2023年2月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28        
無料ブログはココログ

« 越中における佐々成政Ⅴ   末森城の決戦 | トップページ | オランダ独立戦争Ⅱ  スペインの圧政と乞食党の誕生 »

2014年7月 3日 (木)

オランダ独立戦争Ⅰ  ネーデルラントの情勢

 オランダ語はドイツ語の一方言といわれるほど似ているそうです。それもそのはず、もともとはドイツの一部でした。843年フランク王国が分裂すると中フランク王国に編入され、その後東西フランクが中フランク王国を滅ぼすとそのまま東フランク王国領となり神聖ローマ帝国の領域に含まれます。
 
 オランダの地理を簡単に説明すると、オランダの語源となったホラント地方はオランダ西部の北海沿岸にあります。ここは首都アムステルダムや重要都市ロッテルダム、ハーグがありオランダの中枢とも云うべき地方です。ユトレヒトは干拓前のゾイデル海南岸にありオランダの中央部を占めます。ちなみに現在は20世紀の大規模干拓とアフシュライトダイク(堤防)で北海から完全に切り離され淡水化しアイセル湖となっています。フリースランドはオランダ北部地方のことです。
 
 ちなみにベルギーももともとは同じネーデルラントに含まれ、内陸部をブラバント地方、沿岸部をフランドル地方と呼びます。細かく分けるとゼーラント、ヘルダーラントなどがあるのですが煩雑になるのでこれくらいにしておきます。
 
 
 オランダというのは日本における表記にすぎず、正式にはネーデルラントが国名です。ちょうどグレートブリテンおよび北部アイルランド連合王国(=ユナイテッド・キングダム)をイングランドのポルトガル読みからきているイギリスと呼称するようなものです。
 
 
 最初オランダの地は沼沢が多く人はあまり住んでいませんでした。ただユトレヒトの当たりは陸地で北海貿易の重要な貿易港として栄えます。11世紀ころからユトレヒトや南部のフランドルの農民が土地を買い入植して開発が始まりました。ネーデルラントとはドイツ語でニーダーラント、つまり低地の国という意味で、灌漑や干拓など人の手が入らなければとても住めない土地だったのです。ちょうど中世末期から近世にかけては農業技術が発展しこのような不毛な土地でも食糧増産ができるようになっていました。オランダといえば我々日本人は風車を連想しますが、風車は海面下の土地から水をくみ上げ排水する施設で、もしこれがなければオランダという土地は不毛な沼沢地に逆戻りするというたいへん重要なものなのです。
 
 オランダを含むネーデルラントが世界史的に重要な意味を持ってくるのは、ここがブルゴーニュ公領に編入されてからでした。ブルゴーニュ公はもともとフランス王家カペー家の一族で百年戦争でイギリスと組んで独自路線を取り始め、最後にはフランスからの独立を画策した一族です。
 
 ブルゴーニュ公は、領土として継承したフランドルの産業を育成し大発展を遂げます。もともとフランドル地方は人口も多く毛織物産業が盛んでした。ブルゴーニュ公国がフランスから独立できたのはフランドルの経済力が背景にあったのです。ところでブルゴーニュ公国はシャルル突進公(在位1467年~1477年)が、無謀な拡大路線を図って大失敗、戦死してしまいます。
 
 残されたのは一人娘、マリー・ド・ブルゴーニュのみ。彼女は父突進公の生前の約束通り神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世と結婚し、ネーデルラントはハプスブルク家の領有となりました。その後公国は二人の間の息子フィリップ美公が継承し、フリップはスペイン両王フェルナンド2世とイザベラ女王の一人娘ファナと結婚したためスペイン王(スペイン王としてはフェリペ1世)となります。
 
 このあたり複雑で説明が難しいのですが、要するにネーデルラントがハプスブルク家の領土となった事だけは覚えておいてください。
 
 
 さてフィリップ美公とファナの間には息子カールが生まれました。カールはフランドル地方の大都市ガンで生を受けます。スペイン王の父フィリップ美公が1506年夭折して紆余曲折があったものの、外祖父フェルナンド2世の死をうけて1516年スペイン王に即位しました。スペインではカルロス1世と呼ばれます。1519年には、神聖ローマ皇帝の祖父マクシミリアン1世死去を受けて行われた皇帝選挙に勝利、カール5世として即位します。
 
 これによってカール5世(在位1519年~1556年)は、オーストリア、ドイツ、ネーデルラント、スペイン、ナポリ、シチリア、新大陸を含むスペインの海外植民地という広大な領土を受け継ぎました。ハプスブルク家の黄金時代を築いたといっても過言の無いカール5世の治世でしたが、その治世は必ずしも平穏ではなくプロテスタント運動から始まる宗教戦争、フランス王フランソワ1世、アンリ2世父子との抗争などが勃発し心の休まる時はなかったように思います。
 
 しかし、カール5世は新大陸からの莫大な金銀とネーデルラントの生み出す交易の富とによって難局を乗り切りました。ネーデルラントの人々は、カールがガンで生まれたネーデルラント人だということで富を収奪されてもなんとか我慢していました。ところが、カールが死に息子フェリペ2世が即位すると事態は変わります。
 
 カール5世の遺領のうちオーストリアとドイツを除く広大な領土を継承したフェリペ2世(在位1556年~1598年)ですが、スペインで育ったためフランス語もフラマン語も全く解せずスペイン語しか話せませんでした。フェリペの目から見るとネーデルラントは割の良い海外植民地にしかすぎず、収奪の対象だったのです。
 
 さらにフェリペは、カトリックの擁護者を自任しネーデルラントに広がっていたカルバン派プロテスタントを徹底的に弾圧したため、ネーデルラントの人々の不満は爆発しました。これが80年にも及ぶオランダ独立戦争に繋がるのです。
 
 
 次回は、フェリペの弾圧と乞食党(ゴイセン)の誕生、独立戦争の始まりを描きます。

« 越中における佐々成政Ⅴ   末森城の決戦 | トップページ | オランダ独立戦争Ⅱ  スペインの圧政と乞食党の誕生 »

 世界史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: オランダ独立戦争Ⅰ  ネーデルラントの情勢:

« 越中における佐々成政Ⅴ   末森城の決戦 | トップページ | オランダ独立戦争Ⅱ  スペインの圧政と乞食党の誕生 »