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2014年11月 1日 (土)

近代中東史Ⅳ  カージャール朝とパハラヴィー朝のイラン

 カージャール族というのはトルコ系遊牧民で、サファビー朝の創始者シャー=イスマイル1世に協力したキズィル=バーシ七部族中の一つでした。サファビー朝末期突如現れた風雲児ナディル・シャー(在位1736年~1747年)のアフシャール朝が一代で滅ぶと、アフシャール朝は有力な将軍たちによって分裂します。
 
 その中で勝ちあがったのがゼンド族のカリーム汗とカージャール族のムハンマド・フサインでした。最初に覇権を握ったのはカリーム汗で、ゼンド朝を開きますが短命に終わります(成立1750年~1794年)。ゼンド朝もお決まりの後継者争いで内乱となり、逼塞していたカージャール族に乗ずべき隙を見せました。
 
 フサインの息子アーガー・ムハンマドは父の死後ゼンド朝の人質となっていましたが、王朝が後継者争いで混乱すると秘かに首都シーラーズを脱出、カージャール族をまとめ上げます。1785年マザンダラン地方(カスピ海とエルブルズ山脈に挟まった地方。中東では珍しい湿潤な気候で穀倉地帯として有名)をまとめ上げ自立すると、2年後イラン中央高原に進出イスファハンとテヘランを奪い、テヘランを首都と定めました。1794年、ファルスとケルマーンを平定しゼンド朝最後の君主ルトフ・アリー・ハーンを捕えて処刑します。ゼンド朝はこれで滅びました。
 
 イラン全土をほぼ統一したアーガー・ムハンマド(在位1796年~1797年)はカージャール朝を創始します。ところがカージャール朝は、その軍事力を部族の提供する兵力に頼っていたため政権基盤は脆弱で、バーブ教徒の反乱にも悩まされました。対外的にもロシア帝国との二度にわたる戦争に完敗、グルジアとカフカズ地方を失います。イギリスとも対立しイギリス勢力圏のアフガニスタンとイランの国境がこの時確立しました。これまでの歴代ペルシャ王朝は、カフカズ、アフガニスタンにも広がる領土を持つのが常でしたが、カージャール朝以後、ほぼ現在のイランの領域が定まります。
 
 20世紀に入ると、流石のカージャール朝も危機感を生じ、英仏の技術を導入し近代化を図り鉄道、電信などの整備を始めました。が、時すでに遅くカージャール朝はロシア帝国と大英帝国の緩衝地帯に成り下がります。このような政府のだらしない対応は、近代的教育を受けた国民の不満を呼びました。それが1905年から始まるイラン立憲革命へと繋がるのですが、国王と政府高官ら反動層と対立し上手く行きませんでした。
 
 そのような中第1次世界大戦勃発。カージャール朝は中立を宣言しますが列強はこれを無視、自国の勢力圏に引き込むため軍隊を派遣します。とくにロシアとオスマン帝国は互いにイラン領内に兵を入れ弱体のイラン軍を無視しイラン領内で対峙しました。1918年3月ブレスト=リトフスク条約でロシア軍とトルコ軍はようやくイラン領内から撤退を開始します。ロシア軍は、撤退の腹いせに各地で略奪暴行を働きイラン北東部は荒廃したと伝えられます。
 
 外国軍が撤退してほっとしたのもつかの間、今度は英軍がイラン国内の治安回復とイラン領内からのトルコ軍駆逐を大義名分に1918年イランに侵入開始、ほとんど全土を制圧しました。イギリスはイランを保護国化します。このようにカージャール朝末期のイランはほとんど独立国の体を成していない悲惨な状況でした。
 
 パリ講和会議でもイランが中立を宣言していたからと、戦争で被った被害をすべて無視されイランの独立保障も一顧だにされませんでした。このような悲惨な歴史を持っているのですから反米・反欧州となるのも仕方ないと思います。
 
 大戦後着々とイギリスの保護国化が進むイランでしたが、隣国ロシアで社会主義革命が勃発、内戦に突入するとイラン領内にもロシア白軍とそれを追った赤軍が侵入、イラン領を占領するなど傍若無人な振る舞いをしました。
 
 さすがにここまで各国に馬鹿にされると、イラン国民は立ち上がります。ペルシャコサック兵団の将校レザー・シャー(1878年~1944年)もその一人でした。彼は2500名の手兵を率いて挙兵、1921年首都テヘランを占領します。クーデターでイランの実権を握ると、レザー・シャーは首相兼イラン軍総司令官となりソ連との間にロシア・ペルシャ和親条約を締結。国王アフマド・シャーに迫り英国との間に結ばれた国辱的な英波協約(事実上の属国化協約)を破棄させました。イラン各地で起こった反乱を平定すると、レザー・シャーはアフマド・シャーを廃位、自らのパハラヴィー朝を創始しました。
 
 レザー・シャー・パハラヴィー(在位1925年~1941年)は現実主義者で、事さらに欧米と対立する道は採りませんでした。1926年司法改革、1927年国民銀行創設、1929年徴兵制施行と着実に近代国家への道を推進します。英仏では具合が悪いとアメリカから財政顧問を雇い財政改革を進めました。女性解放も教育改革も彼の時代に始まります。
 
 1935年、国号をイランと定めたのも彼です。国際連盟にも加盟するなどイランはレザー・シャーのもとで近代国家への道を歩みますが、一方イスラム教の伝統を重んじる国民からは不満が生じます。レザー・シャーは強力な独裁政治で不満を抑え込みました。
 
 第2次大戦が勃発すると、イランは再び中立を宣言します。しかし枢軸国寄りの態度を示したため、1941年またもや英軍とソ連軍がイラン領内に侵攻(イラン進駐)、両国の圧力で退位を迫られました。レザー・シャーは息子のムハンマド・レザー・パハラヴィーに帝位を譲りモーリシャス島に事実上亡命、南アフリカ・ヨハネスブルクに移り同地で波乱の生涯を閉じます。享年67歳。
 
 
 パハラヴィー2世とも呼ばれるムハンマド・レザー新皇帝。日本ではパーレビ国王として知られています。彼のもとでもイランは近代化を進めました。イギリスに代わって自由主義陣営のリーダーとなったアメリカと急接近し、経済的軍事的援助を受けます。中東一の親米国家となったイランでしたが、余りにも急速に欧米化したためイスラム教の伝統を重んじる国民との間に乖離が生じました。
 
 1979年イスラム教原理主義の宗教指導者ホメイニ師に主導された革命勢力は、国民の不満を背景にパハラヴィー2世に退位を要求、皇帝は戒厳令を命じるものの効果は無く結局家族側近と共にエジプトに亡命せざるを得ませんでした。こうしてパハラヴィー朝は滅亡します。イランはイスラム教を重んじるイラン・イスラム共和国となって現在に至っています。パハラヴィー朝があまりにも親米だったため、その反動でイランは歴代反米政権が続いているのです。

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