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2014年12月 1日 (月)

もう一つの元寇  占城(チャンパ)と大越

 日本の歴史において元寇というのは未曽有の国難でした。日本はその危機を克服し独立を保ったのです。一方、元帝国の皇帝フビライ汗(在位1260年~1294年)は日本だけでなくアジア各地に遠征軍を送りました。1276年には南宋を、1287年にはビルマのパガン朝を滅ぼします。高麗などは数十年にわたる抵抗も空しくモンゴル軍の馬蹄に蹂躙され最悪の属国という惨めな状態に落とされました。
 アジアにおいて強大な元(モンゴル)の侵略を撃退した国は4つ。一つは言うまでもなくわが日本ですが、残りは現在の北ベトナムにあった大越、ベトナム中南部にあった占城(チャンパ)、そしてジャワ島を中心に現在のインドネシア各地に広大な領土を誇ったマジャパヒト王国です。
 マジャパヒト王国への遠征はもともと無理なものでした。モンゴル軍は二万もの水軍を送ったそうですが海路大遠距離の遠征で補給が続かず現地の激しい抵抗や疫病に悩まされて敗退します。日本への元寇も鎌倉武士の奮戦が侵略軍を撃退しました。
 今回紹介するのはベトナムにあった二国大越と占城です。占城というのはオーストロネシア語族の古チャム族が建国した国で現在中部ベトナムに住むチャム族の祖先だと考えられます。その歴史は古く建国は192年。滅亡したのが1832年ですから実に1600年以上続いた国でした。支那では唐代まで林邑と呼んでいました。東南アジアを結ぶ海洋貿易で栄え遠くインドまで交易船を派遣していたそうです。その文化もヒンドゥーの影響が色濃く残っています。
 フビライが占城に目をつけたのは交易の利を独占するため。シルクロードと草原の道を支配下に収めていたモンゴルが、最後に残った海の道を支配すれば世界の主要交易路を独占できるのです。マジャパヒト王国への遠征も同じ理由でした。その遠征時期ははっきりしないのですがのちに述べる大越遠征よりは前だったと思います。
 フビライはトワドウを将とする兵船100艘兵力5000の遠征軍を海路送りこみます。強大な元としては少ない印象ですが、占城を小国と舐めていたのでしょう。実際占城国王インドラ・ヴァルマン5世はモンゴル軍に敗退し首都を捨て西部山岳地帯の鴉候山に立てこもります。しかし占城の本格的な抵抗はここからで、元軍を山岳地帯に引きずり込み得意のゲリラ戦術で苦しめました。
 フビライ汗は、ふがいない占城遠征軍に業を煮やし日本遠征用に準備していた水軍200艘1万5千の援軍を占城に派遣します。ところが援軍が上陸してみると占領していたはずの首都は再び占城軍に奪還されていました。元軍主力が山岳地帯に釘付けにされている間に奪われたのです。元の援軍は第一次遠征軍と合流すべく海岸沿いに北上しました。この時暴風雨が起こり元の水軍は壊滅。トワドウの第一次遠征軍もどうなったか分かりません。
 元寇と同様ここでも神風が起こったのは不思議な気がしますが、自国の独立を守りぬくという気概が奇跡を生んだのだと思います。
 フビライ汗は、占城遠征軍が全滅したという報告を受けて烈火のごとく怒りました。モンゴルの不得意な海上遠征が失敗の原因だと考え、陸路なら大丈夫と考えたのでした。そこで目をつけたのが占城と元の間にある大越国です。大越は春秋時代江南に栄えた越の子孫だと言われます。越は楚に滅ぼされた後遺民が南に逃げ、福建から広東、広西の沿岸部で現地住民と交わり百越と呼ばれました。
 越族は、漢民族に圧迫されその主流は現在のベトナム北部地方に定住します。古くは安南と呼ばれたベトナム北部は紅(ファン)河という大河が流れる肥沃な平野で二期作(米を一年に二回収穫すること)ができる豊かな土地。越族はこの地に建国し当時は陳朝大越国(1225年~1400年)の治世でした。
 フビライは、大越を占領して後方基地とし兵糧を確保して本格的に占城を攻めようと思ったのでしょうが、そんな理由のために狙われた大越にとっては迷惑千万な話です。占城遠征末期、トワドウ軍は北部の大越国境近くの烏州、里州に籠城していたそうですからもしかしたら友軍救援という目的もあったかもしれません。
 フビライの本気度は皇子トゴンを総大将とする50万もの大軍を送り込んだことでも分かります。1284年のことです。日本の元寇は文永の役が1274年、公安の役が1281年ですから同時期にこれほどの大遠征軍を送り込める元帝国がいかに強大であったか想像に難くありません。
 時の大越国王仁宗は、元の大軍にまともにぶつかる愚を避け首都昇龍(タイロン 現在のハノイ)を明け渡します。そして越族伝統の抵抗戦術である紅河下流のデルタ地帯に主力軍を率いて立て籠もりました。大越軍の兵士たちは腕に殺韃(さつだつ 韃靼とはモンゴル人のこと)の入墨をして敵愾心を高めたそうです。
 得意なはずの地上戦でも元軍は苦しみました。大越軍の籠るデルタ地帯は沼沢地や水路が錯綜しモンゴルの得意戦術である騎馬がまともに動けないのです。逆に地形を知り尽くしている大越軍は、元軍への正面攻撃を避け後方の補給部隊を襲うというゲリラ戦術で対抗します。
 首都占領から三ヶ月、元軍は大軍なだけに深刻な食糧不足に陥りました。徴発しようにも食糧は大越軍が持ち去るか、庶民が食糧ともども山岳地帯に逃げていたからです。元軍将兵は次第に疲弊していきます。大越軍の総大将陳興道(チャンフンダオ)将軍は、この機会を逃しませんでした。
 元軍は一度本国に戻って兵糧を補給しようと考えます。1287年元の陸軍は陸路から、水軍は海路から移動を開始。陳興道将軍は元水軍が下ってくるであろう白藤江の河口付近の河底に多数の杭を打ち込み待ちかまえました。そうとは知らない元水軍500艘は河口付近に達します。満潮から干潮に変わり水位が下がると杭によって軍船は次々と座礁しました。そこに大越軍が襲いかかり満足に動けない水軍は全滅します。陸軍も大越軍の伏兵に遭い壊滅的打撃を受けて敗退しました。
 こうしてフビライの野望は打ち砕かれます。一説では大越、占城を滅ぼした後総力を挙げて日本遠征を行う予定だったそうですが、占城、大越遠征の失敗で頓挫しました。その意味では歴史は繋がっているのだなと考えさせられます。
 白藤江の戦いは世界中を席巻したモンゴル帝国の拡大路線が終わった瞬間でもありました。改めて思うのは、どのような強大な敵であれ国民が一丸となって必死の抵抗を示せばそう簡単に侵略できるものではないということ。国の独立は国民の気概にかかっているのでしょう。

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