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2014年11月

2014年11月 1日 (土)

近代中東史Ⅳ  カージャール朝とパハラヴィー朝のイラン

 カージャール族というのはトルコ系遊牧民で、サファビー朝の創始者シャー=イスマイル1世に協力したキズィル=バーシ七部族中の一つでした。サファビー朝末期突如現れた風雲児ナディル・シャー(在位1736年~1747年)のアフシャール朝が一代で滅ぶと、アフシャール朝は有力な将軍たちによって分裂します。
 
 その中で勝ちあがったのがゼンド族のカリーム汗とカージャール族のムハンマド・フサインでした。最初に覇権を握ったのはカリーム汗で、ゼンド朝を開きますが短命に終わります(成立1750年~1794年)。ゼンド朝もお決まりの後継者争いで内乱となり、逼塞していたカージャール族に乗ずべき隙を見せました。
 
 フサインの息子アーガー・ムハンマドは父の死後ゼンド朝の人質となっていましたが、王朝が後継者争いで混乱すると秘かに首都シーラーズを脱出、カージャール族をまとめ上げます。1785年マザンダラン地方(カスピ海とエルブルズ山脈に挟まった地方。中東では珍しい湿潤な気候で穀倉地帯として有名)をまとめ上げ自立すると、2年後イラン中央高原に進出イスファハンとテヘランを奪い、テヘランを首都と定めました。1794年、ファルスとケルマーンを平定しゼンド朝最後の君主ルトフ・アリー・ハーンを捕えて処刑します。ゼンド朝はこれで滅びました。
 
 イラン全土をほぼ統一したアーガー・ムハンマド(在位1796年~1797年)はカージャール朝を創始します。ところがカージャール朝は、その軍事力を部族の提供する兵力に頼っていたため政権基盤は脆弱で、バーブ教徒の反乱にも悩まされました。対外的にもロシア帝国との二度にわたる戦争に完敗、グルジアとカフカズ地方を失います。イギリスとも対立しイギリス勢力圏のアフガニスタンとイランの国境がこの時確立しました。これまでの歴代ペルシャ王朝は、カフカズ、アフガニスタンにも広がる領土を持つのが常でしたが、カージャール朝以後、ほぼ現在のイランの領域が定まります。
 
 20世紀に入ると、流石のカージャール朝も危機感を生じ、英仏の技術を導入し近代化を図り鉄道、電信などの整備を始めました。が、時すでに遅くカージャール朝はロシア帝国と大英帝国の緩衝地帯に成り下がります。このような政府のだらしない対応は、近代的教育を受けた国民の不満を呼びました。それが1905年から始まるイラン立憲革命へと繋がるのですが、国王と政府高官ら反動層と対立し上手く行きませんでした。
 
 そのような中第1次世界大戦勃発。カージャール朝は中立を宣言しますが列強はこれを無視、自国の勢力圏に引き込むため軍隊を派遣します。とくにロシアとオスマン帝国は互いにイラン領内に兵を入れ弱体のイラン軍を無視しイラン領内で対峙しました。1918年3月ブレスト=リトフスク条約でロシア軍とトルコ軍はようやくイラン領内から撤退を開始します。ロシア軍は、撤退の腹いせに各地で略奪暴行を働きイラン北東部は荒廃したと伝えられます。
 
 外国軍が撤退してほっとしたのもつかの間、今度は英軍がイラン国内の治安回復とイラン領内からのトルコ軍駆逐を大義名分に1918年イランに侵入開始、ほとんど全土を制圧しました。イギリスはイランを保護国化します。このようにカージャール朝末期のイランはほとんど独立国の体を成していない悲惨な状況でした。
 
 パリ講和会議でもイランが中立を宣言していたからと、戦争で被った被害をすべて無視されイランの独立保障も一顧だにされませんでした。このような悲惨な歴史を持っているのですから反米・反欧州となるのも仕方ないと思います。
 
 大戦後着々とイギリスの保護国化が進むイランでしたが、隣国ロシアで社会主義革命が勃発、内戦に突入するとイラン領内にもロシア白軍とそれを追った赤軍が侵入、イラン領を占領するなど傍若無人な振る舞いをしました。
 
 さすがにここまで各国に馬鹿にされると、イラン国民は立ち上がります。ペルシャコサック兵団の将校レザー・シャー(1878年~1944年)もその一人でした。彼は2500名の手兵を率いて挙兵、1921年首都テヘランを占領します。クーデターでイランの実権を握ると、レザー・シャーは首相兼イラン軍総司令官となりソ連との間にロシア・ペルシャ和親条約を締結。国王アフマド・シャーに迫り英国との間に結ばれた国辱的な英波協約(事実上の属国化協約)を破棄させました。イラン各地で起こった反乱を平定すると、レザー・シャーはアフマド・シャーを廃位、自らのパハラヴィー朝を創始しました。
 
 レザー・シャー・パハラヴィー(在位1925年~1941年)は現実主義者で、事さらに欧米と対立する道は採りませんでした。1926年司法改革、1927年国民銀行創設、1929年徴兵制施行と着実に近代国家への道を推進します。英仏では具合が悪いとアメリカから財政顧問を雇い財政改革を進めました。女性解放も教育改革も彼の時代に始まります。
 
 1935年、国号をイランと定めたのも彼です。国際連盟にも加盟するなどイランはレザー・シャーのもとで近代国家への道を歩みますが、一方イスラム教の伝統を重んじる国民からは不満が生じます。レザー・シャーは強力な独裁政治で不満を抑え込みました。
 
 第2次大戦が勃発すると、イランは再び中立を宣言します。しかし枢軸国寄りの態度を示したため、1941年またもや英軍とソ連軍がイラン領内に侵攻(イラン進駐)、両国の圧力で退位を迫られました。レザー・シャーは息子のムハンマド・レザー・パハラヴィーに帝位を譲りモーリシャス島に事実上亡命、南アフリカ・ヨハネスブルクに移り同地で波乱の生涯を閉じます。享年67歳。
 
 
 パハラヴィー2世とも呼ばれるムハンマド・レザー新皇帝。日本ではパーレビ国王として知られています。彼のもとでもイランは近代化を進めました。イギリスに代わって自由主義陣営のリーダーとなったアメリカと急接近し、経済的軍事的援助を受けます。中東一の親米国家となったイランでしたが、余りにも急速に欧米化したためイスラム教の伝統を重んじる国民との間に乖離が生じました。
 
 1979年イスラム教原理主義の宗教指導者ホメイニ師に主導された革命勢力は、国民の不満を背景にパハラヴィー2世に退位を要求、皇帝は戒厳令を命じるものの効果は無く結局家族側近と共にエジプトに亡命せざるを得ませんでした。こうしてパハラヴィー朝は滅亡します。イランはイスラム教を重んじるイラン・イスラム共和国となって現在に至っています。パハラヴィー朝があまりにも親米だったため、その反動でイランは歴代反米政権が続いているのです。

近代中東史Ⅲ  ワッハーブ王国からサウジアラビアへ

 18世紀初頭、アラビア半島中央高原地帯ナジュド地方に一人の改革者が現れます。彼の名はムハンマド・イブン・アブドルワッハーブ。イスラム法学派で最も厳格なハンバル派に属し、今のイスラム教は腐敗しているので原点に踊るべきだと主張します。復古主義・純化主義を提唱し現在のイスラム原理主義のはしりともいえる改革運動でした。
 
 ナジュドの豪族ムハンマド・イブン=サウードはこれに共鳴し軍事的・宗教的にワッハーブ派を後援しました。イブン=サウードはワッハーブ派イマーム(宗教指導者)を兼任したためこれをワッハーブ王国と呼びます。えてしてこういう改革運動は、既存の宗教環境に飽き足らない人々の心を捕え急速に拡大するものですが、この第1次ワッハーブ王国も南部を除くアラビア半島全域に広がりました。
 
 1802年、ワッハーブ軍がヒジャーズ地方に進出しメッカ、メディナなどイスラム教聖地を陥れたため当時この地方を支配していたオスマン帝国は非常な衝撃を受けます。ところがその頃オスマン帝国は独力で討伐する国力がなかったため、属国エジプトのムハンマド・アリーにワッハーブ王国討伐を命じました。野心家であったムハンマド・アリーはエジプト勢力拡大のためにこれを最大限利用します。
 
 エジプト軍は、1817年ナジュドに進撃、首都ディルイーヤを包囲しました。戦いは数カ月の後首都陥落で終わりサウード家とワッハーブ教団幹部はトルコの首都イスタンブールに連行され処刑されます。これが第1次ワッハーブ王国の滅亡です。
 
 しかしサウード家の残党は健在で、本拠をリヤドに移し第2次ワッハーブ王国を建国します。これは1824年から1891年まで続きますが、内紛の末ナジュド北部ラシード家のジャバル・シャンマル王国に実権を奪われ滅びました。ワッハーブ王国最後の王アブドゥッラフマーン・ビン・ファイサル・アール=サウードは息子アブド・アルアジーズ・イブン・サウードと共に、クウェートの首長ムバラク・ビン・サバーフの元に亡命します。
 
 現在でこそクウェートは莫大な石油利権で潤っていますが当時は微々たる小国で、オスマン帝国とイギリスの間に挟まって対応を苦慮していました。ラシード家がオスマン帝国の力を背景にクウェート港奪取を図ると、ムバラクは単独でこれに対抗できないために英国に頼りました。
 
 ラシード家は、クウェート港を諦めきれず今度はドイツを頼んでクウェートに圧力をかけてきました。ドイツも3B政策でバグダード鉄道の終点をクウェートにする予定でしたからこれに応じます。危機感をもったムバラクはイギリスに泣きつき、英地中海艦隊が攻め寄せたラシード軍に海上から砲撃を浴びせる事件も起こりました。1901年の事です。
 
 ラシード家に復讐を誓うムバラクは、自己の庇護下にワッハーブ王国の生き残りアブド・アルアジーズ(1880年~1953年)がいる事を思い出します。彼に援助を与えラシード家を叩く事は自分にほとんど被害を受けず復讐できるのです。もし失敗してもクウェートには痛手がない(援助した分以外は)のですから、これほど良い事はありません。
 
 この時アブド・アルアジーズ21歳。2メートル近い巨漢で目つきの鋭い若者でした。現代人というより中世の英雄物語の主人公とも言うべき風貌を持っていたと伝えられます。アブド・アルアジーズはムバラクから駱駝30頭、小銃30挺、若干の軍資金の援助を受け、ワッハーブ王国の遺臣数十人とともにクウェートを出発しました。
 
 噂は瞬く間に広がり、ラシード家やトルコ官憲の追及を受けます。一行は捕縛を避けるため南方のルブアルハリ砂漠に逃れました。死の荒野での逃亡劇は50日。ラシード家もトルコもアブド・アルアジーズたちは死に絶えたと判断します。ところが1902年1月15日、一行はリヤド南方10キロの地点にある丘陵に突如姿を現しました。
 
 アブド・アルアジーズは従兄弟ジルーウィーほか6人をよりすぐってリヤド城内に夜陰に乗じて侵入します。一行8人は、ラシード家のリヤド太守アジュラーンの館に向かいました。夜明け、アジュラーンが広場で馬を検閲している最中、突如襲いかかった一行はアジュラーンほかラシード家の役人や兵士たちを攻撃します。不意を突かれたラシード家の者たちは満足な対応もできず、次々と討たれました。旧主アブド・アルアジーズが帰ってきた事を知ったリヤド市民は、ラシード家の圧政に不満を持っていた事もあって次々と武器を持って馳せ参じ、生き残っていたラシード家の者どもを虐殺します。
 
 20世紀の出来事とは思えない戦国時代のような奪取劇でリヤドの主人となったアブド・アルアジーズ。生きていた父アブドゥッラフマーンは息子アブド・アルアジーズに王位を譲り自分はイマーム(教主)の称号のみを保持しました。アブド・アルアジーズの王国は第3次ワッハーブ王国とも言えましたが彼は事さらにワッハーブ派の教義を強調せず普通の王国を標榜したのでこれをサウード王国と呼びます。
 
 王位に就いたアブド・アルアジーズにとって最初の仕事は宿敵ラシード家との対決です。ラシード家も同じ考えでしたので両者の激突は時間の問題でした。1903年ラシード家はまずクウェートを討ってサウード王国と連絡を断つ作戦に出ます。アブド・アルアジーズは1万の兵力を率いてクウェート救援に向かいますが、これは罠で突如進路を変更したラシード軍はリヤドを急襲します。
 
 リヤド市民は必死に防戦し、ラシード軍を退けました。この戦いでラシード家の攻勢は止まり以後要害を固め守勢に立ちました。ラシード家はトルコ帝国と結びサウード王国と対抗します。一方サウード王国はクウェートを通じてイギリスと結びこれに応じました。
 
 当時のアラビア情勢は混沌として、イギリス内部にもアブド・アルアジーズの将来性を認める勢力もありましたが、イギリスの対アラビア政策はヒジャーズのフサインを応援してトルコ帝国に反抗させるという方針が大勢となりました。アブド・アルアジーズはこういう大国の思惑を上手く利用し自国の勢力拡大に努めます。
 
 ちなみに、フサインを支援していたのが英中東軍なら、アブド・アルアジーズを支援していたのは英インド総督府、英印軍でした。1921年、ついに宿敵ラシード家を滅ぼしたアブド・アルアジーズはアラビア中央高原の覇者となります。しかし、フサインを支援する英国との戦力差を冷静に分析しこれとは表立って対立しない方針を定めます。そうしながら英国とフサインのヒジャーズ王国の関係が薄くなる機会をじっと待ち続けました。
 
 その機会は意外と早くやってきます。全アラブを独立させ自分がその王になる事を夢見ていたフサインは、英仏が第1次大戦後の中東世界分割を決めたサイクス=ピコ協定の前にその夢を打ち砕かれイギリスとの関係も微妙となっていました。アブド・アルアジーズはこの絶好の機会を見逃しませんでした。今ならイギリスの介入はないと踏んだのです。イギリスにとっても目障りなフサインのヒジャーズ王国はむしろ滅んだ方が望ましいと考えていると予想します。
 
 彼の判断は間違っていませんでした。1925年、大軍をヒジャーズ地方に派遣しヒジャーズ王国を滅ぼしても列強の介入はなかったのです。むしろイギリスは秘かにアブド・アルアジーズによるアラビア統一を黙認していたふしもあります。1927年、アブド・アルアジーズはイギリスとジェッダ条約を締結。ナジュド王国の独立を認めさせイギリスと友好関係を結びました。
 
 1931年、アブド・アルアジーズはナジュド王国とヒジャーズ王国の統合を宣言、翌1932年には国名をサウジアラビアに変更します。これが現在まで続くサウジアラビア王国です。1938年ダーランでダンマン油田が発見されると砂漠の貧しい遊牧国家は一気に富裕な国に変貌、現在に至っています。
 
 それにしても、20世紀に英雄物語のような建国をした国家が現在でも続いている事は不思議でもあり、歴史のロマンを感じさせます。

近代中東史Ⅱ  ヒジャーズ王国の滅亡

 19世紀までアラビア半島で最も重要な地域は、イスラム教の聖地メッカやメディナがありイエメンから紅海を通じてエジプトに至る交易ルートのあった半島西岸地域でした。ところが20世紀に入ってすぐ、ペルシャ湾岸地域で大規模な油田が次々と発見されるようになるとアラビア半島の最重要地域はペルシャ湾岸を中心とする東部地域に移ります。
 
 特に、イギリスはフィッシャー提督(ジョン・アーバスノット・フィッシャー 第一海軍卿 1841年~1920年)が世界に先駆けて軍艦の燃料に石炭から重油専燃への移行を強力に推進したためいち早く中東地域への進出を強めました。これは燃料効率を上げ軍艦の能力向上を目指した先見の明だったと言えます。
 
 ところでイギリスは、最重要植民地インドを守るため英印軍を置きます。インドは1900年当時で人口3億以上。世界各国の植民地でも群を抜くドル箱でした。英地中海艦隊もその担当地域はジブラルタルからスエズ運河、紅海、インドに至るインド洋という広大な範囲で第2次世界大戦ではとても守りきれない事から西地中海を担当するH部隊を置かざるを得ないほどでした。
 
 エジプトにあった英中東軍はスエズ運河防衛が最重要任務で、英印軍より一枚格が落ちる存在でした。英印軍はその正式名称をインド軍と呼びますが、白人のみで占める在印英軍と将校が白人兵士はインド人というインド(現地)軍の二つで構成されます。数の上では後者が圧倒的で第1次大戦でも第2次大戦においても各地に派遣されました。
 
 イギリスの中東政策は、中東軍と英印軍の双方からアプローチされ中東軍におけるそれがロレンスらを使ったフサイン工作なら、英印軍は英国インド政府の意向を受けて主にペルシャ湾岸諸国への工作を担当しました。おそらくこの地域にもロレンスに匹敵する工作員を派遣していたはずですが、それが表面化しなかったのは工作が成功したからにほかなりません。実際、第1次大戦中イラク地域には英印軍10万が派遣され現地トルコ軍と激闘を演じています。中東地域においては英中東軍と英印軍の石油を巡る主導権争いが水面下で激しくなっていたという事実を踏まえて読み進めて下さい。
 
 第1次大戦後、この地域に英委任統治領のイラク王国、ヨルダン王国が誕生した事はすでに述べました。それ以外にクウェート王国、バーレーン土侯国、カタール土侯国、トルーシアン諸国(現在のアラブ首長国連邦)などが湾岸地域に次々と出来ます。これらはイギリスと特殊条約を結びイギリス傘下の諸国といっても良い存在でした。
 
 ところでアラビア半島中央部ナジュド地方(現在のサウジアラビアの首都リヤド周辺)にはアブド・アルアジーズ・イブン・サウードが宿敵ラシード家との抗争に打ち勝ち独自の勢力圏を築いていました。といってもどこか外国からの援助がなければここまで急速に拡大する事はあり得ないですから、私は中東軍がフサインを利用したように英印軍もアブド・アルアジーズに秘かに援助を与えていた可能性を考えています。というのもナジュドはペルシャ湾岸の後背地にあたり、重要な油田地帯を守るには絶対に確保しておかなければならない地域だったからです。
 
 イブン・サウード家の興亡は波乱万丈でそれだけで一本記事を書ける分量ですが、ここでは長くなるので述べません。ヒジャーズ王国の国王であったフサインから見ればアブド・アルアジーズは蛮族の親玉くらいにしか見ていなかったと思います。一方、アブド・アルアジーズはフサインをトルコの走狗からイギリスの走狗に成り下がったアラブの裏切り者としか見ていませんでした。二人の対決は時間の問題。これはヒジャーズ地域とナジュド地域の古代から続く地域対立も背景にありました。
 
 両者の対立は、1924年フサインが全イスラム教徒のカリフを宣言した事から決定的になります。もともとイブン・サウード家はイスラム教改革を唱えたワッハーブ教徒のワッハーブ王国から出ており、アリーの子孫とはいえ傍流に過ぎないハーシム家のフサインごときがカリフを称するのは我慢のならない事でした。怒ったアブドは精兵を遣わしてヒジャーズ王国を攻撃しました。フサインの長子アリーの指揮するヒジャーズ軍は鎧袖一触、大敗して紅海沿岸のジェッダに逃げ込みます。メッカにいたフサインも、国軍が壊滅したために首都を捨てヨットでアカバに逃げ、さらにそこからキプロス島に亡命しました。
 
 ジェッダに粘っていたアリーも、イブン・サウード軍に町を占領されここにわずか建国7年にしてヒジャーズ王国は滅亡します。メッカに入城したアブド・アルアジーズはイスラム教改革派であるワッハーブ教徒がメッカの守護者である事を宣言、ヒジャーズのマリク(王)およびネジュドとその属領のスルタンを称します。こうしてアブド・アルアジーズはネジュドとヒジャーズ両方に君臨する国王となりました。1932年両国は統合されサウジアラビア王国となります。
 
 
 その後のフサインとその子供たちを描きます。まずフサインの長男アリー。ジェッダ陥落の後、弟ファイサルが国王となっていたイラクへ亡命。1935年バグダッドで客死します。次にフサイン。1930年亡命先のキプロスで病気になったフサインは次男アブドゥーラのヨルダン王国に引き取られました。アンマンで死去し遺体はエルサレムに葬られます。
 
 フサインの三男ファイサルは、イラク国王ファイサル1世を名乗りました。イギリスは当時イラクで多数派を占めるシーア派の反抗に悩まされていましたから、シーア派と関係の深いアリーの子孫ファイサルなら治められると期待し国王に抜擢したのです。ところがアリーの子孫とはいえ、スンニ派でしかもアリーの子孫はそれこそ掃いて捨てるほどいましたからイギリスの意図は成功したとは言えません。
 
 イラク国民はイギリス傀儡の国王ファイサルを支持せず、統治は相当苦労したと伝えられます。それでも1930年にはイギリス=イラク条約でイラクの独立を勝ち取り委任統治の期限が切れた1932年、国際連盟に加盟してようやく独立を達成しました。ただ実情はイギリス影響下であることに変わりなく、シーア派やクルド人の反乱に悩まされながら1933年病気療養のために向かったスイスで客死しました。享年50歳。
 
 イラク王国はファイサル1世の孫ファイサル2世(在位1939年~1958年)の時に起こった1958年7月14日革命で自由将校団のクーデターを受け、家族を含めて一族全員が宮殿前に引き出されその場でことごとく射殺されました。わずか3代37年の命でした。結局ハーシム家に残ったのはヨルダン王国だけだったのです。

近代中東史Ⅰ  アラビアのロレンスとヒジャーズ王国の周辺

 アラビアのロレンス、1962年のイギリス歴史映画。第1次大戦中のオスマントルコに対するアラブの反乱を主導したイギリス陸軍将校トーマス・エドワード・ロレンスを主人公にした映画です。おそらく日本人のアラブイメージ作りに大きく寄与した作品ですが、果たして実情はどうだったのか?
 
 調べて行くと理想主義のロレンス、現実主義のファイサル王子、狡猾なイギリス中東軍司令官アレンビー将軍とイギリス政府、映画のような単純な構図ではない事が分かります。イギリスが狡猾なのは当然として、アラブ側はどうだったのか?ロレンス本人はどうだったのか?
 
 私はロレンスが理想主義者であったとはとても思えないのです。それを紐解くために、まずは当時のアラビア半島の状況を見てみましょう。
 
 今回の話の主な舞台はヒジャーズ地方とその周辺です。ヒジャーズとはメッカ、メディナを含むアラビア半島西部の紅海沿岸地帯。中央をヒジャーズ山脈、アスィール山脈が南北に連なりアラビア半島中央部のヌフード、ルブアルハリ砂漠の厳しい環境に比べれば、乾燥はしているものの小規模の農耕も行われ住みやすい土地でした。ハッピーアラビアと云われたイエメン地方とエジプトやオリエント地方との中継貿易で栄え、イスラム教という世界宗教発祥の地としても有名です。
 
 ヒジャーズ地方は、イスラム帝国の後常に外国勢力に支配されてきました。最初はアイユーブ朝、次いでマムルーク朝。1517年オスマントルコのセリム1世がマムルーク朝を滅ぼすとヒジャーズ地方もオスマン朝の領有となります。オスマン朝のスルタンは同時にカリフと称し(スルタン=カリフ制度)、イスラム教の宗教指導者としても君臨しましたからメッカ・メディナという聖地のあるヒジャーズ地方は絶対に押さえておかなくてならない土地でした。
 
 オスマン朝はこの地を治めるためハーシム家(のうちの4代カリフ・アリーの子孫であるハサニー家)出身のフサイン・イブン・アリー(1853年~1931年)をメッカの太守に任じます。第1次世界大戦が勃発すると、イギリス政府はこのフサインに目を付けアラビア半島で反オスマン帝国の反乱を起こさせようとしました。正統カリフ、アリーに繋がるアラブの名家を盟主に祭り上げ利用しようというのです。
 
 1915年、イギリスのカイロ駐在高等弁務官マクマホンは書簡を遣わしフサインと協定を結びました。フサインがオスマン帝国に反乱を起こす時はイギリスがこれを援助するという内容です。これをフサイン=マクマホン協定と呼びます。
 
 一方、イギリスはオスマン帝国支配下のパレスチナでユダヤ人の反乱を支持するバルフォア宣言を出します。これは1917年。ところがその前の1916年には英仏の間でオスマン帝国解体後の両者の勢力範囲を決めたサイクス=ピコ協定を秘かに結んでいました。イギリスの本音がどこにあるかは明らかですが、この狡猾な三枚舌外交はアラブ人、ユダヤ人を現在でも続く争いに突入させたのですから罪は重いと思います。
 
 ところで表向き、アラブ人の反乱とその後の独立を認めたかに見えたフサイン=マクマホン協定を現実化するためにフサインの元に送り込まれた情報将校の一人がロレンス中尉でした。映画ではロレンスはサイクス=ピコ協定を最後まで知らなかったように描かれていますが、それは現実的にあり得ません。
 
 まずイギリス軍がそういう内部事情に疎い人物を送り込む事も不自然だし、語学的才能コミュニケーション能力だけで軍の意向を実現できないような無能な人物を重要なフサインの元に送り込む事もないでしょう。もし無能な人物を送ったら相手との信頼関係(表向きだけで裏で画策していたら尚更)も壊れますからね。
 
 そういう意味では、ロレンスは非常に優秀な工作員だったのでしょう。1916年フサインは4人の息子と共にアラブの反乱を起こしオスマン朝から独立を果たします。領土はイスラム教発祥の地ヒジャーズ。歴史上これをヒジャーズ王国と呼びます。
 
 ロレンスは、フサインの三男ファイサル王子と共にアラブのゲリラ軍を組織しトルコ政府の敷設したヒジャーズ鉄道破壊などゲリラ戦でオスマン軍を翻弄します。1818年にはオスマン朝の中東支配の要シリアのダマスカス入城を果たしアラブの独立は成ったかに見えました。ロレンスもこの功績で中佐に昇進します。ところがあくまで主役はアレンビー将軍率いる英中東軍で、アラブ軍はその後方支援・遊撃部隊にすぎませんでした。
 
 アレンビー率いる中東軍10万は数次に渡るガザの戦闘に勝利、エルサレムを攻略した後1918年9月にはメギドの戦いでオスマン軍主力を撃破、これに壊滅的打撃を与えます。ちなみにこの戦い、後にトルコ独立の父となるムスタファ・ケマル(アタチュルク)もトルコ軍司令官の一人として参戦していたそうです。
 
 英軍がトルコ軍主力を拘束していて手薄だったためにダマスカス攻略ができたとも言えますが、役割を終えたロレンスはアラブ軍を離れます。大戦後も彼の冒険主義的側面は治らず名前を偽って空軍に入隊したり、それがばれると今度もまた偽名で陸軍戦車隊に入隊したりと奇行を繰り返し1935年バイク事故で亡くなりました。
 
 フサインやファイサルはとうぜんサイクス=ピコ協定の存在は知っていました。そのため既成事実を作りイギリスを牽制しようとダマスカス攻略を急いだのです。フサインの解釈ではシリアも含めたアラブ全域(ただしイラク地方やイエメン、ペルシャ湾岸、オマーンなどは除く)がフサイン=マクマホン協定の範囲でアラブ王国として独立させるつもりでした。
 
 しかし、フランスがシリアとレバノン、イギリスがパレスチナ、ヨルダン、イラクを取るという秘密協定から見たらフサインの存在は邪魔以外の何ものでもありませんでした。1920年ファイサルはダマスカスのアラブ民族会議によってシリア・アラブ王国の国王に選出されます。ところがフランスはこれを認めず軍隊を送ってファイサルのアラブ軍を粉砕、ファイサルはシリアを追放されました。
 
 さすがにイギリスも三枚舌外交の気がとがめたのかフサインのヒジャーズ王国だけは存在を認め、自国の委任統治領になったトランスヨルダン(ヨルダン川東岸地域)にも彼の次男アブドゥーラ・ビン=フサインを傀儡国王とするヨルダン・ハシミテ王国を建設しました。1923年の事です。ハシミテとはハーシム家の国という意味。これが現在まで続くヨルダン王国です。一方、シリアを追放されたファイサルですが英委任統治領のイラクでシーア派の抵抗が強い事からそれを宥めるためアリーの子孫であるファイサルに白羽の矢が立ち、1921年イラク国王として返り咲きます。ヨルダンにしてもイラクにしてもイギリスの傀儡ではありましたが一応国王になれたのでハーシム家にとってはまずまずの結果に終わるかに見えました。
 
 ところが本家ヒジャーズ王国に間もなく受難が訪れようとしていました。次回、ヒジャーズ王国の滅亡を描きます。

沖縄戦に関する個人的感想

 今回のシュガーローフの戦いの記事で沖縄戦三部作は一応完結しました。
 まず「異端の参謀八原博通と反斜面陣地」
の記事で、第32軍の基本的な戦術を考察し、次に「反斜面陣地の実戦例 沖縄戦嘉数の戦闘」
で、第一線陣地における第32軍の戦いを描きました。
 「沖縄戦シュガーローフの戦い」
では、第32軍最後の戦いと終焉を記す事ができました。
 一般の方には反応が薄いと思いますが、沖縄戦となると反日左翼の書いた日本軍悪玉説を強調する本(太田昌秀の本などその典型)ばかりで、沖縄を守るために戦って散っていた第32軍が、あたかも多くの無実の沖縄県民を虐殺したという酷い描かれ方でした。あまりにも英霊を侮辱する連中に義憤を感じたのが今回の執筆動機です。独りよがりかもしれませんが、私の中では沖縄戦で散って行った英霊の皆さんの鎮魂になったのではないかと自負しています。
 
 特に今回のシュガーローフの戦いに参加した独立混成第44旅団は編成地が我が地元熊本なんです。同郷人がこの地に多く眠っているかと考えるとどうしても書かざるをえませんでした。幸いにして、わが親族は祖父の兄弟、祖母の兄弟とも第6師団(チモールで終戦)、近衛第2師団(スマトラで終戦)、第56師団(ビルマ南部で終戦)、海軍潜水艦兵(戦没地不明)と沖縄とは関係ありませんが、おそらく地元には沖縄で散った方も多いと思います。
 もともと第32軍は、第9師団、第24師団、第62師団、独立混成第44旅団を隷下に持ち十分な兵力で防衛する予定でした。ところが台湾沖航空戦の戦果誤認からレイテ決戦を強行した大本営によってまず台湾の師団がレイテに抽出され、次に兵力が手薄になった台湾の穴埋めに沖縄の第9師団を台湾に抽出するという間違った決定を大本営は下します。
 大本営の泥縄の戦争指導によって沖縄の第32軍は不十分な戦力で防衛戦を行わなければなりませんでした。最精鋭の第9師団は、対ソ戦を想定し十分な武器弾薬を有した強力な師団です。第32軍の作戦を立案する八原参謀は当初第9師団を機動打撃力とする作戦構想を練っていたとされます。ところが兵力削減で作戦を根本から練り直さなければなりませんでした。
 これでは到底勝利は望めません。八原参謀は、勝てないのなら徹底的な持久戦闘によって米軍の本土侵攻を遅らせる事を考えます。それが反斜面陣地による作戦でした。ただ、持久戦は沖縄県民の犠牲が増大することから第32軍は船による本土への疎開を計画します。ところが対馬丸撃沈によって不可能になり、次善の策として沖縄本島北部への県民避難を考えたのです。しかし、軍に絶対の信頼を寄せる県民は軍と共に南に退く事を選択しました。これが沖縄戦の悲劇へと繋がります。
 大本営がもし責任を感じるなら、沖縄県民の避難を第32軍任せにせず自ら率先して避難誘導べきでした。それをしないばかりか、反斜面陣地戦法を第32軍の消極的戦闘と決めつけ総攻撃を強要するのですから始末に負えません。第32軍は大本営の無責任体質の犠牲者だったと言えます。
 そんな絶望的な状況の中、第32軍は精一杯戦ったと思います。海軍根拠地隊の大田実少将も同様です。沖縄県民もまた民兵として動員され、婦女子は看護兵として郷土を守るために力の限り戦いました。
 大田少将の「沖縄県民斯ク戦ヘリ県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」は、彼らの本音だと思います。そして同時に沖縄で散って行った英霊の皆さんの家族、故郷もまた、格別の御高配を賜らなければならないのです。
 日本の国土を守るために戦って散って行った英霊の皆さんに深く感謝するとともに、心より御冥福を祈りたいと思います。そしてできるなら硫黄島と同様、沖縄の地に未だに眠っている御遺骨を故郷に帰してあげたいと考えています。

沖縄戦シュガーローフの戦い

 沖縄都市モノレール「ゆいレール」おもろまち駅南方の丘は都市開発の際、無数の人骨が出土したそうです。この地は日本軍が安里(あさと)52高地と呼び、米軍がシュガーローフヒルと呼んだ沖縄戦最激戦地の一つでした。
 安里52高地は、現在では水道タンクがあるあたりですが丘の西側は都市計画で大きく削り取られ当時の面影を残していません。さらに安里52高地と複郭陣地を形成した大道森(だいどうむい)陣地米軍呼称ハーフムーンヒルが東側にあったのですが、こちらも現在では道路が建設され当時の地形はほとんど分かりません。どちらも、まだまだ日本軍兵士の遺骨が無数に眠っていると言われます。シュガーローフヒルの南西にはホースシューという窪地がありここには日本軍の迫撃砲陣地がありました。
 ちなみに、シュガーローフというのはアメリカ南部の棒状砂糖菓子のことですが米軍の俗語ですり鉢状の地形を指すそうです。この場合は高地の形状からの命名でしょう。現在では那覇市の領域に含まれるこの地は、帝国陸軍第32軍の司令部がある首里の最終防衛戦の一角でした。地図を見てもらうと分かる通り首里から3キロ弱。
 日本軍にとっては絶対に守らなければならない陣地でした。嘉数、前田高地の第一線陣地の戦闘で粘り強い防衛戦闘を行い米上陸軍に多大の出血を強いた日本軍ですが、反斜面陣地戦術を理解しない大本営の横槍によって総攻撃を行わざるを得なくなります。そして第32軍高級参謀八原大佐の危惧通り大失敗に終わり、沖縄の日本軍は貴重な兵力を失いました。後のない第32軍は、絶体絶命、決死の覚悟で最終防衛戦の守りについたのです。
 嘉数の戦いの記事
でも書きましたが、沖縄の地形は隆起珊瑚礁が多く硬くて掘りにくいもののコンクリートに匹敵する強度を持ち坑道式の地下壕を張り巡らせれば強固な要塞ができると言われます。日本軍は、この地に多くあった亀甲墓を利用しそこを陣地の入り口に利用して地下壕で繋ぐことによって強力な陣地を築いていました。当時のシュガーローフヒルの写真を見るとなんの変哲もない丘に見えますが、実は必殺の陣地が築かれていたのです。
 シュガーローフヒル、ハーフムーンヒル、ホースシューの複郭陣地を守るのは独立混成第44旅団隷下の独立混成第15連隊です。ただこれだけでは砲兵火力が不足していたので、首里方面の重砲の支援を受ける計画でした。
 米軍は第6海兵師団を投入します。同部隊がこの地に達したのは1945年5月12日。米軍はこの地域を戦略的に重視しておらず単なる通過点と考えていました。無警戒の第6海兵師団G中隊は、丘を登った瞬間四方から十字砲火を浴び中隊の半数が死傷、事実上壊滅します。生き残った兵士の証言では日本軍は背中からも撃ってきたそうです。シュガーローフもまた八原参謀が考案した反斜面陣地だったのです。
 翌13日、思わぬ日本軍の抵抗に驚いた第6海兵師団は、2個中隊で丘を攻撃しますが結果は前日と同様でした。14日は、師団隷下第22海兵連隊第2大隊が全力で攻撃、これはある程度成功します。ところが夜になるとどこからか迫撃砲弾が飛んできて大混乱に陥りました。そこに日本軍の夜襲があり日米両軍は稜線を挟んで手榴弾を投げ合うという凄惨な戦いが起こります。のちにこの稜線はハンドグレネードリッジと呼ばれることになりました。
 後で分かった事ですが、迫撃砲弾はシュガーローフの後方にあるホースシューから発射されたもので、米軍から見て死角になるところでした。米軍がこの地を突破するにはシュガーローフを占領するだけでは駄目で、複郭陣地を形成するハーフムーンとホースシューを同時に制圧しなければなりません。
 米軍が、日本軍防御陣地の全体像をようやく把握したのは5月16日でした。その間も激戦は続き米軍の損害は増え続けます。この日は1個連隊を投入した大規模攻撃が艦砲射撃の支援のもと敢行されますが、日本軍の十字砲火で撃退されたばかりか撤退中も首里からの支援砲撃を受け壊滅的打撃を受けます。まさに第6海兵師団にとって最悪の日でした。
 連日の激戦を制した日本軍でしたが、米軍と同様日本軍も激しく消耗していました。米軍は17日から加わった第29海兵連隊も18日の攻撃に投入し2個連隊(これに第6戦車大隊が加わる)という大軍をもってようやく日本軍陣地を制圧します。それも日本軍の抵抗が激しいため最後は予備部隊の第4海兵連隊まで投入しての苦い勝利でした。
 この戦いにおける日本軍の損害は不明です。ただし独立混成第15連隊はほとんど壊滅したのではないかと思います。米軍はこの戦闘で実に4000名(戦死、戦傷、戦闘疲労患者含む)近い大損害を出しました。
 シュガーローフを含む最終防衛戦を米軍に突破された第32軍は、ついに首里放棄を決断。ガマと呼ばれる天然洞窟が無数にある沖縄本島南部島尻地区の丘陵地帯へ移りました。この時、第32軍は民間人の犠牲を避けるため住民に知念半島への撤退を勧めますが、入口を米軍に制圧され事実上不可能になっていました。沖縄戦勃発前にも軍は県民に本島北部への撤退を命じていましたが、軍を信頼しきっていた県民は軍と行動を共にする道を選択していました。こうして数十万の沖縄県民は軍と共に島尻地区に立て籠もる事になり多くの人命が失われる悲劇となったのです。
 6月23日午前4時ごろ(異説あり)、追い詰められた日本軍は摩文仁の軍司令部で第32軍司令官牛島中将、軍参謀長長中将が自決。残存兵力も6月25日頃には組織的抵抗力を失いました。しかし一部の生き残りは抵抗を続け、最後の兵士が投降したのは終戦後の9月7日だったと伝えられます。

反斜面陣地の実戦例  沖縄戦嘉数(かかず)の戦闘

 沖縄県宜野湾市の南部に標高90mの東高地、標高70mの西高地からなる鞍状の小丘陵があります。米軍普天間基地を見下ろす事が出来、よく流れている基地の映像はこの高地から撮影したものです。
 果たして彼ら(テレビ局)は、嘉数高地が沖縄戦の激戦地の一つでここで多くの英霊が倒れた(そして多くの英霊が眠っている)ことを知っているのでしょうか?日本の防衛力を弱める反日活動であるとともに、英霊を土足で踏みにじるという二重の冒涜を犯している彼らを私は絶対に許すことはできません。
 それはともかく、嘉数の戦いは圧倒的劣勢の日本軍が善戦し一度は米軍を押し返した英雄的な働きを示した戦場として有名です。一般にはほとんど知られていないと思いますが日本人にぜひとも知ってもらいたくて今回紹介致します。
 反斜面陣地に関しては、過去記事で説明しましたが簡単におさらいすると敵に向かった斜面ではなく稜線を越えた反対側斜面に陣地を築きさらに後方の主陣地からの砲撃で敵軍を撃滅する戦法です。これは火力や兵力が敵より劣っている場合に採用されることが多く、敵が稜線を越える前には曲謝弾道で上から砲撃し、稜線に達すると今度は主陣地や反斜面陣地から直接射撃して袋叩きします。敵側に向かった斜面を巨大な城壁とし機動的に反撃することを想定した陣地です。
 良いことずくめの戦法のようですが、反斜面陣地が成立する条件は厳しく、まず敵が必ずそこを通る必然性がある事、次にそこに丘陵状の障害物がある事、そして反斜面陣地や後方の主陣地からの射撃、砲撃が可能である必要があります。そして、最後に部隊間の連携が取れ有機的に動ける事が絶対条件です。
 嘉数高地は、東西約1kmの稜線。高地の脇を普天間方面から第32軍司令部のある首里へ至る主街道(中街道)が通り前方は両岸が5mほどの崖(比屋良渓谷)になっている比屋良川が流れています。海岸沿いの牧港低地は地積が狭く高地からの砲撃で制することができます。高地の東には西原高地が連なる天然の要害でした。反斜面陣地を採用するのにこれほど適した土地はありません。歩兵はともかく戦車は必ず中街道を通らなければならないからです。
 沖縄を守る第32軍は、嘉数高地の陣地帯の防衛を第62師団に委ねました。第62師団は、支那戦線の治安維持を目的に編成された警備師団で、独自の砲兵連隊を持たない二線級の師団でしたが支那大陸での豊富な戦闘経験を持ち侮りがたい力を持っていました。師団の編制に編入されたのは独立歩兵大隊で通常の70㎜歩兵砲2門のほかに75㎜山砲2門を有する歩兵砲小隊を組み込み1200名を超える大規模大隊でした。(通常は800名前後)
 嘉数方面には第62師団隷下の歩兵第63旅団(4個独立歩兵大隊基幹)が投入されます。ただし砲兵火力に不安があるため増援として独立速射砲第22大隊(47㎜速射砲装備)、独立迫撃砲第8中隊(81㎜迫撃砲×18)、野戦高射砲第81大隊の一部(75㎜高射砲×2)が加わります。さらに後方の仲間台地には第32軍直轄の野戦重砲兵第23連隊第1大隊(九六式15cm榴弾砲×12)、独立臼砲兵第1大隊の一部(32cm臼砲×8)が直協重砲兵として配されました。
 日本軍は、米軍上陸まで半年間の時間的余裕があったため、嘉数高地の全山を要塞化し稜線上にはコンクリート製の監視所、要所に重機関銃陣地、坑道式の地下壕を縦横に張り巡らせていました。沖縄の土地は隆起珊瑚礁が多く、硬くて掘りにくい代わりに強靭でコンクリートに匹敵する強度を持っていたそうです。
 嘉数方面に進出してきたのは米陸軍第27師団と第96師団でした。1945年4月5日嘉数高地の北隣85高地に米第383連隊が襲いかかったことからこの地での戦闘がはじまりました。85高地は嘉数陣地帯の前哨陣地でしたが守備をしていた独立歩兵第13大隊は大きな損害を出して嘉数の本隊と合流しました。4月8日、嘉数にも第383連隊の攻撃が始まりました。日本軍を舐めていた米軍はここも9日までに占領するつもりでしたが、それが甘い考えであることは間もなく判明します。
 4月9日、準備砲撃もせず嘉数高地北側斜面に取りついた米軍は稜線上に達しますが、反斜面陣地から出撃した日本兵が重機関銃、軽機関銃、擲弾筒、手榴弾で猛烈な反撃を加えました。壮絶な白兵戦となりますが、こういう場合待ち構えていた方が有利で米軍は大損害を出して一時撤退しました。守備していた独立歩兵第13大隊も士官だけで20数名戦死するという損害を出し戦闘力をほとんど失います。歩兵第63旅団長は増援として独立歩兵第272大隊を投入しました。
 翌10日も米軍は第381連隊、第383連隊を投入して嘉数高地に攻め込みます。この時嘉数西高地の一部が米軍に占領されます。しかし日本軍は嘉数西70高地の南側と東側の陣地を堅守し米軍の突破を許しませんでした。大きな損害に懲りた米軍は、12日沖合の艦隊からの艦砲射撃、航空機による空爆を加えた入念な準備砲撃のあと再び総攻撃を開始します。
 が、猛烈な砲撃、爆撃にも関わらず嘉数の日本軍陣地は健在でした。激戦の末今回も日本軍はわずか3個大隊で米軍3個連隊を防ぎました。米第96師団は兵力再編のために一時撤退に追い込まれます。その後も小競り合いは続きますが、4月19日米軍は入念な準備砲撃のあとM4シャーマン中戦車24両、M7自走砲6両を先頭に押し立て攻撃を開始しました。
 戦車に対しては、歩兵の機関銃や擲弾筒は通用しません。中街道は簡単に突破されM4シャーマンの機甲部隊は嘉数高地を包囲するように背後の嘉数集落に向かいました。ところがこれこそ日本軍の設けた罠で、後続の歩兵部隊を機関銃や擲弾筒、迫撃砲で分断すると孤立した戦車群をキルゾーンに誘導します。
 47㎜速射砲は、先頭のシャーマンをやりすごし後続のシャーマンを側面からゼロ距離射撃で攻撃しました。巧妙に偽装された対戦車陣地を米軍は全く気付かず奇襲攻撃を喰らいます。嘉数-西原隘路口でまず3両が地雷で擱座。次に速射砲で4両が撃破されました。嘉数集落に侵入しようとした後続は曲がり鼻を75㎜高射砲の側面射撃をうけ破壊。残りは6両が肉薄攻撃でやられます。結局無事に後退出来たのはM4シャーマン2両とM7自走砲6両のみ。実に22両ものシャーマンがこの日の戦闘で撃破されたのです。
 絶対の自信を持っての米軍の総攻撃でしたが、結果は惨憺たるものでした。莫大な損害を出して米軍の攻勢は頓挫。しかし、兵力に劣る日本軍の損害も甚大でした。歩兵第63旅団は実質的に1個大隊弱の兵力にまで落ち込みます。側面の牧港に米軍の別働隊が上陸したため嘉数陣地帯の防衛が困難となり放棄を決定。首里を目前とした最終防衛線に退きました。
 4月24日、米軍が兵力を再編成して攻撃を行った時には嘉数高地の陣地帯は死体も残っていないほどもぬけの殻でした。大きな損害を出しながらも日本軍の将兵は嘉数では負ける気がしなかったそうです。一方米軍は、嘉数高地を「あの忌まわしい丘」「死の罠」と呼んで忌み嫌いました。
 嘉数の戦闘は、敗北必至の日本軍が大戦中最後に勝利した地上戦闘でした。絶望的な状況でも日本軍はかくも英雄的な働きをしたのです。我々後世を生きる日本人も誇って良い事実です。沖縄で戦った日本兵の皆さんに最大級の賛辞を贈りたいと思うのは私だけでしょうか?

異端の参謀八原博通と反斜面陣地

 最近、歴史群像10月号を読んで嘉数(かかず)の戦いの記事に大変深い感銘を受けました。嘉数の戦いといっても御存じない方がほとんどだと思うので簡単に説明すると大東亜戦争沖縄戦の中の戦闘の一つで、シュガーローフの戦い、西原の戦いとともに最激戦の一つ。武器も兵力も劣る日本軍がアメリカの大軍を相手に善戦し16日にもわたって敵を釘付けにし最終的には撃退した戦闘です。ただし背後の牧港に米軍が上陸したため嘉数高地防衛が無意味になり日本軍は撤退しました。詳しくは歴史群像10月号の当該記事をご覧ください。
 寡兵の日本軍がなぜアメリカの圧倒的大軍を2週間以上も防げたかですが、これは日本の第32軍が採用したある戦法によってでした。その名を「反斜面陣地」と呼びます。通常、陣地は山の稜線などを中心に敵に向かった斜面を防衛正面としあらゆる火砲、機関銃陣地、塹壕を築きます。稜線上には観測拠点や、兵力に余裕のある場合レーダーや高射砲陣地を設けます。なぜなら、敵の進行方向に最大限の火力を集中すべきだからです。
 しかし、兵力に圧倒的な差がある場合敵の膨大な火力によって自軍陣地の火砲が沈黙し簡単に突破を許してしまいます。といって「どうせ負けるから」と撤退してしまっては意味がありません。なぜなら陣地を設けるという事は、そこがチョークポイント(要衝)だからです。ではどうしたらよいか?古来戦術家はこの難問に苦悩しました。そして、回答の一つとして考案されたのが反斜面陣地です。
 反斜面陣地とは、あえて敵に向かった斜面には兵力を配置せず、稜線上に警戒部隊(着弾観測員を兼ねる)を置き、主力部隊はその後方の斜面上に布陣します。敵からみて、反対側の斜面に主力部隊が位置するためこれを反斜面陣地と呼びます。
 敵が陣地のある山の斜面に取りつくまでは、稜線上の観測員による誘導で後方主陣地の火砲(榴弾砲か臼砲が望ましい)の曲射砲撃で叩きます。敵が斜面に取りついたら死角になって攻撃できませんが、山の稜線上に達すれば後方から砲撃(この場合は直射砲撃)してこれを叩きます。もし敵が警戒部隊のいる稜線を避け谷筋伝いに登ってくれば、主力部隊と警戒部隊で挟撃するのです。敵は、山の稜線が視界を遮り砲弾がどこから飛んでくるのか分からないため苦戦は必至です。
 とても素晴らしい戦法のようですが、ちょっと考えると分かるとおり陣地の位置、射角、部隊同士の連絡など緻密な事前準備を行わなければ各個撃破されてしまいます。その意味では諸刃の剣ともいうべきリスキーな作戦でもあるのです。ということで反斜面陣地はよほど切羽詰まった状況でなければ採用されません。
 沖縄防衛戦において反斜面陣地を採用したのは、第32軍高級参謀八原博通大佐でした。どちらかというと寡黙部下にすべてを任せ責任だけを負うと云った薩摩型将帥であった第32軍司令官の牛島満中将、壮士型の長勇参謀長(中将)と違い、実際の作戦を立案する八原大佐は、アメリカ駐在の経験もある合理的精神の持ち主。緻密な作戦を得意とする怜悧な参謀でした。硫黄島の栗林中将といい八原大佐といいアメリカ駐在経験のある合理的精神の持ち主が一番米軍を苦しめたかと思うと感慨深いものがありますね。
 八原大佐は、自分の主張が正しいと信じれば絶対に自説を曲げないため空気を読む陸軍内では浮いた存在でした。しかし、このような人物だからこそ反斜面陣地を採用したのだと思います。結局米軍は沖縄戦を通じて死者行方不明者12500人、戦傷者72000名という最大の損害を出します。それよりも日本軍の予想以上の抵抗に戦場ノイローゼになって戦列を離れた者が数万人に上ったとも言われます。
 ただ、大本営は第32軍の一見消極的な戦法(実はこれが一番合理的で有効な戦法だった)に不満を抱き、総攻撃命令を下します。これには牛島司令官、長参謀長始め司令部の参謀すべてが(大本営の意向に従うとして)賛成したそうですが、八原大佐は「無意味である。戦力が枯渇し抵抗できる時間と兵を失うだけだ」としてただ一人猛反対したそうです。しかし多勢に無勢、八原大佐は押し切られ大本営の命令通り総攻撃を行った第32軍は予備兵力のすべてを使い果たし沖縄は陥落を早めました。
 絶望的な戦場でも日本軍はかくも善戦したのだと考えると、誇らしいです。決して軍は沖縄を見捨てたのではなく精一杯国土を守るために戦ったのです。反日左翼によって歪められた沖縄戦の真実を知ることこそ沖縄で散って行った英霊の鎮魂になるのだと私は思います。皆様はどんな感想を抱かれましたか?

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