2023年2月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28        
無料ブログはココログ

« オランダ独立戦争Ⅳ  テルシオ 対 マウリッツ式大隊 | トップページ | 大慶油田の油質に関する問題 »

2014年7月 3日 (木)

オランダ独立戦争Ⅴ  オランダ連邦共和国

 マウリッツの行った軍事の諸改革で、ネーデルラント独立軍はスペイン軍を圧倒し独立を達成させたという見方が多いですが、これは間違いです。というのも当時のスペインは新大陸からもたらされる莫大な富で軍費の心配がなく、消耗品の傭兵を雇えば良いだけの話でした。新大陸の金銀のせいで当時の金銀相場が暴落したと言われるほど莫大な量でしたから、いくら当時のネーデルラントが欧州随一の富裕な土地だといっても限界があったのです。
 
 さらにスペインは人材が豊富で、ネーデルラント執政パルマ公アレッサンドロ・ファルネーゼ(1545年~1592年)のためにユトレヒト同盟は苦しめられました。私はパルマ公もカルバン派の多い北部7州の再併合はある程度諦めていたのではないかと考えます。それほど宗教対立は深刻だったのです。カトリックが多数派を占めネーデルラント経済の中枢ともいうべきブラバント・フランドルがスペインの残れば良しとしていたような気がします。ユトレヒト同盟に対抗して南部10州をスペイン側のアラス同盟としてまとめ上げた手腕は見事でした。マウリッツの改革はようやく強大なスペイン軍と互角になったというに過ぎなかったのです。
 
 
 1588年、ネーデルラント独立派にとって最大の幸運が訪れます。スペイン国王フェリペ2世は宿敵イギリスを叩くため陸軍総司令官としてパルマ公を任命したのです。パルマ公は、イギリス上陸作戦のためにダンケルクに移動します。ところがアルマダ海戦の敗戦でイギリス上陸作戦は中止。1589年、ヴァロワ朝断絶に伴う内戦がフランスで湧き起こると、フェリペ2世はこれに介入するためパルマ公の陸軍をフランス戦線に投入しました。
 
 この内戦をユグノー戦争と呼びますが、ユグノーとはフランスにおけるカルバン派プロテスタントの事。16世紀から17世紀にかけての欧州の戦乱はカトリックとプロテスタントの宗教対立が底流に流れていた事が分かります。ユグノー戦争はカルバン派貴族たちの支持を受けたブルボン家のアンリ4世が勝利し、ブルボン朝を始めました。パルマ公はフランス内のカトリック貴族たちを応援し1592年ルーアンでアンリ4世の軍隊と交戦、重傷を負ってアラスで死去しました。
 
 パルマ公の戦死でネーデルラント独立派はがぜん有利となりました。総司令官マウリッツは1596年フランス・イギリスとの間にグリニッジ条約を締結。二国からオランダの承認、対スペイン戦争の同盟を結びます。オランダの正式名称はネーデルラントですが、これはもともとベルギーを含めた低地地方全体をさしますので、混乱を避けるためにネーデルラント北部7州(ユトレヒト同盟)の勢力を以後オランダと呼びます。
 
 1597年トゥルンハウト、1600年のニーウポールトと相次いでスペイン軍を破ったマウリッツは独立戦争を有利に進めます。ところが、スペインはネーデルラント戦線に切り札とも言うべき人材を投入してきました。彼の名はアンブロジオ・スピノラ。スピノラ家はジェノバの名家でカトリックを守る使命感に燃えスペイン国王(フェリペ2世は1598年死去しているのでおそらく息子のフェリペ3世)と傭兵契約を結びフランドルに向かいます。
 
 スピノラの将軍としてのデビューはオステンド攻城戦でした。1604年これを陥落させると各地でマウリッツ率いるオランダ軍と互角の戦いを展開、独立戦争の展望はさらに混迷を深めます。スピノラの強みは攻城戦にありました。おそらく攻城戦に関してはマウリッツを凌いでいたのではないかと思います。スピノラによって独立戦争は潰えたかに見えました。しかし、スペインは16世紀のゴールドラッシュが枯渇し始め、新大陸の金銀に頼り切って国内産業の育成を怠っていたためにネーデルラントのスペイン軍に十分な戦費を供給できなくなっていました。私財を投入していたスピノラは1611年破産さえ経験します。
 
 同じ頃オランダ軍も長期間の戦争で国土が荒廃し少ない人口もさらに減り、不安を感じはじめていたため両者の間に和平の機運が生じました。1609年4月オランダとスペインは12年間の休戦条約を結びます。これによって事実上独立を果たしたネーデルラント独立派(ユトレヒト同盟)はオランダ連邦共和国となりました。これはネーデルラント南部の切り捨てでしたが、マウリッツを始めとするオランダの指導層もカトリックが大勢を占めるブラバント、フランドルとの統合は無理だと理解していたと思います。
 
 独立戦争の最中、オランダは1602年東インド会社を設立。アジアに進出して植民地獲得戦争に乗り出します。17世紀はオランダの世紀と呼ばれるほど大発展を遂げオランダ海上帝国と呼ばれるようになりました。独立戦争のさなか海外進出する余裕があるのですからオランダの経済力は恐るべきものでした。
 
 1621年、停戦が失効するとマウリッツはスピノラと再戦。1624年スペイン軍に包囲されたブレダを救援に向かいますが、その決着がつく前にマウリッツはハーグにおいて死去しました。享年57歳。マウリッツは生涯独身で嫡子がいなかったため(ただし庶子はいた)、家督と地位は弟のフレデリック・ヘンドリックが継ぎます。彼の子孫が代々オランダ総督を継承し後にオランダ王家となります。現在の王室ももちろん子孫で、オラニエ=ナッサウ家です。
 
 オランダとスペインが停戦中の1618年、ドイツでは30年戦争が勃発していました。以後オランダ独立戦争はカトリックとプロテスタントの大戦争に巻き込まれて行きます。そして1648年ウェストファリア条約締結。オランダ連邦共和国はこの条約で正式に独立国である事を認められ、ここに80年にも及ぶ独立戦争は終結しました。
 
 ちなみに初めて日本がオランダと接触した1600年は、まだオランダは正式には独立国ではありませんでした。ウィリアム・アダムス(三浦按針)やヤン・ヨーステンの乗ってきたリーフデ号をスペインのイエズス会宣教師たちが海賊船と非難したのもあながち間違いではなかったのです。1609年(慶長十四年)オランダ東インド会社が大御所徳川家康に贈った国書にオランダ国王とあるのはオラニエ=ナッサウ公マウリッツの事でした。東インド会社は、オランダ連邦共和国総督を国王と偽る虚構で日本との交易を始めたと言えます。
 
 
 17世紀にスペイン・ポルトガルに代わり世界交易を支配したオランダ海上帝国。しかし三度に渡る英蘭戦争で打撃を受け18世紀にはフランス革命、ナポレオン戦争に巻き込まれ一時は国土をフランス軍に占領される事となります。黄金時代はわずか100年にも満たなかったのです。オランダの覇権が続かなかったのは、やはり人口の少なさが原因だったのではないかと考えます。国民国家の時代には経済力だけではなく人口に裏打ちされた生産力の多寡で国力が決まるようになったのでしょう。ただ、江戸時代を通じて鎖国日本と出島で関係を持ったオランダに対する関心は尽きません。

« オランダ独立戦争Ⅳ  テルシオ 対 マウリッツ式大隊 | トップページ | 大慶油田の油質に関する問題 »

 世界史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: オランダ独立戦争Ⅴ  オランダ連邦共和国:

« オランダ独立戦争Ⅳ  テルシオ 対 マウリッツ式大隊 | トップページ | 大慶油田の油質に関する問題 »