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2014年8月 6日 (水)

戦国最上戦記Ⅱ  最上氏の出羽入部

 下級貴族出身ながら鎌倉幕府創設に多大な貢献をし政所初代別当(長官)となった大江広元は、頼朝の奥州征伐後寒河江庄(寒河江市と西村山郡と北村山郡の一部)、長井庄(範囲は不明ながら置賜郡のかなりの部分を占めたらしい)という広大な土地の地頭職を賜ります。このうち寒河江庄は長男親広が、長井庄は次男時広が受け継ぎました。しかし承久の変で親広が上皇方に味方したため大江氏惣領の地位には弟時広の系統に移ります。ただ親広は父と弟が鎌倉幕府勝利に多大の貢献をしていたため追及の手は甘く寒河江庄に下向しこの地で没したようです。寒河江庄は一部削られたものの親広の次男広時が地頭職を賜りその子孫が代々継承しました。
 惣領になった時広の子孫は鎌倉時代末期まで大江氏を名乗っていましたが後に荘園の名前から長井氏を称しました。一方広時の子孫は寒河江氏を名乗ります。長井氏は代々鎌倉幕府の評定衆を務め備後の守護職にも任ぜられました。ちなみに大江広元の四男季広の子孫から後の戦国大名毛利氏が生まれます。もっと蛇足を言うと、備後長井氏は福原氏を名乗り毛利家の重臣となりますが、もともと家格的には福原氏の方が上でその関係が逆転するんですから歴史は面白いですね。福原氏から出た幕末の長井雅楽も備後長井氏の子孫になります。
 南北朝時代にも長井氏が北朝、寒河江氏が南朝に属するなど一族の対立は長く続いたようです。南北朝時代は全国的に北朝有利に進みましたが辺境の九州と奥羽は例外で南朝の勢力が一時強大でした。足利尊氏はこのことを憂慮し1334年足利一族で随一の名門斯波高経の嫡男家長を奥州総大将(後の奥州管領、奥州探題)に任じ陸奥に下向させます。これは斯波氏の本貫地が陸奥中部にあったことも関係していました。
 家長が南朝の陸奥守北畠顕家に敗北し鎌倉で自害すると、吉良や畠山など足利一門が奥州管領として下向しますがうまくいかず高経の弟家兼に白羽の矢が立ちました。家兼は文和二年(1353年)奥州管領として陸奥国に下向すると大崎五郡を中心に支配を固め曲がりなりにも一応は奥羽に幕府支配体制を確立させます。家兼の子孫は領地の名から大崎氏を称しました。ちなみに最初に陸奥に入った斯波家長の子孫は本拠斯波郡(岩手県中部)を支配し、高水寺斯波氏となりました。大崎氏は「朔の上様」と奥州武士に尊崇され最盛期には大崎五郡を中心に35万石を数えたそうです。
 ところで広大な奥州の地は大崎氏が支配するのは広すぎました。南朝の伊達氏など反抗的な豪族も多く家兼は出羽の地を分けて次男兼頼に分割支配させようとします。陸奥は長男の直持が継承しました。斯波兼頼(1315年~1379年)が出羽に入部したのは延文元年(1356年)だとされますが、何の資格で出羽に入ったかは謎です。史書には「出羽按察使(あぜちは令外官のひとつ。国司の施政や民情などを巡回視察した官)」と書かれていますがこれはちょっと考えにくいと思います。按察使は平安時代には陸奥・出羽だけを任地としたものになりましたが大納言・中納言の名目上の兼職となっており、おそらく箔をつけるために自称したのではないかと思えるのです。別の史書には出羽大将・修理大夫とありますが修理大夫は武家の官職としてありそうなのでこちらの方が信憑性が高いです。
 出羽大将というのは出羽(羽州)探題のことですが、これもどうやら足利幕府の正式な役職ではなく奥州探題大崎氏の職掌を一族で勝手に分掌したのを後で足利幕府(特に鎌倉府)が追認した気配があります。
 斯波兼頼は、最上郡(当時。のちの村山郡)に入り山形盆地の中心地山形に城を築きました。当時出羽南部で最大勢力であった寒河江氏とは最上川をはさんで対峙します。正平二十三年(1367年)、将軍足利義詮、鎌倉公方足利基氏が相次いで死去すると、その混乱に乗じて南朝方の有力武将新田義宗(義貞の三男)、脇屋義治(義貞の弟脇屋義助の子)ら新田一族が上野・越後国境で挙兵、寒河江氏ら奥州の南朝方もこれに呼応します。幕府方は鎌倉公方足利氏満を名目上の総帥(当時9歳の幼児だった)奥州探題斯波(大崎)直持、羽州探題斯波兼頼兄弟を総大将として数万の大軍を集めました。
 これが応安元年(1368年)漆川の合戦(山形県西村山郡大江町)に発展し幕府軍が大勝、南朝方は寒河江氏ら大江一族63人が討死、自害するなど壊滅的な打撃を受けます。応安六年(1363年)、勢力を大きく後退させた寒河江氏はついに幕府に降伏しました。こうして出羽も一応の安寧を得ます。山形城主斯波兼頼の子孫は最上氏を称しました。最上氏は、一族を領内各地に配置し山形盆地ばかりか新庄盆地に支配を拡大させ村山・最上両郡にまたがる大きな勢力を築きます。
 南朝方の有力武将寒河江氏の敗北・降伏で平穏になったはずの出羽でしたが、置賜郡長井庄の地頭職で終始北朝方であった長井氏に危機が訪れます。隣国陸奥で伊達郡・信夫郡(現在の福島県伊達市から福島市の大部分)を領していた伊達宗遠(伊達氏八代、1324年~1385年)が突如長井領の置賜郡に侵略の手を伸ばし始めたのです。最初の侵略は康歴二年(1380年)、重臣の茂庭行朝(たぶん当時は鬼庭と名乗っていたはず)らと共に置賜郡に侵攻した宗遠は高畠城を築き橋頭保とします。
 この暴挙は鎌倉公方足利氏満の怒りを買い、近隣の豪族に長井氏救援、伊達氏討伐を命じますが伊達氏は何度敗北しても置賜郡侵略を諦めず宗遠の子政宗(九代、1353年~1405年)の代、至徳二年(1385年)ついに長井氏を滅ぼして置賜郡を平定します。この政宗は独眼竜とはもちろん別人で、子孫の藤次郎政宗(十六代)は先祖にあやかって政宗の名を継ぎました。
 長井氏最後の当主広秀は、鎌倉府政所執事を務めるなど幕府の重臣として本拠長井庄を留守にしていたのを伊達氏に付け込まれたのだと思います。また近隣の豪族が自分と直接関係ない長井氏救援をだんだん渋るようになってきたのも大きかったのでしょう。置賜郡を制圧した伊達氏は、本拠伊達郡・信夫郡のほかに伊具郡(宮城県南西部)にも勢力を拡大しておりこの当時奥州随一の大名に成長していました。江戸時代の石高で換算すると伊達郡・信夫郡・置賜郡だけで30万石あります。ちょうどこれは江戸初期の米沢藩上杉家の領地に匹敵します。後に上杉家は後継ぎのごたごたから伊達郡・信夫郡を没収され15万石に減知されていますから、置賜郡だけで15万石あった計算になります。伊達氏の置賜郡制圧は奥州諸豪族に衝撃をもたらしました。
 鎌倉公方は何度か伊達氏討伐を行いましたが無駄でした。結局強い者が勝つ世の中で、しぶしぶながらも伊達氏の存在を認めざるを得なくなります。長年幕府の忠臣として活躍した長井氏にとっては良い面の皮でした。伊達氏歴代当主の幕府に対する莫大な献金も功を奏し十四代稙宗(1488年~1465年)の時代には、陸奥守護という本来守護職を置かない陸奥国で異例の待遇まで受けるに至ります。これは奥州探題大崎氏の職掌と被り、勢力の弱体した足利一族の大崎氏を幕府が見捨てた形にもなりました。
 奥州の戦国時代は、この伊達氏を中心に繰り広げられます。次回は伊達氏の圧迫を受けた最上氏の苦悩、そして最上氏の全盛期を築いた最上義光(よしあき)の台頭を描きます。

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