰えたかに見えました。しかし、スペインは16世紀のゴールドラッシュが枯渇し始め、新大陸の金銀に頼り切って国内産業の育成を怠っていたためにネーデルラントのスペイン軍に十分な戦費を供給できなくなっていました。私財を投入していたスピノラは1611年破産さえ経験します。
 
 同じ頃オランダ軍も長期間の戦争で国土が荒廃し少ない人口もさらに減り、不安を感じはじめていたため両者の間に和平の機運が生じました。1609年4月オランダとスペインは12年間の休戦条約を結びます。これによって事実上独立を果たしたネーデルラント独立派(ユトレヒト同盟)はオランダ連邦共和国となりました。これはネーデルラント南部の切り捨てでしたが、マウリッツを始めとするオランダの指導層もカトリックが大勢を占めるブラバント、フランドルとの統合は無理だと理解していたと思います。
 
 独立戦争の最中、オランダは1602年東インド会社を設立。アジアに進出して植民地獲得戦争に乗り出します。17世紀はオランダの世紀と呼ばれるほど大発展を遂げオランダ海上帝国と呼ばれるようになりました。独立戦争のさなか海外進出する余裕があるのですからオランダの経済力は恐るべきものでした。
 
 1621年、停戦が失効するとマウリッツはスピノラと再戦。1624年スペイン軍に包囲されたブレダを救援に向かいますが、その決着がつく前にマウリッツはハーグにおいて死去しました。享年57歳。マウリッツは生涯独身で嫡子がいなかったため(ただし庶子はいた)、家督と地位は弟のフレデリック・ヘンドリックが継ぎます。彼の子孫が代々オランダ総督を継承し後にオランダ王家となります。現在の王室ももちろん子孫で、オラニエ=ナッサウ家です。
 
 オランダとスペインが停戦中の1618年、ドイツでは30年戦争が勃発していました。以後オランダ独立戦争はカトリックとプロテスタントの大戦争に巻き込まれて行きます。そして1648年ウェストファリア条約締結。オランダ連邦共和国はこの条約で正式に独立国である事を認められ、ここに80年にも及ぶ独立戦争は終結しました。
 
 ちなみに初めて日本がオランダと接触した1600年は、まだオランダは正式には独立国ではありませんでした。ウィリアム・アダムス(三浦按針)やヤン・ヨーステンの乗ってきたリーフデ号をスペインのイエズス会宣教師たちが海賊船と非難したのもあながち間違いではなかったのです。1609年(慶長十四年)オランダ東インド会社が大御所徳川家康に贈った国書にオランダ国王とあるのはオラニエ=ナッサウ公マウリッツの事でした。東インド会社は、オランダ連邦共和国総督を国王と偽る虚構で日本との交易を始めたと言えます。
 
 
 17世紀にスペイン・ポルトガルに代わり世界交易を支配したオランダ海上帝国。しかし三度に渡る英蘭戦争で打撃を受け18世紀にはフランス革命、ナポレオン戦争に巻き込まれ一時は国土をフランス軍に占領される事となります。黄金時代はわずか100年にも満たなかったのです。オランダの覇権が続かなかったのは、やはり人口の少なさが原因だったのではないかと考えます。国民国家の時代には経済力だけではなく人口に裏打ちされた生産力の多寡で国力が決まるようになったのでしょう。ただ、江戸時代を通じて鎖国日本と出島で関係を持ったオランダに対する関心は尽きません。

オランダ独立戦争Ⅳ  テルシオ 対 マウリッツ式大隊

 1584年7月、暗殺者の手により指導者を失ったユトレヒト同盟。スペインのネーデルラント執政パルマ公は攻勢を強めます。東部のオーフェルアイセル、ヘルデルラントの諸都市を占領あるいは外交によって離反させ、南部でもブラバント・フランドルの諸都市を次々と制圧していきました。1585年にはネーデルラントの首都とも言うべきブリュッセルを攻略、残すはカルバン派の籠る北部のみとなりました。
 
 パルマ公が巧妙だったのは、宗教問題以外では寛大な占領政策を施し新教徒に対してもあえて迫害せず北部への逃亡を黙認した事でした。これによりネーデルラントの中心だったブラバント・フランドルはカトリック教徒ばかりになりスペインの占領政策もやりやすくなりました。一方、カルバン派プロテスタントには商工業従事者が多く長い目で見るとオランダの経済発展とベルギーの経済停滞を招くことになります。
 
 危機に陥ったユトレヒト同盟では、国民会議が政治的権限を強化し集団指導体制となります。しかし有能な軍事指導者に欠き、結局は亡きウィレム1世の次男マウリッツを総司令官に任命せざるを得ませんでした。
 
 マウリッツ・フォン・ナッサウ(1567年~1625年)、合理主義者で知られ1585年ホラント・ゼーラント州総督に就任。当初国民会議はイギリスから派遣されたレスター伯ロバート・ダドリーが率いていましたが指導力不足で上手くいかず1587年帰国します。マウリッツは、これまでの独立戦争に果たしてきたオラニエ=ナッサウ家の功績の上からも、個人の能力からも指導的立場に立たされることになりました。
 
 1588年、世界史的な出来事が英仏海峡で起こります。すなわちアルマダ海戦です。イギリス女王エリザベス1世はスペインに対抗しネーデルラントの独立戦争を支援していました。これに怒ったフェリペ2世は、イギリスを叩くべく自慢の無敵艦隊を派遣します。イギリス提督フランシス・ドレイクは英仏海峡で迎え撃ち散々に撃ち破りました。これによってスペイン世界帝国は衰退への道を進むのですが、その原因がネーデルラントにあったことはあまり知られていません。
 
 アルマダ海戦はイギリスをスペインに代わる海上帝国に押し上げたという意味がありましたが、ネーデルラントにとってはイギリスの援助を受けやすくなったという事はあっても、けっして戦争が楽になる事を意味しませんでした。というのはスペイン軍はライン河沿いの陸路から補給できたし、『テルシオ』と呼ばれる軍事編成は強力で独立派の軍隊はまともには太刀打ちできなかったのです。マウリッツは、テルシオに対抗するためマウリッツ式大隊を創設しこれに対抗しました。
 
 
 テルシオは、15世紀末のイタリア戦争でその原型が作られたと言います。パイク(長槍)兵の密集陣形を組み、その周囲を投射兵で固めたものです。最初は弩や弓が主力でしたが、マスケット銃が普及してくるとテルシオはさらに防御力を増します。遠距離の敵にはマスケット銃、接近してくればパイクと当時としては手に負えない陣形でした。スペイン軍はテルシオの改良を重ね、マスケット銃兵の比率も増え続けます。1525年北イタリアでフランス軍を破ったパヴィアの戦いはテルシオの猛威を示したものとして有名です。
 
  テルシオは1500名から3000名で形成されます。中央のパイク兵は縦深20列から30列の方陣を組み、周囲を2列のマスケット兵が囲みます。弱点である四隅はマスケット兵を縦深4列から6列と組み厚くしました。スペイン軍はこのテルシオを何組もつくり野戦に挑みます。
 
 テルシオに正面攻撃するのは自殺行為。といってテルシオとテルシオの間を抜け陣形を乱そうとしても互いのテルシオは援護射撃できる距離で展開しましたから複数のテルシオから猛射をくらいました。さながら第2次大戦時におけるソ連のパック・フロント(ソ連式対戦車縦深陣地)に突っ込むようなものだったのです。
 
 
 一見、弱点がないように見えるテルシオですが、防御に特化した陣形だけに機動力に劣るという事は容易に想像できると思います。さらに突撃すれば壊滅するのなら突っ込まなければ良い。テルシオに対抗するには機動力とマスケット銃の速射でテルシオを圧倒すれば良いのです。
 
 マウリッツは、テルシオを研究しテルシオがパイク兵とマスケット兵の比率2:1だったのに対しその比率を逆転させ1:1.2とします。スペインのテルシオより小さい定数550名の大隊を基本編制とし、パイク兵の方陣もテルシオより少ない10列の縦深。その両翼あるいは後方に同じく10列のマスケット兵縦深を配しました。さらにマスケット銃を間断なく発射するため横の間隔を人ひとりが通り抜けられるほど広く取り先頭のマスケット兵が発射すればすぐ方陣の最後尾に走って弾を込め、二番目、三番目と次々と発射していくというものでした。10列目が発射する頃には先頭のマスケット兵は弾込めが終わっているので、理論上間断なく弾丸を発射できます。
 
 これを背面行進(カウンターマーチ)と呼びますが、中々現実は厳しいものです。下手したら部隊が団子状になり混乱してしまいます。マウリッツは、背面行進を実用化するためマスケット兵の動作の一つ一つをマニュアル化し厳しい訓練を科しました。
 
 当時の独立軍は、北部の人口が少ない事もありほとんどがイングランドやスコットランドなど外国の傭兵ばかりでした。しかし逆にこれが幸いし長期間の訓練が実施できものになったと言えます。万単位の傭兵を長期間雇えるのですからのちにオランダとなるネーデルラント北部地域の経済力は欧州でも群を抜いていたのでしょう。一説ではスペイン全経済力の4割以上はネーデルラントが生み出していたそうですから、フェリペ2世も絶対に手放せませんでした。
 
 独立軍が、スペイン軍と互角に戦えたのはまさにマウリッツ式大隊のおかげですがけっしてそれだけではありません。騎兵・歩兵・砲兵の三兵戦術の基盤を築き、兵站の概念においても発展させました。一連のマウリッツの改革は軍事革命とも呼ばれ、マウリッツ式を発展させたスウェーデンのグスタフ・アドルフの軍隊は30年戦争で欧州を席巻することとなります。
 
 
 次回最終回、マウリッツとスペインに現れた名将スピノラとの戦い、オランダ独立の達成を描きます。

オランダ独立戦争Ⅲ  オラニエ=ナッサウ家の台頭

 ネーデルラントのスペインに対する抵抗運動で名前の上がったオラニエ=ナッサウ公ウィレムとは何者でしょうか?実はナッサウ家というのはドイツ西部ライン地方の名門貴族です。オラニエ=ナッサウ家はその支流でした。ナッサウ伯家はライン河を下りネーデルラント地方にも勢力をのばします。ウィレムはナッサウ=ディレンブルク伯ウィルヘルムの長男ですが、父からライン地方の領地を受け継ぎ、母方の叔父から南フランスのオランジュ(オランダ語でオラニエ)公領を相続しました。そのためウィレムはオラニエ=ナッサウ公と呼ばれます。ちなみに本領のナッサウ=ディレンブルク伯領(ウィレム継承分を除く)はウィレムの弟ヨハン6世が受け継ぎました。
 
 オランジュ公家は代々ブルゴーニュ公国に仕えており、後にハプスブルク領になりスペインハプスブルクが受け継いだ後もネーデルラントの有力貴族としてスペイン王家に仕えました。ウィレムもフェリペ2世の父神聖ローマ皇帝カール5世の侍従として仕え、カールが1555年ブリュッセルで退位の式典を挙げた時は、皇帝の腕を支えるという重要な役割さえ与えられました。フェリペ2世当時、ネーデルラントの副司令官という重職だったのです。
 
 ところがカルバン派プロテスタントだったウィレムは、カトリックの擁護者として異端審問で新教徒を弾圧するフェリペ2世としだいに相容れなくなり、フェリペ2世がネーデルラントの新総督アルバ公を使って有力貴族の処刑を始めた際生命の危機を感じてドイツに亡命したのです。
 
 亡命とは言っても、彼が落ち着いたディレンブルクは実の弟ヨハン6世が治めるオラニエ=ディレンブルク伯領。ライン地方には彼自身の領地もあり心細さはなかったと思います。それどころかここで軍隊を募ってネーデルラントへの反攻さえ企てていました。ネーデルラントで抵抗を続けるカルバン派の貴族や民衆たちもオラニエ公ウィレムに期待したのは当然でした。
 
 最初反攻作戦は上手くいきませんでした。というのもスペイン軍は当時世界最強だったテルシオ戦術(第Ⅳ話で詳しく述べます)を採用し、寄せ集めのオラニエ軍では太刀打ちできなかったのです。ネーデルラントに侵入してはスペイン軍に撃退されるという事を繰り返し、海乞食(亡命した乞食党が海賊化したもの)やフランスのユグノー(新教徒)と結んであらためて低地解放の策を練りました。
 
 ウィレムはまずネーデルラント北部のホラント・ゼーラント両州の解放を目指します。というのもスペイン軍主力は経済の中心で重要な南部のフランドル、ブラバント地方にいたからです。戦いは海乞食(ゼーフーゼン)の活躍もあり成功、ウィレムは1572年ドルトレヒトのホラント州議会でホラント州総督に就任します。
 
 北部は解放したものの、南部ブラバント侵攻は失敗に終わりました。スペイン軍は逆襲に転じ失地を次々と奪回、1572年末にはホラント州に突入します。独立戦争最大の危機でした。中でもアルクマール市の攻防戦は熾烈を極めウィレムは堤防を決壊させるという最終手段でついにスペイン軍を撤退に追い込みます。さらに内海ゾイデル海に侵入していたスペイン艦隊も海乞食の奇襲に敗れたためアルバ公の北伐はあと少しのところで失敗しました。堤防決壊による水没作戦は低地地方でなければ採用できない作戦です。ウィレムの捨て身の作戦が功を奏したのでした。
 
 アルバ公は、遠征の失敗で国王フェリペ2世の逆鱗に触れ解任されます。アルバの後任ドン・ルイス・デ・レケセンスは融和政策に転じ騒乱裁判会議を廃止、重税も改めました。が、融和政策は逆効果で北部は完全にカルバン派の勢力が支配し信教の自由を標榜しながら実質はカトリックを抑圧、カルバン派の政治を行いました。スペイン軍は何年も占領軍としてネーデルラントに駐留したため住民の不満は爆発寸前でした。一方反乱軍も大国スペインとの戦争で疲弊していましたからここに講和の機運が生じます。
 
 1576年11月、ガンの和平が成立。フェリペ2世の国王権は承認されたもののスペイン軍の撤退が決まりました。公認宗教もカトリックとされたものの宗教迫害は禁止、ホラント、ゼーラントに関してはカルバン派も認められます。
 
 
 しかし、これは一時的な和平にすぎませんでした。フェリペ2世がこのような屈辱的条件を認めるはずはなかったからです。新執政ドン・ファン(フェリペの異母弟)は早くも1577年7月ナミュール城を奇襲占領するとともにフェリペ2世にスペイン軍派遣を要請します。ネーデルラント全国会議は、裏切ったドン・ファンに怒り新しい執政としてオーストリア大公マティアスを招きますが、その間オラニエ公ウィレムの声望は著しく高まります。ユトレヒト州議会もウィレムを総督と認め同年9月にはブリュッセル入城を果たしました。ドン・ファンが本国から来援したスペイン軍を率い北上してくると情勢は危険な方向に進みます。
 
 ガンの急進的カルバン派は、独裁制を布きカトリック大弾圧を開始。これに同調した各地のカルバン派がウィレムの統制を離れ過激化、事態は混沌としてきました。ウィレムは、1578年8月宗教平和を提案して新教徒旧教徒の融和を図りますが上手くいかず、ネーデルラントは両派による内戦に突入します。ドン・ファンの後任パルマ公アレッサンドロ・ファルネーゼ(元執政マルガレータの子)は、この事態を冷静に眺め南部諸州のカトリック教徒と講和を結びネーデルラントの分裂を策しました。
 
 ウィレムは、これに対抗し北部7州(ホラント・ゼーラント・ユトレヒト・ヘルデルラント・オーフェルアイセル・フリースラント・フロニンゲン)の間にユトレヒト同盟を結成、実質的なカルバン派の統一勢力を作ります。ネーデルラント分裂の始まりでした。新執政パルマ公はなかなかの外交巧者で、懐柔策を持ってフロニンゲンとドレンテの大半を同盟から脱退させました。
 
 ウィレムは、北部7州の独立を目指し統一国家の国王としてフランス王の弟アンジュー公を招聘しますがこれは失敗に終わります。カトリック教徒のアンジュー公は、しょせんウィレムの傀儡にしかすぎず、それを不満としてフランス軍を使ってクーデターを企てますが敗れてフランスに逃げ帰りました。オラニエ公ウィレムにはスペイン王の命で一切の法律上の保護が剥奪されていました。その首に懸賞金まで掛けられていたのです。
 
 1584年7月、事実上の初代オランダ総督(ホラント・ゼーラント州その他の総督)オラニエ=ナッサウ公ウィレム1世はフランス人カトリック教徒の刺客によって暗殺されました。享年51歳。
 
 
 オランダ独立をかけた戦争は激化の一途を辿ろうとしていました。指導者を失ったユトレヒト同盟はどうなったでしょうか?次回、ウィレムの後を継いだ軍事的天才オラニエ公マウリッツの活躍とテルシオ戦術、マウリッツ式大隊の優劣を論じます。

オランダ独立戦争Ⅱ  スペインの圧政と乞食党の誕生

 太陽の没せぬ帝国スペイン・ハプスブルク朝の主、フェリペ2世。1555年父神聖ローマ皇帝カール5世はブリュッセルで退位の式典をあげ、嫡子フェリペにネーデルラントの統治を委ねます。その翌年スペイン王位とそれに付属するポルトガル、ナポリ、ミラノ、シチリアと新大陸を含も広大な海外植民地を継承しました。
 
 フェリペ2世は即位後もしばらくはネーデルラントに留まります。というのも父以来の宿敵フランスとの戦争が続いていたからです。戦争の主戦場はネーデルラント南部(現在のベルギー)で、王が離れるわけにはいきませんでした。
 
 1559年、ようやくフランスとの間にカトー=カンブレジの和約が成立します。安心したフェリペ2世は異母姉パルマ公妃マルガレータをネーデルラント執政に任命し自身はネーデルラントを離れました。以後二度とこの地を踏む事はありませんでした。フェリペ2世は、異母姉のために三人の側近を残しその補佐に当たらせます。
 
 すなわちアラス司教グランヴェル、枢密・国務両会議議長ヴィグリウス、財務会議議長べルレーモンらです。彼ら三人がコンスルタ(側近会議)を形成し実質的にネーデルラントを支配しました。
 
 
 その頃ネーデルラントの地はカルバン派のプロテスタントが拡大していました。カトリック世界全体の期待を受けオスマントルコとの戦争の主役に躍り出たフェリペ2世にとって、自分のお膝元ネーデルラントで新教徒が拡大する事は我慢のならない事でした。国王は、コンスルタにカルバン派弾圧を命じます。しかし宗教というものは迫害すればするほど拡大していくものです。ネーデルラントのカルバン派が始末に負えないのは、本来国王の側にあって統治を補佐すべき貴族たちにまでそれが普及していったことでした。
 
 ネーデルラントの貴族たちは、国王のカトリック強制を拒否し公然とグランヴェルらコンスルタの解任を要求するまでになります。一度はフェリペ2世も折れてグランヴェルを召喚しますが、迫害は逆にますます激しくなっていきました。
 
 迫害に一番危機感を持っていたネーデルラントの中級・下級貴族たちは1565年宗派に関係なく団結し盟約を結成。改革を求めて請願書をネーデルラント執政に提出します。執政マルガレータは恐怖におののきますが、側近の財務会議議長べルレーモンは「この乞食(ゴイセン)どもが!」と罵ったと伝えられます。以来、彼らは乞食党(ゴイセン)と呼ばれました。最初は侮蔑の意味を持った名前でしたが、次第に乞食党は反政府派の栄光ある呼び名となっていきます。
 
 執政府の側近たちは強気でしたが、やはりマルガレータは女性でした。請願書を国王に取り次ぐという約束をしてしまいます。カルバン派はこの約束が宗教迫害の停止を意味すると解釈し亡命者たちも続々と帰国しました。さらにカルバン派の民衆たちはカトリック教会の偶像を破壊し僧侶を追い出します。爆発的に増えたカルバン派信者の暴動に驚いた執政は、さらに貴族同盟の指導者たちと協定を結び新教徒の礼拝を一部認めるなど譲歩を繰り返します。1566年はカルバン派にとって奇跡の年ともいうべき成功に終わるかに見えました。
 
 ある程度の信教の自由が認められると貴族たちはむしろ執政と和解を望み始めます。持てる者である貴族は最終的には安定を求めるのです。やがて貴族同盟は解散します。ところがそれこそ執政府ひいてはスペイン本国の望むところだったのです。有力貴族たちが抜けたカルバン派は次第に孤立し始めます。ただ乞食党の名前自体はカルバン派の抵抗の象徴として残りました。
 
 1567年、スペイン側は反撃に転じアントウェルペンでカルバン派の軍隊を撃破、壊滅させます。指導者ギ・ド・ブレは処刑され多数のカルバン派貴族・民衆たちが亡命を余儀なくされました。上級貴族のうち唯一スペインのカルバン派弾圧政策に批判的だったオラニエ=ナッサウ公ウィレムも、故郷のドイツ、ディレンブルクに亡命を余儀なくされます。
 
 1567年8月フェリペ2世は、錯綜するネーデルラント情勢を鎮めるためアルバ公フェルナンド・アルバレス・デ・トレドに1万の精鋭を授けネーデルラントに上陸させました。ネーデルラント総督として全権を委任されたアルバ公は、国王の意向を受け一切の反逆行為に鉄槌を下すべく徹底的にカルバン派を弾圧します。執政マルガレータはあまりの圧政に立場を失い辞職するほどでした。
 
 有力貴族エグモント、ホールネらはブルゴーニュ公国以来の伝統金羊毛騎士団の特権を無視し逮捕されます。アルバ公は、騒乱裁判会議(通称 血の法廷)を創設し亡命者の財産を没収、反逆の容疑で数百人を死刑に処するなど犠牲者は1572年までに6000人から8000人に及んだと言われます。エグモント、ホールネも1568年6月に処刑されました。
 
 アルバ公の恐怖政治で、ネーデルラントの経済・産業の中心地フランドル、ブラバンド両州からの亡命者は一万人を超えたと言われます。彼らはイギリスやフランスなどヨーロッパ各地に流れ、これらの国が17世紀に経済発展するきっかけとなります。また亡命しないまでも、南部より迫害の緩い北部のホラントやフリースラント地方に逃れたカルバン派の商工業者も多く、オランダ発展の基礎となっていきます。
 
 カルバン派(乞食党)の貴族、民衆たちの希望の星はドイツに亡命していたオラニエ=ナッサウ公ウィレムでした。ウィレムもまた亡命先で軍隊を組織しネーデルラント解放の計画を練っていました。戦いは1568年8月オラニエ軍のフロニンゲン州侵入で開始されます。すなわち80年にも及ぶオランダ独立戦争の始まりです。
 
 
 次回は、オラニエ公ウィレムとアルバ公との激闘、独立戦争の局面を変えたガンの和平を描きます。

オランダ独立戦争Ⅰ  ネーデルラントの情勢

 オランダ語はドイツ語の一方言といわれるほど似ているそうです。それもそのはず、もともとはドイツの一部でした。843年フランク王国が分裂すると中フランク王国に編入され、その後東西フランクが中フランク王国を滅ぼすとそのまま東フランク王国領となり神聖ローマ帝国の領域に含まれます。
 
 オランダの地理を簡単に説明すると、オランダの語源となったホラント地方はオランダ西部の北海沿岸にあります。ここは首都アムステルダムや重要都市ロッテルダム、ハーグがありオランダの中枢とも云うべき地方です。ユトレヒトは干拓前のゾイデル海南岸にありオランダの中央部を占めます。ちなみに現在は20世紀の大規模干拓とアフシュライトダイク(堤防)で北海から完全に切り離され淡水化しアイセル湖となっています。フリースランドはオランダ北部地方のことです。
 
 ちなみにベルギーももともとは同じネーデルラントに含まれ、内陸部をブラバント地方、沿岸部をフランドル地方と呼びます。細かく分けるとゼーラント、ヘルダーラントなどがあるのですが煩雑になるのでこれくらいにしておきます。
 
 
 オランダというのは日本における表記にすぎず、正式にはネーデルラントが国名です。ちょうどグレートブリテンおよび北部アイルランド連合王国(=ユナイテッド・キングダム)をイングランドのポルトガル読みからきているイギリスと呼称するようなものです。
 
 
 最初オランダの地は沼沢が多く人はあまり住んでいませんでした。ただユトレヒトの当たりは陸地で北海貿易の重要な貿易港として栄えます。11世紀ころからユトレヒトや南部のフランドルの農民が土地を買い入植して開発が始まりました。ネーデルラントとはドイツ語でニーダーラント、つまり低地の国という意味で、灌漑や干拓など人の手が入らなければとても住めない土地だったのです。ちょうど中世末期から近世にかけては農業技術が発展しこのような不毛な土地でも食糧増産ができるようになっていました。オランダといえば我々日本人は風車を連想しますが、風車は海面下の土地から水をくみ上げ排水する施設で、もしこれがなければオランダという土地は不毛な沼沢地に逆戻りするというたいへん重要なものなのです。
 
 オランダを含むネーデルラントが世界史的に重要な意味を持ってくるのは、ここがブルゴーニュ公領に編入されてからでした。ブルゴーニュ公はもともとフランス王家カペー家の一族で百年戦争でイギリスと組んで独自路線を取り始め、最後にはフランスからの独立を画策した一族です。
 
 ブルゴーニュ公は、領土として継承したフランドルの産業を育成し大発展を遂げます。もともとフランドル地方は人口も多く毛織物産業が盛んでした。ブルゴーニュ公国がフランスから独立できたのはフランドルの経済力が背景にあったのです。ところでブルゴーニュ公国はシャルル突進公(在位1467年~1477年)が、無謀な拡大路線を図って大失敗、戦死してしまいます。
 
 残されたのは一人娘、マリー・ド・ブルゴーニュのみ。彼女は父突進公の生前の約束通り神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世と結婚し、ネーデルラントはハプスブルク家の領有となりました。その後公国は二人の間の息子フィリップ美公が継承し、フリップはスペイン両王フェルナンド2世とイザベラ女王の一人娘ファナと結婚したためスペイン王(スペイン王としてはフェリペ1世)となります。
 
 このあたり複雑で説明が難しいのですが、要するにネーデルラントがハプスブルク家の領土となった事だけは覚えておいてください。
 
 
 さてフィリップ美公とファナの間には息子カールが生まれました。カールはフランドル地方の大都市ガンで生を受けます。スペイン王の父フィリップ美公が1506年夭折して紆余曲折があったものの、外祖父フェルナンド2世の死をうけて1516年スペイン王に即位しました。スペインではカルロス1世と呼ばれます。1519年には、神聖ローマ皇帝の祖父マクシミリアン1世死去を受けて行われた皇帝選挙に勝利、カール5世として即位します。
 
 これによってカール5世(在位1519年~1556年)は、オーストリア、ドイツ、ネーデルラント、スペイン、ナポリ、シチリア、新大陸を含むスペインの海外植民地という広大な領土を受け継ぎました。ハプスブルク家の黄金時代を築いたといっても過言の無いカール5世の治世でしたが、その治世は必ずしも平穏ではなくプロテスタント運動から始まる宗教戦争、フランス王フランソワ1世、アンリ2世父子との抗争などが勃発し心の休まる時はなかったように思います。
 
 しかし、カール5世は新大陸からの莫大な金銀とネーデルラントの生み出す交易の富とによって難局を乗り切りました。ネーデルラントの人々は、カールがガンで生まれたネーデルラント人だということで富を収奪されてもなんとか我慢していました。ところが、カールが死に息子フェリペ2世が即位すると事態は変わります。
 
 カール5世の遺領のうちオーストリアとドイツを除く広大な領土を継承したフェリペ2世(在位1556年~1598年)ですが、スペインで育ったためフランス語もフラマン語も全く解せずスペイン語しか話せませんでした。フェリペの目から見るとネーデルラントは割の良い海外植民地にしかすぎず、収奪の対象だったのです。
 
 さらにフェリペは、カトリックの擁護者を自任しネーデルラントに広がっていたカルバン派プロテスタントを徹底的に弾圧したため、ネーデルラントの人々の不満は爆発しました。これが80年にも及ぶオランダ独立戦争に繋がるのです。
 
 
 次回は、フェリペの弾圧と乞食党(ゴイセン)の誕生、独立戦争の始まりを描きます。

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