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2014年12月

2014年12月 1日 (月)

印パ戦争    後編

 第2次印パ戦争は両者痛み分けに終わりますが、戦争で疲弊した両国では国民の不満が爆発します。特にパキスタンは深刻な東西問題を悪化させていきました。
 パキスタンは英領インドのうちイスラム教徒が中心に建国した国ですが、国土が東西に分かれていたためそれを一つにまとめるのは至難の業でした。本土である西パキスタンはアーリア系のパシュトーン人などが中心でしたが、東パキスタンはもともとのインド土着民族であるドラビダ系のベンガル人が大半を占めていました。政府の枢要な地位はすべて西パキスタン出身者が占め、東パキスタンのベンガル人は抑圧されていたのです。パキスタン全土で国民が政府に対する不満を示し始めると、東パキスタンでも完全自治権を唱えるラーマンらパキスタン人民連盟(AL)が台頭します。
 パキスタン政府は、ラーマンを分離主義者として逮捕しました。ところが逮捕によって激高した民衆は各地で暴動を起こし、アユブ大統領は辞任に追い込まれます。後を継いだのは陸軍総司令官ヤヒヤー・カーンでした。ヤヒヤー新大統領は、最初こそ国民に融和の姿勢を示し軍部独裁から民政移管・総選挙の実施を約束します。
 ところが、いざ総選挙をしてみると人口の多い東パキスタンでラーマン率いるALが圧勝、西パキスタンで優勢だったパキスタン人民党を数の上で上回ったのです。ALは東パキスタンの自治権拡大を保障する憲法改正を求めますが、ヤヒヤー大統領はこれを拒否。ヤヒヤー大統領の政治力のなさに見限った軍部は、野党第二党のパキスタン人民党党首ブットに急接近しました。
 パキスタンを実質的に支配する軍部に東パキスタン自治権拡大の意思がないと見たALは、ヤヒヤーの妥協案を蹴り下野します。ALは東パキスタン各地でバングラデシュ国旗を掲げ政府への対決姿勢を鮮明にしました。東パキスタンに駐屯する軍は西出身者が大半でしたので、これに激しく反発東パキスタンは内戦状態に突入します。1971年3月25日の出来事でした。
 ヤヒヤー大統領は、ALを非合法化しラーマンを逮捕します。しかし事態は収まるどころか東パキスタン各地で政府軍と独立派が激しく市街戦を演じました。独立派はついに独立を宣言、バングラデシュを正式な国号と定めます。パキスタン政府がこれを認めるはずはありません。弾圧は激しさを増し、正規師団4個を投入した政府軍が有利になっていきました。東パキスタンのベンガル人は、内戦の激化で家を失い難民となってインドへ亡命します。その数は800万を越えたとも言われます。ところがインド政府にとっては国内の治安も悪化するし迷惑極まりない事態でした。
 インド政府は、東パキスタンを独立させれば宿敵パキスタンの力を削ぐ事が出来ると考え増大する難民対策にもなる妙案を考えます。難民のうちから民兵を募り武器を与え訓練して再び東パキスタンに送り込みました。当然、パキスタンはインドの背信行為に激高します。1971年9月印パ両軍は国境で小競り合いが頻発しました。
 そしてついに同年11月21日インド軍の大部隊が東パキスタンの国境を越え両国は全面戦争に突入。すなわち第3次印パ戦争です。これまではカシミール地方が舞台でしたが、今回はパキスタンの飛地東パキスタンが主戦場になりました。インド軍は総兵力24個師団のうち実に半数の12個師団20万の大軍を投入します。東パキスタンに駐屯するパキスタン軍はわずか4個師団、しかも民衆も敵と云う四面楚歌状態でした。
 ここで当時の印パ両軍の兵力を見てみましょう。
【インド軍】
陸軍:89万  歩兵師団×23個、機甲師団×1個、機甲旅団×1個
         主要装備はセンチュリオン戦車、T-54/55戦車
海軍:40万  総排水量9万トン
         空母×1、巡洋艦×2他合計79隻
空軍:8万人  戦闘機420機(MiG-21×140機、ホーカー・ハンター×120機他)
         攻撃機、爆撃機360機(ダッソー・ミステール×40機、Su-7×120機他)
【パキスタン軍】
陸軍:36万人 歩兵師団×12個、機甲師団×2個、機甲旅団×1個
         主要装備はM46、M48戦車(以上アメリカ製)59式、62式戦車(以上支那製)
海軍:1万人 総排水量4万トン
        駆逐艦×9ほか合計37隻
空軍:1.7万  戦闘機140機(F-104スターファイター×10機、ミラージュⅢ×20機、F-6[支那製]×70機他)
         攻撃機、爆撃機260機(F-86Fセイバー×130機他)
 海軍はインドが圧倒的、陸軍は戦車戦力は互角ながら、アメリカがパキスタンに陸上兵器供与を渋り始めたため支那製兵器が増えています。ただ航空機はアメリカが自国製戦闘機の保有を許し数は少ないものの航空戦力ではパキスタンが上回っていました。
 
 今回の主戦場はガンジス河河口デルタ地帯の湿地。再びアメリカ製M48とイギリス製センチュリオンの対決が起こります。ところが今回もセンチュリオンが勝利をあげました。中東戦争ではT‐55の撃破記録を持つ(というかパーフェクトゲームを演じた)M48が何故センチュリオンに敗れたかですが、私はアメリカはパキスタンにタングステン弾芯の徹甲弾をほとんど供与していないのではないかと考えているのです。というのも湾岸戦争時ソ連もイラクに対してはタングステンではなく普通の鋼鉄製徹甲弾を供与していました。イラク軍が多国籍軍の新鋭戦車の前面装甲を一度として抜けなかった理由はこれでした。イラク戦車の発射した砲弾は装甲に当たると砕け散ったそうです。いくら重装甲といってもセンチュリオンも所詮は均質圧延装甲ですからね。あるいはイスラエル軍戦車兵とパキスタン軍戦車兵の練度の違いという要素が大きかったのかもしれません。
 航空戦は、数こそ少ないもののアメリカ製の高性能ミサイル、サイドワインダーを搭載したパキスタン空軍が有利に戦いを進めます。この当時はすっかり旧式になっていたF-86FセイバーでさえハンターやSu-7の撃墜記録を持っています。当時のインド軍は空対空ミサイルを持っていなかったのかあるいは持っていても性能が低かったのかは謎です。兵器体系的にはソ連のR-3アトール(サイドワインダーのデッドコピー)を持っていても不思議ではないんですけどね。登場は1962年ですから。
 戦闘は拡大し、東パキスタンだけではなくカシミールやインド西部国境沿いでも激闘が続きますが戦いの帰趨は東パキスタンをパキスタン軍が保持できるかどうかにかかってきました。インドは優勢な海軍力を使いベンガル湾を封鎖、本土と1500kmも離れている東パキスタンの補給を断ちます。数の上でも劣勢なパキスタンの東パキスタン守備軍は敢闘しますが多勢に無勢、各地で敗退し東パキスタンの中心都市ダッカに立て籠もりました。そしてインド軍の包囲、総攻撃を受けて1971年12月14日、ついに降伏します。
 カシミール戦線では優勢だったパキスタン軍ですが、東パキスタン失陥で戦略目標を失いインド政府の勧告を受けて12月17日ついに停戦を受け入れました。東パキスタンは1971年12月16日制式にバングラデシュとして独立を達成します。ラーマンは初代大統領になりました。
 それにしても短期間にしては犠牲の大きな戦争でした。インド軍の戦死者1426人、行方不明2149人、負傷者3611人。パキスタンの戦死者3226人、他不明。ただし主戦場になったバングラデシュは民間人30万人から100万人が犠牲になったと云われます。
 パキスタンのヤヒヤー大統領は敗戦の責任を取って辞任、後任大統領にはブットが就任しました。パキスタンは敗戦の後遺症を後々まで引きずります。人口は半減し経済的、政治的損失は計り知れないものがあったそうです。一方、勝利者となったインドも同様でした。莫大な戦費はインド経済を圧迫します。独立を達成したバングラデシュも国民の犠牲が甚だしく現在でも最貧国の一つに数えられるほどです。
 そしてそもそもの戦争の発端だったカシミール問題は現在にいたっても解決していません。

印パ戦争    前編

 印パ戦争とは、第1次(1947年)、第2次(1965年)第3次(1971年)と三度にわたってインドとパキスタンとの間に繰り広げられた戦争で、最終的にパキスタンの飛地だった東パキスタンが独立しバングラデシュとなって終結しました。
 高校世界史程度ではほとんど教えないと思いますが、現在にも至る南アジア情勢を決定付けた重要な戦争ですので我々日本人もぜひ知っておくべきだと考えます。
 もともと英領インドが1947年8月15日に解体し、イスラム教徒の多いパキスタンとヒンズー教徒が圧倒的なインドに分離独立したのが発端でした。イスラム教徒は中世デリースルタン朝の征服以来インド亜大陸に定着し北部を中心にひろく分布していました。インド最後の王朝ムガール朝もイスラム教徒でしたので、イスラム教支配層が、圧倒的多数のヒンズー教被支配層を支配するという歪んだ関係が続いていました。植民地支配したイギリスもあえて両教徒の対立を煽ることで巧妙に植民地支配を行ったと言えます。
 独立した時、インダス河沿いの西パキスタンはある程度まとまったのですが、ガンジス河下流域にもイスラム教徒が多くどうしてもインドとは一緒になれなかったのです。パキスタンは建国当初から東西に分かれるという地政学的弱点を抱えていました。
 さてインド北西部カシミール地方は、はじめから大きな問題がありました。カシミールの藩王がヒンズー教徒だったのに対し住民の8割はイスラム教徒だったのです。ジャンムー・カシミール藩王国はインドとパキスタン両国から帰属を迫られます。藩王は独立を望んだそうですが、インドとパキスタンはカシミールの中途半端な態度を許しませんでした。まさに大国の横暴と言ってよいと思いますが、結局パキスタンの扇動が疑われるイスラム系住民のパキスタンへの帰属を求める暴動がおこり、その騒ぎを鎮めるとの大義名分でまず1947年10月21日パキスタンの民兵が国境を越えました。
 藩王ハリ・シンはこの報告を受けて驚きインド政府へ軍事介入を要請します。インド軍は10月27日カシミール南西部に位置し夏期の州都となっていたシュリナガルに兵力を展開、パキスタン軍との間に戦端を開きました。第1次印パ戦争の勃発です。同じ10月27日藩王は帰属文書に署名、カシミール地方はインドと合併しました。
 怒ったパキスタンはインドを激しく非難、1948年5月、「インドの自国領への進入を阻止する」と云う名目で正規軍を投入します。戦いは一進一退を続けながらも膠着しついに国連が介入しました。1948年8月13日調停案が出されます。
①停戦ラインの決定
②パキスタン軍、パシュトゥーン族民兵(親パキスタン派)、インド軍のカシミール領内からの撤退
③帰属に関してはカシミール住民の意思を尊重する
 1949年1月1日、インド・パキスタン両国はこの調停案を受け入れ停戦に合意します。国連は停戦監視団をカシミールに派遣しました。ところが両軍の停戦ラインはカシミールを北西部(パキスタン)と南東部(インド)に事実上二分するものでとても両国の受け入れるものではありませんでした。イスラム系住民が多いことからパキスタンは住民投票を急がせますが、インドは藩王がインドとの帰属文書にサインした事を盾にこれを拒否、さらにはパキスタン軍が未だカシミールに残っている事を激しく非難します。
 両国は長い対立を続けました。そこへ1950年代後半から始まった中ソ対立が拍車をかけます。ソ連がインドに急接近しこれを援助すると、パキスタンは支那共産党政権と結びました。一方、アメリカもソ連への対抗心からパキスタンを援助しましたから冷戦構造、中ソ対立という複雑怪奇な現象が南アジアに出現します。1959年9月には国境を巡る対立から支那人民解放軍がインド領カシミールに侵入、カシミール地方北東部と東側国境地帯を占領するという暴挙に出ました。
 通常なら国際社会が許すはずはないのですが、冷戦米ソ対立の煽りを受け敵の敵は味方とばかり、アメリカは支那の暴挙に対し何も言いませんでした。ここらあたりアメリカのダブルスタンダードが透けて見えて不愉快ですが、国際的に孤立したインドは、自国の生存をかけて核開発に邁進することとなります。インドが核実験に成功したのは1974年。一方、これに対抗したパキスタンの核実験は1998年とつい最近のことです。それだけインドの危機意識が高かったのでしょう。
 中印国境紛争時、アメリカは支那の領土占領を黙認したと言いましたがさすがに良心がとがめたのかインドに対し大規模軍事援助を与えます。ところがパキスタンは同盟国と思っていたアメリカが裏切ったと解釈したのです。この複雑な感情は後々尾を引くこととなります。パキスタンは次第に支那との関係を深めて行きました。
 時代は1965年まで戻ります。中印国境紛争で袋叩きに遭ったインドを見て与し易しと思ったのか、パキスタンは支那と組んでインド包囲網を作り上げていました。1964年周恩来首相がパキスタンを訪問すると1965年にはパキスタンのアユブ大統領が北京を訪問します。これに対しインドは、1964年12月カシミールの完全統合を発表しました。パキスタンはこれに反発し国境付近で小競り合いが発生します。
 1965年8月9日武装パキスタン民兵1000名が停戦ラインを越えインド管理地域に侵入カシミールの中心地域スリナガルで蜂起しました。インドはこれをパキスタンの挑発を受け取り直ちに正規軍を派遣、パキスタンも正規軍でこれに応じ1965年8月、ついに第2次印パ戦争が勃発します。しかし今回は様子が少し違っていました。インドは中印国境紛争後ソ連との関係は続けつつもアメリカとも関係改善するという巧妙な外交を続け次第に国際政治の上で有利な体制作りを形成しつつありました。
 国際的に孤立したインドを支那の援助のもとで叩くというパキスタンの目論見は見事に外れ、人口で5倍近い大国インドに押されはじめます。カシミールばかりでなく東パキスタン(現バングラデシュ)でも全面攻勢を受けたパキスタンは守勢に回らざるを得なくなりました。
 この時の戦争での両軍の使用兵器は資料が少ないので良く分かりませんが、陸軍はインド軍がイギリス製のセンチュリオンとおそらくはソ連製のT-54/55。一方パキスタン軍はアメリカ製のM48と支那製のボロ戦車だったのではないかと推定します。ただこれらの戦車は両軍とも導入中で少数、主力はどちらもM4シャーマン系で、インド軍はT-34も保有していたとか。
 
 一方、空軍に関しては資料がありインド空軍はイギリス製のホーカー・ハンター(110機)、フランス製のダッソー・ミステール(60機)が主力、他にソ連製のMiG-21を導入中。パキスタン空軍はアメリカ製のノースアメリカンF-86Fセイバー(100機)、ロッキードF-104スターファイター(14機)が主力でした。
 第2次大戦後の戦争では珍しい西側兵器同士の戦いが見られたわけです。陸戦でインドが有利だった理由は何となく理解できると思います。パキスタンのM-48はインド軍センチュリオン戦車の重装甲を撃ち抜けなかったと言われています。一方、航空戦はパキスタン空軍が有利でとくにセイバーの装備するサイドワインダー短距離空対空ミサイルの威力は圧倒的でした。パキスタンは陸戦の不利を航空戦でカバーしていたと云うのが戦争の実態でした。
 1965年9月23日、国際社会の圧力で両国は停戦に合意。中央アジア、タシュケントで和平協議が開催され1966年2月までに両軍が戦争以前の位置まで撤退する事が決まりました。ところがこの戦争でも決着がつかず、両国の対立は最も激しい第3次印パ戦争へと繋がります。長くなるので、この話は後編で語りましょう。

元軍軍船の脆弱性

 前記事の関連です。これはあくまで私の個人的見解であり何ら資料的裏付けがないことは前もって申し上げておきます。
 さて、元帝国が成立し東アジア各国へ侵略の手を広げたわけですが海を渡っての上陸作戦がことごとく失敗したのは何故でしょうか?もちろん一国を征服できるような大規模な海軍力を持つ国は世界史上でも限られてきますし、現代でもそれが可能なのはアメリカだけ。その意味では元は当時の世界第一の超大国であったことは間違いありません。それだけ上陸作戦は難しいものなのです。
 フビライ汗の海外征服事業のうち陸路を伴わない純粋な海軍力だけで行われた主要なものは4回。対日本戦2回(文永・公安の役)、対占城(チャンパ)戦、対マジャパヒト王国戦。それ以外にも樺太の対アイヌ戦もあります。実は元の樺太侵攻で戦ったアイヌ勢力を率いたのは日本の安東氏(安東水軍で有名。のちの秋田氏)だったかもしれないという事を日本史書庫安東氏シリーズでも言及しましたが、これが事実だとすると元の樺太侵攻も広い意味での元寇と言えなくもないです。
 それはともかく、元の海洋侵攻はことごとく失敗しています。しかも4回のうち3回が暴風雨によって軍船が転覆し壊滅するという結果。75%という確率を高いと見るのか妥当と見るのか?もちろんどのケースでも現地勢力の抵抗が激しく暴風雨がなくても最終的には失敗していたでしょう。
 日本の元寇の場合、この暴風雨を神風と呼び台風であったとする説が多いです。ところが調べてみると文永の役10月。これは旧暦ですので太陽暦に換算すると11月になります。公安の役は5月(太陽暦6月)。公安の役は季節的に台風の可能性は高いですが、文永の役は台風シーズンから外れます。
 私は文永の役の時の風は台風ではなくちょっと強い暴風雨くらいではなかったかと考えるのです。もともと元軍の軍船が凌波性も復元力も低い船であったために転覆しやすかったのではないかと思います。何故この考えに至ったかというと最近起きた韓国の旅客船転覆事故です。
 事故の原因が明らかになってくると、復元力を無視したトップヘビー、過積載、挙句の果てには復元力を保証するバラスト水を基準の4分の1に抜いていたというあり得ない状態で運航していました。これではとても船に明るいとは言えません。犯罪的な無知といってもよいでしょう。韓国海軍の船もトップヘビーでとても海洋には出られない設計だとか。現在でもこの状態だとすると当時(13世紀)も同様だと考えるのが自然でしょう。
 通説では、元軍が使用した軍船は高麗が建造したもので高い造船技術を持っていたが侵略者元に対する反抗心から手抜き工事をしたと言われます。しかし、私はどうもこの話嘘くさいと睨んでいます。というのはもし手抜き工事がばれたら高麗もただで済むはずはないからです。それに元寇には多数の高麗兵も参加しています。私は高麗はフビライ汗に命令され精一杯頑張って船を建造したものの、その造船技術の低さからまともな船ができなかったと解釈するのが自然だと思います。一見造船技術が高いと見えるのは外観の豪華さだけで船の基本である凌波性、復元力に対する配慮は無きに等しかったと考えるのです。通説のような解釈は、もしかしたら親韓派歴史学者による買い被りだったのかもしれません。
 こう書くと、「だったら公安の役はどうだ?造船技術の高い南宋の軍船も多数参加していたはずだ」と反論される方もいると思います。南宋の造船技術が高いというのは認めます。のちの明時代にも鄭和艦隊がインド洋まで進出しアフリカ東海岸に達したほどですから。
 ところがこれも詳細に検討すると、公安の役の南宋軍船は必ずしも堅牢だったと言えないのでは?と思えるのです。南宋末期の主敵はモンゴルです。とうぜん南宋海軍も対モンゴル戦を中心に軍船を整備したはず。ということは渡洋攻撃などありえず、長江・淮河という河川防衛のための喫水の浅い軍船が主力だったと考えます。南宋の交易船は凌波性・復元力に優れていても軍船は荒い海を長距離移動するほどの能力を持たなかったのではないかと思えます。実際、公安の役の時南宋軍は船内に疫病が発生しまともな戦力として使えなかったほどですし。
 もちろんモンゴル人自体も海にも船にも無知なので、外観だけで船の本質である凌波性・復元力の欠陥を見抜けなかったのでしょう。朝鮮民族はもちろん現代でもそうですから船に関する本質を理解せず外観だけの船しか作れなかった。そう考えればちょっとした風でも転覆した謎が解明できるのでしょう。
 皆さんはどう思われますか?

もう一つの元寇  占城(チャンパ)と大越

 日本の歴史において元寇というのは未曽有の国難でした。日本はその危機を克服し独立を保ったのです。一方、元帝国の皇帝フビライ汗(在位1260年~1294年)は日本だけでなくアジア各地に遠征軍を送りました。1276年には南宋を、1287年にはビルマのパガン朝を滅ぼします。高麗などは数十年にわたる抵抗も空しくモンゴル軍の馬蹄に蹂躙され最悪の属国という惨めな状態に落とされました。
 アジアにおいて強大な元(モンゴル)の侵略を撃退した国は4つ。一つは言うまでもなくわが日本ですが、残りは現在の北ベトナムにあった大越、ベトナム中南部にあった占城(チャンパ)、そしてジャワ島を中心に現在のインドネシア各地に広大な領土を誇ったマジャパヒト王国です。
 マジャパヒト王国への遠征はもともと無理なものでした。モンゴル軍は二万もの水軍を送ったそうですが海路大遠距離の遠征で補給が続かず現地の激しい抵抗や疫病に悩まされて敗退します。日本への元寇も鎌倉武士の奮戦が侵略軍を撃退しました。
 今回紹介するのはベトナムにあった二国大越と占城です。占城というのはオーストロネシア語族の古チャム族が建国した国で現在中部ベトナムに住むチャム族の祖先だと考えられます。その歴史は古く建国は192年。滅亡したのが1832年ですから実に1600年以上続いた国でした。支那では唐代まで林邑と呼んでいました。東南アジアを結ぶ海洋貿易で栄え遠くインドまで交易船を派遣していたそうです。その文化もヒンドゥーの影響が色濃く残っています。
 フビライが占城に目をつけたのは交易の利を独占するため。シルクロードと草原の道を支配下に収めていたモンゴルが、最後に残った海の道を支配すれば世界の主要交易路を独占できるのです。マジャパヒト王国への遠征も同じ理由でした。その遠征時期ははっきりしないのですがのちに述べる大越遠征よりは前だったと思います。
 フビライはトワドウを将とする兵船100艘兵力5000の遠征軍を海路送りこみます。強大な元としては少ない印象ですが、占城を小国と舐めていたのでしょう。実際占城国王インドラ・ヴァルマン5世はモンゴル軍に敗退し首都を捨て西部山岳地帯の鴉候山に立てこもります。しかし占城の本格的な抵抗はここからで、元軍を山岳地帯に引きずり込み得意のゲリラ戦術で苦しめました。
 フビライ汗は、ふがいない占城遠征軍に業を煮やし日本遠征用に準備していた水軍200艘1万5千の援軍を占城に派遣します。ところが援軍が上陸してみると占領していたはずの首都は再び占城軍に奪還されていました。元軍主力が山岳地帯に釘付けにされている間に奪われたのです。元の援軍は第一次遠征軍と合流すべく海岸沿いに北上しました。この時暴風雨が起こり元の水軍は壊滅。トワドウの第一次遠征軍もどうなったか分かりません。
 元寇と同様ここでも神風が起こったのは不思議な気がしますが、自国の独立を守りぬくという気概が奇跡を生んだのだと思います。
 フビライ汗は、占城遠征軍が全滅したという報告を受けて烈火のごとく怒りました。モンゴルの不得意な海上遠征が失敗の原因だと考え、陸路なら大丈夫と考えたのでした。そこで目をつけたのが占城と元の間にある大越国です。大越は春秋時代江南に栄えた越の子孫だと言われます。越は楚に滅ぼされた後遺民が南に逃げ、福建から広東、広西の沿岸部で現地住民と交わり百越と呼ばれました。
 越族は、漢民族に圧迫されその主流は現在のベトナム北部地方に定住します。古くは安南と呼ばれたベトナム北部は紅(ファン)河という大河が流れる肥沃な平野で二期作(米を一年に二回収穫すること)ができる豊かな土地。越族はこの地に建国し当時は陳朝大越国(1225年~1400年)の治世でした。
 フビライは、大越を占領して後方基地とし兵糧を確保して本格的に占城を攻めようと思ったのでしょうが、そんな理由のために狙われた大越にとっては迷惑千万な話です。占城遠征末期、トワドウ軍は北部の大越国境近くの烏州、里州に籠城していたそうですからもしかしたら友軍救援という目的もあったかもしれません。
 フビライの本気度は皇子トゴンを総大将とする50万もの大軍を送り込んだことでも分かります。1284年のことです。日本の元寇は文永の役が1274年、公安の役が1281年ですから同時期にこれほどの大遠征軍を送り込める元帝国がいかに強大であったか想像に難くありません。
 時の大越国王仁宗は、元の大軍にまともにぶつかる愚を避け首都昇龍(タイロン 現在のハノイ)を明け渡します。そして越族伝統の抵抗戦術である紅河下流のデルタ地帯に主力軍を率いて立て籠もりました。大越軍の兵士たちは腕に殺韃(さつだつ 韃靼とはモンゴル人のこと)の入墨をして敵愾心を高めたそうです。
 得意なはずの地上戦でも元軍は苦しみました。大越軍の籠るデルタ地帯は沼沢地や水路が錯綜しモンゴルの得意戦術である騎馬がまともに動けないのです。逆に地形を知り尽くしている大越軍は、元軍への正面攻撃を避け後方の補給部隊を襲うというゲリラ戦術で対抗します。
 首都占領から三ヶ月、元軍は大軍なだけに深刻な食糧不足に陥りました。徴発しようにも食糧は大越軍が持ち去るか、庶民が食糧ともども山岳地帯に逃げていたからです。元軍将兵は次第に疲弊していきます。大越軍の総大将陳興道(チャンフンダオ)将軍は、この機会を逃しませんでした。
 元軍は一度本国に戻って兵糧を補給しようと考えます。1287年元の陸軍は陸路から、水軍は海路から移動を開始。陳興道将軍は元水軍が下ってくるであろう白藤江の河口付近の河底に多数の杭を打ち込み待ちかまえました。そうとは知らない元水軍500艘は河口付近に達します。満潮から干潮に変わり水位が下がると杭によって軍船は次々と座礁しました。そこに大越軍が襲いかかり満足に動けない水軍は全滅します。陸軍も大越軍の伏兵に遭い壊滅的打撃を受けて敗退しました。
 こうしてフビライの野望は打ち砕かれます。一説では大越、占城を滅ぼした後総力を挙げて日本遠征を行う予定だったそうですが、占城、大越遠征の失敗で頓挫しました。その意味では歴史は繋がっているのだなと考えさせられます。
 白藤江の戦いは世界中を席巻したモンゴル帝国の拡大路線が終わった瞬間でもありました。改めて思うのは、どのような強大な敵であれ国民が一丸となって必死の抵抗を示せばそう簡単に侵略できるものではないということ。国の独立は国民の気概にかかっているのでしょう。

新羅日本人国王説

 高校で歴史(日本史・世界史)を習った人なら全員知っていると思いますが古代朝鮮半島南部には馬韓・弁韓・辰韓という国があり、それぞれ百済・任那(伽耶)・新羅に発展しました。おそらく日教組の影響の強い高校歴史教育ではこれらを朝鮮の民族王朝として習うと思います。
 
 しかしその実態を調べて行くと、百済は北方の高句麗と同様ツングース系扶余族の征服王朝、任那は稲作の伝播の過程で日本から移住した和人の国。新羅だけが一応朝鮮の民族王朝とされます。ところが、研究が進むうちにそれさえも間違いではないのか?という意見が有力になりつつあるのです。
 
 新羅について考察する前に扶余族の百済と任那の問題を先に片付けます。百済は26代聖王が都を538年泗沘に遷都した時に国号を「南扶余」と定めていますし、隋書百済伝にもはっきりと百濟之先、出自高麗國。其人雜有新羅、高麗、倭等、亦有中國人。(百済の先祖は高句麗国より出る。そこの人は新羅、高句麗、倭などが混在しており、また中国人もいる。)」(訳はウィキペディアから引用)とされますから間違いなく扶余族の王朝です。
 
 一方、任那は日本史では日本の植民地とされますがこれも間違いで稲作伝播の過程で和人が移動した土地です。その証拠に稲作ができない北方には広がっていませんし、はっきりと日本式の前方後円墳が発見され被葬者も日本人で間違いないそうです。日韓共同の調査団が発掘した時、この事実に驚愕した韓国側は情報を隠蔽し、あろうことか古墳を破壊して跡形もなくしてしまいました。これに関しては私も記事に書いているのでご参照ください。
 
朝鮮半島南部が日本領である確固たる証拠
 
 さて本題の新羅ですが、そもそも朝鮮民族の成立は本流のエベンキ族が流入する以前の紀元350年より前には遡れないそうです。当時の朝鮮半島は南に和人、北に漢族とツングース系諸族が入り込んだ雑居状態だったと考えられます。支那の歴史学者の中には辰韓とはもともと秦韓の意味で、漢族が立てた王朝だと主張する者もいるくらいです。それはそうですよね。当時(紀元356年建国)、朝鮮民族は存在しないのですから。
 
 ところで新羅の王統に日本人が居たとしたら皆さんはどう思われますか?実は歴史好きには有名な話なんですが朝鮮最古の史書「三国史記」(1145年成立)に次のような一節があります。
 
「脱解尼師今、立。(一云吐解。)時年六十二。姓昔。妃阿孝夫人。脱解本多婆那國所生。其國在倭國東北一千里。・・・」

「脱解尼師今が即位した。(または吐解ともいう。)王はこの時、年が六十二歳であったが、姓は昔氏で、妃は阿孝夫人である。脱解はもと、多婆那国の生れで、その国は倭国の東北千(百)里の所にある。・・・(林英樹訳)」
 脱解王とは新羅第4代の王。はっきりと外国から来たと書かれていますよね。それも倭国の東北千里の地からと。当時の新羅は、日本の中心を九州当たりと想定していましたから、そこから東北に1000里、おそらくこれは朝鮮里のことでしょうから1里400mとしてだいたい400kmに当たります。そこで日本地図を改めて眺めると北部九州から400km前後で朝鮮半島に渡る事の出来る土地として鳥取県、兵庫県北部、京都府北部あたりが浮かび上がります。昔の国名でいうと因幡、但馬、丹後あたり。
 
 実は、丹後にある籠神社に残る伝説で、この地から新羅に渡った日本人が新羅の王になったと言われているのです。朝鮮の三国史記を知って伝説が作られた可能性もありますが、籠神社の創建は崇神天皇の御代。だいたい4世紀ころと言われます。脱解王の活躍年代は不明で、一応三国史記では紀元57年から80年が在位期間とされますが、これは新羅の成立時期からあり得ません。おそらく新羅成立まもないころには、日本の籠神社は存在していたはずですから、当時の記憶が残ったとしても不思議でないのです。
 
 また多婆那国は、丹波あるいは但馬の事ではないかという研究者もいます。脱解王が一代だけの王なら、たまたま異国人が王に就いたと言えますが、脱解王の系統は途中異系の王統が一代(13代)入るも、4代から16代まで続いているのです。これは日本人王朝といっても差支えないと思います。
 
 ここからは私の個人的な感想ですが、日本人の王が即位できるには他に日本人が居てその国である程度の勢力を得ていなければならないと考えます。新羅は漢民族、大和民族、原朝鮮半島人(これもおそらくは海洋民族で現在の朝鮮民族とは別系統)の雑居状態だったろうと想像できますから、日本人もある程度の勢力を占めていたのでしょう。
 
 今の朝鮮人は絶対に認めたくない驚愕の歴史ですが、これが歴史の真実なのです。

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