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2014年12月 1日 (月)

新羅日本人国王説

 高校で歴史(日本史・世界史)を習った人なら全員知っていると思いますが古代朝鮮半島南部には馬韓・弁韓・辰韓という国があり、それぞれ百済・任那(伽耶)・新羅に発展しました。おそらく日教組の影響の強い高校歴史教育ではこれらを朝鮮の民族王朝として習うと思います。
 
 しかしその実態を調べて行くと、百済は北方の高句麗と同様ツングース系扶余族の征服王朝、任那は稲作の伝播の過程で日本から移住した和人の国。新羅だけが一応朝鮮の民族王朝とされます。ところが、研究が進むうちにそれさえも間違いではないのか?という意見が有力になりつつあるのです。
 
 新羅について考察する前に扶余族の百済と任那の問題を先に片付けます。百済は26代聖王が都を538年泗沘に遷都した時に国号を「南扶余」と定めていますし、隋書百済伝にもはっきりと百濟之先、出自高麗國。其人雜有新羅、高麗、倭等、亦有中國人。(百済の先祖は高句麗国より出る。そこの人は新羅、高句麗、倭などが混在しており、また中国人もいる。)」(訳はウィキペディアから引用)とされますから間違いなく扶余族の王朝です。
 
 一方、任那は日本史では日本の植民地とされますがこれも間違いで稲作伝播の過程で和人が移動した土地です。その証拠に稲作ができない北方には広がっていませんし、はっきりと日本式の前方後円墳が発見され被葬者も日本人で間違いないそうです。日韓共同の調査団が発掘した時、この事実に驚愕した韓国側は情報を隠蔽し、あろうことか古墳を破壊して跡形もなくしてしまいました。これに関しては私も記事に書いているのでご参照ください。
 
朝鮮半島南部が日本領である確固たる証拠
 
 さて本題の新羅ですが、そもそも朝鮮民族の成立は本流のエベンキ族が流入する以前の紀元350年より前には遡れないそうです。当時の朝鮮半島は南に和人、北に漢族とツングース系諸族が入り込んだ雑居状態だったと考えられます。支那の歴史学者の中には辰韓とはもともと秦韓の意味で、漢族が立てた王朝だと主張する者もいるくらいです。それはそうですよね。当時(紀元356年建国)、朝鮮民族は存在しないのですから。
 
 ところで新羅の王統に日本人が居たとしたら皆さんはどう思われますか?実は歴史好きには有名な話なんですが朝鮮最古の史書「三国史記」(1145年成立)に次のような一節があります。
 
「脱解尼師今、立。(一云吐解。)時年六十二。姓昔。妃阿孝夫人。脱解本多婆那國所生。其國在倭國東北一千里。・・・」

「脱解尼師今が即位した。(または吐解ともいう。)王はこの時、年が六十二歳であったが、姓は昔氏で、妃は阿孝夫人である。脱解はもと、多婆那国の生れで、その国は倭国の東北千(百)里の所にある。・・・(林英樹訳)」
 脱解王とは新羅第4代の王。はっきりと外国から来たと書かれていますよね。それも倭国の東北千里の地からと。当時の新羅は、日本の中心を九州当たりと想定していましたから、そこから東北に1000里、おそらくこれは朝鮮里のことでしょうから1里400mとしてだいたい400kmに当たります。そこで日本地図を改めて眺めると北部九州から400km前後で朝鮮半島に渡る事の出来る土地として鳥取県、兵庫県北部、京都府北部あたりが浮かび上がります。昔の国名でいうと因幡、但馬、丹後あたり。
 
 実は、丹後にある籠神社に残る伝説で、この地から新羅に渡った日本人が新羅の王になったと言われているのです。朝鮮の三国史記を知って伝説が作られた可能性もありますが、籠神社の創建は崇神天皇の御代。だいたい4世紀ころと言われます。脱解王の活躍年代は不明で、一応三国史記では紀元57年から80年が在位期間とされますが、これは新羅の成立時期からあり得ません。おそらく新羅成立まもないころには、日本の籠神社は存在していたはずですから、当時の記憶が残ったとしても不思議でないのです。
 
 また多婆那国は、丹波あるいは但馬の事ではないかという研究者もいます。脱解王が一代だけの王なら、たまたま異国人が王に就いたと言えますが、脱解王の系統は途中異系の王統が一代(13代)入るも、4代から16代まで続いているのです。これは日本人王朝といっても差支えないと思います。
 
 ここからは私の個人的な感想ですが、日本人の王が即位できるには他に日本人が居てその国である程度の勢力を得ていなければならないと考えます。新羅は漢民族、大和民族、原朝鮮半島人(これもおそらくは海洋民族で現在の朝鮮民族とは別系統)の雑居状態だったろうと想像できますから、日本人もある程度の勢力を占めていたのでしょう。
 
 今の朝鮮人は絶対に認めたくない驚愕の歴史ですが、これが歴史の真実なのです。

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コメント

新羅の三王家とも日本人の可能性がありますよ

名無しさん、鋭いですね。その可能性もあるんですよ。この問題はよく調べる必要があります。

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