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2015年1月

2015年1月 9日 (金)

カルディアのエウメネス

 世界史では無名の人物ながらその生涯に興味をそそられる人物がいます。このエウメネスもその一人。最近では岩明均の漫画「ヒストリエ」の主人公として知ってる人は知っていますね。ヒストリエは作者が遅筆なのでおそらく完結するためには50巻位の超大作になりそうですが単行本発刊ペースが2年に一度。これではとても完結しそうもありません(現在8巻)。
 私がエウメネスと云う人物を初めて知ったのは『古代ギリシャ人の戦争』(市川定春著 新紀元社)でしたが、最初に受けた印象は日本で云えば石田三成、有能で王家に忠誠心はあったかもしれないが野心が勝ち過ぎそれが身を滅ぼす原因になった、というものでした。そのあと『プルターク英雄伝』(河野与一訳 岩波文庫)を読んだあたりから、やはり彼も一人の英雄であったと再評価するようになりました。
 それではエウメネスの生涯、プルターク英雄伝(プルタルコス英雄伝)をベースとして見ていく事にしましょう。
 エウメネスはカルディアの出身だと云われます。ただし新バビロニアを建設したメソポタミアのカルディアではなく欧州大陸と小アジアを挟むヘレポントス海峡に延びるゲリボル半島北岸にあったギリシャ人都市国家カルディアのことです。
 エウメネスがどのようにして外国であるマケドニアのフィリッポス2世(アレクサンドロス大王の父)に仕えることになったかは諸説ありますが、英雄伝の作者プルタルコスはエウメネスの父がカルディアの有力市民でフィリッポスと親しかった事からマケドニアに来たと推理しています。
 エウメネスは、20歳でフィリッポス2世に仕えることになりました。想像たくましくすればフィリッポスとエウメネスの父は少年時代テーバイの人質として暮らしていた時知り合い親友になったのではないかと私は考えています。その後祖国に帰ったエウメネスの父は都市の有力者になるも政変に遭いマケドニアに亡命したのではないかと思うのです。
 エウメネスは最初文官としてフィリッポスに仕え有能であったことから側近に取り立てられました。フィリッポスが暗殺され息子のアレクサンドロス3世(大王)が継いだ後も重用され書記官長に就任します。大王が東方遠征に赴くとこれに同行し、将軍ベルディッカス死後その後任に任じられ騎兵隊長となりました。ただ叩き上げの軍人たちから見ると軍の実績がないエウメネスの昇進はあまり快く思われていなかったそうです。このあたり石田三成と武断派の対立と似ていますね。
 アレクサンドロス大王が生きている間は、大王の庇護のもとエウメネスが慢心の振る舞いをしても対立は表面化しませんでした。ところがBC323年6月アレクサンドロス大王が帝国の首都と定めたバビロンで急死するとエウメネスの立場は微妙になりました。
 大王の死後、帝国は有力な将軍たちによって分割されます。エウメネスは小アジアのカッパドキア、パフラゴニア(現在のアナトリア半島中部から北東部にかけての黒海沿岸)を貰いました。しかしこの地は、マケドニアの領土ではなく異民族の土地でした。このあたりエウメネスが外国人であったための差別だと思います。
 エウメネスは、領土を獲得するため隣国フリギア、リュキア(アナトリア半島中部から南西部にかけて)を領するアンティゴノスとヘレポントス(アナトリア半島北西部)を領するレオンナトスに援軍を頼みます。ところがエウメネスとは親友として付き合いながらも武断派の代表でエウメネスの台頭を快く思っていなかったアンティゴノスはこれを拒否。レオンナトスの方は、援軍には前向きでしたが間もなく起こったギリシャの反マケドニア闘争(ラミア戦争)に介入し余力が無くなってしまいます。
 困り果てたエウメネスは、幼児であった大王の息子アレクサンドロス4世を擁するバビロンの摂政ペルディッカスに泣きつきました。ペルディッカスの方も、エウメネスを自分の陣営に加えるチャンスと見てこれを支援、援軍を得たエウメネスは担当とされた地域を平定しようやく自分の領土を得ます。
 当時、帝国は摂政ペルディッカスとマケドニア本国を守るアンティパトロスの対立が先鋭化していました。対立は間もなくディアドコイ(後継者)戦争へと発展します。アンティパトロスは自派の将軍クラテロス、ネオプトレモスを派遣してエウメネスを討たせました。
 BC321年両軍は小アジア北西部ヘレポントスで激突します。両者の兵力はエウメネス軍が歩兵2万、騎兵5千。連合軍は歩兵2万、騎兵2千でほぼ互角でした。双方とも中央に重装歩兵ぺゼタイロイがマケドニア式ファランクス(重装密集歩兵陣)を組み両翼を騎兵が固めると云う陣形を布きます。エウメネスも有能とはいえ文官あがり、クラテロス、ネオプトレモスは二線級の将軍でありアレクサンドロス時代のハンマーと金床戦術のような高度な用兵ができるはずもなく単純な力と力のぶつかり合いになりました。
 これはディアドコイ戦争全般について言える傾向で、戦術的にはこの時代見るべきものはありません。むしろ退化して行ったともいえ、これがのちに新興ローマのコホルス戦術に完敗した所以です。
 ヘレポントスの戦いは、厳しい言い方をすれば将軍としてはよりましなエウメネスの勝利に終わりました。勝因は両翼の騎兵の数で勝ったエウメネス軍が敵軍を包囲したことによります。ただ勝ったエウメネスがマケドニア人の将軍2名を殺した事は、かえって全マケドニア人の反発を買いました。さらに悪い事に同時期、後見人の摂政ペルディッカスがエジプトのプトレマイオス討伐の遠征中部下に暗殺されるという事件が起こります。
 エウメネスは全マケドニア人の反感を買っていたため欠席裁判で死刑を宣告され孤立しました。討伐軍の大将には武断派の急先鋒アンティゴノスと当初から敵対していたマケドニア太守アンティパトロスが選ばれます。将軍としてはアンティゴノスの方が有能で、エウメネスは敗北しカッパドキアのノラで包囲されました。
 絶体絶命のエウメネスでしたが、BC319年ペルディッカスに代わって帝国摂政の地位に就いていたマケドニア太守アンティパトロスが病没します。その後継者争いでアンティパトロスの息子カッサンドロスと有力な将軍ポリュぺルコンが対立、カッサンドロスはアンティゴノスと結びました。これを受けポリュぺルコンがエウメネスに接近、混乱に乗じたエウメネスはまんまと包囲網から脱出に成功します。ちなみにこの時期、カッサンドロスは反対派に利用される事を恐れアレクサンドロス大王の遺児アレクサンドロス4世とその母ロクサンヌを殺害しており大王の血統はここに絶えます。
 メソポタミア地方に逃れたエウメネスは大王の残した精鋭銀盾隊などの有力な軍を掌握、BC317年にはこれらを率い現イラン領パラエタケネでアンティゴノスと再び激突しました。この時エウメネスは3万5千の歩兵と6千の騎兵、戦象125頭という有力な兵力でしたが2万8千の歩兵、1万6百の騎兵、戦象85頭のアンティゴノス軍を破る事が出来ず痛み分けに終わります。この辺りがエウメネスの将軍としての限界でしょう。しかもマケドニア軍は外国人のエウメネスに完全に服したわけではありませんでした。ただ利によって従っているにすぎなかったのです。
 BC316年冬、そのまま越冬し冬営していた両軍はパラエタケネの少し北にあるガビエネでぶつかりました。この時はエウメネス軍が奮戦し5千の損害を敵に与えます。ところがアンティゴノスはエウメネス軍の輜重隊を襲いこれを撃破しました。有利に戦いを進めていたエウメネスは一転窮地に陥ります。利によって従っていた自軍の兵士の士気が崩壊しかねないからです。大王の親衛隊であった銀盾隊はエウメネスに断りもなく独断でアンティゴノスと秘密交渉を始めます。アンティゴノスはエウメネスをとらえて引き渡せば他の者の命と財産を補償すると約束しました。こうしてエウメネスは味方であったはずの銀盾隊に捕えられ敵軍に引き渡されます。
 味方に裏切られたエウメネスの哀れさはどうでしょう。ただかつて親友であったアンティゴノスはエウメネスを処刑するにしのびず食料を与えずに餓死させるよう命じました。これも酷い話ではあります。親友なら一思いに斬る事が慈悲だと私は思うんですが…。しかし、アンティゴノスが軍に移動命令を出すとエウメネスは彼を憎んでいたマケドニア兵士によって喉を切られ殺されました。享年45歳。一説ではアンティゴノスが暗殺を命じたとも言われますが、その後の行動を見ると本当に知らなかったのかもしれません。
 エウメネスの死を悼んだアンティゴノスは盛大な葬儀を営み遺骨を銀の壺にいれエウメネスの妻子の元へ送り届けさせました。暗殺の実行犯はアンティゴノスの怒りを買い惨たらしい方法で処刑されます。エウメネスを裏切った銀盾隊は僻地に左遷され生涯をそこで過ごしました。
 ディアドコイ戦争は、結局エジプトのプトレマイオス、シリアのセレウコス、マケドニアのアンティゴノス2世(アンテイゴノスの孫)が生き残りました。エウメネスの最期は悲劇的でしたが、外国人である彼が一時は一方の雄として戦争を戦い抜いた事は評価されて良いと思います。ただ惜しむらくは有能ではあっても人徳がなかったため部下に裏切られると云う結末になったのでしょう。

ドゥダーエフ将軍とチェチェン紛争

 1996年4月、世界中に衝撃のニュースが駆け巡ります。チェチェン独立運動の指導者ジョハル・ドゥダーエフ大統領がロシアのミサイル攻撃で暗殺されたと云うものです。携帯電話の通話中にその電波をたどって発射された空対地ミサイルでの爆殺は、近代戦の脅威を象徴するものとして私自身大変驚きました。原理的にはレーダー波を受信しそこへ向けて自らを誘導する対レーダーミサイルと同じものなので、おそらく爆殺に使われたのはソ連製のKh-22PかKh-31P/PMあるいはその類似ミサイルだったのでしょう。
 ドゥダーエフ大統領は、1944年生まれ。チェチェン人ですが家族は第2次世界大戦中スターリンの強制移住でカザフスタンに追放されます。おそらく彼もカザフスタンで生まれたのではないかと思います。その後許されて1957年故郷に戻る事が出来ました。
 ドゥダーエフは、ソ連軍の士官学校に進みチェチェン人として初の空軍少将、空軍師団長に昇進します。最後の任地はエストニアのタルトゥ。ソ連崩壊時、激化するエストニアの民族運動を鎮圧するようソ連中央に命じられますが、民族派に理解を示していたドゥダーエフはこれを拒否。そのため彼はエストニア人から反乱将軍と呼ばれ称賛されました。
 1990年5月、彼の評判を聞いて秘かに彼のもとを訪ねてきたチェチェン人の代表団は独立運動のリーダーになる事を懇請、彼もこれを受け入れ軍を退役し故郷チェチェンに戻ります。1990年11月、ソ連邦内の自治共和国だったチェチェン・イングーシ自治共和国は独立を宣言。ドゥダーエフは初代大統領に就任しました。が、ソ連解体後ロシアの権力を握ったエリツィンは独立を認めず19994年12月大軍をチェチェンに投入して鎮圧を図ります。これが第一次チェチェン紛争です。
 ではチェチェンとはどういう国か、その成り立ちから説明しましょう。カスピ海と黒海に挟まれ北西から南東に連なるコーカサス山脈を中心とする山岳地帯をコーカサス(ロシア語呼称カフカス)地方と呼びます。この地は古代から民族の十字路で、印欧語族、トルコ(チュルク)諸族、北コーカサス諸族の入り混じった複雑な土地です。チェチェン人は、この中の北コーカサス語族ナフ語派に属します。北コーカサス諸語は孤立語でこの地域にしか分布していません。専門的にはこれを言語島と呼ぶそうですが、一説によると、これも孤立語であるイベリア半島のバスク語との関係を指摘する専門家もいるそうです。
 ギリシャ・ローマ時代、古コーカサスはイベリアと呼ばれていました。古代この地からイベリア半島に移住した民族がバスク人の先祖であり、イベリア半島の名称もこれに由来すると云う説です。なかなか興味深い話です。
 チェチェンは、コーカサス山脈の北麓に存在し大きさはだいたい日本の四国くらいです。人口は110万ちょっと。国土の大半は山岳地帯。西隣のイングーシ人と同族だと云われますがロシア帝国の侵略に早くから従ったのがイングーシ人、最後まで抵抗したのがチェチェン人でこれが両者を分けたのだと云われています。チェチェン人はイスラム教スンニ派シャーフィイー学派を信仰し宗教の面でもロシア正教のロシア人とは相いれない存在でした。
 チェチェン人は、ロシアの征服後も抵抗を続け紛争が絶えませんでした。さらに問題を複雑にしたのはこの地にバクー油田という最大の油田が見つかった事です。バクー油田は中東各地で大油田が発見されるまでは実に世界の石油産出の50%という莫大な産出量を誇っていました。バクー以外にもコーカサス各地に油田が見つかり資源の面からもロシアは絶対に手放したくなかったのです。
 エリツィン大統領は、チェチェンに大軍を送り込み独立運動を封じ込めようとします。チェチェン人はまともにぶつかっては勝ち目がないのでゲリラ戦で対抗しました。ロシア軍の鎧袖一触と思われた紛争は予想外のチェチェン人の抵抗で泥沼化します。というのも、ソ連解体後に軍を一度大幅削減したためロシア軍には新兵が多く、最新兵器は持っていても士気が低かったといわれています。一方、チェチェン軍はソ連軍出身者が多くアフガニスタンへも従軍経験があるベテランでした。チェチェン軍はロシア軍を市街戦に誘い込み、破壊されたビルの陰などから無警戒のロシア軍戦車をRPGなどのロケット弾で飽和攻撃を掛け多くの戦車を破壊します。
 これに対しロシア軍は、大規模な空爆を敢行しクラスター爆弾、サーモバリック爆弾、はては通常弾頭を積んだ弾道ミサイルさえ撃ちこみました。これは無差別爆撃で、無関係のチェチェン一般市民も多くが犠牲となります。その数20万!ロシアは世界中から非難の的となりました。しかしロシア軍の攻撃は執拗で、反乱の指導者ドゥダーエフ将軍を爆殺することで戦局の打開を図るのです。指導者を失ったチェチェン独立派は、抵抗を持続することができず結局1996年8月、休戦協定が結ばれました。
 しかし紛争はこれで終らず、1998年にイスラム武装勢力がチェチェンに入り込み再び紛争が再開しました。これもエリツィンの後を受けたプーチン大統領の徹底的な武力弾圧で鎮められます。(第二次チェチェン紛争)
 20万人にも及ぶ難民を出し、チェチェン全土を荒廃させた紛争がこれで収まるわけがありませんでした。武力による独立が達成できないと分かるとチェチェン人はテロに走ります。イスラム教原理主義勢力が多数入り込みモスクワ劇場占拠事件、モスクワ地下鉄爆破テロなど多くの事件を起こしました。最近ではソチ冬季五輪を妨害する目的でロシア各地でテロ事件が起こったのは記憶に新しいところです。
 ロシア人も、チェチェン人も互いに拷問、強姦、略奪、殺人、民族浄化を繰り返しどっちもどっちと言えます。ただ、ロシアはチェチェン独立派を国際テロ組織の一員と国際社会に印象付けるのに成功しました。といってもチェチェンに平和が訪れる道は遠いと思います。時に激しく燃え上がるチェチェン人の闘争はロシアがこの地から完全に手を引くまで続くはずです。

フォークランド紛争Ⅳ   激闘

 1982年5月1日午後、フォークランドのアルゼンチン軍に艦砲射撃をするイギリス機動部隊に向けてアルゼンチン本土よりダッソー・ミラージュⅢ戦闘機とIAIダガー戦闘機(イスラエル製)に護衛されたダグラスA-4スカイホーク攻撃機(機数不明)が来襲します。イギリス軍はV/STOL(垂直/短距離離着陸)機シーハリアーFRS.1戦闘機を発進させて迎撃しました。
 ここに史上初めてV/STOL機が空中戦を行いました。結果はミラージュⅢ2機、ダガー2機撃墜、英軍の損害ゼロ。ハリアーの優秀性をまざまざと見せつけた戦いですが一般に言われているように垂直離着陸機の特性を生かした高機動(空中停止、垂直上昇)を生かしたのが勝因ではありません。やはり敵機の前方から撃てるAIM-9Lサイドワインダーの威力が大きかったと見るべきでしょう。AIM-9Lはフォークランド紛争の空中戦において命中率実に86%を誇ったと言われます。
 いくら垂直離着陸できると云ってもハリアーのエンジンも他の機体と同様ターボファンジェットエンジンである事は変わりません。ただハリアーのロールスロイス・ペガサスエンジンは推力を生じる噴射口が4つあり、それが可変式で推力偏向出来るという事なのです。ターボファンエンジンは吸気口から取り入れた空気をファンで振り分け一部をバイパスに回し残りをコンプレッサー(圧縮機)で圧縮します。圧縮空気は燃焼室で燃焼され高圧タービン、低圧タービンを通して高温高圧噴流となります。これと外側をバイパスした空気が合わさって噴流の速度が平均化され噴射口から噴出されます。これが推力となるのです。
 ですからハリアーの垂直離陸をよく観察すると垂直に上がるのではなくちょっと斜め前に進んでいる事が分かります。ということは、おいそれと空中で停止したり垂直上昇できるわけがありません。出来ない事はないと思いますが、吸気の恩恵を受けないためエンジンの負担が増大して大量の燃料を消費するからです。
 この時点でイギリス海軍機動部隊はハーミズに12機(第800飛行隊)、インヴィンシブルに8機(第801飛行隊)のシーハリアーしかありませんでした。一方アルゼンチン空軍はミラージュⅢ×20機、ダガー×30機、シュペル・エタンダール×4機、A-4スカイホーク×60機、IA58プカラ攻撃機(アルゼンチン製)×60機、B-62キャンベラ爆撃機(イギリス製)×9機という戦力でした。いくらシーハリアーが優秀でも数の上での劣勢は否めません。
 アルゼンチン空軍は本土から500km、一番近い基地から600kmの地の利を生かし、さらに空母からも発進できるという有利さを持っていました。ただミラージュⅢ(戦闘行動半径290km)、ダガー(戦闘行動半径1200km)
は十分な護衛を攻撃機隊に与えることができずその点だけが不利でした。
 5月2日、フォークランド紛争の帰趨を決める重要な戦闘が行われます。午後4時攻撃型原潜コンカラーがアルゼンチン軍で二番目に大きい巡洋艦ヘネラル・ベルグラノを撃沈したのです。この時コンカラーが使用した魚雷は当時最新式だったタイガーフィッシュではなく旧式のMk.8だったと伝えられます。タイガーフィッシュは音響誘導式重魚雷ですが不発が多く、より信頼性の高い無誘導のMk.8を使用したそうです。一説にはタイガーフィッシュの炸薬量が134kgしかなくアメリカのブルックリン級軽巡であるヘネラル・ベルグラノを一発で撃沈できない万が一の可能性を危惧しMk.8を選択したとか。Mk.8は炸薬量363kgありますからね。
 軍事や戦史に疎い方は御存じないと思いますが、ブルックリン級というのは軽巡でありながら重巡並みの重装甲を誇りその中の1隻である「ウィチタ」は主砲を8インチ砲に換装され重巡として使用されたくらいです。炸薬量云々は十分あり得る話だと思います。
 ヘネラル・ベルグラノ撃沈はアルゼンチン海軍を驚愕させました。と云うのも満足な対潜能力を持たないアルゼンチン海軍にとってこれはフォークランド海域を自由に航行できないという事だからです。しかも原子力潜水艦は食糧弾薬のある限り何日でも潜っていられます。アルゼンチン海軍はフォークランド海域からすべての艦船を退避させました。
 フォークランドのアルゼンチン軍は海からの補給を断たれ、イギリス海空軍の空爆の合間をぬっての細々とした空中輸送しか手段がなくなります。一方、イギリス軍も本土から1万2千km離れているという不利を最後まで克服できませんでした。
 イギリス軍がフォークランドを奪還するためには地上軍の上陸が要です。揚陸艦と輸送艦は東フォークランド島の北西沿岸に上陸を試みます。アルゼンチン空軍はこれを叩きました。5月4日アルゼンチン空軍のシュペル・エタンダール攻撃機2機はフランス製エグゾセ空対艦ミサイルを英機動部隊に向けて発射します。Sエタンダールは海面上15mという低高度を飛んで接近したためイギリス海軍はこれをレーダーで捕捉できなかったそうです。エグゾセは2発発射されそのうちの1発がレーダーピケット任務中の英TYPE42駆逐艦シェフィールドに命中します。幸いにしてミサイルは不発だったどうですが燃料に引火し艦は炎上。乗員は総退艦し結局5月10日浸水が酷くなって沈没します。同じ5月4日、シーハリアーもアルゼンチン軍の対空砲火で1機が撃墜されました。5月10日英TYPE21フリゲート「アラクリティ」の砲撃でアルゼンチン軍輸送艦撃沈。5月12日アルゼンチン空軍スカイホーク8機、TYPE42駆逐艦「グラスゴー」爆撃、損傷を与える。英軍艦対空ミサイル「シーウルフ」の反撃で3機撃墜さる。
このようにイギリス軍も一方的優勢ではなく苦戦を続けました。
 5月14日、ついにイギリス軍の本格上陸作戦が発動します。その前にSAS(英陸軍特殊空挺部隊、世界最高の特殊部隊と言われる)が事前に隠密上陸していました。SASはアルゼンチン軍守備隊の手薄な地点を探り、どのルートから攻撃すれば効率的かすでに調べ上げていました。
 英軍はまずぺブル島の飛行場をSAS1個中隊で急襲、プカラ攻撃機など11機すべてを破壊。これでアルゼンチン軍在フォークランド航空兵力の3分の1を喪失させます。イギリス第3海兵コマンド旅団は東フォークランド北西海岸サンカルロスに上陸し橋頭保を築きました。
 アルゼンチン軍も黙っておらず揚陸作業中の英軍を航空攻撃、5月23日にはスカイホークが1000ポンド(454kg)爆弾でTYPE21フリゲート「アンテロープ」を大破(24日沈没)、25日にはTYPE42駆逐艦「コヴェントリー」を撃沈するなど大きな損害を与えます。イギリス本土では「マレー沖海戦以来の失態」という非難がイギリス軍上層部に浴びせられました。軽空母しかなかった英機動部隊は早期警戒機を持たなかったのです。またCIWS(近接防御火器システム)などが全艦に配備されていなかったことも災いしました。以後、イギリス海軍はヘリの早期警戒機とCIWS装備に力を入れて行くこととなります。
 5月17日、コンテナ船で運ばれてきた地上型のハリアーGR.3 6機がフォークランドに展開します。この辺りから次第にイギリス軍有利に戦局は移り始めて行きました。主力の上陸を終えたイギリス軍は5月26日から進撃を開始します。まずは東フォークランド中央部、陸地が狭まりチョークポイントのポートダーウィンとその南にあるグースグリーン飛行場を目指します。ポートダーウィン攻略は海兵隊空挺第2大隊、第3大隊の担当でした。極寒の中、イギリス軍はアルゼンチン軍防衛線を難なく突破、ヘリボーンでポートダーウィン背後に進出した空挺第2大隊は港を包囲。5月28日午前3時、砲兵と攻撃ヘリの援護の下突入したイギリス軍はポートダーウィンを奪回します。ただ隘路の南側にあるグースグリーン飛行場はアルゼンチン軍の重厚な防御陣地が構築されており、苦戦が必至でした。アルゼンチン軍守備隊のメネンデス将軍もこの戦域の重要性を承知しており増援を送り込んでいました。
 空挺第2大隊のジョーンズ中佐が敵弾を受けて戦死するほどの激戦でしたが、兵力で2倍以上のアルゼンチン軍を猛攻したイギリス精鋭部隊に恐れをなしたグースグリーン守備隊を圧倒、午後9時までにグースグリーンのアルゼンチン軍防御拠点はすべて陥落します。この戦闘でイギリス軍は戦死者12名、戦傷者31名を出します。アルゼンチン軍の損害は甚大で戦死者100名、戦傷者120名、捕虜1400名以上を数えました。
 グースグリーン陥落で東フォークランド島北東部に追い詰められたアルゼンチン軍は、ポートスタンレーを中心に防御陣地を布いてイギリス軍を待ちうけます。イギリス軍は北ルートと南ルートから進撃し5月31日北ルートを進んだ第3海兵コマンド旅団主力はポートスタンレー西方20kmのケント山に進出します。南ルートの海兵隊空挺第2大隊もその南東のツーシスターズ山西斜面を占領しました。
 アルゼンチン軍敗北は自慢の問題でした。しかしポートスタンレーにはイギリス系市民300人ほどが人質同然に残されています。攻撃は慎重を要しました。6月1日、イギリス政府はアルゼンチン政府に対しフォークランド諸島からの撤退を要求する最後通牒を突きつけます。アルゼンチンはこれを拒否。6月8日イギリス軍の増援第5歩兵旅団がポートスタンレー南西のフィッツロイとブラフコーブに上陸。アルゼンチン軍はこれを察知し激しい空爆を敢行します。イギリス軍揚陸艦「サー・ガラハド」を撃沈するなど大きな損害をイギリス軍に与えますが抵抗はここまででした。6月11日午後9時、ポートスタンレー南東に終結したイギリス機動部隊はアルゼンチン軍に艦砲射撃を開始します。12日未明にはバルカン戦略爆撃機による空爆もこれに加わりました。実戦経験に乏しいアルゼンチン軍はこの攻撃で大混乱に陥ります。
 翌12日午前、イギリス地上軍の攻撃でポートスタンレー外郭陣地がすべて陥落、アルゼンチン軍はポートスタンレーを守る最終防衛戦「ガルチェリライン」に退きました。5月13日午後10時半、ガルチェリラインの突出部タンブルダウン山陥落、突出部の南から攻撃に加わった第5歩兵旅団第7グルカ兵連隊もウィリアム山を激戦の末占領します。6月14日、ガルチェリラインは事実上崩壊しました。同日午後3時、アルゼンチン軍現地司令官メネンデス少将は停戦を受け入れる用意があるとイギリス軍に申し出ます。
 6月19日には、南サンドイッチ島のアルゼンチン軍も駆逐されました。73日続いたフォークランド紛争は激戦の末イギリス軍の勝利に終わります。敗戦に激怒したアルゼンチン国民の激しい突き上げでガルチェリ大統領6月17日辞任。サッチャー首相はフォークランド奪回で支持率84%にまで上昇しました。
 ただイギリスにとっても手放しで喜べる状況ではありませんでした。紛争の前の段階に戻っただけ。これ以後年間450億円と云う維持費を負担せざるを得なくなるのです。アークロイヤル退役によって浮いた費用以上の莫大な出費でした。アルゼンチンはこの敗戦で国際的威信が失墜します。内政は混乱し国勢の回復は未だなされていません。
 誰かが冗談で行っていましたが、イギリスはサッカーは近年振るわないが戦争だけは恐ろしく強い。衰えたとはいえ、大英帝国を舐めるのは厳禁だという事でしょう。日本もこうありたいですね。

フォークランド紛争Ⅲ   イギリス機動部隊出撃

イギリス首相マーガレット・ヒルダ・サッチャーは1982年4月3日緊急招集された議会で演説します。

「イギリス領土に対する外国勢力の侵略は久しくなかった事です。政府は準備が整い次第大機動部隊を現地に派遣する決定を下しました」
 不況に打ちひしがれていたイギリス国民はこの演説を聞いて熱狂します。世間の支持率は60%を越えたそうです。イギリスは国連安保理にアルゼンチンの侵略行為を提訴、安保理は決議第502号を採択してアルゼンチンに対しフォークランド諸島での敵対行為の中止と即時撤兵を求めました。
 ガルチェリ大統領の誤算はアメリカがイギリスを全面的に支持した事でした。それまでの関係から少なくとも中立を守ってくれると楽観視していたからです。一般にはアメリカの中途半端な態度をサッチャーから一喝されイギリス支持に回ったと言われていますが、友好関係があったとはいえ同盟条約もないアルゼンチンと、強固な同盟を結ぶ最重要同盟国のイギリスではどちらを選ぶか一目瞭然だったでしょう。それでもぎりぎりまでアメリカは紛争回避に努めました。侵攻の直前、レーガン大統領が直接ガルチェリに電話をかけ思いとどまるよう説得したそうですが無駄でした。
 またこれも一般に流布している話ですが、敵機の前方から撃てる第三世代の空対空ミサイルAIM-9Lサイドワインダーをこの時はじめて供与したと言われますが調べてみるとイギリス海空軍はその前から導入し始めていたようです。ただ大量供与はフォークランド紛争が起こってからだというのは事実です。それまでのサイドワインダーはシーカーの能力から敵機のエンジン排気熱を捉えられる後方からのロックオンしかできませんでした。その意味では敵機の前方から撃てるAIM-9Lは画期的兵器だったと言えます。
 ちなみに、アルゼンチン空軍が装備する空対空ミサイルは、フランス製のマトラ・マジックやイスラエル製のシャフリルですがどちらもこの時には後方ロックオン能力しか持っていませんでした。
 アルゼンチンが国際社会から侵略国と認定されたことで、それまで大量の武器を売却していたフランスもアルゼンチン援助が困難になります。フランスは以後の兵器売却をストップしアルゼンチンはそれまでため込んだ兵器で戦うしかありませんでした。
 ラテンアメリカ諸国はアルゼンチンを支持しますが軍隊を送るわけでもなく何の力もありませんでした。隣国チリはそれまで国境紛争を繰り返してきた関係からアルゼンチンを侵略国と非難しイギリス支持に回ります。そればかりか自国の基地をイギリスに提供すると申し出ました。アルゼンチンはチリがどさくさで参戦することを恐れ、こちらにも兵力を配備せざるを得なくなります。
 ソ連、東側諸国も同様。アルゼンチンを支持したものの安保理では棄権したのみ。もともとソ連と親しい関係でなかったことも災いしました。西側諸国に喧嘩を売る時はソ連と密接な関係がなければ駄目だとよく分かる事例ですね。
 ガルチェリの冒険は、外交的にはすでに破綻しつつありました。何よりも国連安保理から侵略国と決めつけられたことは痛かったと思います。アメリカもソ連もそれぞれイギリスとアルゼンチンに衛星情報を教えたそうですが、アルゼンチンはそれを最大限に生かす事も出来なかったのです。
 4月5日、軽空母ハーミズ、インヴィンシブル、駆逐艦8隻、フリゲート15隻、攻撃型原潜4隻(一部はすでに進発済み)、揚陸艦8隻(第3海兵コマンド旅団3000名乗船)などからなる第317任務部隊が出撃します。空母には海軍艦隊航空隊第800飛行隊(シーハリアー12機)同第801飛行隊(シーハリアー9機)が配備されていました。これはイギリス海軍外洋投射力のほぼ総力を挙げた布陣でした。
 4月12日、英政府はフォークランド諸島近海200海里内をMEZ(海上封鎖領域]に指定、侵入するアルゼンチン海軍艦艇を攻撃すると通告します。4月18日、イギリス本土とフォークランド諸島のほぼ中間にあるアセンション島で補給を終えると機動部隊はフォークランドへ向けて一路南下しました。同時にフォークランド諸島に空中給油で空爆できる南大西洋の英軍各基地に航空機が配備されます。
 アルゼンチン軍は、英機動部隊が来るまでに9000名の陸軍と軍需物資をフォークランドに上陸させました。地上兵力は最終的には1万1千になりますが、港湾施設が貧弱なため主に空輸に頼りました。ですから戦車などの装甲車両は皆無、火砲も空輸できる軽いものに限られます。唯一の希望はアルゼンチン本土から500kmと近いため空軍の支援が期待できる事だけ。
 4月30日、英政府は改めてフォークランド海空域をTEZ(海空封鎖領域)に再指定します。これはフォークランドの地上軍に物資を運ぶ輸送機も撃墜するぞと云う恫喝でした。アルゼンチン軍はこれまでに90日分の軍需物資をため込んでいましたが、以後補給の目処が立たなくなります。
 そんな中、5月1日午前4時イギリス空軍戦略爆撃機アブロ バルカンによるスタンレー空港初空爆が敢行されました。バルカンはもともと核爆弾を搭載し核攻撃を任務とする戦略爆撃機でしたが、この時は1000ポンド(454kg)爆弾21発を搭載しフォークランド上空に飛来します。バルカンはイギリス本土から出撃したのですが、航続距離が足らないため空中給油機を進路上に複数配備し空中給油を繰り返しながらフォークランドに達したのです。その空中給油機でさえ時間内空域にとどまるために、別の空中給油機から給油させるという徹底ぶりでした。
 爆撃の効果は、夜明け前であり通常爆弾だったこともあってたいしたものではなかったそうですがアルゼンチン側は衝撃を受けます。バルカンがフォークランド上空に飛来できた事実は、その気になればイギリスはアルゼンチン各地の好きな場所を空爆できる事を意味しました。首都ブエノスアイレス空爆も理論上可能なのです。
 5月1日午前7時にはハーミズ、インヴィンシブルから発進したシーハリアー12機が、第2波としてポートスタンレー、グースグリーンを爆撃、戦闘は本格化していきます。
 
 次回は、イギリス、アルゼンチン両軍の激闘とフォークランド紛争の結末を描きます。

フォークランド紛争Ⅱ   アルゼンチン軍フォークランド侵攻

 アルゼンチン軍のフォークランド本格侵攻に行く前に、本編と直接関係ないサウスジョージア島攻防戦に付いて簡単に記します。
 フォークランド侵攻の陽動として始まった同島侵攻ですが、いくらフォークランド諸島と1000km離れているとはいえサウスジョージア島が健在だと英艦隊はこの島で補給できフォークランドに対する圧力が増すと考えてのアルゼンチン軍の行動でした。1982年3月26日未明同島に上陸したアルゼンチン軍海兵隊500名はリース湾に陣取ります。氷海巡視船に乗って同島に来ていたイギリス海兵隊22名は警備行動としてリース湾巡回を本国政府に打診しますが、この段階でもまだ平和解決を模索していたイギリス政府はこれを禁止。
 4月1日に入ると、アルゼンチン軍の行動はより大胆になりアルゼンチン国旗を掲げ自国の領土のようにふるまいました。フォークランドへの本格進攻が4月2日ですから、すべてが予定の行動だったと言えます。同日深夜にはさらにアルゼンチン軍フリゲートもこれに加わります。すでにフォークランドでは本格戦闘が始まっていました。
 最初、アルゼンチン軍はイギリス守備隊に降伏勧告しますが、当然イギリス側は拒否。わずか22名の海兵隊+現地の警備兵は多勢に無勢ながら絶望的な防衛戦を繰り広げました。しかし数には勝てず11時30分ころ降伏。
 イギリス軍のサウスジョージア島本格奪回は4月20日に入ってからでした。イギリス軍は駆逐艦「アントリム」、フリゲート「プリマス」、補給艦「タイドスプリングス」に海兵隊110名、SAS(英陸軍特殊空挺部隊)D中隊の一部、SBS(英海軍特殊舟艇部隊)若干名を乗船させ現地に向かわせます。所謂「パラケット作戦」の発動です。
 まず4月21日、SASとSBSの特殊部隊が偵察上陸悪天候に悩まされながらもアルゼンチン軍防衛線の手薄なところを探りました。ところが周辺海域にアルゼンチン軍潜水艦「サンタフェ」が遊弋しているとの報告を受け、艦船は一時退避します。4月25日、アントリムとプリマスは機動部隊から派遣されたフリゲート「ブリリアント」と合流、対潜哨戒でサンタフェの位置を特定、艦載対潜ヘリ「リンクス」や艦船から発射した爆雷とMk46短魚雷、AS-12有線誘導ミサイルで大破に追い込みます。結局サンタフェは沈没こそしなかったものの島の沿岸に座礁擱座し、乗員は全員上陸し脱出しました。
 4月25日正午艦砲射撃の援護の下先遣隊の海兵隊75名が上陸、アルゼンチン軍は抵抗の無駄を悟って降伏します。わずか2時間の戦闘でした。
 本題に戻ります。フォークランド諸島は南太平洋上にある絶海の孤島でイギリス本土からは1万2千km。アルゼンチンからは500kmの距離にあります。島の歴史の経緯に関しては省略しますが当時は3000名弱ほどのイギリス系住民が住んでいました。大きく西フォークランド島と東フォークランド島の2つに分かれ若干の島々が付随します。人口の大半は東フォークランド島に集中し同島の東にあるポートスタンレーには実に人口の3分の2に当たる2000名ほどが居ました。
 1982年3月下旬、アルゼンチン海軍はウルグアイ海軍との軍事演習と称して空母「ベインティシンコ・デ・マジョ」を旗艦とする駆逐艦7、フリゲート3、輸送艦3、揚陸艦1からなる第79機動部隊を出動させます。艦隊には陸軍4000名が同乗していました。イギリス側はこの動きを把握していましたが、英首相サッチャーに報告が入ったのは1982年3月29日、目標がフォークランドだとはっきりしたのは3月31日でした。
 当時フォークランド島に居たイギリス軍は海兵隊79名、海軍水兵数十名のみで勝ち目がないのは明らか。戦闘機はおろか装甲車などの戦闘車両さえない状態だったのです。フォークランド総督ハントは即座に機密書類の処分と暗号機の破壊を命じポートスタンレー空港を閉鎖します。同日夜8時、ハント総督は全島民に対し事情を説明し徹底抗戦すると宣言しました。
 イギリス政府は、不測の事態に備え3月28日攻撃型原潜をフォークランド海域に出発させます。4月2日午前3時、アルゼンチン軍は900名の海兵隊を東フォークランド島ポートスタンレー近辺に上陸させました。アルゼンチンとしてはなるだけ民間人の犠牲を避け素早く掌握することで国際世論の非難を避けるつもりでした。アルゼンチン軍は劣勢のイギリス現地軍は戦わず降伏すると高をくくっていたようですが流石ジョンブル魂、ポートスタンレー民政庁に立て籠もったイギリス海兵隊31名、水兵11名と戦闘になり逆に数名の死傷者を出す結果になります。ただ、アルゼンチン軍主力部隊がポートスタンレー空港を占領し補給の望みを完全に断たれたためハント総督は午前9時半、全面降伏しました。
 その間もアルゼンチン軍の増援は次々と上陸、ハント総督とその家族、民政庁員、海兵隊兵士は強制退去させられます。彼らはウルグアイ経由で本国に送還されました。
 「フォークランド、アルゼンチン軍に占領さる」の報告はサッチャー首相のもとにもたらされます。閣議は紛糾しました。弱気な発言をする閣僚が多い中、サッチャーは彼らを一喝します。
「人命に代えてでも我が英国領土を守らなければならない。なぜならば国際法が力の行使に打ち勝たねばならないからである」という有名な発言はこの時のことだと言われます。また「この内閣には男は一人しか居ないんですか!」と言ったとも伝えられます。
 サッチャーは知っていたのです。国際社会では一度譲歩するととことん付け込まれるという事を。安易な譲歩で未来永劫たかられるなら、どんなに犠牲を払っても毅然たる態度を崩してはならないのです。特には強硬手段も辞さない覚悟。我々日本人からすると耳の痛い話ですね。
 イギリス政府の態度は決しました。武力奪還すると。当時イギリスは英国病と云う不況に悩まされていました。にもかかわらずサッチャーはイギリスの全力を挙げて戦う決意を示します。
 イギリス軍の動きと、外交、特にアルゼンチンとも関係の深いアメリカの態度は?アルゼンチンに武器を売却しているフランスの態度は?次回、本格的に動き出したイギリス機動部隊の戦いを描きます。

フォークランド紛争Ⅰ   紛争に至るまで

 イギリス海軍最後の通常空母アーク・ロイヤル(二代目)は予算削減のあおりを受け1979年退役します。F-4Kファントム戦闘機×14機、バッカニア攻撃機×12機、ガネット対潜哨戒機×4、ヘリコプター×9機など合計39機を搭載するアークロイヤルは大英帝国最後の誇りでした。以後、イギリスは2017年就航予定のクイーン・エリザベス級空母の登場まで通常空母を保有していません。
 アークロイヤル退役は、イギリス領フォークランド諸島を狙うアルゼンチンのガルチェリ大統領にとって抗しがたい魅力でした。軍事に疎い方や戦史に詳しくない方にはピンとこないかもしれませんが、空母機動部隊の投射力は絶大で、その気になれば(艦上機の行動半径内なら)どこでも任意の場所を空爆できるのです。言わば動く航空基地。まともな対艦攻撃力を持たない国家からしたら悪夢以外の何物でもありません。
 フォークランド紛争の原因はいろいろ言われていますが、軍事的には間違いなくアークロイヤルの退役がガルチェリに英領フォークランド侵攻を決断させた動機でした。1982年当時現役だったイギリス空母は軽空母のハーミズとインヴィンシブルのみ。(のちにイラストリアルとアークロイヤル[3代目]が加わる)まともな空母航空隊もない弱体化したイギリス海軍では、1万2千キロ離れたフォークランドに対して満足な反撃はできないと舐めていたのでした。
 フォークランド諸島の歴史には様々な経緯があり一概には言えないのですが、当時(現在も)イギリス系住民が大半を占める同諸島をアルゼンチンにアルゼンチンが領有権を主張するのには無理がありました。実際、最近の住民投票でもイギリス領にとどまるという意見が9割を超えたそうですから。
 当時のアルゼンチンは内政が混乱し軍事政権への不満が渦巻いていました。ガルチェリ大統領は、国民の不満をそらすためフォークランド諸島の領有権を訴え国民のナショナリズムを煽ります。当時イギリスは英国病と呼ばれる深刻な不況に見舞われ海外領土にも満足な行政サービスを提供できないほどでした。
 アルゼンチンがフォークランドを奪っても、戦略的価値の低い同諸島をイギリスが本気になって取り返しに来ることはないとガルチェリが判断しても不思議ではありません。インターネットで拾った面白い表現を借りると、
「100円を取り戻すために1万円のタクシー代を払う馬鹿はいない」と云う事です。
 ガルチェリは国際情勢を見誤っていたとしか思えません。確かにフォークランド諸島自体は戦略的価値の低い海外領土でした。が、もしここでイギリスが譲歩すれば、より相手の領有権に正当性があるジブラルタルなど最重要植民地でも同様な動きがあるはずです。そしてそれは、英国にとって到底許容できない事でした。
 時の英国首相にイギリス戦後史上最高だと評される鉄の女マーガレット・ヒルダ・サッチャーが居たこともガルチェリにとっては誤算だったといえるでしょう。1979年就任したサッチャーは、それまでの英国政府の弱気な態度とは打って変わってフォークランド諸島の領有権をがんとして譲りませんでした。苛立ったガルチェリは、1982年3月17日フォークランドの東にある英領サウスジョージア島に武装商船を送り込み民間人(に偽装した工作員?)を無断上陸させるなどイギリスに対する挑発行為を繰り返します。
 これによりアルゼンチンの国民世論はガルチェリに圧倒的な支持を与えますが、英国政府はアメリカのヘイグ国務長官にアルゼンチンへ圧力をかける事を依頼するとともに不測の事態に備えてフォークランド海域に攻撃型原潜を派遣することを決めました。サッチャー首相はアメリカのレーガン大統領に最悪の事態に至らないように仲介を頼みます。サッチャーとで戦争を望んでいたわけではないのです。
 1982年3月19日、フォークランドの東1000キロの英領サウスジョージア島にアルゼンチン海軍輸送艦バイア・ブエン・スセソが突如来航。クズ鉄業者と称するアルゼンチン人60名を無断上陸させます。彼らは上陸するとアルゼンチン国旗を掲げ同島に居座りました。英国政府は、アルゼンチンに厳重抗議するとともに氷海巡視船に乗船させた海兵隊22名を派遣しアルゼンチン人排除を行います。この時一部のアルゼンチン人が居座り続け3月26日にはアルゼンチン同胞の保護を名目にアルゼンチン海兵隊500名が上陸しました。
 この動きよく覚えておいてください。離島を敵国が侵略する常套手段ですから。その時に厳しい態度を取らないと結局大きな被害を出すのは侵略された方なのです。
 これはあくまで序章にすぎません。間もなくアルゼンチン軍のフォークランド本格侵攻が始まろうとしていました。英国政府とくにサッチャー首相はどういう決断をしたでしょうか?そして周辺諸国の動きは?
 次回『アルゼンチン軍フォークランド侵攻』に続きます。

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