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2014年10月 1日 (水)

弘前藩と盛岡藩の増産策と家格向上運動

 石高というのは大名の家格を決めるバロメーターですが、実は一般に言われている石高というのは表高で幕府が各大名の軍役を決める基準にすぎませんでした。一方、内高というのもあってこれは実際の領地の生産高を言います。
 ですから、くだらないプライドを捨てれば表高は低ければ低いほどよく、内高は高ければ高いほど良いわけです。実際、長州藩は表高37万石に対し幕末には内高97万石もありました。薩摩藩も同様表高77万石に対し内高89万石以上。この両者は米だけでなく海外交易にも力を入れていましたから、経済力が倒幕の原動力になったのです。東北地方でも仙台藩は表高62万石に対し内高100万石(一説では200万石)あったとされます。
 平時には軍役は関係ないと言っても、参勤交代の格式も表高で決まりますから莫大な負担を避けるためには表高はなるだけ幕府にいじってほしくないというのが各藩の本音でした。
 陸奥北部でも、弘前藩津軽家は表高5万石(4万7千石)に対し、幕末にはなんと内高34万石もあったとされます。これはいかに津軽地方に干拓や灌漑できるような荒蕪地が多かったかの証拠でしょう。おそらく増産率は全国一ではないでしょうか?ただ寒冷地なので、いったん天候が崩れれば飢饉が起こり簡単に餓死者が出るので内高は保険のためにも高ければ高いほど良かったのでしょう。実際、天明の大飢饉のとき弘前藩は8万人というとてつもない餓死者(全人口の三分の一近い!)を出しています。
 このまま5万石弱で過ごせれば弘前藩は安泰だったと思いますが(それでも飢饉のときのリスクは高いですが…)、弘前藩九代藩主津軽寧親の時、幕府の命でロシアの南下による蝦夷地警護役を引き受ける代わりに十万石に加増、従四位下大広間詰、準国持ち大名に家格向上します。領地の加増が無く単なる家格向上で弘前藩にとっては負担が増えるだけの有難迷惑でしたが、これにキレた者がいます。
 隣国盛岡藩南部家でした。これまで格下だった津軽家が南部家の上席になったからです。歴史を知らない方にはチンプンカンプンでしょうが、もともと津軽家は南部家の家臣で戦国時代津軽為信が南部家から津軽領を簒奪して独立した家柄ですから、両家の確執は江戸期を通じても続いていたのです。
 弘前藩にとっては、自分で運動したものではなく幕府の都合で勝手に加増されただけですから恨むのはお門違いなんですが、頭に血が上った盛岡藩士に冷静な判断ができるはずもありません。南部家の家格向上を猛烈に幕府に運動するとともに、盛岡藩士の下斗米秀之進が参勤交代途中の津軽侯を鉄砲で襲うという所謂相馬大作事件まで起こしてしまいます。
 幕府もあまりに盛岡藩がうるさいので、20万石に加増しました。ところが盛岡藩は表高10万石に対し内高20万石でしたから、まったく領地の加増が無い現状では負担が倍になっただけでした。それまで蝦夷地警護役に500人の派遣で済んでいたのが1000人も派遣しなければならなくなったのです。
 幕府としては蝦夷地警護役の人数が増えるだけなので痛くも痒くもないなかりか、逆に有難かったのですが意地を張り通して損をした盛岡藩士の立場は悲痛としか言えません。逆に、弘前藩はこの南部家の動きを冷静な目で眺めていただろうという事だけは容易に想像できます(苦笑)。

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