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2014年8月 6日 (水)

戦国最上戦記Ⅰ   戦国時代に至るまでの出羽国の情勢

 大宝寺義氏と由利十二頭の記事を書いて以来、出羽国とくに現在の山形県に当たる羽前国に対する興味が尽きません。そこで羽前の歴史に大きく関わる大名、出羽山形城主最上氏を軸に戦国時代の山形県を語ろうと思います。
 第一回は、山形県とはどういうところか簡単な歴史と地理を語ります。といいうますのも地元の山形県や東北地方の方は土地勘があると思いますが、私のような南国九州の人間はまず地理感覚をつかむことが歴史を把握するための第一歩だと思うからです。
 山形県は東西約97km、南北約153km、縦に長い長方形の形をしています。西は日本海沿岸部の庄内地方、東は南から順に置賜地方、村山地方、最上地方に分かれます。置賜の米沢盆地南端、吾妻山地に発する最上川は北流し最上地方で西に流れを変え庄内平野で日本海に注ぐ東北有数の大河です。北は鳥海山系で秋田県と隔てられ、東は東北地方の脊梁、奥羽山脈がそびえ県の中央部には出羽山地が北に延びています。
 山形県を形成する四つの地方のうち、日本海沿岸の庄内地方と米沢盆地を中心とする置賜地方は分かりやすいのですが、村山地方、最上地方の関係は複雑です。事実江戸期も庄内地方に庄内(鶴岡)藩酒井氏、置賜地方は米沢藩上杉氏と統一した大名が続いたのに対し、山形藩に代表されるように特に村山地方は譜代大名の左遷先と噂されるほど頻繁に大名家が交替し、領地関係も複雑に入り込んでとても分かりにくいです。
 さらに村山地方、最上地方を難解にさせているのは、もともとこの両地方は律令体制では最上郡という一つの郡だったことです。仁和二年(886年)最上郡と村山郡に分割されたものの、最初は南の方が最上郡、北が村山郡でした。太閤検地の時、両者の名称が逆転し現在の山形盆地を中心とする南が村山郡、新庄盆地を中心とした北部が最上郡とされました。ですから、私のような門外漢は最上郡と村山郡の区別がつきません。地元の山形県の方が見たら頓珍漢な事を書いてるとは思いますが、時代ごとに名称が変わっているので曖昧なまま記述を進めます。明らかな間違いの時はご指摘ください。できるだけ早く修正いたします。
 さて、山形県で最初に稲作が始められたのは紀元前2世紀ごろだそうですから早くから開けていたようです。最上川流域の遺跡から出土しています。東北地方は蝦夷の人たちによる狩猟採集社会だとばかり思っていたので意外でした。すくなくとも山形県は古墳時代には完全に稲作農耕社会に移行していたようです。大化の改新後、大和朝廷の勢力は日本海沿いに渟足柵(ぬたりのさく、ぬたりのき)、磐船柵、都岐沙羅柵(つきさらのさく)、出羽柵と城塞群を築き、兵士を常駐させるとともに関東地方や中部北陸地方から農民を移住させ支配地域を北に拡大していきました。
 人口が増えてくると前シリーズ大宝寺氏の記事で簡単に触れたように出羽国が成立、平安末期には奥州藤原氏の勢力に組み込まれました。陸奥押領使、鎮守府将軍という職掌の藤原清衡(奥州藤原氏初代)には出羽を支配する政治的根拠はないのですが、平安時代この地方に成立した長井庄、大泉庄などの荘園を摂関家が取得し、その代官として年貢を送る役目を清衡が引き受けたことから出羽に奥州藤原氏の勢力が拡大したのだそうです。
 鎌倉幕府が成立し源頼朝によって奥州藤原氏が滅ぼされると、この遠征に功績のあった御家人たちは恩賞として荘園の地頭に任命されます。主なものは長井庄、寒河江庄の大江氏、大泉庄の武藤氏、大曾禰庄の安達氏などです。最初は一族を派遣して支配していた御家人たちですが鎌倉末期になると現地に下向し土着します。そのなかから大宝寺(大泉)氏や寒河江氏などのように戦国大名化する者たちが出てきました。
 次回は、南北朝時代の山形県と最上氏(斯波氏)の出羽入部を描きます。

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