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2014年9月

2014年9月 3日 (水)

出羽戸沢一族

 秋田を代表する戦国大名といえば、檜山と湊の安東氏、横手盆地の小野寺氏、そして仙北角館の戸沢氏ですが、「前二者を書いて戸沢氏を紹介しないとは何事か!」と地元の方にお叱りを受けそうなので記事にしました(笑)。
 戸沢氏は平忠盛(清盛の父)の弟忠正の孫衡盛の子孫と称しますが、これには異論があり奥州藤原氏に仕えた開発領主が出自ではなかったかと言われます。というのも衡というのは奥州藤原氏の通字で、藤原氏から偏諱を受けたのではないかとされます。本貫の地は陸奥国磐手郡滴石庄(現在の岩手県雫石町)。滴石庄戸沢邑に居を構えたことから戸沢氏と称したそうです。
 では戸沢氏がいつ陸奥から出羽へ移ったかですが二つの説があります。一つは奥州合戦の論功行賞で磐手郡各地の地頭職を賜った関東御家人千葉氏、工藤氏、南部氏らに圧迫され本領を追われたという説。もう一つは勢力を拡大する南部氏との抗争に敗れ陸奥を叩きだされたという説(1206年)。
 どちらもありそうですが、奥州藤原氏の旧臣で一応所領は安堵されたとはいえ鎌倉幕府内で弱い立場だったことは容易に想像できます。前者の説では南部氏は鎌倉時代初頭から糠部郡の地頭に任命されていたことになりますが、安東氏のシリーズでも考察した通りこれはかなり怪しいので、後者の説を採りたいと思います。
 奥州で南北朝時代、南朝方に付いたのは伊達氏や南部氏など新興の豪族たち。一方北朝側は大宝寺氏や相馬氏ら既得権益を持っている者たちでした。新興武士団は反体制側について既得権益をぶち壊し己の勢力を拡大しなければなりません。それに成功したのが奥州では伊達氏、南部氏。両者はある程度勢力を拡大したらすかさず体制側である室町幕府に帰順するという過程も似ています。戸沢氏はそのとばっちりを食ったと言えなくもありません。
 出羽に逃れた戸沢氏でしたが、結局この地にも南部氏は進出してきます。戸沢氏は南部氏に従属せざるをえませんでした。戸沢氏が平氏の子孫を称したのは甲斐源氏の末裔たる南部氏に対抗しての事でしょう。出羽に入った戸沢氏は仙北郡門屋地方に落ち着きます。
 南北朝時代、奥州の地には義良親王を奉じた陸奥守北畠顕家が下向してきました。戸沢氏は南部氏と共にこれに属し北朝方と戦います。顕家が畿内で戦死し弟北畠顕信が鎮守府将軍として赴任した時もこれを助けました。一説では本貫の地奥州滴石庄にも庶流の戸沢氏が残っていたようですが、宗主国の南部氏が北朝方に寝返ると戸沢氏もまた従います。この過程で滴石から完全に出羽に中心が移ったようで、以後は出羽国仙北郡を中心に勢力を張りました。
 戸沢氏がいつ角館城に本拠を移したかは諸説あり応永年間説(1394年~1428年)、天文年間説(1532年~1555年)が主なものです。他には文明十一年(1479年)とも言われます。とにかく角館移転が戸沢氏の戦国大名としてのスタートだったと言えるでしょう。
 応仁二年(1468年)南部氏が小野寺氏との抗争に負け仙北三郡から撤退すると、南部氏の軛から脱した戸沢氏も領土拡張競争に加わりました。最初は大曲地方進出をかけて安東氏と、その後仙北郡の支配権を巡って小野寺氏と抗争します。
 戸沢氏の最盛期は十八代盛安(1566年~1590年)の時代。その前の父道盛の時代が、横手城の小野寺氏に攻め込まれて滅亡の危機でした。「鬼九郎」の異名をとった盛安は家督を継ぐと反撃を開始します。小野寺氏を南に押し返し仙北郡をほぼ平定。雄物川沿いに侵攻してきた安東愛季(ちかすえ)の軍勢を撃退するなど素晴らしい働きをします。
 天正十四年(1586年)宿敵小野寺義道が雄勝郡に勢力を伸ばしてきた最上義光と有野峠で対峙すると、盛安はこの隙を突いて自ら三千騎を率いて出陣しました。この辺り最上義光と何らかの示し合わせがあったと思います。この合戦で盛安は小野寺勢を大いに破りますが、義道の援軍が駆け付けたために撤退。翌十五年に安東氏の内紛である湊合戦が起こると実季の従兄弟で主家に反乱を起こした湊安東道季を援助して安東軍と戦うなど出羽北部で確固たる地位を築きました。
 有能な武将というのはどんな田舎にあっても中央の情勢に気を配るものですが、盛安も例外ではなくいち早く小田原の陣の豊臣秀吉に拝謁し本領安堵を勝ち取ります。しかし盛安は不幸にして小田原の陣中で病没しました。享年25歳。後を継いだのは弟の光盛でした。ところが不幸は続き光盛もまた朝鮮出兵の出陣中姫路で病死するのです。盛安にも光盛にも嫡子がいなかったので戸沢家は存亡の危機に立たされました。
 そんな中、戸沢家臣団は一人の人物に思い当たります。盛安の忘れ形見でした。ある時盛安は鷹狩りの途中立ち寄った百姓家で娘を見染め一夜を過ごします。娘はまもなく男子を産みますが、盛安は実子と認めず娘は泣く泣く山伏に子供を連れたまま嫁ぎました。家臣たちはこの男子を探し出し、元服させ安盛と名乗らせます。ところが豊臣家は安盛の家督相続を認めず、困り果てた家臣たちは徳川家康に泣きつき、彼の取り成しでようやく家督相続を認められました。この時安盛わずか6歳。その後戸沢家は徳川家の庇護を受け、安盛は徳川家の重臣鳥居忠政の娘と結婚して名を政盛と改めます。
 しかし、人生何が功を奏するか分かりません。戸沢政盛(1585年~1668年)は、この一件で完全に徳川党になり最後には譜代大名同然になりました。関ヶ原合戦の後常陸手綱四万石に移されますが、元和八年(1622年)には最上家改易を受けて出羽国最上郡新庄で六万石を与えられました。以後新庄藩戸沢家は六万八千石に加増され幕末まで続きます。
 隣国小野寺氏は関ヶ原の処理を誤って滅亡します。それに比べると戸沢氏は幸運な一族でした。同年生まれ(1566年)の戸沢盛安、小野寺義道の人生を比べると余計にそう感じます。

秋田城介と奥州留守職(るすしき)

 学校で日本史を学んだ大半の人は覚えておられると思いますが、日本の律令体制では四等官という仕組みがありました。かみ(長官)すけ(次官)じょう(判官)さかん(主典)というやつです。これは唐の律令制を参考にしたもので当てられる漢字は違えどもほとんどの役所でそう呼ばれました。
 ただし例外も当然あり、中央官庁の太政官ではかみ(長官)に当たるのが太政大臣・左大臣・右大臣、すけ(次官)が大納言・中納言・参議です。地方では守(かみ)介(すけ)掾(じょう)目(さかん)の字があてられました。越前守とか上総介という呼び方は皆さんご存知ですよね。

 ところで出羽では通常の介のほかに、令外官(律令の規定にない新設の官職)として秋田城介という官職が設けられました。これは朝廷の最前線基地となる秋田城の守備を担当する役職です。通常出羽介が兼任しましたから出羽では秋田城介がすけ(次官)と考えてもらって良いでしょう。おそらくこれは出羽が通常の国ではなく蝦夷という異民族支配を想定した軍管区司令官として国司を位置付けていたからだと思われます。それならば事情が同じはずの陸奥にも軍事的な官職が設けられるはずですよね。これが(専門家には異論があるでしょうが…)鎮守府将軍でした。極論すれば秋田城介と鎮守府将軍は軍事・軍政を担当した類似した職責だったのではないかと考えます。どちらも従五位相当の官位という事も似ています。

 おそらく武士の間では秋田城介というのは鎮守府将軍と似たようなステータスがあったらしく、鎌倉期律令体制が形骸化してくると鎌倉幕府の有力御家人安達氏が世襲する官職になりました。戦国期には織田信長の嫡男信忠も任官しています。出羽北部の檜山郡・秋田郡・河辺郡を統一した安東氏は実季の時秋田城介にちなんだ秋田氏に改名しました。


 一方、奥州留守職というのは多賀城(陸奥国府があった)の統治をつかさどる官職ですから朝廷の令外官かと思いきや、調べてみると鎌倉幕府の陸奥支配の役職でした。鎌倉幕府の陸奥支配の役職というと葛西清重が就任した奥州総奉行が思い出されますが、奥州総奉行は奥州の軍事・警察権を司る守護の拡大版のような役割だったのに対し奥州留守職は奥州藤原氏を滅ぼした奥州合戦後の戦後処理、主に民事訴訟・行政を担当した役職だったようです。ですから御家人たちが奥州各地の地頭に任命され鎌倉幕府の支配権が強固になってくると次第に形骸化していきます。

 初代奥州留守職は御家人伊沢家景。伊沢氏は奥州留守職を代々継承しますから役職の名をとって留守氏と称します。実際の権限は無くなっていきましから多分に名誉称号的なものだったのでしょう。後に留守氏は伊達家から養子を迎え(強制的に迎えさせられ)乗っ取られます。すなわち伊達政宗の叔父留守政景です。もともと留守氏の家格の方がはるかに上だったのですが、逆転するのですから歴史は面白いですね。

出羽小野寺一族

 私は一つの事に興味を持つと徹底的に調べなければ気が済まない性質ですのでしばらく東北シリーズが続きます。興味の無い方はスルー推奨です(笑)。
 
 さて出羽国には時代によって消長がありますが中世から江戸期にかけて12郡ありました。すなわち田川郡、飽海(あわみ)郡、置賜郡、村山郡、最上郡、由利郡、河辺郡、秋田郡、檜山郡(のち山本郡)、仙北郡(旧称が山本郡)、雄勝(おがち)郡、平鹿(ひらか)郡です。このうち仙北、平鹿、雄勝の三郡は秋田県南東の内陸部にあり特に仙北三郡と呼ばれます。
 
 仙北三郡は横手盆地が中心で、山形・宮城県境付近の大仙山に発する大河雄物川が北流します。雄物川は平野部に出ると次第に西流し秋田市付近で日本海に注ぎますが、支流も多く横手盆地全体を潤しています。そのためこの地方は早くから開け、穀倉地帯を形成していました。仙北三郡は平安時代中頃、後三年の役の舞台になった事でも有名ですね。ちなみに後三年の役で清原家衡が源義家・清原清衡(後の奥州藤原氏初代)連合軍に攻め滅ぼされた終焉の地金沢柵は現在の横手市にあります。
 
 戦国時代、この仙北地方に勢力を張った大名が小野寺氏です。小野寺氏は藤原秀郷の子孫を称する下野国(栃木県)下都賀郡小野寺を本貫とする鎌倉御家人で、奥州合戦の戦功によって雄勝郡内で地頭職を賜りました。当時の当主道綱は現地には下向せず四代後の経道の時代に雄勝郡に下ったそうです。ただ小野寺氏の嫡流は下野国都賀郡小野寺に残ったと言われますので経道は庶流だとされます。だいたい13世紀頃です。
 
 最初小野寺氏は稲庭(秋田県湯沢市)に本拠を構えたそうですが、経道の孫道有の時代には仙北三郡に勢力を拡大し一族を領内各地に配置し「仙北三郡の庄主」と呼ばれるほど発展します。小野寺氏が本拠を横手盆地の中心横手城に移した時期は不明ですが、仙北地方南東部に偏っている稲庭城では支配体制に不都合だったのでしょう。
 
 小野寺氏は仙北地方全体を掌握する事は出来ず、北部は角館の戸沢氏に蚕食されました。南北朝時代、小野寺氏は南朝に属します。陸奥守北畠顕家、ついでその弟で鎮守府将軍の北畠顕信の命令に従ったそうです。ただ最上郡(当時。のち村山郡)の寒河江氏ほど強固な南朝方ではなかったらしく、その活躍もあまり伝えられていません。一説では稲庭と川連(かわづら)で一族の嫡流を巡る主導権争いがあったと言われ全国武士団の例にもれず一族同士で北朝方南朝方に分かれて争っていた可能性があります。
 
 南北朝時代が終わり、明徳二年(1391年)足利義満が陸奥・出羽を関東管領の管轄下に置いたとき小野寺氏も戸沢氏、安東氏らと共にこれに従ったそうですから最終的には北朝方支持の勢力が勝ったのでしょう。小野寺氏は将軍義教や義政に名馬を献じ、その歓心を求めましたから田舎大名には珍しく外交感覚に優れていたと言えます。これは伊達氏にも言える事ですが、中央との太いパイプを築いて地方の争覇戦に優位を保とうとする意図でした。小野寺氏の京都外交は、陸奥南部氏と戦った時にも有利な裁定を勝ち取るなど大いなるメリットを享受します。
 
 小野寺氏の最盛期は十三代景道(1534年~1597年)の時代でした。父稙道は有力家臣の大和田光盛、金沢八幡別当金乗坊らに殺され居城横手城を奪われます。これを平城の乱と呼びますが、景道は庄内の大宝寺氏に保護され数年後同氏のバックアップのもと勢いを盛り返し、光盛、金乗坊を滅ぼして横手城を奪回しました。景道は、雄勝郡、平鹿郡を完全に掌握し仙北郡の六郷、本堂、前田氏らを臣従させます。さらに南の最上地方に進出、西では由利郡に勢力を浸透、北の戸沢氏や安東氏と戦いました。
 
 景道は、上洛し織田信長に拝謁した事もあったそうです。その外交力には尋常ならざるものがあります。帰国後嫡男の義道に家督を譲って隠居しました。隠居の時期は不明ながら、天正九年(1581年)義道の時代に配下の鮭延秀綱が離反し最上義光に寝返りますからそれ以前だった事は確かです。ずいぶん早い隠居ですが、景道は慶長二年(1597年)まで生きますから、結果論ですが彼が当主のままだったら小野寺氏は滅びなかったかもしれません。
 
 戦国大名小野寺氏最後の当主義道(1566年~1646年)は、父とは違い武勇だけで知略に乏しい武将でした。なんでこのような人物に景道が家督を譲ったか不可解ですが、期待していた長子光道が戦死していたことも影響しているのでしょう。このあたり土佐の長宗我部元親と事情が似ていなくもありません。事実、「雄勝屋形」と尊称され周囲に威を示した景道と違い、義道に代替わりすると有力武将鮭延秀綱が離反、隣国の最上義光、戸沢盛安と戦って敗れ雄勝郡、平鹿郡をどんどん蚕食されていきます。このままでは滅亡は時間の問題でしたが、天正十八年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐に参陣して本領仙北三郡五万石の安堵を得ます。ところが間もなく太閤検地に反発して領内の国人や農民が仙北一揆を起こしたため義道は責任を追及され、所領の三分の一雄勝郡一万六千石を没収されました。
 
 義道にとって腹立たしかったのは、その没収された土地が宿敵最上義光に与えられた事でした。義道はこれに反発し雄勝郡に居座り続けたそうですが、彼の行動は後に命取りとなります。慶長五年(1600年)、東軍に属した小野寺義道は、伊達政宗が上杉景勝と合戦して和睦傍観を決め込み、最上義光が孤立し上杉軍に一方的に攻められる状況になると、義光への恨みから西軍に転じました。
 
 ところが西軍は関ヶ原で敗北、上杉軍も最上領から撤退し孤立したのは義道の方でした。最上氏、秋田(安東)氏ら東軍諸将の袋叩きにあった義道は横手城を明け渡して降伏。戦後徳川家康によって改易されます。石見国津和野に流罪になった義道は、なんとその後46年も生き80歳の大往生を遂げました。
 
 厳しい戦国の世を生き抜く才能には乏しい人物ですが、私は義道を愛すべき人物だと割合好感を持っています。平和な時ならちょっと粗暴だが憎めない人物として人々に愛されたかもしれませんね。義道と言えば、幽閉の身を温かく遇してくれた津和野藩主坂崎直盛が謀反の疑いで自害に追い込まれると、秘かにその墓を建立し菩提をともらったなど微笑ましいエピソードもあります。義道生涯の宿敵だった戸沢氏の当主政盛(盛安の子)も義道が石見に流された時、二歳の義道の幼児を憐れんで引き取り育てた話など敵にさえ愛される人物だったのでしょう。
 
 義道死後の小野寺氏は、戸沢氏や坂崎氏の後に津和野に入った亀井氏に仕えて幕末を迎えました。

出羽長井氏のその後

 私はどうも一度疑問を抱くと納得するまで徹底的に調べないと気が済まない性質でして、この記事もそうなんです。一般の方にはどうでも良い話題で全く役にも立たない知識なのでスルー推奨です。
 戦国最上戦記の記事で、置賜郡の領主長井氏が伊達宗遠・政宗父子の侵略を受けて滅ぼされたことを書きました。長井氏は当主の広秀が鎌倉府政所執事として鎌倉に常駐しており当主のいない隙を突いた伊達氏の侵略です。ところが調べてみると長井広秀が政所執事を務めていた期間は建武元年(1334年)~歴応元年(1338年)。一方、伊達氏の置賜侵攻は1380年~1385年で50年ほど開きがあります。という事はかなりの確率で広秀の息子か孫の時代。武家家伝長井氏系図をみると広秀の子孫はいないように見受けられます。当主は広秀の弟挙冬(たかふゆ)の系統に移っているようです。その後氏元、氏広と続いているのでこのどちらかが伊達侵略時の当主だったはず。
 しかしネットで調べた限りでは、最期がどうなったかまったくわからないんですよね。滅亡時の当主が誰だったかも含めて。討死あるいは自害したのならその記録があるはずですがネットで調べた限りは分かりませんでした。山川出版社の「山形県の歴史」の記述も最期が曖昧なまま。そこで、私の勝手な想像で納得するしかありません。
 以後の記述は、私の想像であり全く資料的な裏付けはありませんので悪しからず。伊達宗遠が侵略を決意したのはそれ相応の理由があったはず。付け入る隙がなければ15万石ともいわれる置賜郡を侵略できるはずないからです。当時伊達家も本領の伊達・信夫両郡と勢力亜拡大しつつあった刈田・伊具郡などで15万石から20万石くらいでした。
 私が考えるに、伊達家の侵略を受けて立った長井氏側の当主が誰だったかはっきりしないのは、広秀の後家督相続で一族の内紛があったのではないか?ということです。長井一族が一つにまとまっていたなら侵略者を撃退できるはずだからです。そして長井氏が一つにまとまっていたのなら鎌倉公方の命令で加勢に来た諸将も安心して協力できるはず。それが最後には公方の命令にもかかわらず長井氏を見限ったのは、長井氏がバラバラで勝つ見込みが無くなったからではないでしょうか?しかも、おそらく長井氏当主は伊達軍の最初の侵攻時には鎌倉にいて対応が遅れたのかもしれません。
 こうして長井氏は結局伊達氏に滅ぼされるのですが、その後の長井氏はどうなったでしょうか?実は長井氏は出羽置賜郡以外に所領をもっていたのです。それも関東に。場所は八王子市片倉。当時は横山庄と呼ばれていました。
 最初に片倉城を築いたのは長井氏初代時広あるいはその子孫だと言われます。広秀は時広の子孫ですからこの地も受け継いだはず。伊達氏の置賜侵略で一族の何人かは討死あるいは自害したと思いますが、生き残った一族は片倉の地に逃れた可能性が高いと思います。だから一族の最期が曖昧なのでしょう。
 では片倉長井氏はその後どうなったのでしょうか?室町時代から戦国時代にかけて、相模と武蔵南部に勢力を張った扇谷(おうぎがやつ)上杉氏に仕えたそうです。しかし戦国中期以降、片倉長井氏の消息は出てきません。片倉城は最後には後北条氏の属城となり八王子城の支城となったようです。ということは、また想像ですが片倉長井氏も主家の扇谷上杉氏と同様川越夜戦で滅ぼされた可能性が高いです。
 結局、伊達氏に滅ぼされるか北条氏に滅ぼされるか時間差でしかなかったわけです。分家の毛利氏が防長二州37万石の太守として幕末まで続いたのと比べると不幸な一族であったことだけは間違いありませんね。より長井宗家に近い備後長井氏が福原氏と名を変え毛利氏の家老としてこれも幕末まで続いたことを考えると、尚更そう感じます。

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