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2014年8月

2014年8月 6日 (水)

戦国最上戦記外伝  戦国奥羽の関連人物小史

 戦国最上戦記完結の余韻がなかなか冷めやらない私ですが、本編で紹介しきれなかった最上・伊達関係の関連人物について語りたいと思います。
「木村吉清」
 葛西大崎一揆の扇動者が伊達政宗なら引き起こした張本人がこの人。NHK大河「独眼竜政宗」の牟田悌三さんのイメージが強すぎますが(苦笑)、もとは荒木村重の家臣。のち明智光秀に仕え山崎の合戦の後丹波亀山城受け渡しの手際が良かったのを秀吉に認められて五千石で召抱えられます。太閤検地の奉行、奥州仕置での反乱鎮圧などで功を挙げ一躍旧葛西・大崎領30万石に大抜擢。ところが強引な検地や旧葛西・大崎家臣を召抱えず外から採用した大量の浪人たちが領内で乱暴狼藉の限りを働いたので地侍や農民たちが激怒、一揆を招きます。
 30万石の大大名になって張り切りすぎたんでしょうな。所詮小利口な官僚タイプで領内を纏め切る政治家・武将ではなかったという事でしょう。元敵地を占領するのですからそれなりの配慮が必要です。最初は検地も控え、取り潰された大名家の旧臣を召抱えるなど細心の注意を払うべきでした。他の有能な武将はみなやってます。
 結局一揆勃発の責任を取らされて改易、蒲生氏郷の客将になりました。その後1598年豊後で一万五千石与えられて大名に復帰しますがその年に死去。同じく葛西大崎一揆で醜態をさらした息子清久は関ヶ原で西軍に属し改易、大坂の陣に参戦して討死したそうです。
「茂庭綱元」
 この人も独眼竜政宗の村田雄浩さんのイメージしかありません(笑)。ちなみにお父さんの鬼庭左月斎良直はいかりや長介さんでしたね♪もともと鬼庭と名乗っていたんですが、文禄の役の際秀吉に「庭に鬼がいるのは縁起が悪い」と茂庭の姓を与えられました。御本人にとっては有難迷惑だったと想像しますが、このために後世の資料では鬼庭が茂庭に改められていて調べる私なども困っています。
 父は勇将、本人は手堅い能臣というイメージがありますが、実は一度伊達家を出奔しています。巷では伊達成実、片倉小十郎景綱と並び伊達三傑といわれる人ですが、秀吉は有能な彼を気に入りヘッドハンティングしようとします。ある時秀吉の碁の相手をしていた綱元は賭け碁に勝って香の前(側室、一応人間です)を賜りました。
 伊達政宗はこれを疑い、強引に綱元を隠居させようとします。香の前を差し出すよう命じたら綱元が拒否したのが原因の一つとか(ただしこの話は怪しい)。茂庭家の本領五千石は息子良綱に安堵されたものの綱元本人は隠居領百石のみ。さらに隠居領以外の収入を得たら五千石も没収するという過酷なもの。激怒した綱元は伊達家を出奔します。伊達成実とか国分盛重とか血の気の多い人なら分かるんですが、温厚なイメージの綱元が出奔するんですからこれは大変です。
 有能な綱元は引く手あまたで家康からも召抱えられそうになりますが、政宗の奉公構(他家への召抱えを許さない刑罰)によって破談。気の毒に思った家康から秘かに援助されたそうです。慶長二年(1597年)赦免されて伊達家に帰参しますが、この時の条件が香の前を政宗に差し出すこと(この条件も怪しいですが…)。関ヶ原、大坂の陣と功をあげ寛永十七年(1640年)91歳で大往生を遂げました。
 それにしても香の前の話が実話とすると、政宗ってDQNとしか…ファンの方ごめんなさいね~♪
「義姫(お東の方、保春院)」
 すみません、この人も独眼竜政宗の岩下志麻さんです(爆)。最上義光の妹で伊達輝宗の正室。政宗の母。ドラマだと気の強いイメージですが、かなり史実に近かったろうと思います。本編でも触れましたが婚家と実家の戦争を止めるほどですからね(苦笑)。
 ただ片目になった政宗を嫌い、次男の小次郎を溺愛、政宗を毒殺しようとしたドラマのストーリーはやりすぎ。まあきかん坊の政宗が可愛げなかったのは容易に想像できますが…。戦国時代の政略結婚では実家を最優先にするのは当たり前。義姫が首謀したと言われる毒殺未遂事件で政宗の秀吉拝謁が遅れたという話は否定的な見解もあります。ただ跡目争いは現実で、政宗は実弟小次郎を斬殺しています。
 義姫は、息子小次郎を殺されたこともあり伊達家を出奔、実家の最上家に帰っています。政宗は母に気を使っていたらしく、朝鮮の陣の最中にも手紙や贈り物をしています。書状で母に「伯父(義姫の兄)義光から昔のことでいろいろ叱られた」とこぼしていますが、やはり一度生じた遺恨はなかなか解消しなかったのでしょう。
 関ヶ原の時にも、伊達家の援軍は現実の敵である上杉軍と潜在的な敵である最上軍が争って疲弊するのを待って動くべきだという声も上がったそうですし(言いだしっぺは片倉小十郎。西郷輝彦、悪い奴だwww)。さすがにこれは政宗の「母上が山形城にいらっしゃるんだぞ」という一言で沙汰やみになったそうですが、事実伊達の援軍は傍観するのみで全く動いていません。案外、政宗自身母親を見殺しにする気持ちがあったのかも?母上云々の発言は自分の本心をごまかすため、あるいは世間体を考えてだという穿った見方もできます。
 晩年最上家改易で行き場所を失った義姫を政宗は引き取ります。その後仙台にて死去。波乱万丈の生涯でした。
「山野辺義忠」
 あまりに多くの人物を紹介すると一話では終わらないのでこの人で終わりにします。山野辺って時代劇ファンの方、聞いたことないですか?そう、水戸黄門に出てくる水戸家の家老、黄門さまから「じい」と呼ばれている人ですよね。実は山野辺家は最上一族なんです。義忠は最上義光の四男。幼少期徳川家に人質にだされ縁ができたんでしょうな。
 兄家親(山形藩二代目)が死去し、甥の義俊が後を継ぐと若い(13歳)の義俊ではなく義忠こそ藩主にふさわしいという一部の家臣の声が強くなります。義俊がこれに怒り幕府に「父家親の死は義忠擁立派による毒殺だった」と訴え出たことにより最上騒動が勃発しました。その後幕府の調査で家親の死因は自然死だったと判定されますが、藩主派と義忠派の争いは収まらず結局最上家は改易。
 義忠本人は積極的に動いたわけではなくただ擁立されただけですが、義忠も責任を取らされて備前岡山に流罪。12年間も幽閉されたそうです。寛永十年(1633年)三代将軍家光の赦免で水戸徳川家に預けられます。義忠は一万石を与えられ水戸藩家老になりました。寛文四年(1664年)死去、享年77歳。義光の子では最長寿でした。
 ちなみに水戸黄門で「じい」と呼ばれる家老は、義忠の息子義堅。山野辺兵庫の名前の方が有名です。

戦国最上戦記Ⅴ  山形五十七万石    終章

 秀吉の奥州仕置は、奥羽の諸大名に大きな影響を与えました。とくに伊達政宗は葛西大崎一揆扇動の疑いをもたれ(実際扇動していましたが…)、なんとか疑いは晴らしたものの本領伊達・信夫・置賜三郡(他に刈田、田村、安達で計6郡)を没収され旧葛西・大崎領(13郡)に移されました。伊具・名取・亘理など陸前にあった諸郡はそのまま残され移封前の72万石から58万石、差し引き7郡加増とはいえ実質は減俸、さらに葛西大崎領は一揆で荒廃し回復にはかなりの時間を要すると考えられていました。
 代わって伊達の旧領に封じられたのは蒲生氏郷。当初は会津盆地のみの40万石でしたが後に90万石にまで加増されます。(おそらく置賜地方もこの時の加増分)これは関東の徳川家康を牽制するための人事でしたが、秀郷自身は「これで天下への望みがなくなった」と嘆いたと伝えられます。
 天下を統一すると秀吉は大陸に野望を抱き天正二十年(1592年)朝鮮出兵を行いました。最上義光もこれに従い手勢五百を率いて肥前名護屋の滞在します。幸いにして義光の任務は兵糧輸送で大きな損害を受けずに済みました。
 しかし悲劇は別のところで巻き起こります。文禄四年(1595年)いわゆる秀次事件が起こったのです。実子のいなかった秀吉は甥の秀次を後継者と定め関白の地位も譲り聚楽第を与えていました。ところが文禄二年(1593年)秀吉と側室淀殿との間に秀頼が生まれます。実子に跡を継がせたい秀吉は秀次が邪魔になり露骨に疎むようになりました。自分の立場が悪化した秀次は自暴自棄になり家臣や領民を手討ちにするなど殺生関白と陰口をたたかれるようになります。秀吉はもっけの幸いとばかりに秀次の罪を問い高野山に追放、自害させました。秀吉の怒りは収まらず秀次の妻妾、息子、娘、家臣の多くも三条河原に集められ処刑されるのです。
 この中には義光の愛娘、駒姫もいました。義光は秀次から催促されても側室に差し出すことを拒み続け事件の数日前にやっと京都に到着したばかりでした。実質的には側室にさえなっておらず無関係といえます。義光は駒姫を救うため八方手を尽くしましたが許されず15歳になったばかりの愛娘は処刑されてしまいました。義光夫妻は悲報を受け数日間食事が喉を通らなかったそうです。義光が秀吉を見限った瞬間でした。秀吉は秀次党の粛清を図り義光にも嫌疑がかかります。これを救ったのはまたしても徳川家康でした。
 伊達氏の旧領を継承した蒲生氏郷は文禄四年(1595年)40歳の若さで急死しており、その跡には上杉景勝が入りました。上杉家は、会津盆地、福島中通り、置賜、庄内、佐渡など実に120万石を領します。とくに置賜郡米沢には家老の直江兼続が30万石で入部しました。
 慶長三年(1598年)八月十八日、一代の英傑豊臣秀吉が亡くなります。享年61歳。朝鮮出兵は何の得るところもなく秀吉の死で沙汰止みになりました。諸大名は次の天下人が誰になるか一斉に動き始めます。義光は、たとえどんなに不利な条件になっても家康に味方するつもりでした。慶長五年(1600年)、家康は上杉景勝が勝手に兵を集め城を修築していることを咎め上杉征伐を行います。しかしこれは上方を留守にして石田三成に兵を挙げさせるための罠で、下野小山で滞陣した遠征軍は三成挙兵の報を受けると矛先を西に転じました。
 といっても背後を上杉景勝に衝かれるのは不味いので、伊達政宗・最上義光らに命じて牽制する役に就かせます。最初に動き出したのは伊達政宗でした。家康には決して攻勢に出るなと釘を刺されていたのですが、旧領回復の絶好の機会とばかり上杉領の白石城に攻撃を始めたのです。ところが上杉軍は意外と手ごわく、簡単に領土奪取できないとわかると勝手に上杉と和議を結び兵を引きました。これは後々問題になる行為でしたが、東軍が勝ったので不問にされます。ただしこれによって家康が政宗に旧領回復を約束した百万石のお墨付きもパーになりました。
 石田三成と結託し、徳川軍をの背後を突くためにはさらに背後にいる孤立した東軍の有力武将最上義光を叩かなければなりません。上杉軍は家老直江兼続を大将とする二万の軍勢で最上領になだれ込みました。一方最上軍は由利衆など援軍を加えても七千。庄内戦争以来の宿縁の相手です。当時の恨みを覚えている最上軍の将兵も多かったと思います。鎧袖一触と舐めていた上杉軍は、最上氏の本拠山形城を真近に臨む要衝長谷堂城に攻めかかりました。しかし最上軍の抵抗は激しく難攻不落を誇る長谷堂城は落ちる気配を見せません。そんな中慶長五年九月、上方の関ヶ原で家康率いる東軍が大勝利したとの報告が入りました。
 直江兼続は、これ以上の戦は無意味とばかり撤退の準備を進めます。義光は先頭に立って撤退する上杉軍を追撃しますが、直江兼続の見事な指揮で上杉軍はほぼ無傷で脱出に成功しました。怒りの収まらない義光は、上杉領になっていた庄内地方に攻め込み敗戦で逃げ腰になっている上杉の守備軍を撃破、短期間でほぼ庄内地方を平定します。
 関ヶ原の合戦は徳川家康を天下人に押し上げた戦いでした。石田三成ら首謀者が処刑され、上杉家は置賜、伊達、信夫郡以外を没収、米沢30万石に転落します。東軍でも動きの怪しかった伊達政宗はわずか二万石の加増にとどまりました。そんな中、家康は上杉軍をほぼ単身で釘づけにした最上義光の働きを大きく評価、本領村山、最上郡のほかに庄内地方の田川、飽海郡を加増しました。義光は出羽秋田に入部した佐竹氏と雄勝郡・由利郡を交換し村山・最上・田川・飽海・由利五郡五十七万石の大大名になったのです。
 念願の庄内地方を手に入れ生涯の目的を果たした義光でしたが、晩年は不幸でした。居城山形城を修築し壮大な城下町を整備するも、後継ぎと期待していた長男義康と不和を生じます。徳川家に小姓として出仕し関係の深い次男家親を推す家中の勢力から讒言を受けるのです。愛娘駒姫の不幸などで人を信じられなくなっていた義光は、この讒言をまんまと信じ義康を遠ざけました。その直後義康は何者かの手によって暗殺されます。義光の命令だったとも言われますが真相は分かりません。義康は温厚篤実な性格で家中の信望も厚かったと伝えられます。もし彼が最上家の後を継ぎ、弟の家親には何万石か分けて独立させていれば、あるいは最上家は改易にならなかったかもしれません。
 のちに義康の死を激しく後悔した義光は、山形の義光山常念寺を菩提寺に定め弔いました。その手厚さは駒姫のものと同様だったそうです。慶長十九年(1614年)一月、江戸の二代将軍秀忠、駿府の大御所家康に相次いで拝謁した義光は山形に帰還して間もなく病気を発し波乱の生涯を閉じます。享年70歳。
 山形五十七万石は次男家親が継ぎました。ところが家親も元和三年(1617年)急死、後を継いだ子の義俊(当時13歳)は義光時代から尾を引く旧義康派と家親派との争いを纏め切れず家中の争いは江戸幕府までもたらされます。幕府は、他の外様大名と違い徳川家に早くから従っていた最上家を何とか存続させようと調停しますが、両派がたがいに相手を幕府に讒言している現状を見てついに堪忍袋の緒を切らせ元和八年(1622年)改易しました。これを最上騒動と呼びます。
 義俊は近江大森に一万石で入部し寛永八年(1631年)27歳で夭折。嫡男義智が家督を継ぎますが五千石に減知、最上家は大名の地位から転落し旗本交代寄合となって明治維新を迎えました。大名が存続することの難しさを実感させる最上家の盛衰ですね。しかし改易された他の外様大名と違い最上家に対する幕府の愛情を感じるのは私だけでしょうか?その意味では、いち早く家康と誼を通じた最上義光の遺徳と言えなくもありません。
                              (完)

戦国最上戦記Ⅳ  中央政権と最上氏

 話は少し遡ります。父稙宗を隠居に追い込み天文の乱に勝利した伊達晴宗は、本拠を出羽国置賜郡米沢に移し残りの生涯を戦乱で荒れ果てた領国の再建に努めました。しかし伊達氏の基本戦略である拡大路線は引き継ぎ、長男親隆を岩城氏に、三男政景を留守氏、四男昭光を石川氏、五男盛重を国分(こくぶん)氏など有力豪族に養子に出すなど平和的手段で領土を広げます。
 特に政景の入った留守家と盛重が入った国分家は、大崎氏と接する要地を占め、将来の大崎攻めを見越した布石でした。戦国大名伊達氏の覇権を確立したのは伊達晴宗だったと言っても良いでしょう。ところが跡を継いだ息子の輝宗(次男、1544年~1585年)は慎重な父とは似ても似つかない粗忽者でした。といっても早くから織田信長に誼を通じた外交の才など丸っきりの愚か者というわけではなかったのですが。輝宗の性格を象徴する事件が起こります。隣国畠山義継を圧迫し所領を大幅に削る過酷な処分を言い渡した輝宗は、宮森城に滞在していた時処分軽減を願い出て来た義継に、逆に拉致されるという醜態をさらしました。
 人の感情が読めない性格だったのでしょう。恨みを買う事を覚悟の上なら義継との会見にも細心の注意を払うべきでした。輝宗を拉致した畠山義継一行は本拠の二本松城に戻ろうとして、阿武隈川河畔の安達郡平石村高田あたりで父を救うべく追ってきた政宗の一行に追いつかれます。この時輝宗は「父に構わず討て」と叫んだと言われていますが、息子の政宗としては言われずとも鉄砲で父もろとも撃ち殺す気だったと思います。このまま拉致されれば伊達家は畠山家にどこまで譲歩しなければならないか分かりません。当主が敵に拉致されるなど有り得ない醜態でした。伊達家の大名としての面目も丸潰れです。結局政宗は父もろとも畠山義継一党を鉄砲で討ち果たしました。天正十三年(1585年)十月の出来事です。輝宗享年42歳。
 跡を継いだ伊達政宗(十七代、1567年~1636年)は、幼少期天然痘で右目を失明し独眼竜の異名でも有名です。祖父晴宗、父輝宗二代で築き上げられた伊達家の国力を背景に拡大路線を加速させました。政宗は最初標的を会津領主蘆名氏と定め、攻撃を開始します。ところが蘆名氏には関東の雄佐竹義重の子義広が養子に入っており跡を継いでいました。伊達家の蘆名領侵入は、南陸奥で蜂の巣を突いたような騒ぎになり佐竹義重を盟主とする連合軍三万を敵に回すことになります。わずか八千の兵を率いた政宗は、人取橋の合戦で力戦し両軍痛み分けに終わりました。戦いは佐竹氏の本国常陸に敵が侵攻したため突如佐竹軍が撤退。盟主がいなくなったため蘆名氏なども兵を引き、政宗は九死に一生を得ました。
 これに懲りた政宗は、蘆名攻めを一時中断しより組みしやすい大崎氏に矛先を向けます。これが天正十六年(1588年)の大崎合戦となるのですが、同族の大崎氏に泣きつかれた最上義光が援軍五千を率いて参戦したことは前回書きました。この時の勢力圏は最上・大崎連合が合わせて50万石弱だったのに対し、伊達家は70万石近い領国を持っていました。伊達氏は、蘆名氏や相馬氏など他にも周囲に敵を抱えていたため全力で大崎攻めをすることはできませんでしたが、それでも最上・大崎方の劣勢は否めませんでした。
 義光は、強大な伊達家に対抗するため大崎・最上・蘆名・佐竹の一大同盟を画策します。これはある程度功を奏し、政宗は米沢城を離れられなくなりました。最上、伊達両軍は関山、二口、笹谷峠などで対峙し小競り合いを続けます。このすきを突いて上杉景勝が庄内地方を奪ったのです。対伊達包囲網の矢面に立たされた義光は引くに引けない立場に追い込まれました。一方、政宗も最上に敗れれば背後を蘆名氏、佐竹氏に衝かれ伊達領国が崩壊する危険性を内包していたので立場は同じでした。
 睨み合いを続ける最上、伊達両軍のために一人の女性が立ち上がります。義光の妹、政宗の母である義姫です。この頃はお東の方と呼ばれていました。義姫は両軍の間に輿を乗り付け、「両軍が兵を引かなければここを一歩も動かぬ」と宣言しました。これには義光も政宗も困り果てます。とくに義光は、同盟していた他家への義理もあり武将の面目からも引けなかったのです。義姫は80日も山上で粘ったそうです。根負けした義光、政宗はたがいに兵を引きました。
 こうして最上義光はなんとか滅びずに済んだのですが、行動の自由を得た政宗が天正十七年(1589年)磐梯山麓の摺上原で蘆名義広を撃破し蘆名氏を滅ぼしたことからまたしても窮地に立たされます。都合120万石という大国に膨れ上がった伊達氏の圧力をまともに受けることとなったのです。この勢いに同族であった大崎氏でさえ伊達氏に屈し、義光は孤立しました。
 義光の危機は思わぬところから救われます。すなわち豊臣秀吉の小田原北条氏攻めです。奥州王となった伊達政宗は関東の北条氏と組んで豊臣政権と対抗しようとします。次の天下人は秀吉だと確信した義光は、秀吉との接近を図りました。といっても庄内地方を奪った上杉景勝は、家老の直江兼続を通じて石田三成、増田長盛ら秀吉側近団に取り入っていました。そこで義光は、豊臣政権外様最大の実力者徳川家康に働きかけます。
 家康としても、清和源氏の名門最上氏が誼を通じてくるのは悪い気がしませんでした。将来の天下を秘かに窺う家康は、源氏の氏の長者の座も狙っていたのです。天正十八年(1590年)秀吉の小田原攻めに参陣した義光は、家康のとりなしで本領村山・最上二郡24万石の安堵を得ました。実は義光の参陣は伊達政宗より遅かったのですが、家康の尽力によって事なきを得たのです。このことに感謝した義光は次男の家親を家康の小姓として差し出しました。これは諸大名に先駆けたもので、まだ豊臣秀吉健在の時期では異例中の異例です。
 関東の雄、北条氏を滅ぼした秀吉は奥州仕置を行いました。厳しい検地に反対した一揆が各地で巻き起こります。葛西大崎一揆を扇動した伊達政宗のエピソードは有名ですね。最上氏の隣国でも奥州仕置に反対する一揆が続発しました。庄内地方ではせっかく領主に復帰した大宝寺義勝が一揆を扇動したかどで改易、大和に流罪(のちに上杉家預かり)となります。仙北でも検地反対一揆が起き、出兵した義光は恩賞として雄勝郡を得ました。仙北の領主小野寺義道は仙北一揆を防げなかった罪で領地の三分の一を没収されました。
 伊達政宗もまた本領の置賜、伊達、信夫三郡を没収され旧葛西・大崎領に追いやられます。義光は豊臣政権に細心の注意を払って仕えました。三男義親を豊臣家に人質として差し出したほか、当時秀吉の後継者と目されていた豊臣秀次に愛娘の駒姫を側室として差し出すなど涙ぐましい努力を続けます。駒姫の件は、九戸政実の乱平定の途中山形城に立ち寄った秀次が、駒姫のあまりの美しさに心を奪われ側室として差し出すよう義光に執拗に迫ったのだとも云われています。
 駒姫は、後に悲劇に見舞われます。そしてこの事件は義光が豊臣家を見限った契機にもなりました。次回、最終章「山形57万石」にご期待ください。

戦国最上戦記Ⅲ  最上義光(よしあき)の台頭

 戦国大名伊達氏の富強は九代大膳大夫政宗が出羽国最南端の置賜郡を制圧してからでした。これで本拠の陸奥国伊達郡、信夫郡と合わせてざっと30万石になります。この数字がいかに大きいかと言うと、戦国時代最上義光が生涯かけて征服した石高が24万石弱(後に関ヶ原合戦の功績で57万石)、南部氏と津軽氏が争った陸奥北部が全部合わせても20万石くらいだったことでも分かります。伊達氏はさらに現在の宮城県に当たる刈田郡、伊具郡(ともに阿武隈川流域)にまで勢力を広げ十四代稙宗(1488年~1565年)の時代にはおそらく50万石から60万石の実力はあったと思います。このくらいの石高だと実に2万弱の動員兵力があります。
 こうなってくると、元南朝方で足利家の敵対勢力、近隣諸国の領土を蚕食する悪党であってもおいそれと幕府が滅ぼせるはずはありません。実際鎌倉公方は何度か遠征軍を送りましたが、その都度撃退され伊達氏の支配体制は微動だにしませんでした。さらに伊達氏は、当面の敵である鎌倉公方とその傘下の奥州探題(大崎氏)、羽州探題(最上氏)に対抗するため直接京の足利将軍家に結び付く方策を採りました。足利将軍家が成立の過程から鎌倉公方家と潜在的な敵対関係にあったことを伊達氏がうまく利用したのです。
 文明十五年(1483年)上洛を果たした十二代成宗が将軍義政や正室日野富子に贈った莫大な贈り物は当時の記録に残されるほど破格なものだったと伝えられます。伊達氏は京都扶持衆という将軍家直臣となりさらには陸奥守護という足利幕府体制ではありえないほどの優遇を受けました。
 最上氏も九代義定(1492年?~1520年)が長年の宿敵寒河江氏を永正元年(1504年)何度かの合戦の末実質的傘下に収めたものの永正十一年(1514年)には伊達稙宗の侵略を受け長谷堂城の戦いで敗北、稙宗の妹を義定の正室に迎えさせられ実質的な伊達氏の支配下に置かれました。最上氏の苦悩はここから始まります。稙宗は強大な軍事力を背景に最上氏、大崎氏ら近隣の諸大名に婚姻を押し付け支配地を広げました。
 伊達稙宗が嫡男晴宗と争った天文の乱(1542年~1548年)には最上氏も巻き込まれ大きな被害を受けます。天文の乱は最終的に晴宗が勝ちますが、戦乱で荒廃した伊達郡から本拠を出羽国置賜郡に移し米沢城を支配の拠点にしました。これで最上氏への圧力は倍加します。米沢は晴宗、輝宗、政宗(独眼竜)と伊達氏三代の居城となりました。
 最上氏十一代義光(1546年~1614年)が家督を継ぐときも伊達輝宗(1544年~1585年)の介入を受けます。伊達氏からの独立を画策していた義光を嫌い、父最上義守との不和に付け込み義守救援と称して軍勢を派遣したのです。血みどろの戦いの末これを撃退したものの義光は妹義姫を輝宗の正室に差し出さざるを得なくなり伊達氏への従属関係は続きました。義光の伊達氏に対する恨みは生涯消えることはありませんでした。大河ドラマの影響で最上義光が悪、伊達輝宗が善というイメージがありますが、史実を見るとどちらが悪いのか一目瞭然です。輝宗の正室になった義姫は後に有名な独眼竜政宗を産みます。
 伊達氏の矛先が、会津盆地の蘆名(芦名)氏や陸前の大崎氏へ向けられたことが義光には幸いしました。義光は北や西に領土拡大を図ります。伊達氏と結び宗家と対立する天童氏ら一門衆との戦いに四面楚歌になりながらも打ち勝つと庄内平野の大宝寺氏、仙北(横手盆地)の小野寺氏を攻めました。義光も戦国大名、相当あくどい調略を使ったようです。小野寺氏の重臣鮭延秀綱を寝返らせたり、大宝寺氏の重臣東禅寺義長を内応させて大宝寺義氏を尾浦城に攻め滅ぼすなど着々と侵略を進めます。
 最上義光が義氏の後を継いだ弟の大宝寺義興を討って念願の庄内平野を手中に収めたのは天正十五年(1587年)のことです。ところが庄内大宝寺氏は関東管領山内上杉氏の同族越後上杉氏に属し出羽と言うより越後との結びつきが強い大名でした。長尾景虎が関東管領上杉憲政の名跡を譲られ上杉謙信となった後もこの関係は続きます。大宝寺義興は上杉家の重臣本庄繁長の息子義勝を養子にしていたため、上杉景勝は義勝を大宝寺氏の正式な後継者と考え、庄内進出の大義名分にしようと考えました。
 天正十六年(1588年)伊達政宗が大崎義隆を攻撃すると、同族であり義隆の妹婿でもあった義光は援軍五千を率い伊達軍と戦います。義光が伊達氏との戦いで身動きが取れないと睨んだ上杉景勝は本庄繁長、大宝寺義勝父子に庄内侵攻を命じました。最上領となって日が浅い庄内地方の諸将はかつての旧主大宝寺義勝が上杉軍と共に来ると次々と寝返ります。義光は伊達氏との戦いで身動きが取れないので、最上方は東禅寺義長らが軍勢を率い天正十六年八月尾浦城に近い十五里ヶ原で迎え撃ちました。
 戦いは当初互角だったそうですが、総大将の東禅寺義長が戦死すると形勢は一気に上杉軍に有利になり最上方は大敗、次いで朝日山城の戦いでも敗れた最上方は庄内地方を失います。この合戦は豊臣秀吉の惣無事令(1585年)違反でしたが、上杉家と豊臣家の関係から不問にされ庄内地方は上杉方の大宝寺義勝のものとなりました。煮え湯を飲まされた義光は、以後徳川家康と急接近するようになります。
 奥州の地にも豊臣中央政権の影響が及び始めていました。次回、豊臣政権に組み込まれた最上義光の苦悩を描きます。

戦国最上戦記Ⅱ  最上氏の出羽入部

 下級貴族出身ながら鎌倉幕府創設に多大な貢献をし政所初代別当(長官)となった大江広元は、頼朝の奥州征伐後寒河江庄(寒河江市と西村山郡と北村山郡の一部)、長井庄(範囲は不明ながら置賜郡のかなりの部分を占めたらしい)という広大な土地の地頭職を賜ります。このうち寒河江庄は長男親広が、長井庄は次男時広が受け継ぎました。しかし承久の変で親広が上皇方に味方したため大江氏惣領の地位には弟時広の系統に移ります。ただ親広は父と弟が鎌倉幕府勝利に多大の貢献をしていたため追及の手は甘く寒河江庄に下向しこの地で没したようです。寒河江庄は一部削られたものの親広の次男広時が地頭職を賜りその子孫が代々継承しました。
 惣領になった時広の子孫は鎌倉時代末期まで大江氏を名乗っていましたが後に荘園の名前から長井氏を称しました。一方広時の子孫は寒河江氏を名乗ります。長井氏は代々鎌倉幕府の評定衆を務め備後の守護職にも任ぜられました。ちなみに大江広元の四男季広の子孫から後の戦国大名毛利氏が生まれます。もっと蛇足を言うと、備後長井氏は福原氏を名乗り毛利家の重臣となりますが、もともと家格的には福原氏の方が上でその関係が逆転するんですから歴史は面白いですね。福原氏から出た幕末の長井雅楽も備後長井氏の子孫になります。
 南北朝時代にも長井氏が北朝、寒河江氏が南朝に属するなど一族の対立は長く続いたようです。南北朝時代は全国的に北朝有利に進みましたが辺境の九州と奥羽は例外で南朝の勢力が一時強大でした。足利尊氏はこのことを憂慮し1334年足利一族で随一の名門斯波高経の嫡男家長を奥州総大将(後の奥州管領、奥州探題)に任じ陸奥に下向させます。これは斯波氏の本貫地が陸奥中部にあったことも関係していました。
 家長が南朝の陸奥守北畠顕家に敗北し鎌倉で自害すると、吉良や畠山など足利一門が奥州管領として下向しますがうまくいかず高経の弟家兼に白羽の矢が立ちました。家兼は文和二年(1353年)奥州管領として陸奥国に下向すると大崎五郡を中心に支配を固め曲がりなりにも一応は奥羽に幕府支配体制を確立させます。家兼の子孫は領地の名から大崎氏を称しました。ちなみに最初に陸奥に入った斯波家長の子孫は本拠斯波郡(岩手県中部)を支配し、高水寺斯波氏となりました。大崎氏は「朔の上様」と奥州武士に尊崇され最盛期には大崎五郡を中心に35万石を数えたそうです。
 ところで広大な奥州の地は大崎氏が支配するのは広すぎました。南朝の伊達氏など反抗的な豪族も多く家兼は出羽の地を分けて次男兼頼に分割支配させようとします。陸奥は長男の直持が継承しました。斯波兼頼(1315年~1379年)が出羽に入部したのは延文元年(1356年)だとされますが、何の資格で出羽に入ったかは謎です。史書には「出羽按察使(あぜちは令外官のひとつ。国司の施政や民情などを巡回視察した官)」と書かれていますがこれはちょっと考えにくいと思います。按察使は平安時代には陸奥・出羽だけを任地としたものになりましたが大納言・中納言の名目上の兼職となっており、おそらく箔をつけるために自称したのではないかと思えるのです。別の史書には出羽大将・修理大夫とありますが修理大夫は武家の官職としてありそうなのでこちらの方が信憑性が高いです。
 出羽大将というのは出羽(羽州)探題のことですが、これもどうやら足利幕府の正式な役職ではなく奥州探題大崎氏の職掌を一族で勝手に分掌したのを後で足利幕府(特に鎌倉府)が追認した気配があります。
 斯波兼頼は、最上郡(当時。のちの村山郡)に入り山形盆地の中心地山形に城を築きました。当時出羽南部で最大勢力であった寒河江氏とは最上川をはさんで対峙します。正平二十三年(1367年)、将軍足利義詮、鎌倉公方足利基氏が相次いで死去すると、その混乱に乗じて南朝方の有力武将新田義宗(義貞の三男)、脇屋義治(義貞の弟脇屋義助の子)ら新田一族が上野・越後国境で挙兵、寒河江氏ら奥州の南朝方もこれに呼応します。幕府方は鎌倉公方足利氏満を名目上の総帥(当時9歳の幼児だった)奥州探題斯波(大崎)直持、羽州探題斯波兼頼兄弟を総大将として数万の大軍を集めました。
 これが応安元年(1368年)漆川の合戦(山形県西村山郡大江町)に発展し幕府軍が大勝、南朝方は寒河江氏ら大江一族63人が討死、自害するなど壊滅的な打撃を受けます。応安六年(1363年)、勢力を大きく後退させた寒河江氏はついに幕府に降伏しました。こうして出羽も一応の安寧を得ます。山形城主斯波兼頼の子孫は最上氏を称しました。最上氏は、一族を領内各地に配置し山形盆地ばかりか新庄盆地に支配を拡大させ村山・最上両郡にまたがる大きな勢力を築きます。
 南朝方の有力武将寒河江氏の敗北・降伏で平穏になったはずの出羽でしたが、置賜郡長井庄の地頭職で終始北朝方であった長井氏に危機が訪れます。隣国陸奥で伊達郡・信夫郡(現在の福島県伊達市から福島市の大部分)を領していた伊達宗遠(伊達氏八代、1324年~1385年)が突如長井領の置賜郡に侵略の手を伸ばし始めたのです。最初の侵略は康歴二年(1380年)、重臣の茂庭行朝(たぶん当時は鬼庭と名乗っていたはず)らと共に置賜郡に侵攻した宗遠は高畠城を築き橋頭保とします。
 この暴挙は鎌倉公方足利氏満の怒りを買い、近隣の豪族に長井氏救援、伊達氏討伐を命じますが伊達氏は何度敗北しても置賜郡侵略を諦めず宗遠の子政宗(九代、1353年~1405年)の代、至徳二年(1385年)ついに長井氏を滅ぼして置賜郡を平定します。この政宗は独眼竜とはもちろん別人で、子孫の藤次郎政宗(十六代)は先祖にあやかって政宗の名を継ぎました。
 長井氏最後の当主広秀は、鎌倉府政所執事を務めるなど幕府の重臣として本拠長井庄を留守にしていたのを伊達氏に付け込まれたのだと思います。また近隣の豪族が自分と直接関係ない長井氏救援をだんだん渋るようになってきたのも大きかったのでしょう。置賜郡を制圧した伊達氏は、本拠伊達郡・信夫郡のほかに伊具郡(宮城県南西部)にも勢力を拡大しておりこの当時奥州随一の大名に成長していました。江戸時代の石高で換算すると伊達郡・信夫郡・置賜郡だけで30万石あります。ちょうどこれは江戸初期の米沢藩上杉家の領地に匹敵します。後に上杉家は後継ぎのごたごたから伊達郡・信夫郡を没収され15万石に減知されていますから、置賜郡だけで15万石あった計算になります。伊達氏の置賜郡制圧は奥州諸豪族に衝撃をもたらしました。
 鎌倉公方は何度か伊達氏討伐を行いましたが無駄でした。結局強い者が勝つ世の中で、しぶしぶながらも伊達氏の存在を認めざるを得なくなります。長年幕府の忠臣として活躍した長井氏にとっては良い面の皮でした。伊達氏歴代当主の幕府に対する莫大な献金も功を奏し十四代稙宗(1488年~1465年)の時代には、陸奥守護という本来守護職を置かない陸奥国で異例の待遇まで受けるに至ります。これは奥州探題大崎氏の職掌と被り、勢力の弱体した足利一族の大崎氏を幕府が見捨てた形にもなりました。
 奥州の戦国時代は、この伊達氏を中心に繰り広げられます。次回は伊達氏の圧迫を受けた最上氏の苦悩、そして最上氏の全盛期を築いた最上義光(よしあき)の台頭を描きます。

戦国最上戦記Ⅰ   戦国時代に至るまでの出羽国の情勢

 大宝寺義氏と由利十二頭の記事を書いて以来、出羽国とくに現在の山形県に当たる羽前国に対する興味が尽きません。そこで羽前の歴史に大きく関わる大名、出羽山形城主最上氏を軸に戦国時代の山形県を語ろうと思います。
 第一回は、山形県とはどういうところか簡単な歴史と地理を語ります。といいうますのも地元の山形県や東北地方の方は土地勘があると思いますが、私のような南国九州の人間はまず地理感覚をつかむことが歴史を把握するための第一歩だと思うからです。
 山形県は東西約97km、南北約153km、縦に長い長方形の形をしています。西は日本海沿岸部の庄内地方、東は南から順に置賜地方、村山地方、最上地方に分かれます。置賜の米沢盆地南端、吾妻山地に発する最上川は北流し最上地方で西に流れを変え庄内平野で日本海に注ぐ東北有数の大河です。北は鳥海山系で秋田県と隔てられ、東は東北地方の脊梁、奥羽山脈がそびえ県の中央部には出羽山地が北に延びています。
 山形県を形成する四つの地方のうち、日本海沿岸の庄内地方と米沢盆地を中心とする置賜地方は分かりやすいのですが、村山地方、最上地方の関係は複雑です。事実江戸期も庄内地方に庄内(鶴岡)藩酒井氏、置賜地方は米沢藩上杉氏と統一した大名が続いたのに対し、山形藩に代表されるように特に村山地方は譜代大名の左遷先と噂されるほど頻繁に大名家が交替し、領地関係も複雑に入り込んでとても分かりにくいです。
 さらに村山地方、最上地方を難解にさせているのは、もともとこの両地方は律令体制では最上郡という一つの郡だったことです。仁和二年(886年)最上郡と村山郡に分割されたものの、最初は南の方が最上郡、北が村山郡でした。太閤検地の時、両者の名称が逆転し現在の山形盆地を中心とする南が村山郡、新庄盆地を中心とした北部が最上郡とされました。ですから、私のような門外漢は最上郡と村山郡の区別がつきません。地元の山形県の方が見たら頓珍漢な事を書いてるとは思いますが、時代ごとに名称が変わっているので曖昧なまま記述を進めます。明らかな間違いの時はご指摘ください。できるだけ早く修正いたします。
 さて、山形県で最初に稲作が始められたのは紀元前2世紀ごろだそうですから早くから開けていたようです。最上川流域の遺跡から出土しています。東北地方は蝦夷の人たちによる狩猟採集社会だとばかり思っていたので意外でした。すくなくとも山形県は古墳時代には完全に稲作農耕社会に移行していたようです。大化の改新後、大和朝廷の勢力は日本海沿いに渟足柵(ぬたりのさく、ぬたりのき)、磐船柵、都岐沙羅柵(つきさらのさく)、出羽柵と城塞群を築き、兵士を常駐させるとともに関東地方や中部北陸地方から農民を移住させ支配地域を北に拡大していきました。
 人口が増えてくると前シリーズ大宝寺氏の記事で簡単に触れたように出羽国が成立、平安末期には奥州藤原氏の勢力に組み込まれました。陸奥押領使、鎮守府将軍という職掌の藤原清衡(奥州藤原氏初代)には出羽を支配する政治的根拠はないのですが、平安時代この地方に成立した長井庄、大泉庄などの荘園を摂関家が取得し、その代官として年貢を送る役目を清衡が引き受けたことから出羽に奥州藤原氏の勢力が拡大したのだそうです。
 鎌倉幕府が成立し源頼朝によって奥州藤原氏が滅ぼされると、この遠征に功績のあった御家人たちは恩賞として荘園の地頭に任命されます。主なものは長井庄、寒河江庄の大江氏、大泉庄の武藤氏、大曾禰庄の安達氏などです。最初は一族を派遣して支配していた御家人たちですが鎌倉末期になると現地に下向し土着します。そのなかから大宝寺(大泉)氏や寒河江氏などのように戦国大名化する者たちが出てきました。
 次回は、南北朝時代の山形県と最上氏(斯波氏)の出羽入部を描きます。

大宝寺義氏の由利郡侵攻と由利十二頭Ⅳ  由利合戦と出羽のその後

 由利十二頭が十五家もあるのになぜ十二か?ということでどうも仏教の十二神将に関係があるらしいと書きましたが出典みつかりました。天徳三年(1331年)出羽国由利郡津雲出郷の源正光、滋野行家が天下泰平を祈願して鳥海山に十二神将像を奉納したことからこの地方で十二という数字が神聖視されたそうです(姉崎岩倉著の「由利郡中世史考」の孫引き、【とある社会人と毛利元就ブログ 由利十二頭記事】参照)。
 大宝寺義氏は、十二頭のうち自領庄内地方に近い仁賀保氏を核として由利郡侵攻を進めました。仙北横手城主小野寺義道(1566年~1646年)は十二頭の矢島氏を通じて由利郡にも支配を浸透させていましたが天正九年(1581年)配下の鮭延秀綱が離反、隣国角館城主の戸沢盛安や村山地方の最上義光の侵略を受け由利郡どころではなくなります。最上義光もこの頃置賜郡の伊達輝宗との抗争を本格化させており北に延びる状況ではありませんでした。唯一気になるのは秋田郡の安東愛季(ちかすえ)だけでしたが、これも宿敵南部氏との火種を抱えておりおいそれと南下できないだろうという読みから、天正十年(1582年)三月の大宝寺義氏由利郡侵攻となったのだと思います。
 由利十二頭に対外勢力の後押しがない状況では、大宝寺軍は有利でした。さらには安東氏は湊騒動という内紛を抱えており重臣豊島玄蕃(旧湊安東家臣)が愛季の湊安東家乗っ取りに反発して蜂起していたのです。豊島玄蕃は仁賀保氏と姻戚関係を結んでおり、大宝寺=仁賀保=豊島という関係を軸に大宝寺義氏は由利郡の大半を制圧します。義氏は安東氏の背後に位置する大浦(津軽)為信と同盟し安東愛季を牽制することも忘れませんでした。
 得意の絶頂にあった義氏ですが、運命は急展開を見せます。大宝寺軍は最後まで抵抗した安東方小介川氏の新沢城を囲みました。安東愛季は大浦軍と対峙していましたが、急報をうけ手勢を率いて南下します。落城寸前だった新沢城は安東軍の援軍で息を吹き返し戦いは痛み分けに終わりました。大宝寺義氏は由利郡侵攻と同時に最上領の村山郡にも手を出していました。大宝寺氏の国力を考えると二正面作戦は理解に苦しむのですが、案の定清水城の戦いでも清水氏・鮭延氏・最上氏の連合軍に敗北、退却を余儀なくされます。
 総動員体制だった大宝寺氏はたび重なる外征の失敗で急速に国内の支持を失いました。もともと無理に無理を重ねての対外進出だったので領民は重税にあえぎ、義氏のことを「悪屋形」と陰では罵っていました。家臣の忠誠心も揺らいでいた中、天正十年(1582年)六月には後ろ盾と頼んでいた織田信長が本能寺で横死するという事件が起こります。
 信長の勢力を背景にした義氏の屋形号の権威は失墜し、悪いことに大宝寺義氏という共通の敵を持つ安東愛季と最上義光が同盟を結ぶ事態にまで発展しました。大宝寺庶流の砂越氏や配下の来次氏は義氏を見限り次々と離反します。そして止めは側近の前森蔵人でした。前森は酒田代官を務めるほど信頼されていましたが、最上義光と通謀し蜂起したのです。この反乱には大宝寺一族、家臣、多くの国人が参集し義氏は孤立します。それだけ嫌われていたのでしょう。大軍に膨れ上がった反乱軍は義氏の居城尾浦城を囲みました。もはやこれまでと覚悟した義氏は自害、大宝寺家督は義氏の弟で藤島城主の義興が継ぎます。大宝寺義氏享年33歳。
 
 前森蔵人は東禅寺城に入り東禅寺義長と改名、庄内地方は最上方の東禅寺氏、来次氏、砂越氏と勢力を大きく後退させた大宝寺氏とに分割されました。一方、由利郡は大宝寺義氏の自滅によって安東愛季が制圧します。おそらく由利郡を安東氏が庄内地方を最上氏が取るという密約が出来上がっていたのだと思います。
 その後大宝寺氏は天正十五年(1587年)最後の当主義興が最上義光に討たれました。本庄繁長の子で義興の養子に入っていた義勝が大宝寺氏を継承、上杉景勝傘下の大名として生き残ります。しかし天正十九年(1591年)豊臣秀吉奥州仕置の際庄内一揆を扇動した罪で改易、義勝は上杉氏の家臣として命脈を保ちます。その後父本庄繁長の死を受けて本庄氏の家督を継いだため大宝寺氏の家名は断絶しました。
 由利十二頭はどうなったでしょうか?一時安東愛季の配下になったものの秀吉の奥州仕置き後は最上義光に属し関ヶ原の合戦では西軍の上杉軍と対峙します。ところが直江兼続率いる上杉軍が最上領に侵攻すると最上軍が敗北するのを見て次々と逃亡。結局最上方に残ったのは仁賀保、赤尾津、岩谷、滝沢の四家のみでした。戦後、東軍が勝利すると家康は逃亡した由利衆を武士にあるまじき行為として許さず改易します。生き残ったのは幕臣となった仁賀保氏、打越氏、最上家臣となった赤尾津氏、滝沢氏などごく少数でした。その中で仁賀保氏は一時的にせよ故郷の由利郡仁賀保に返り咲き一万石の大名になったので幸運な部類でした。それでも最後は嫡流が絶え兄弟で分割相続され旗本に戻ります。
 戦国大名が近世大名として生き残り明治維新を迎えるのは本当に難しいことだと改めて考えさせられますね。

大宝寺義氏の由利郡侵攻と由利十二頭Ⅲ  戦国大名大宝寺義氏

 大宰少弐武藤資頼の弟氏平から始まる出羽武藤氏は、五代長盛の時はじめて出羽に下り大泉庄の中心大宝寺に城を築きます。それまで大泉氏と称していた出羽武藤氏はこの時以来大宝寺氏を名乗りました。大宝寺氏は、天文元年(1532年)大宝寺城が兵火に遭ったため尾浦に城を築いて本拠を移します。資料によっては大宝寺長盛が尾浦城を築いて移転したことになっていますが、長盛は生没年不詳ながら鎌倉末期の人。天文元年の大宝寺当主は十五代晴時ですので矛盾します。あるいは晴時が一時先祖にあやかって長盛と名乗った可能性もありますが現在のところ資料が見つかりません。
 大宝寺氏は十二代政氏以来、大泉庄に含まれる修験道の聖地羽黒山の別当を務めます。これは大宝寺氏が庄内地方で勢力を拡大するのに役立ちました。十五代大宝寺晴時の時は、飽海郡代砂越氏に養子に入っていた一族の砂越氏維が叛き合戦となるなど多難な治世でした。砂越氏を蜂起させたのは隣国村山地方の最上氏だとも云われ、大宝寺氏の勢力は決して安泰ではありませんでした。大宝寺城が焼失したのはこの時の合戦が原因だったそうです。越後上杉氏の仲介で一時は和睦しますが、砂越氏の反抗は続き十五里ヶ原の戦い(1588年)で上杉家の重臣本庄繁長と大宝寺氏連合軍が東禅寺義長、勝正兄弟率いる最上軍に勝利するまで続きますから庄内地方の不安定材料でした。
 戦国時代が本格化すると大宝寺領内でも国人の反抗が続き統制力が衰えます。大宝寺氏は家を保つため越後の本庄氏と結ぶなど苦労が絶えませんでした。ところが永禄十一年(1568年)本庄繁長が武田信玄の策謀で主君上杉謙信に叛くと大宝寺当主義増も同調せざるを得なくなります。上杉謙信は難敵本庄繁長より先に大宝寺氏を攻めたため弱小勢力大宝寺氏は降伏、息子義氏を人質に差し出して臣従を誓わされます。
 義氏は一年間の人質生活の末帰されました。永禄十二年(1569年)父義増の隠居で家督を相続すると、義氏はそれまでの退勢を挽回するように武断政治を断行、家中を纏めます。外に向かっても積極的な外征を仕掛けました。大宝寺義氏(1551年~1583年)は弱冠二十歳にしてほぼ庄内地方を平定するなど目覚ましい働きを示します。
 対外的にも中央の織田信長と誼を通じ、信長から屋形号を許されるなど成果を上げます。しかし大宝寺氏は羽黒山別当と屋形号という名目しか得ることができず、他国へ進出する大義名分に欠けていました。それでも強大な勢力なら問題なかったのですが、村山地方の最上氏、置賜郡を本拠とする伊達氏、仙北地方の小野寺氏、秋田平野の安東(秋田)氏など周囲を敵に囲まれ、名目的ではあっても臣従していた上杉氏とは、頭越しに織田信長に使者を送ったこともあり関係がぎくしゃくします。義氏の領土拡大は無理に無理を重ねたものだったのです。
 南を上杉氏、東を最上氏に抑えられた大宝寺氏が拡大できるのは北方のみでした。鳥海山を越えた北の由利郡への進出は義氏の父義増の時代から始まります。義氏は由利郡進出に際し仙北の小野寺氏と連携し介入していきます。ところが由利郡には小野寺氏も野心を持っており、さらには最上氏や一族の分裂(檜山安東氏と湊安東氏)を統一した安東愛季(ちかすえ)も南下の兆しを見せ、それぞれが由利十二頭の豪族たちと結び複雑怪奇な様相を呈してきます。
 この時の勢力は、大宝寺氏20万石、最上氏20万石、小野寺氏8万石、安東氏10万石強と拮抗し由利郡五万五千石を制したものが一気に出羽の覇権を握ることになるはずでした。最上氏は南に宿敵伊達氏がいるために全力を由利郡に投入できず、小野寺、安東は大宝寺氏より小さいので一見義氏が有利なようですが、これまで見てきたように大宝寺氏が完全に庄内平野を掌握していたとは言えず状況はどう転ぶかわかりませんでした。とくに安東愛季は安東氏の最盛期を築いた名将で油断のならない相手だったのです。
 由利郡の支配権をめぐって小野寺氏と決裂した義氏は、天正十年(1582年)三月由利郡完全支配を達成するために軍を率いて北上します。旧暦の三月なら現在の四月。東北地方なので雪は残ってるはずですが、NHKタイムスクープハンターで描くような猛吹雪が起こった可能性は低いような気がします。当時の記録にはあるのかもしれませんが、雪解けを待っていれば他勢力に先んじられるので機先を制するためにはぎりぎりの時期だったのでしょう。完全な厳冬期だとそもそも軍勢が行軍できるはずありません。
 次回は、由利合戦の顛末そして大宝寺義氏のその後を描きます。

大宝寺義氏の由利郡侵攻と由利十二頭Ⅱ  羽後国と由利郡の状況

 現在の秋田県と山形県を合わせて出羽国と呼ぶことは前記事で書きました。そのうち山形県の領域を羽前、秋田県の領域を羽後と呼ぶことも。ただし羽前・羽後という呼び名は戊辰戦争以後のことで江戸期以前はまとめて出羽国でした。これは陸奥国にも言えることで磐城・岩代(福島県)、陸前(宮城県)、陸中(岩手県)、陸奥(青森県)と分割されたのは戊辰戦争後のことでした。
 さて羽後国ですが、ほぼ現在の秋田県と重なるものの秋田県北東部の鹿角地方は陸奥国の領域です。ざっと地勢を眺めると日本海沿いは北から能代平野、秋田平野、本荘平野が続きます。内陸部は岩手県との間の脊梁山脈奥羽山脈が南北に連なり西部には鳥海山から北に延びる出羽山地があります。奥羽山脈と出羽山地の間には横手盆地が広がり、秋田県では最大の平野を形成します。横手盆地は雄物川とその支流が潤し秋田の米どころとなっています。平安時代の比較的早くから開発され、前九年の役、後三年の役で出てくる仙北三郡とは横手盆地の領域とほぼ重なります。そのほか秋田県北東部には米代川中流域の大館盆地があり、その下流に能代平野が形成されています。
 出羽国は寛永期の検地で87万石の石高がありますが、そのうち羽後の部分はおそらく30万石もないと思います。江戸期、南西部由利郡以外の羽後国を領域にした秋田(久保田)藩佐竹氏の石高が21万石ですから大体そんな位でしょう。一方、羽前国は江戸期米沢藩上杉氏の領域だった置賜郡だけで15万石あり、前記事で書いた庄内地方の田川郡、飽海郡は20万石、残りの最上郡、村山郡なども合わせて20万石あります。面積の割に羽後の石高が低いのはやはり稲作の北限の問題があったのだと思います。出羽国の国府も最初は酒田市にあったそうです。
 前置きが非常に長くなりましたが、由利郡というのは現在の秋田県南西部日本海沿いにあります。現在の由利本荘市、にかほ市と秋田市の一部(南部)にあたります。石高はだいたい五万五千石ほど。戦国時代統一した勢力は出ず、由利十二頭という小豪族の一揆が割拠していました。一揆というと農民反乱をイメージしがちですが本来の意味は「何らかの理由で心を一つにした共同体、あるいは盟約」の意味です。
 秋田郡の安東氏、雄勝郡の小野寺氏、最上郡の最上氏、庄内地方の大宝寺氏と周囲を囲まれ常に狙われていたため豪族たちが団結してこれに当たったのでしょう。由利十二頭の顔ぶれを眺めると
 矢島氏…同族の仁賀保氏とは二大勢力を形成。由利郡矢島が中心。
 仁賀保氏…由利郡仁賀保が中心地。大宝寺氏と結び、小野寺氏と結んだ矢島氏と抗争。
 赤尾津氏…由利郡赤尾津が本拠。安東氏と結び大宝寺氏に抵抗。
 潟保氏…由利郡潟保が本拠。
 打越氏…本拠は由利郡打越。楠木正儀の子孫と称す。
 子吉氏…由利郡子吉が中心。
 下村氏…由利郡下村が中心。
 玉米氏…由利郡玉米に勢力を張る。
 鮎川氏…本拠は由利郡鮎川。
 石沢氏…本拠は由利郡石沢。
 滝沢氏…由利郡滝沢が中心。先祖は由利氏を称す。終始矢島氏と敵対し、仁香保氏と結ぶ。
 岩屋氏…由利郡岩屋付近。
 羽川氏…由利郡羽川。新田氏の子孫を称す。
 芹田氏…由利郡芹田。大江氏を称す。
 沓沢氏…由利郡沓沢。矢島氏と行動を共にし、矢島氏の客将という説も。
 禰々井(根井)氏…本拠は由利郡直根。木曽義仲の家臣根井行親の子孫を称す。
 十二頭と言いながら十五家もあります。十二というのは豪族の数を表したものではなく仏教の十二神将から来ているとも云われます。旗本八万騎や江戸八百八町などと同様数が多いことを示したものでしょう。最大の矢島氏、仁賀保氏、赤尾津氏あたりでも四千石程度で小さな豪族の集まりでした。
 当初は外敵に対して団結して当たっていた由利十二頭でしたが、周辺の戦国大名が侵略の魔の手を伸ばすにつれ次第に切り崩されていきます。特に十二頭の二大勢力矢島氏と仁賀保氏はそれぞれ小野寺氏、大宝寺氏の勢力を背景に30年にも渡り激しい代理戦争を繰り広げました。これにより由利十二頭の団結が崩れ天正十年(1582年)庄内地方を統一した大宝寺義氏の侵略を迎えるのです。
 次回は、戦国大名大宝寺義氏の台頭と由利合戦を描きます。

大宝寺義氏の由利郡侵攻と由利十二頭Ⅰ  その地勢と大宝寺氏の成立

 数ヶ月前の話です。NHKのタイムスクープハンター「壮絶!雪上の戦い」という番組を偶然見ました。大宝寺義氏、由利郡という言葉を聞いて義氏が由利郡へ進攻し由利十二頭やそれを支援する安東(秋田)愛季(ちかすえ)と戦った由利合戦のことだなとピンと来たんですが、期待とは全く違い当時の情勢も話さなければ戦の理由、意義もなくマタギがどうのこうのとかかわけのわからない演出で、ただ「雪の季節に戦してはいけないよね」というごく当たり前の結論になった残念な番組でした。
 あまりにも不満が残ったので自分なりに調べて記事を書こうと思った次第です。といっても大宝寺氏、由利十二頭に関しては安東氏絡みでちょっと調べた程度、最上義光の小説で読んだくらいで素人に毛が生えた知識しかありません。私は知識不足に絶望しさっそくアマゾンで「山形県史」「山形県の歴史散歩」を購入し間もなく届く予定。現段階ではネットで集めたレベルの知識ですので後に大幅修正の可能性はありますが、とりあえずは見切り発車でスタートします。
 第一回は、大宝寺の領土庄内地方とはどんなところか?そして大宝寺氏の成立に関して述べます。
 山形県庄内地方は山形県の日本海沿岸部庄内平野を中心とした地域です。県中央部を南北に走る羽黒山、月山、湯殿山といういわゆる出羽三山の山系によって東の山形盆地を中心とする村山地方とは隔てられています。最上川下流の豊かな沖積平野は米どころとして有名で、その中心都市は酒田と鶴岡。南は大朝日岳を中心とする朝日山地で越後国と、北は鳥海山で羽後の国(現秋田県)と隔てられています。
 古代、庄内地方には田川郡(最上川以南)飽海郡(あくみぐん、最上川以北)がありました。大雑把に言うと鶴岡市が田川郡の中心、最上川以北の酒田市が飽海郡の中心だと言えます。ちなみに出羽国というのは現在の山形県、秋田県のことで山形県が羽前、秋田県が羽後と考えてよいでしょう。奈良時代、庄内地方最上川下流から開発が進み次第に南部に及んで行ったそうです。
 出羽国はもともと越後国出羽郡が始まりだとされます。712年(和銅5年)国に昇格、陸奥国から最上郡、置賜郡を譲られて国としての体裁が整いました。その後朝廷は軍事侵攻と同時進行で各地から移住者を送り込み雄勝郡、秋田郡など日本海沿いに北上、出羽国の領域が固まります。出羽国は平安時代までは「いでは」と呼んでいたそうです。
 平安時代、田川郡に大泉庄という荘園が成立します。鎌倉時代源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼすと、この戦に功績のあった武藤資頼を大泉庄の地頭職に任命しました。ところが資頼はまもなく大宰少弐(大宰府の国司。師、大弐に次ぐ三等官)に任ぜられ筑前に下向したため大泉庄は弟の氏平が地頭職を継承します。資頼の子孫は代々大宰少弐の官職を継承したため少弐氏と名乗りました。一方、氏平の子孫は最初荘園の名前から大泉氏と称しますが、後に本拠地として大宝寺城を築いたため大宝寺氏を名乗りました。大宝寺城は鶴岡城の前身の平城です。ですから筑前の少弐氏と出羽の大宝寺氏は同じ武藤氏で同族となります。
 この中から戦国大名大宝寺義氏が登場するのですが、その前に由利十二頭について語らなければなりますまい。次回は由利郡の情勢と由利十二頭について述べます。

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