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2014年10月

2014年10月 1日 (水)

盛岡藩初代藩主 南部信直

 陸奥南部一族宗家二十四代三戸南部晴政(1517年~1582年)には実子がいませんでした。そこで父安信の弟で有力庶家を形成していた石川高信の子信直を自分の娘婿とし養嗣子としました。晴政と信直は従兄弟の関係にあたります。
 石川高信は有能な武将で、晴信の時代に南部氏が北陸奥五郡(糠部、津軽、鹿角、閉伊、岩手)に勢力を拡大できたのは彼と、同じく一族の九戸政実(1536年~1591年)の功績だと言われます当時高信は津軽郡石川城を本拠としていました。
 高信の息子信直も武勇名高く、南部宗家は安泰かと思われました。ところが晴政に男子が生まれます。後に元服して晴継と名乗った子供の登場で晴政と信直の関係は微妙になっていきました。南部氏は、一族が各地に割拠し一つにまとまった家ではありません。当時三つの勢力に分かれていました。一つは信直の出身である石川氏。二つ目は九戸政実の九戸氏。最後は最大の有力庶家八戸南部家でした。
 信直が宗家三戸南部家を相続すれば石川氏の発言権が拡大するのは間違いありません。おそらく九戸政実あたりが讒言した可能性はありますが、晴政は実子に相続をさせようと何度か信直に暗殺団を送って亡き者にしようと画策します。身の危険を感じた信直は自ら相続を辞退、無事晴継が後継者に決まりました。
 晴政と信直の関係はますます悪化します。そんな中、信直の実家石川家は突如起こった配下の大浦為信の謀反で石川城を落とされ滅ぼされてしまいました。当主石川高信はこの時自害したとも、逃れて後に病死したとも言われます。為信は独立し、津軽為信と名乗りました。一説では為信の謀反劇を裏で支援していたのは九戸政実だとも言われます。これが真実だとすると石川家と九戸家の南部一族での主導権争いがとんでもない結果を招いたともいえます。
 烈火のごとく怒った信直は晴政に津軽討伐を願い出ますが、晴政はこれを拒否しました。そればかりか執拗に信直に暗殺団を送り続けるという酷い対応をしたのです。さすがにこの処分は南部家中でも反発を生み、重臣北信愛(のぶちか)などは秘かに信直と通じ危機を知らせたそうです。
 天正十年(1582年)、性格に問題のあった南部晴政は病死します。後を継いだのは息子晴継。しかし晴継はその年謎の暴漢に襲われて殺されてしまいました。真相は分かりませんが、信直による暗殺説は当時から囁かれていました。
 三戸南部家二十六代を誰が継ぐかで家中は騒然とします。有力候補は石川(南部)信直、九戸政実一党が推す政実の弟実親。両者とも晴政の娘婿でしたから条件は互角でした。紛糾する重臣会議でしたが、有力庶家八戸南部政栄(まさよし)や重臣北信愛を抱き込んだ信直が交渉を有利に運び後継者は信直に決まります。
 重臣会議の途中、北信愛が鉄砲隊を引き入れて反対派を脅したという話も伝わるくらいですから信直の立場は決して安泰ではなかったのです。こうして南部信直(1546年~1599年)は三戸南部家の当主となりました。当時37歳。これに不満を抱く九戸政実は、以後信直の南部宗家と敵対し続けます。
 南部家を相続した信直が最初に起こした行動は、父の仇津軽為信討伐でした。ところが九戸政実はこれに従わず、逆に信直が留守にした三戸城に攻め込む気配さえ見せます。結局津軽討伐は断念せざるをえませんでした。津軽領は南部家の手から永遠に離れます。
 天正十八年(1590年)豊臣秀吉が小田原北条氏を攻めると、信直も時代の動きに取り残されることを恐れ参陣します。ところがそれより一足早く津軽為信が参陣し津軽の本領安堵を勝ち取っていました。悔しがる信直でしたが、秀吉が安堵した以上信直がどれだけ抗議しても無駄でした。しかし、逆に九戸政実はこの天下の動きを見誤り参陣しなかったのです。後にこれは大きな禍根を残します。信直にとっては、津軽の件は残念でしたが九戸が動かなかったのは幸運だったと言えます。
 南部家は、秀吉により津軽郡を除く糠部郡、閉伊郡、鹿角郡、久慈郡、岩手郡、紫波郡を安堵されます。この中には当然九戸政実の領地も含まれていました。奥州仕置の結果を知った九戸政実は激怒し、天正十九年(1591年)本拠九戸城に五千の兵と共に立て籠もり反乱を起こします。
 信直が利口だったのは、九戸政実の反乱を秀吉に訴え豊臣秀次(秀吉の甥)を総大将とする天下の兵六万でこれを鎮圧したことです。通常なら領内での反乱はお取り潰しの理由になるはずでしたが(実際、佐々成政は改易、切腹になっている)、信直はこれをうまく切り抜けました。
 豊臣政権としても、九戸政実の乱は奥州仕置に対する挑戦と受け取っていました。大軍を前にとても勝てないと諦めた政実は降伏します。しかし信直は秀吉の命令もあったと思いますが、将来の禍根を断つため政実はじめ九戸氏の一族郎党全員を処刑しました。九戸の残党はこの処置を恨み、何度か信直を狙ったそうです。
 反乱鎮圧後、信直は和賀郡、稗貫郡を加増されます。これは津軽領を失った代替地という意味もあったのでしょう。信直は感謝の意を示すため、嫡子利直と共に上洛し秀吉に拝謁しています。
 領地が南に拡大し三戸では不便になったので、信直は九戸城を福岡城と改称しこれに移りました。ところが福岡でも不満だったのでしょう。結局朝鮮出兵から帰るとさらに南の盛岡に築城を開始しました。ところが城は、信直の代では完成せず孫の重直の代にようやく完成します。
 慶長三年(1598年)豊臣秀吉が亡くなると徳川家康に接近するなど、最後までその戦略眼は衰えませんでした。盛岡藩南部家十万石初代南部信直は慶長四年十月五日、福岡(九戸)城で死去します。享年54歳。息子利直は、父信直の意向を受け継ぎ関ヶ原でも徳川方に付き南部家を幕末まで存続させる基礎を築きました。

弘前藩と盛岡藩の増産策と家格向上運動

 石高というのは大名の家格を決めるバロメーターですが、実は一般に言われている石高というのは表高で幕府が各大名の軍役を決める基準にすぎませんでした。一方、内高というのもあってこれは実際の領地の生産高を言います。
 ですから、くだらないプライドを捨てれば表高は低ければ低いほどよく、内高は高ければ高いほど良いわけです。実際、長州藩は表高37万石に対し幕末には内高97万石もありました。薩摩藩も同様表高77万石に対し内高89万石以上。この両者は米だけでなく海外交易にも力を入れていましたから、経済力が倒幕の原動力になったのです。東北地方でも仙台藩は表高62万石に対し内高100万石(一説では200万石)あったとされます。
 平時には軍役は関係ないと言っても、参勤交代の格式も表高で決まりますから莫大な負担を避けるためには表高はなるだけ幕府にいじってほしくないというのが各藩の本音でした。
 陸奥北部でも、弘前藩津軽家は表高5万石(4万7千石)に対し、幕末にはなんと内高34万石もあったとされます。これはいかに津軽地方に干拓や灌漑できるような荒蕪地が多かったかの証拠でしょう。おそらく増産率は全国一ではないでしょうか?ただ寒冷地なので、いったん天候が崩れれば飢饉が起こり簡単に餓死者が出るので内高は保険のためにも高ければ高いほど良かったのでしょう。実際、天明の大飢饉のとき弘前藩は8万人というとてつもない餓死者(全人口の三分の一近い!)を出しています。
 このまま5万石弱で過ごせれば弘前藩は安泰だったと思いますが(それでも飢饉のときのリスクは高いですが…)、弘前藩九代藩主津軽寧親の時、幕府の命でロシアの南下による蝦夷地警護役を引き受ける代わりに十万石に加増、従四位下大広間詰、準国持ち大名に家格向上します。領地の加増が無く単なる家格向上で弘前藩にとっては負担が増えるだけの有難迷惑でしたが、これにキレた者がいます。
 隣国盛岡藩南部家でした。これまで格下だった津軽家が南部家の上席になったからです。歴史を知らない方にはチンプンカンプンでしょうが、もともと津軽家は南部家の家臣で戦国時代津軽為信が南部家から津軽領を簒奪して独立した家柄ですから、両家の確執は江戸期を通じても続いていたのです。
 弘前藩にとっては、自分で運動したものではなく幕府の都合で勝手に加増されただけですから恨むのはお門違いなんですが、頭に血が上った盛岡藩士に冷静な判断ができるはずもありません。南部家の家格向上を猛烈に幕府に運動するとともに、盛岡藩士の下斗米秀之進が参勤交代途中の津軽侯を鉄砲で襲うという所謂相馬大作事件まで起こしてしまいます。
 幕府もあまりに盛岡藩がうるさいので、20万石に加増しました。ところが盛岡藩は表高10万石に対し内高20万石でしたから、まったく領地の加増が無い現状では負担が倍になっただけでした。それまで蝦夷地警護役に500人の派遣で済んでいたのが1000人も派遣しなければならなくなったのです。
 幕府としては蝦夷地警護役の人数が増えるだけなので痛くも痒くもないなかりか、逆に有難かったのですが意地を張り通して損をした盛岡藩士の立場は悲痛としか言えません。逆に、弘前藩はこの南部家の動きを冷静な目で眺めていただろうという事だけは容易に想像できます(苦笑)。

南部氏糠部(ぬかのぶ)郡入部の謎

 陸奥南部氏と云えば、南北朝、戦国という激動の時代を生き抜き盛岡十万石(のち二十万石)の大名として幕末まで続いた一族です。しかし歴史の中で登場したのは南北朝時代。鎌倉以来の歴史を誇る一族ではありますが、陸奥下向以来南北朝までの動向が謎なのです。
 南部氏は甲斐源氏加賀美遠光の流れです。遠光の兄信義は武田氏の祖となります。遠光の子孫からは信濃守護小笠原氏が出ています。遠光の三男光行は甲斐国巨摩郡南部邑を領して南部氏を称しました。光行は父遠光と共に源頼朝の鎌倉幕府創建に尽くし、奥州合戦の恩賞で糠部五郡を賜ったとされます。
 ところが、糠部五郡という表現もおかしいしそもそも南部氏が糠部郡全体の地頭となった形跡がないのです。一般には糠部五郡を糠部、岩手、閉伊、鹿角、津軽のことだとされます。ところが調べてみると糠部・岩手郡には工藤氏が、鹿角郡には成田氏が、津軽郡には曽我氏と地元豪族の安東氏がそれぞれ封じられ地頭となっています。もちろん糠部郡は広大なのでその一部の地頭となった可能性は高いですがとても五郡を賜ったというような表現にはならないと思います。
 この五郡を眺めて戦国時代に詳しい方ならピンと来たと思いますが、実はこの領域戦国時代南部氏が征服した最大版図なのです。おそらくこれらの領土支配の正当性を訴えるために捏造した可能性が高いと睨んでいます。
 では、南部氏の実像はどうだったのでしょうか?少なくとも南部氏は史書に頼朝側近として登場しますし南北朝時代大活躍しますから糠部郡と全く関わりが無かったとは言えません。おそらく何らかの関与をしていたはず。ここで視点を変えて現地の地名に着目します。
 三戸とか八戸とか、この地域に戸がつく地名が多いことに気づかれた方も多いと思います。実はこれ「青森県の歴史」(宮崎道生著 山川出版)によると牧(官営の牧場)の単位なのだそうです。一戸から九戸まであり、九つの牧があったとされます。同書では南部氏はこれらの牧の管理者ではなかったかと推定しています。そういえば工藤氏にしても曽我氏にしても牧に関係する一族です。
 鎌倉幕府は、陸奥の牧の管理者としてこれらの御家人を送り込んだのではないでしょうか?馬と云えば、武士にとって重要なものです。陸奥は名馬の産地。鎌倉幕府は陸奥支配の重要な要素の一つとして優秀な軍馬の確保を目指したのでしょう。
 鎌倉時代末期、糠部郡は北条得宗領(義時の子孫で北条氏嫡流)になります。南部氏は、牧の管理者として糠部郡地頭代としてこの地を支配したのでしょう。米の生産力は低い土地ですが、優秀な軍馬を管理していたとしたら南部氏が拡大した理由も納得できます。
 皆さんはどう考えられますか?

北部(きたべ)王家と蠣崎の乱

鎌倉時代までの陸奥北部(現青森県)には旧弘前藩領にあたる西半分を占める津軽郡と、旧南部藩領の東部糠部(ぬかのぶ)郡の二つしかありませんでした。これは開発の遅れた辺境の地だったことも影響していたのでしょう。しかし、時代が経るにつれ津軽郡は田舎郡、平賀郡、鼻輪郡と外三郡の馬郡、江流末郡、奥法郡とに分かれ俗に津軽六郡と呼ばれました。

 糠部郡も中心地の三戸や八戸がある三戸郡と、北部の北郡とに分かれます。北郡はさらに下北半島部の下北郡と、半島の根元、三沢などがある上北郡とに分かれました。下北半島の名前の由来はこの下北郡から来ています。
 稲作の技術や稲の品種改良によって北限が上がり、少なくとも鎌倉時代末期には青森県でも稲作が広く行われていたと推定します。ただ、辺境であることには変わりなく現地出身の豪族安東氏や鎌倉から下向した工藤氏、曽我氏などの地頭御家人たちも他の地方から移民を奨励しなんとか米の増産に励みました。しかし南北朝時代、この地方はまだまだ荒蕪地が多い人口希薄地だったのです。
 辺境の地には、中央の政争に敗れた勢力が敵対勢力の追及を逃れ流れてくるのが常です。各地に残る平家落人伝説は何よりもそれを物語っています。陸奥の地でも南朝北畠氏の後裔たる浪岡御所北畠氏などが有名ですよね。
 ここ下北半島も例外ではなく、北部王家という後南朝勢力が存在していました。「青森県の歴史」(宮崎道生著 山川出版)によると物語の発端は1347年。当時は北朝年号と南朝年号があって混乱するので以後も西暦で記します。鎌倉時代末糠部郡八戸に上陸した南部氏は郡内各地に一族を配置し急速に勢力を拡大しつつありました。南部氏の糠部入部に関しては後に記事にする予定ですが、最初に上陸し八戸に根城を築き土着した庶流の八戸南部氏は、南朝勢力と強固に結びつき宗家の三戸南部氏を凌ぐ勢いでした。
 八戸南部で一番有名な人物は、陸奥守北畠顕家を助け各地を転戦し最後は和泉国石津で主君顕家と共に戦死した南部師行(もろゆき 不詳~1338年)ですが、子供がいなかったため八戸南部氏は弟の政長が継承します。政長の子が信政(不詳~1348年)です。1347年当時信政は吉野の行宮に仕えていました。おそらく伯父師行に従って陸奥から上っていたのでしょう。
 あるとき信政は、南朝後村上天皇から聖旨を頂き大塔宮護良(もりなが)親王の遺児八幡丸を奉戴することになりました。英邁を謳われながら足利尊氏と対立し暗殺された悲劇の人物護良親王に興良親王以外に子供がいたことは驚きですが、親王宣下されなかったところを見ると母親の身分が低かったのでしょう。「青森県の歴史」には八幡丸は良尹(ながただ)と名前を変えたとだけ記され、親王とは書いてないのです。
 そもそもなぜ南部信政に八幡丸が託されたかというと、以前後村上天皇から
「信政よ、朕は常々気に掛けていることがある。それは亡き兄護良親王の遺児八幡丸のことじゃ。八幡丸も成長し十六歳になる。兄に似て智勇に優れた若者になった。できればどこか一国を与えて南朝の中で働かそうと思うが良き国はないか?」
 と下問があり、これに対して信政は
「それならば適当な国があります。我が領地の北、日ノ本の北の端にまだ領主のいない土地があります。海に囲まれ山と原野が連なりその土地は広大、将来は(開発が進めば)一万の兵を養うことも可能でしょう」と答えたそうです。
 信政が示したのは下北半島でした。ただしいくら荒蕪地とはいえもともとは津軽の安東氏の領地、無主の地というのは言いすぎでしょう。この話かなり眉唾くさいのですが、一応史実として続けましょう。南部信政は八幡丸を下北半島の順法寺城に入れ自分の妹を配しました。八幡丸が元服し良尹と名乗ったことは前に述べましたが、新田氏を称します。臣籍降下して源氏になるのは分かるのですがいきなり新田氏を名乗るのは理解に苦しみます。もしかしたら新田氏の一族がつき従いその主人となったために新田氏を称したのかもしれません。
 ところで順法寺城は現在のむつ市城ヶ沢にあります。海上自衛隊大湊航空隊基地のちょうど裏手の沿岸部にありました。宝治三年(1249)安東盛親によってはじめて築城されたとされますから、やはりもとは安東氏の領地だったのでしょう。源(新田)良尹は陸奥下向に先立ち従三位民部卿に任ぜられます。良尹の後は息子の尹義(ただよし)が継ぎますが早世したため、後村上天皇の皇子宗尹(むねただ)親王をたてて三代義祥(よしなが)としました。これを北部(きたべ)王家と呼びます。
 四代義邦の時代に南北朝合一がなりますが、義邦はこれに従わず五代義純の時代にようやく上洛して将軍足利義量に拝謁、誼を通じました。北部王家の領地である下北半島はほとんど米を産しない荒れた土地でしたが、野沢出山から金を産出し潤っていました。義純は管領畠山満家に莫大な献金をしその娘を娶ったといいます。
 誇りある南朝の皇統に連なる者が北朝の幕府、しかも管領にしっぽを振る姿は北部王家の家臣たちには苦々しく映ります。特に重臣蠣崎(かきざき)蔵人信純はその筆頭でした。蠣崎氏は甲斐源氏の庶流とも言われますが出自ははっきりしません。安東氏あるいは南部氏の一族とも言われます。むつ市川内町蠣崎の地を領していました。
 足利将軍家に降り安定した地位を手に入れた義純は、野沢出山の金を使って豪奢な生活を始めます。我慢の限界に達した蠣崎蔵人はついに義純を暗殺、ここに北部王家は滅びました。当時は八戸南部氏も宗家の三戸南部氏も足利幕府に帰順していましたが、後南朝推戴を旗印にする蠣崎蔵人とその一党を滅ぼすことに躊躇し勅命を待ってようやく重い腰を上げました。おそらく蠣崎蔵人は、北部王家に連なる者を奉じていた可能性があります。
 蠣崎蔵人の行動を南朝に対する忠誠心から出たとする意見と、南朝推戴を大義名分にした蔵人の下克上だとする見方があります。彼のその後の行動を見るとどうも後者の可能性が高いです。蔵人は南部氏と敵対していた安東氏や葛西氏と結び対抗しますが、八戸南部政経は大軍を率いて海路奥戸(おこっぺ 現大間町)に上陸、背後から蠣崎城を攻撃しました。
 蠣崎蔵人は、奇襲攻撃に敗北し城も陥落。自らは逃亡し渡島(北海道)の松前に逃れます。この蠣崎蔵人信純こそのちの蠣崎(武田)信広だったと「青森県の歴史」では推定しています。ただ異論もあり、年代的に信広の義父(妻の父)季繁(すえしげ)の可能性が高いとも言われます。
 私の個人的な考えでは、蠣崎信広(1431年~1494年)と蠣崎蔵人の乱の起こった1457年(新田義純殺害は1448年)は年代的に無理はないと感じますけどね。生きざまも蠣崎蔵人信純と蠣崎信広で似ているような気もしますし(笑)。皆さんはどう思われますか?

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