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2014年9月 3日 (水)

出羽小野寺一族

 私は一つの事に興味を持つと徹底的に調べなければ気が済まない性質ですのでしばらく東北シリーズが続きます。興味の無い方はスルー推奨です(笑)。
 
 さて出羽国には時代によって消長がありますが中世から江戸期にかけて12郡ありました。すなわち田川郡、飽海(あわみ)郡、置賜郡、村山郡、最上郡、由利郡、河辺郡、秋田郡、檜山郡(のち山本郡)、仙北郡(旧称が山本郡)、雄勝(おがち)郡、平鹿(ひらか)郡です。このうち仙北、平鹿、雄勝の三郡は秋田県南東の内陸部にあり特に仙北三郡と呼ばれます。
 
 仙北三郡は横手盆地が中心で、山形・宮城県境付近の大仙山に発する大河雄物川が北流します。雄物川は平野部に出ると次第に西流し秋田市付近で日本海に注ぎますが、支流も多く横手盆地全体を潤しています。そのためこの地方は早くから開け、穀倉地帯を形成していました。仙北三郡は平安時代中頃、後三年の役の舞台になった事でも有名ですね。ちなみに後三年の役で清原家衡が源義家・清原清衡(後の奥州藤原氏初代)連合軍に攻め滅ぼされた終焉の地金沢柵は現在の横手市にあります。
 
 戦国時代、この仙北地方に勢力を張った大名が小野寺氏です。小野寺氏は藤原秀郷の子孫を称する下野国(栃木県)下都賀郡小野寺を本貫とする鎌倉御家人で、奥州合戦の戦功によって雄勝郡内で地頭職を賜りました。当時の当主道綱は現地には下向せず四代後の経道の時代に雄勝郡に下ったそうです。ただ小野寺氏の嫡流は下野国都賀郡小野寺に残ったと言われますので経道は庶流だとされます。だいたい13世紀頃です。
 
 最初小野寺氏は稲庭(秋田県湯沢市)に本拠を構えたそうですが、経道の孫道有の時代には仙北三郡に勢力を拡大し一族を領内各地に配置し「仙北三郡の庄主」と呼ばれるほど発展します。小野寺氏が本拠を横手盆地の中心横手城に移した時期は不明ですが、仙北地方南東部に偏っている稲庭城では支配体制に不都合だったのでしょう。
 
 小野寺氏は仙北地方全体を掌握する事は出来ず、北部は角館の戸沢氏に蚕食されました。南北朝時代、小野寺氏は南朝に属します。陸奥守北畠顕家、ついでその弟で鎮守府将軍の北畠顕信の命令に従ったそうです。ただ最上郡(当時。のち村山郡)の寒河江氏ほど強固な南朝方ではなかったらしく、その活躍もあまり伝えられていません。一説では稲庭と川連(かわづら)で一族の嫡流を巡る主導権争いがあったと言われ全国武士団の例にもれず一族同士で北朝方南朝方に分かれて争っていた可能性があります。
 
 南北朝時代が終わり、明徳二年(1391年)足利義満が陸奥・出羽を関東管領の管轄下に置いたとき小野寺氏も戸沢氏、安東氏らと共にこれに従ったそうですから最終的には北朝方支持の勢力が勝ったのでしょう。小野寺氏は将軍義教や義政に名馬を献じ、その歓心を求めましたから田舎大名には珍しく外交感覚に優れていたと言えます。これは伊達氏にも言える事ですが、中央との太いパイプを築いて地方の争覇戦に優位を保とうとする意図でした。小野寺氏の京都外交は、陸奥南部氏と戦った時にも有利な裁定を勝ち取るなど大いなるメリットを享受します。
 
 小野寺氏の最盛期は十三代景道(1534年~1597年)の時代でした。父稙道は有力家臣の大和田光盛、金沢八幡別当金乗坊らに殺され居城横手城を奪われます。これを平城の乱と呼びますが、景道は庄内の大宝寺氏に保護され数年後同氏のバックアップのもと勢いを盛り返し、光盛、金乗坊を滅ぼして横手城を奪回しました。景道は、雄勝郡、平鹿郡を完全に掌握し仙北郡の六郷、本堂、前田氏らを臣従させます。さらに南の最上地方に進出、西では由利郡に勢力を浸透、北の戸沢氏や安東氏と戦いました。
 
 景道は、上洛し織田信長に拝謁した事もあったそうです。その外交力には尋常ならざるものがあります。帰国後嫡男の義道に家督を譲って隠居しました。隠居の時期は不明ながら、天正九年(1581年)義道の時代に配下の鮭延秀綱が離反し最上義光に寝返りますからそれ以前だった事は確かです。ずいぶん早い隠居ですが、景道は慶長二年(1597年)まで生きますから、結果論ですが彼が当主のままだったら小野寺氏は滅びなかったかもしれません。
 
 戦国大名小野寺氏最後の当主義道(1566年~1646年)は、父とは違い武勇だけで知略に乏しい武将でした。なんでこのような人物に景道が家督を譲ったか不可解ですが、期待していた長子光道が戦死していたことも影響しているのでしょう。このあたり土佐の長宗我部元親と事情が似ていなくもありません。事実、「雄勝屋形」と尊称され周囲に威を示した景道と違い、義道に代替わりすると有力武将鮭延秀綱が離反、隣国の最上義光、戸沢盛安と戦って敗れ雄勝郡、平鹿郡をどんどん蚕食されていきます。このままでは滅亡は時間の問題でしたが、天正十八年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐に参陣して本領仙北三郡五万石の安堵を得ます。ところが間もなく太閤検地に反発して領内の国人や農民が仙北一揆を起こしたため義道は責任を追及され、所領の三分の一雄勝郡一万六千石を没収されました。
 
 義道にとって腹立たしかったのは、その没収された土地が宿敵最上義光に与えられた事でした。義道はこれに反発し雄勝郡に居座り続けたそうですが、彼の行動は後に命取りとなります。慶長五年(1600年)、東軍に属した小野寺義道は、伊達政宗が上杉景勝と合戦して和睦傍観を決め込み、最上義光が孤立し上杉軍に一方的に攻められる状況になると、義光への恨みから西軍に転じました。
 
 ところが西軍は関ヶ原で敗北、上杉軍も最上領から撤退し孤立したのは義道の方でした。最上氏、秋田(安東)氏ら東軍諸将の袋叩きにあった義道は横手城を明け渡して降伏。戦後徳川家康によって改易されます。石見国津和野に流罪になった義道は、なんとその後46年も生き80歳の大往生を遂げました。
 
 厳しい戦国の世を生き抜く才能には乏しい人物ですが、私は義道を愛すべき人物だと割合好感を持っています。平和な時ならちょっと粗暴だが憎めない人物として人々に愛されたかもしれませんね。義道と言えば、幽閉の身を温かく遇してくれた津和野藩主坂崎直盛が謀反の疑いで自害に追い込まれると、秘かにその墓を建立し菩提をともらったなど微笑ましいエピソードもあります。義道生涯の宿敵だった戸沢氏の当主政盛(盛安の子)も義道が石見に流された時、二歳の義道の幼児を憐れんで引き取り育てた話など敵にさえ愛される人物だったのでしょう。
 
 義道死後の小野寺氏は、戸沢氏や坂崎氏の後に津和野に入った亀井氏に仕えて幕末を迎えました。

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