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2014年7月 3日 (木)

オランダ独立戦争Ⅳ  テルシオ 対 マウリッツ式大隊

 1584年7月、暗殺者の手により指導者を失ったユトレヒト同盟。スペインのネーデルラント執政パルマ公は攻勢を強めます。東部のオーフェルアイセル、ヘルデルラントの諸都市を占領あるいは外交によって離反させ、南部でもブラバント・フランドルの諸都市を次々と制圧していきました。1585年にはネーデルラントの首都とも言うべきブリュッセルを攻略、残すはカルバン派の籠る北部のみとなりました。
 
 パルマ公が巧妙だったのは、宗教問題以外では寛大な占領政策を施し新教徒に対してもあえて迫害せず北部への逃亡を黙認した事でした。これによりネーデルラントの中心だったブラバント・フランドルはカトリック教徒ばかりになりスペインの占領政策もやりやすくなりました。一方、カルバン派プロテスタントには商工業従事者が多く長い目で見るとオランダの経済発展とベルギーの経済停滞を招くことになります。
 
 危機に陥ったユトレヒト同盟では、国民会議が政治的権限を強化し集団指導体制となります。しかし有能な軍事指導者に欠き、結局は亡きウィレム1世の次男マウリッツを総司令官に任命せざるを得ませんでした。
 
 マウリッツ・フォン・ナッサウ(1567年~1625年)、合理主義者で知られ1585年ホラント・ゼーラント州総督に就任。当初国民会議はイギリスから派遣されたレスター伯ロバート・ダドリーが率いていましたが指導力不足で上手くいかず1587年帰国します。マウリッツは、これまでの独立戦争に果たしてきたオラニエ=ナッサウ家の功績の上からも、個人の能力からも指導的立場に立たされることになりました。
 
 1588年、世界史的な出来事が英仏海峡で起こります。すなわちアルマダ海戦です。イギリス女王エリザベス1世はスペインに対抗しネーデルラントの独立戦争を支援していました。これに怒ったフェリペ2世は、イギリスを叩くべく自慢の無敵艦隊を派遣します。イギリス提督フランシス・ドレイクは英仏海峡で迎え撃ち散々に撃ち破りました。これによってスペイン世界帝国は衰退への道を進むのですが、その原因がネーデルラントにあったことはあまり知られていません。
 
 アルマダ海戦はイギリスをスペインに代わる海上帝国に押し上げたという意味がありましたが、ネーデルラントにとってはイギリスの援助を受けやすくなったという事はあっても、けっして戦争が楽になる事を意味しませんでした。というのはスペイン軍はライン河沿いの陸路から補給できたし、『テルシオ』と呼ばれる軍事編成は強力で独立派の軍隊はまともには太刀打ちできなかったのです。マウリッツは、テルシオに対抗するためマウリッツ式大隊を創設しこれに対抗しました。
 
 
 テルシオは、15世紀末のイタリア戦争でその原型が作られたと言います。パイク(長槍)兵の密集陣形を組み、その周囲を投射兵で固めたものです。最初は弩や弓が主力でしたが、マスケット銃が普及してくるとテルシオはさらに防御力を増します。遠距離の敵にはマスケット銃、接近してくればパイクと当時としては手に負えない陣形でした。スペイン軍はテルシオの改良を重ね、マスケット銃兵の比率も増え続けます。1525年北イタリアでフランス軍を破ったパヴィアの戦いはテルシオの猛威を示したものとして有名です。
 
  テルシオは1500名から3000名で形成されます。中央のパイク兵は縦深20列から30列の方陣を組み、周囲を2列のマスケット兵が囲みます。弱点である四隅はマスケット兵を縦深4列から6列と組み厚くしました。スペイン軍はこのテルシオを何組もつくり野戦に挑みます。
 
 テルシオに正面攻撃するのは自殺行為。といってテルシオとテルシオの間を抜け陣形を乱そうとしても互いのテルシオは援護射撃できる距離で展開しましたから複数のテルシオから猛射をくらいました。さながら第2次大戦時におけるソ連のパック・フロント(ソ連式対戦車縦深陣地)に突っ込むようなものだったのです。
 
 
 一見、弱点がないように見えるテルシオですが、防御に特化した陣形だけに機動力に劣るという事は容易に想像できると思います。さらに突撃すれば壊滅するのなら突っ込まなければ良い。テルシオに対抗するには機動力とマスケット銃の速射でテルシオを圧倒すれば良いのです。
 
 マウリッツは、テルシオを研究しテルシオがパイク兵とマスケット兵の比率2:1だったのに対しその比率を逆転させ1:1.2とします。スペインのテルシオより小さい定数550名の大隊を基本編制とし、パイク兵の方陣もテルシオより少ない10列の縦深。その両翼あるいは後方に同じく10列のマスケット兵縦深を配しました。さらにマスケット銃を間断なく発射するため横の間隔を人ひとりが通り抜けられるほど広く取り先頭のマスケット兵が発射すればすぐ方陣の最後尾に走って弾を込め、二番目、三番目と次々と発射していくというものでした。10列目が発射する頃には先頭のマスケット兵は弾込めが終わっているので、理論上間断なく弾丸を発射できます。
 
 これを背面行進(カウンターマーチ)と呼びますが、中々現実は厳しいものです。下手したら部隊が団子状になり混乱してしまいます。マウリッツは、背面行進を実用化するためマスケット兵の動作の一つ一つをマニュアル化し厳しい訓練を科しました。
 
 当時の独立軍は、北部の人口が少ない事もありほとんどがイングランドやスコットランドなど外国の傭兵ばかりでした。しかし逆にこれが幸いし長期間の訓練が実施できものになったと言えます。万単位の傭兵を長期間雇えるのですからのちにオランダとなるネーデルラント北部地域の経済力は欧州でも群を抜いていたのでしょう。一説ではスペイン全経済力の4割以上はネーデルラントが生み出していたそうですから、フェリペ2世も絶対に手放せませんでした。
 
 独立軍が、スペイン軍と互角に戦えたのはまさにマウリッツ式大隊のおかげですがけっしてそれだけではありません。騎兵・歩兵・砲兵の三兵戦術の基盤を築き、兵站の概念においても発展させました。一連のマウリッツの改革は軍事革命とも呼ばれ、マウリッツ式を発展させたスウェーデンのグスタフ・アドルフの軍隊は30年戦争で欧州を席巻することとなります。
 
 
 次回最終回、マウリッツとスペインに現れた名将スピノラとの戦い、オランダ独立の達成を描きます。

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