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2014年9月 3日 (水)

出羽長井氏のその後

 私はどうも一度疑問を抱くと納得するまで徹底的に調べないと気が済まない性質でして、この記事もそうなんです。一般の方にはどうでも良い話題で全く役にも立たない知識なのでスルー推奨です。
 戦国最上戦記の記事で、置賜郡の領主長井氏が伊達宗遠・政宗父子の侵略を受けて滅ぼされたことを書きました。長井氏は当主の広秀が鎌倉府政所執事として鎌倉に常駐しており当主のいない隙を突いた伊達氏の侵略です。ところが調べてみると長井広秀が政所執事を務めていた期間は建武元年(1334年)~歴応元年(1338年)。一方、伊達氏の置賜侵攻は1380年~1385年で50年ほど開きがあります。という事はかなりの確率で広秀の息子か孫の時代。武家家伝長井氏系図をみると広秀の子孫はいないように見受けられます。当主は広秀の弟挙冬(たかふゆ)の系統に移っているようです。その後氏元、氏広と続いているのでこのどちらかが伊達侵略時の当主だったはず。
 しかしネットで調べた限りでは、最期がどうなったかまったくわからないんですよね。滅亡時の当主が誰だったかも含めて。討死あるいは自害したのならその記録があるはずですがネットで調べた限りは分かりませんでした。山川出版社の「山形県の歴史」の記述も最期が曖昧なまま。そこで、私の勝手な想像で納得するしかありません。
 以後の記述は、私の想像であり全く資料的な裏付けはありませんので悪しからず。伊達宗遠が侵略を決意したのはそれ相応の理由があったはず。付け入る隙がなければ15万石ともいわれる置賜郡を侵略できるはずないからです。当時伊達家も本領の伊達・信夫両郡と勢力亜拡大しつつあった刈田・伊具郡などで15万石から20万石くらいでした。
 私が考えるに、伊達家の侵略を受けて立った長井氏側の当主が誰だったかはっきりしないのは、広秀の後家督相続で一族の内紛があったのではないか?ということです。長井一族が一つにまとまっていたなら侵略者を撃退できるはずだからです。そして長井氏が一つにまとまっていたのなら鎌倉公方の命令で加勢に来た諸将も安心して協力できるはず。それが最後には公方の命令にもかかわらず長井氏を見限ったのは、長井氏がバラバラで勝つ見込みが無くなったからではないでしょうか?しかも、おそらく長井氏当主は伊達軍の最初の侵攻時には鎌倉にいて対応が遅れたのかもしれません。
 こうして長井氏は結局伊達氏に滅ぼされるのですが、その後の長井氏はどうなったでしょうか?実は長井氏は出羽置賜郡以外に所領をもっていたのです。それも関東に。場所は八王子市片倉。当時は横山庄と呼ばれていました。
 最初に片倉城を築いたのは長井氏初代時広あるいはその子孫だと言われます。広秀は時広の子孫ですからこの地も受け継いだはず。伊達氏の置賜侵略で一族の何人かは討死あるいは自害したと思いますが、生き残った一族は片倉の地に逃れた可能性が高いと思います。だから一族の最期が曖昧なのでしょう。
 では片倉長井氏はその後どうなったのでしょうか?室町時代から戦国時代にかけて、相模と武蔵南部に勢力を張った扇谷(おうぎがやつ)上杉氏に仕えたそうです。しかし戦国中期以降、片倉長井氏の消息は出てきません。片倉城は最後には後北条氏の属城となり八王子城の支城となったようです。ということは、また想像ですが片倉長井氏も主家の扇谷上杉氏と同様川越夜戦で滅ぼされた可能性が高いです。
 結局、伊達氏に滅ぼされるか北条氏に滅ぼされるか時間差でしかなかったわけです。分家の毛利氏が防長二州37万石の太守として幕末まで続いたのと比べると不幸な一族であったことだけは間違いありませんね。より長井宗家に近い備後長井氏が福原氏と名を変え毛利氏の家老としてこれも幕末まで続いたことを考えると、尚更そう感じます。

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