大宝寺義氏の由利郡侵攻と由利十二頭Ⅰ その地勢と大宝寺氏の成立
数ヶ月前の話です。NHKのタイムスクープハンター「壮絶!雪上の戦い」という番組を偶然見ました。大宝寺義氏、由利郡という言葉を聞いて義氏が由利郡へ進攻し由利十二頭やそれを支援する安東(秋田)愛季(ちかすえ)と戦った由利合戦のことだなとピンと来たんですが、期待とは全く違い当時の情勢も話さなければ戦の理由、意義もなくマタギがどうのこうのとかかわけのわからない演出で、ただ「雪の季節に戦してはいけないよね」というごく当たり前の結論になった残念な番組でした。
あまりにも不満が残ったので自分なりに調べて記事を書こうと思った次第です。といっても大宝寺氏、由利十二頭に関しては安東氏絡みでちょっと調べた程度、最上義光の小説で読んだくらいで素人に毛が生えた知識しかありません。私は知識不足に絶望しさっそくアマゾンで「山形県史」「山形県の歴史散歩」を購入し間もなく届く予定。現段階ではネットで集めたレベルの知識ですので後に大幅修正の可能性はありますが、とりあえずは見切り発車でスタートします。
第一回は、大宝寺の領土庄内地方とはどんなところか?そして大宝寺氏の成立に関して述べます。
山形県庄内地方は山形県の日本海沿岸部庄内平野を中心とした地域です。県中央部を南北に走る羽黒山、月山、湯殿山といういわゆる出羽三山の山系によって東の山形盆地を中心とする村山地方とは隔てられています。最上川下流の豊かな沖積平野は米どころとして有名で、その中心都市は酒田と鶴岡。南は大朝日岳を中心とする朝日山地で越後国と、北は鳥海山で羽後の国(現秋田県)と隔てられています。
古代、庄内地方には田川郡(最上川以南)飽海郡(あくみぐん、最上川以北)がありました。大雑把に言うと鶴岡市が田川郡の中心、最上川以北の酒田市が飽海郡の中心だと言えます。ちなみに出羽国というのは現在の山形県、秋田県のことで山形県が羽前、秋田県が羽後と考えてよいでしょう。奈良時代、庄内地方最上川下流から開発が進み次第に南部に及んで行ったそうです。
出羽国はもともと越後国出羽郡が始まりだとされます。712年(和銅5年)国に昇格、陸奥国から最上郡、置賜郡を譲られて国としての体裁が整いました。その後朝廷は軍事侵攻と同時進行で各地から移住者を送り込み雄勝郡、秋田郡など日本海沿いに北上、出羽国の領域が固まります。出羽国は平安時代までは「いでは」と呼んでいたそうです。
平安時代、田川郡に大泉庄という荘園が成立します。鎌倉時代源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼすと、この戦に功績のあった武藤資頼を大泉庄の地頭職に任命しました。ところが資頼はまもなく大宰少弐(大宰府の国司。師、大弐に次ぐ三等官)に任ぜられ筑前に下向したため大泉庄は弟の氏平が地頭職を継承します。資頼の子孫は代々大宰少弐の官職を継承したため少弐氏と名乗りました。一方、氏平の子孫は最初荘園の名前から大泉氏と称しますが、後に本拠地として大宝寺城を築いたため大宝寺氏を名乗りました。大宝寺城は鶴岡城の前身の平城です。ですから筑前の少弐氏と出羽の大宝寺氏は同じ武藤氏で同族となります。
この中から戦国大名大宝寺義氏が登場するのですが、その前に由利十二頭について語らなければなりますまい。次回は由利郡の情勢と由利十二頭について述べます。
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